聖書の探求(097) 民数記 4章 レビ人の職務と再度の人口調査

4章は、レビ人の職務と民を数えることが記されています。3章でもレビ人は数えられているのですが、そこでは一か月以上の男子のすべてが数えられました(3:15)。

民 3:15 「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」

しかし4章の再度の人口調査では、実際に実務につくことができる30才から50才までの者を数えるように命じています(4:3)。

民 4:3 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。

なぜ、30~50才の者が数えられているのか、その理由を聖書は何も記していませんが、二つの理由が考えられると思います。一つは、二〇代の若者には、なお思慮と敬虔さに欠ける面があり、他方50才を越えると、重い荷物を背負って荒野を長い間旅することは困難であったからだと思います。

このことは今の私たちにとって、主のご用をするに当って、年令制限よりも、思慮深さや敬虔さと健康や体力も必要であることを教えていると考えてもよいでしょう。昨今、牧師や伝道者に思慮や敬虔さが欠けているために、教会の中に問題が生じているという話をよく聞かされます。火のない所に煙は立たずで、すべてがただの非難ではないと思います。私も牧師の一人として自戒しつつ、ご用に当りたいと思います。だからと言って、大胆さや勇敢さを失う必要はないでしょう。神と人の前に真実であり続けることこそ大切です。また、牧師の働きはあまり体力を使わないように見えますが、外から見ているほど楽ではありません。本当に献身して主に仕えていればの話ですが。かといって、からだの弱い、病気がちの人は牧師になれないというわけではありません。しかし、牧師や伝道者、宣教師になる人は、自分で健康管理ができる人、食事の自制もできる人でなければなりません。そうでないと却って教会の人々に迷惑をかけてしまいます。霊的に成長している人は、自分の健康や生活、仕事の管理もできる人です。それらを自分勝手にしている人は、霊的にも管理ができていない人です。

ここでは、3章の順序と異なって、モーセとアロンの属するケハテ族が最初に記されています。おそらくこれは、ケハテ族が幕屋の中の最も重要な聖具を管理する責任を持っていたからだと思われます。

1~20節、ケハテ族の奉仕に関する注意

ケハテ族の任務は祭司たち(アロンとその子ら)が荷造りした聖所のすべての器具を運搬することでした(15節)。

民 4:15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。

幕屋の中の聖なる器具を直接見たり、触わったりすることのできるのは、祭司たちに限られていました。もし、レビ人であっても、直接これを見たり、触わったりするなら、死ぬ危険があったからです。それ故、ケハテ族が高慢になったり、不注意、不誠実な奉仕をするなら、彼らはレビ人の中から絶えてしまう危険があったのです(18、19節)。

民 4:18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。
4:19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。

今日でも、主に仕える者たちが主に近づき、また人々を指導する時、高慢、不注意、不誠実になるなら、霊的いのちを失ってしまう危険があるのです。潔められて、どんな時にもへりくだっていることのできる者だけが主に仕えるべきなのです。この当りのことを教会の指導的立場に立つ方々は十分に心得ていただきたいものです。

5~6節、まず、祭司たちは「あかしの箱」を仕切りの幕でおおいました。それは最も聖なるものが人の目に触れないためです。

民 4:5 宿営が進むときは、アロンとその子らは入って行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、
4:6 その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真っ青の布を延べ、かつぎ棒を通す。

その上にじゅごんの皮のおおいをかけ、更に、青布をかけ、三重に包んで、かつぎ棒を通します。念入りにおおいがされています。これは世俗からの聖別の意味を強調しています。

7~8節、次に、供えのパンの机と諸器具と常供のパンをそれぞれの布とおおいで包み、荷造りをします。

民 4:7 また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。
4:8 これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。

9~10節は、燭台とそれに関する諸器具です。

民 4:9 青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、
4:10 この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。

どれもバラバラではなく、関連したものを整理して荷造りしています。こうすれば、失われたり、所在が分からなくなることはありません。あなたの生活でも、この原則を適用してみてください。

11節、金の祭壇

民 4:11 また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。

これは香壇のことであると思われます(出エジプト記30:1~8)。

出 30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。
30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。
30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。
30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。
30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。
30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。
30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。
30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、【主】の前の常供の香のささげ物である。

12~14節、その他、聖所で用いる用具、祭壇と諸器具をそれぞれの布でおおい、じゅごんの皮のおおいで包んで荷造りをします。

民 4:12 聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、
4:13 祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。
4:14 その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。

ここで注意したいことは、用いる布の色が各々、指定されていることです。

8節は、血の色を表わす緋色の撚り糸の布を用い、13節の祭壇は、高貴さを表わす紫色の布を使い、その他は、聖さを表わす青色の布が用いられています。

祭司たちによるこれらの荷造りの作業が完全に終わった後に、「ケハテ族がはいって来て」これらを運び出します。それまではケハテ族は幕屋の中に入ることが許されていません。それほどに幕屋の内は聖なるものとされていたのです。

今日、すべてのクリスチャンが幕屋なるキリストと直接に交わることが許されていることは幸いですが、その反面、この聖なる尊厳を失ってしまって、あまりに粗雑、粗悪になっていないでしょうか。

15、18、19、20節には、何度も、同じ警告が語られています。

民 4:15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族が入って来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。

民 4:18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。
4:19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、入って行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。
4:20 彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」

これは先にお話しました通りですが、ケハテ族のレビ人が不注意に聖なるものを扱って、「触れたり」(15節)、「近づいたり」(19節)、「一目でも見たり」(20節)して、死なないためです。聖なる奉仕にたずさわることができるのは、大なる特権です。しかしそれは大きな危険を伴っています。

キリストの福音にたずさわる者が、不敬虔に、不注意になり、それを汚し、世俗化するなら、その人自身の信仰も死威させ、世界の人々の霊魂を死滅させることになる危険をもっています。このことは二千年間の教会の歴史の中で何度も起きたことですので、今日の私たちは特に警戒する必要があります。
18節の「ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。」とあるのは、決しで大げさなことではありません。聖なるものを汚すことによって、奉仕者は絶えてしまい、教会や教団、もっと大きい世界的働きでも消滅してしまうのです。

16節、エルアザルの責任は非常に重要なものでした。

民 4:16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」

それは主を礼拝するのに必要な聖なるものとその用具についての責任を持つことです。今日、教会の中でいろいろお手伝いをしたがる人は多くいますが、最後まで責任をもってやり遂げる神のしもべが少ないように思います。それができるためには、献身が徹底し、訓練を積み重ねていく必要があります。

「ともしび用の油」主はご自身が世の光であると言われ(ヨハネ8:12)、またクリスチャンに対しても、「あなたがたは世界の光です。」(マタイ5:14)と言われました。

ヨハ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

マタ 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

ともしび用の油とは、主のうちにも住まわれ、またクリスチャンのうちにも宿ってくださる聖霊のことです。私たちはいつも、この聖霊の油をうちに備えておかなければなりません。主はマタイ25章1~13節で、花婿を迎えるためのともしび用の油を準備しておかなかった愚かな五人の娘の話をされました。

マタ 25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

私たちはいつも、キリストの光を輝かしてあかしするために聖霊をうちに備えていなけれ、ぱなりません(マタイ5:16、ペテロ第一3:15)。

マタ 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

Ⅰペテ 3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

「かおりの高い香」(ヨハネの黙示録8:3,4)、香は聖徒たちの祈りを表わしています。

黙 8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

クリスチャンは祈りと、祈り心をいつも心に保っている必要があります。パウロも「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一5:17)とすゝめています。

民 4:16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」

「常供の穀物のささげ物」これは毎日供えていたパンのことです。これは「いのちのパン」であるキリストのことであり、キリストの福音を備えていることです。パウロは「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)と教えています。私たちは、サタンが支配するこの世では、いつもキリストの福音の備えが必要なのです。

「そそぎの油」これは奉仕のための潔めと満たしの油です。クリスチャンは主のために働くために、聖霊による潔めと満たしを受けていなければなりません。楽器ができる、何ができるというだけでは十分ではありません。また何もできないようでも、聖霊による潔めと満たしを受けるなら、たとい病床にあっても主のために祈りにおいて力強く有効な働きをすることができます。しかし聖霊のそそぎの油がなければ、高慢か、自己卑下があるだけで、却って主の働きを妨げてしまいます。

パウロは、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」(テモテ第二2:21)と言い、また、「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)と言っています。キリストが十字架にかかってくださったのは、私たちが議論するためではなく、私たちを良いわざに熱心なご自分の民とし、ご自分のために潔めて用いるためだったのです。しかし今日の教会とクリスチャンの現状は、この目的からはるかに離れて、争いや不満が満ちているのではないでしょうか。

エルアザルは民のために、これらのものを常に備えておくように命令を受けていますが、クリスチャンは各自ひとり一人が霊的にこれらのものを備えておかなければなりません。

21~49節、ゲルション、メラリ族の奉仕の内容と人口調査

21~28節、ゲルション族の任務

ゲルション族の任務はおもに、聖所の外にある幕とその用具に関することだったので、すぐに任務につくことができました。その意味で、ゲルション族はケハテ族より重要でないものを運んだと言えるかも知れません。

人はしばしば自分に与えられた仕事の重要さや地位などの故に、不満を抱きやすいのです。「教会のお仕事を何かさせてください。」と言う人に、掃除や雑用ばかりを頼むと、長く続いたためしがありません。そういう仕事を期待していなかったのでしょう。そういう仕事は程度が低く、自分がする仕事ではないと思っているのでしょう。教会での奉仕は、説教や司会、あかし、讃美だけではありません。あなたは教会の下駄箱を掃除したことがありますか。傘立てはどうですか。窓ふきは?座布団のカバーを洗濯したことがありますか。ストープに灯油を入れたことがありますか。扇風機の羽を掃除したことがありますか。自分の家庭では全部していることを、教会ではみんな牧師にしてもらっているのではありませんか。それではあなたは教会のお客様であって、教会のメンバーではありません。このような仕事は全部、牧師がすべきことだと思っていてはいけません。また当番を決めてすることでもありません。教会が祝福を受けるためには、司会や讃美やあかしの奉仕だけでなく、このようなことが、教会員によって自発的に、日常に行われるようになることが必要です。よくあかしをする人でも、教会堂の周囲の草取りを一度もしたことのない人が沢山いるでしょう。しかし、これらのことは、言われてするようでは、まだその人の霊魂が恵みを受けているとは言えません。この当りか重要なことです。

24節には「になう」とあり、25,26節には「運び」とあります。

民 4:24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。
4:25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、
4:26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。

主の働きはひとり一人のクリスチャンがにない、運ぶものです。それは手軽に便利にできるものではありません。主イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われ、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。どんなに放送や通信のメディヤが発達しても、主の働きはクリスチャンひとり一人が各々背負って運んで行かなければなりません。

27節、彼らのになうべき物はすべて、アロンとその子らを通して、主の命令によって割り当てられています。

民 4:27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。

彼らは各々、自分の好きなものを選び取ったのではありません。もしそうするなら、軽い物を選び取って、不満や争いが生じることになったでしょう。そのようなことは、この世でしばしば行われていることではありませんか。これを真似ては
なりません。

28節、この実務の監督は、アロンの子イタマルが当っています。

民 4:28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。

これがリーダーです。リーダーはその職務に精通しており、その指導を行い、責任をとらなければなりません。任務がうるわしく行われ、栄光を表すためには、リーダーの霊的指導が必ず必要になります。残念ながら、ほとんどのクリスチャンが主の直接の指導を受けられるほどに成長していませんから、霊的指導者が必要になります。この霊的指導者が健全で強力でないと、主の栄光を表すことができません。

29~33節、メラリ族の任務

4:31 会見の天幕での彼らのすべての奉仕で、彼らがになう任務のあるものは次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、
4:32 庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは彼らがになう任務のある用具を名ざして割り当てなければならない。

メラリ族のになう任務は、外壁となる板とその用具です。ここで注意すべきことばは、「用具を名ざしで割り当てなければならない。」(32節)です。これらの用具は非常によく似ており、また一つ一つを組み合わせなければならないものだからです。もし混乱すると、その組み合わせを正すのに大変な労苦を必要とし、幕屋が建たなくなってしまいます。そうですから、常々、整然と整えて準備しておくことは大きな力の一つです。秩序が正しく保たれている教会はいつでも力強いのです。しかし混乱は敗北の原因になります。

33節、この監督もイタマルが受けもっています。

民 4:33 これが会見の天幕でのすべての奉仕に関するメラリ諸氏族の奉仕であって、これは祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。」

34~37節は、ケハテ族の30才以上50才までの者の、登録された人数で、2750人、

民 4:34 そこでモーセとアロンと会衆の上に立つ者たちは、ケハテ族をその氏族ごとに、父祖の家ごとに、
4:35 三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めにつくことのできる者を、すべて登録した。
4:36 その氏族ごとに登録された者は、二千七百五十人であった。
4:37 これはケハテ人諸氏族で登録された者であって、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、モーセとアロンが、モーセを通して示された【主】の命令によって登録した者たちである。

38~41節は、ゲルション族の登録された人数、2630人

民 4:38 ゲルション族で、その氏族ごとに、父祖の家ごとに登録され、
4:39 三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めにつくことのできる者の全員、
4:40 その氏族ごとに、父祖の家ごとに登録された者は、二千六百三十人であった。
4:41 これはゲルション諸氏族で登録された者であって、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、モーセとアロンが【主】の命により登録した者たちである。

42~45節は、メラリ族の登録された人数、3200人

民 4:42 メラリ諸氏族で、その氏族ごとに、父祖の家ごとに登録され、
4:43 三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めにつくことのできる者の全員、
4:44 その氏族ごとに登録された者は、三千二百人であった。
4:45 これはメラリ諸氏族で登録された者であって、モーセとアロンが、モーセを通して示された【主】の命令によって登録した者たちである。

メラリ族が最も多い人数です。おそらく、人数が多い故に、重い板や柱や台座を運ぶ任務を受けたものと思われます。

48節、合計は、8580人。これは実際上の奉仕者でした。

民 4:48 その登録された者は、八千五百八十人であった。
4:49 モーセを通して示された【主】の命令によって、彼は、おのおのその奉仕とそのになうものについて、彼らを登録した。【主】がモーセに命じたとおりに登録された者たちである。

これはイスラエル全軍団60万3550人の約1.4%です。そして全軍団は、これらのレビ人の献身的奉仕者たちによって礼拝を守ることができたのです。この8580人のレビ人とは、今日、実際にキリストの福音のために働くキリストのしもべたちです。先にもお話したとおり、キリストのしもべたちが多くなればなるほど、主の恵みは急速に伝えられていくのです。そして、キリストの恵みはすべて、これらのしもべたちの肩にかかっているのです。主は今日も、そのようなしもべとなる者を求めておられるのです。

あとがき

3月になって、ずいぶん春らしくなり、腰を痛めていました私もラクになってきました。皆様のお祈りを心より感謝申し上げます。今年になりましてから、聖書の探求のバックナンバーを一号から求められる方が続いていまして、少々驚いていますとともにみことばに真剣に取り組んでくださる方が、少しずつ起こされていますことに、心からうれしく思っています。今号も忙しい合い間の時簡をぬって執筆しております。続けてお祈りいただければ幸いです。

残念ながら、聖書は読んでも分からないというのが本音のところです。クリスチャンになって聖書を買ったり、贈られたりしても、正しい指導を受けることのないままに、そのままになっている人が大半です。このような人をなんとか聖書を分かるようにしてあげたいものです。勿論、それは聖霊の働きですが、私たちにできることもあるはずです。本誌をお読みの方はぜひ、その助け手となっていただきたいものです。

(まなべあきら 1992.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1873年に出版された聖書物語の挿絵「The Levites carrying the tabernacle (幕屋を運ぶレビ人たち)」(The story of the Bible from Genesis to Revelation told in simple language for the young piblished by Charles Foster、Wikimedia Commonsより)


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