聖書の探求(098) 民数記 5章 宿営の中で汚れたことが行われないように

5章では、主が臨在してくださる宿営の中で、汚れたことが行われないように、というのが主な内容です。

5章には、大きく三つのことが記されています。

①1~4節、衛生的に、儀式的に汚れている人を宿営から追い出すこと。
これは主が、清潔を求められるからです。

②5~10節、他人に危害を加えたり、他人の物を盗んだための罪を贖うこと。
これは主が、誠実を求められるからです。

③11~31節、ここでは、妻の側だけのことが言われていますが、これは根拠の有無を別にして、夫婦間の嫉妬の解決を記しています。
これは主が道徳性を重んじておられることを示しています。

1~4節、ここでは、三種類の人々が挙げられています。

民 5:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
5:2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。
5:3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」
5:4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。【主】がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。

これらの人々は衛生上の面から見ても、民族全体を滅亡させてしまう危険な人物です。特に、当時のイスラエルのように毎日、荒野を旅し、人と人が極めて接近した状態で、多くの人が天幕生活をしているのですから、伝染病が発生したら、すぐに広がってしまって、全滅が避けられなくなります。このような集団生活では、伝染病は脅威になります。主は衛生的な面からも、伝染病に感染している者を宿営から追い出し、隔離するように命じています。4節を見ると、すでにそういう人がいたことが分かります。

「らい病」は、聖書中、特に強調して記されている病気です。しばしばそれは、罪の象徴として記されています。

「漏出を病む者」とは、その他のウミや、タダレなどのできる伝染性の病気のことです。

「死体によって身を汚している者」は、儀式的な汚れを意味します。しかし主は、それ以上のことを意味していたと思われます。生きている人と死体とは、全く異なっています。人は死ぬと、その肉体は脱ぎ捨てられたもののようになります。これははっきりと区別し、特に、死者に対する礼拝をしたり、間違った罪深い態度をとらないように、このことをはっきりと印象づけるために、死体に触れた者は汚れると教えられたのです。儀式的ではありますけれども、このような教育と訓練を積み重ねていくなら、今日のような死体を拝むという宗教儀式は生まれてこないのです。先祖を大切にすることは、死体や墓を拝むことではありません。それは偶像礼拝になってしまいます。クリスチャンはこのことをはっきりさせておきたいものです。

しかし、このことは、単なる衛生的な面からだけの命令ではありません。

「わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」(3節)

宿営は神の臨在がとどまり、神が導いてくださるために、いつも潔く保っていなければなりません。宿営は神の民の生活の場です。生活の場が潔ければ、祝福されます。クリスチャンはみな、神の聖霊の宮です。それ故、霊的にも、道徳的にも、身体的にも、きよく保つことが神から求められていることは疑いの余地がありません。

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(テサロニケ第一4:3)

「‥‥‥いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

私たちは自分の宿営、すなわち、生活を、霊肉の汚れ(怒り、憎しみ、いらだち、ねたみ、そねみ、高慢など)から守り、きよく保っておく必要があります。そのような汚れはすぐに伝染して、心と生活全般を堕落させてしまうのです。

またクリスチャンは身体を潔く保って、健康にしておくべきですし、美食や虚飾で身を飾ることを避けるべきです。

また教会の集会や働きをも汚してはなりません。信仰の中味のない形式主義、儀式主義に陥ることや、高慢から生じる争いや世俗化からも守らなければなりません。

人は、自己中心の欲のために自分と自分の生活とを汚してしまうのです。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)

クリスチャンは自分が聖霊の宮であることをたえず自覚して、自分と自分の生活を潔く保つべきです。それが主の臨在と祝福を受け続ける秘訣です。

5~10節、他人に対する罪

民 5:5 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
5:6 「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、【主】に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、
5:7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。
5:8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは【主】のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。
5:9 こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。
5:10 すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」

6節、他人に対する罪は、主に対する不信の罪として記されています。

この世の考え方では、神に対することと、人に対することは、別のこととされていますが、聖書では神との信仰の関係が損われると、人との正しい関係も損われ、また人に対して罪を犯していれば、それは神への罪となります。

主イエスは、マタイ22章37~40節で、主を愛することと、隣人を愛することとは、聖書全体の要となる戒めであると言われています。

マタ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

また次のようにも言われています。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。‥‥おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」(マタイ25:40,45)

これらのみことばを心の深くにとどめておきたいものです。

6節に、「他人に何か一つでも罪を犯し」とあるのは、レビ記6章1~7節にあるようなことを示しているものと思われます。

レビ 6:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:2 「人が【主】に対して罪を犯し、不実なことを行うなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、
6:3 あるいは落とし物を見つけながら欺くなど、人が行って罪を犯すことになるどれか一つについて偽りの誓いをする場合、
6:4 この人が罪を犯し、後で咎を覚える場合、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
6:5 あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は咎を覚えるとき、その元の所有者に、これを返さなければならない。
6:6 この人は【主】への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。
6:7 祭司は、【主】の前で彼のために贖いをする。彼が行って咎を覚えるようになる、どのことについても赦される。」

6節の「罪」はへブル語で「マフール」ですから、内密とか、秘密とか、隠しごとを含んでいる罪のことです。すなわち、相手に知られないように、ひそかに犯した罪のことです。

「自分でその罪を認めたとき」は、罪を悔い改めようとするなら、という意味です。
その時は、7節に示されている三つのことをしなければなりません。

民 5:7 自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。

第一は、罪の告白、正直に自分の罪を言い表し、自分が罪人であることを認め、神のさばきを受ける態度を表すことです(箴言28:13、ヨハネ第一1:9)

箴 28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

Ⅰヨハ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

第二は、罪過のための総額を弁償すること、

第三は、さらに、それに五分の一を加えて被害者に支払うこと。

ここには、神に対してだけでなく、他人に迷惑や損失をかけた場合、被害者に五分の一を加えた損害賠償をすることを命じています。

8節、万一、本人あるいは弁償を受け取る権利のある人がいなくても、それは主に対してしなければならなくなっており、祭司が代理人となって受け取るようになっています。

民 5:8 もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは【主】のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。

これらの三つは、罪の悔い改めの三つの要素、すなわち、神に対して、自分に対して、他人(被害者)に対して、しなければならないことを表しています。

このほかに、8節の後半では、罪の贖いの雄羊がささげられています。

こうして罪は赦されるのです。

主イエスも、マタイ5章23~25節で、人に対して恨まれていることがあるなら、まず、その兄弟と仲直りしてから、主にささげ物をするようにと教えられました。

マタ 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

こうして対神関係と対人関係は結びついているのです。

11~31節、夫婦間のねたみの問題

民 5:11 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
5:12 「イスラエル人に告げて言え。もし人の妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、
5:13 男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕らえられもしなかった場合、
5:14 妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、
5:15 夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。
5:16 祭司は、その女を近寄らせ、【主】の前に立たせる。
5:17 祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。
5:18 祭司は、【主】の前に女を立たせて、その女の髪の毛を乱れさせ、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。
5:19 祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたが夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。
5:20 しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行って身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』
5:21 ──そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う──『【主】があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあって【主】があなたをのろいとし誓いとされるように。
5:22 またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。
5:23 祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。
5:24 こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中に入って苦くなるであろう。
5:25 祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物を【主】に向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。
5:26 祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。
5:27 その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。
5:28 しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。
5:29 これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、
5:30 または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻を【主】の前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。
5:31 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

ここでは、姦淫の事実の有無にかかわらず、夫婦の間のねたみや嫉妬の問題を取り扱っています。この問題は、神の宿営の平和を乱す重大な問題です。

ここでは、妻の側の問題だけが論じられ、二つの可能性が上げられています。

一つは、妻が姦淫を行っていても、証人がおらず、夫が疑っている場合、もう一つは、妻が無実なのに、夫が理由もなく疑っている場合です。

これらは証拠によって解決することが困難です。しかし、解決しないと、宿営の平和は乱されてしまいます。こうして、しばしば、はっきりした理由もないねたみや、嫉妬が、家庭や社会の平和を乱し、争いをひき起こしてきたのです。このようなことは、早期に、はっきりと解決しておかないと、大変なことになります。

そのために、ここでは二つのものが用いられています。一つは、「ねたみのささげ物」「咎を思い出す覚えの穀物のささげ物」です。

もう一つは、いけにえを焼いた灰でつくった「きよい水」で、「のろいをもたらす苦い水」です。

そして女は、主の前に立たせられ、髪の毛をとかせられ、誓いをさせられます。このように厳粛な神の御前に立たせられるなら、必ず真実を告白するでしょう。また、女の腹をふくれさせるというのは、妻が姦淫して、妊娠していた場合、腹がふくれてくるというのでしょう。

しかしここで、最も大切なことは、夫婦のねたみや嫉妬の問題も、主に対するものですから、主の前に立たせられ、主にいけにえをささげ、主に誓わせられている点です。こうして聖書は、私たちの日常生活の中で起きてくるあらゆる問題を、主の前に持ち出して解決するように教えています。このことはクリスチャンにとって、非常に大切です。もし、私たちがすべての問題をキリストに心を向けることなしに解決しようとするなら、必ず、自分の知恵によって判断し、人をさばいたり、非難したりするでしょうから、非常に危険になります。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

あとがき

神のみことばの再発見は、必ずリバイバルを起こします。旧約のヨシヤ王のリバイバルも律法の書の発見から始まっています。預言者たちも神のことばを語り続けることによって、リバイバルが起きています。エズラの改革も民に律法の書を読み聞かせることによって始まっています。十六世紀に世界を一変させたプロテスタントの宗教改革も、一般の人が自国語で聖書が読めるように聖書を翻訳したことによって、揺るがないものになっていったのです。

これらのことを考え合わせる時、今も世界を変え、人の霊魂を生まれ変わらせるのは、神のことばしかないことを再確認させられます。しかし今、教会も、クリスチャンも、神のことばを深く信じ、知り、実行している状態にあるとは言えません。私たちは今、様々な活動をすることも大切ですが、何も真理を持たないで、福音の働きをすることはできません。まず、みことばを十分に蓄えたいものです。現代のリバイバルも、ここから出発するものと確信しております。

(まなべあきら 1992.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、民数記5章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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