聖書の探求(099) 民数記 6章 ナジル人の律法

6章は、ナジル人の律法を取り扱っており、この律法の特長は、世俗から離れて聖別することです。これは新約における献身や聖潔を予表するところの律法です。

1~8節、ナジル人になるための条件

民 6:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:2 「イスラエル人に告げて言え。男または女が【主】のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
6:3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
6:4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。
6:5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。【主】のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。
6:6 【主】のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。
6:7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
6:8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、【主】に聖なるものである。

私たちが聖書から最も学ばなければならないことは何か。それは神のご命令を聞いた者たちが、「神のみことばをどのように理解したか、解釈したか。」と書いておらず、「その如く行った。」と記していることです。私たちは聖書のことばを解釈し、理解しようとしますが、素直に信じて、神のことばの通りに実行しようとは、あまりしません。それが、私たちに力がない最大の原因であり、ダイナミックに神の国建設が出来ていかない原因です。工事で言えば、図面は書くが、実際の工事には一切手をつけていない状態です。モーセの奇跡的生涯の秘訣は、彼が神のみことばを誠実に信じ、忠実に行ったことにあります。主が私たちに聖書を与えられたのは、理解させるためではなく、信じて行わせるためであることを忘れてはなりません。

6章は、ナジル人についての規定を記していますが、「ナジル人」は祭司でも、レビ人でもなく、一般の神の民がある期間、神のために自分を聖別することを願う人でした。これには男も、女もなることができました。このナジル人の中に、新約におけるすべてのクリスチャンが、神に献身して生きるべき姿が予表されています。

「ナジル人」のへブル語の語根は、「分離」あるいは「聖別」を意味します。ここにはナジル人となるための必要条件が記されていますが、それらはナジル人と、そうでない人との区別を明確にするためであったと思われます。しかし実際には、ナジル人でもすべての場合が同じで、一定ではなかったようです。

たとえば、

サムソン(土師記13~16章)は、一定期間だけでなく、一生涯ナジル人であることが命じられていますが、彼は誓願をしませんでした。しかも彼は生まれる前から、ナジル人として任命されています。

サムエルも生まれる前から、母ハンナによって神にささげられていました(サムエル第一1:11)。

Ⅰサム 1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

バプテスマのヨハネの場合も、彼が母の胎に宿る前から聖別されていました(ルカ1:15)。

ルカ 1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

彼らはナジル人にならなくても、神の民の一員として生きることはできました。しかし彼らは神のために自らを聖別して、奉仕するために、よりよく神に用いられる人となるために、自分にとって害とならないものでも、また他の人が用いているものであっても、ナジル人は多くのものを捨てて、それらから離れたのです。このことは、ナジル人となる者に大きな霊的進歩と成長を与えました。彼らは、神よって霊的に励起された人となったのです。それは、神の働きをするための妨げとなるものが、すべて捨て去られたからです。

しかしここで注意したいことがあります。それは、このナジル人は自らすすんでなりたい人だけがなることができることです。この世の富や名誉や地位に心が向いている人が、人からの誉れを受けようとしてナジル人になろうとしても、それは苦痛に感じるだけです。霊的進歩は得られません。ナジル人は自らすすんで献身生活を営むことを望む者にだけ、価値があります。このことは中世の修道院生活の腐敗がそれを証明しています。修道士の中には、心から神に仕えるために献身したのではない人が大勢いたからです。それがかえって霊的状態を堕落させたのです。

ナジル人になるための条件は、大まかに三つあります。

第一は(3,4節)、ぶどう酒や強い酒、またぶどう酒や強い酒からつくる酢、ぶどう汁、生ぶどうの実、干しぷどう、ぶどうの種も皮も、すべてぶどうから生じるものは、食べることが禁じられました。

民 6:3 ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
6:4 彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

ここには酒だけでなく、酒の原料となるものも、酒からつくられるものも、例外なく厳重に禁じられました。これは、最近の「酒も少しくらいなら、いいではないか」と言う、この世に妥協している堕落しているクリスチャンとは大違いです。少しの妥協も、ついには命取りになります。すなわち、クリスチャンが主に満たされた喜びではなく、酒による快楽を求めて、神に心から仕えることをしなくなるからです。
このことについて、パウロは次のように言っています。
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

第二の条件は(5節)、頭にかみそりを当ててはならず、髪の毛はのばしておかなければなりませんでした。

民 6:5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。【主】のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。

サムソンはこの点で命を落してしまいました。これはナジル人の髪の毛に神通力があると考えてはいけません。長くのびた髪の毛は、一見してその人がナジル人であることを示すためのものです。
しかし、神かナジル人のしるしを髪の毛におかれたのは、外にも意味があると思われます。パウロはエペソ6章17節で、「救いのかぶとをかぶり」とすゝめています。

エペ 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

髪の毛が象徴する頭、すなわち、知性は主の救いの恵みの経験で守られていなければなりません。救いの経験がはっきりしていない人の神学や知性は、すぐにこの世的思想や哲学、理屈によって毒されてしまいます。ナジル人は、その知性を救いの恵みによって健全に守っていなければなりません。

第三の条件は(6~8節)、死体にさわって身を汚してはならないことです。

民 6:6 【主】のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。
6:7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。
6:8 彼は、ナジル人としての聖別の期間は、【主】に聖なるものである。

7節では、両親や兄弟姉妹が死んだ場合でも、禁じられています。厳しいものです。これは一般の祭司よりも厳しく、大祭司なみの厳しさです(レビ記21:1~3、10,11)。

レビ 21:1 ついで【主】はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。
21:2 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。
21:3 近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。

レビ 21:10 兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。
21:11 どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。

しかしサムソンはライオンの死体にさわって、身を汚しています。ここでは死は罪の結果としてみられています。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
それ故、一般の民や一般の祭司には、近親者の死の場合、許されていても、特別に聖別している者には、いかなる死体によっても身を汚すことは禁じられたのです。パウロは次のように教えています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)

「罪過の中に死んでいたこの私たちを‥」(エペソ2:5)

クリスチャンは罪過の中に死んでいた自分を捨てていなければなりません。こうしてすべてのクリスチャンは神に最も用いられるナジル人になることができるのです(テモテ第二2:21)。

Ⅱテモ 2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

9~12節、ナジル人が不意に死体に触れた場合

民 6:9 もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。
6:10 そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。
6:11 祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、
6:12 ナジル人としての聖別の期間をあらためて【主】のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。

ここでは、ナジル人のすぐ側で突然、人が死んで、その死体がナジル人に触れた場合です。こういうことは滅多にないことですが、細かく規定されていることは、ナジル人の献身を主がどんなに重視しておられるかがうかがえます。この場合、ナジル人にはこの定めを破って、自分の身を汚す意志がないのに、儀式的には汚れてしまうことになります。この場合には、特別の潔めのための定めがつくられています。

しかしナジル人が、ぶどうでできたものや、髪を切った場合、救いの道はありません。それはナジル人自身の意志的行為であるからです。サムソンはナジル人としての救済の道がない罪を犯してしまいました。これは特に、神にすべてを献げている人が、神の定めを故意に犯すことは、神を冒漬することであり、また人々にも非常に悪い影響を与えることになります。それ故、クリスチャンはみな、潔められ続ける必要があります。クリスチャンが神の定めを犯すことは、未信者が罪を犯すのとは、神に対しても、人に対しても、同じではありません。この自覚をクリスチャンはしっかりと持つ必要があります。

またここでは、意志的に故意にではなく、不意に起きた過失や事故に対しては、神は故意の罪とは同じように扱われないことを示しています。

しかし、不意に生じた汚れであっても、そのままでいいというわけではありません。必ず、汚れを潔めることが要求されています。

潔めの方法は、まず普通の人が死体に触れた場合と同じ潔めの義務を果たします(民数記19章)。

次に、七日目に頭をそります。頭をそることは、通常はナジル人には禁じられています。ですから、頭をそることは、それまでのナジル人の聖別の期間が全く無効になることを意味していたようです(12節)。

民 6:12 ナジル人としての聖別の期間をあらためて【主】のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。

私たちもまた、罪を繰り返して犯すことによって、それまで受けていた神との霊的交わりや、恵みと祝福を失ってしまいます。このことは、罪、汚れがいかに恐ろしく、大損失をもたらすものであるかを示しています。罪は犯さないことが一番いいわけですが、万一、罪を犯してしまったなら、ズルズル罪に引き込まれないように、すぐさま悔い改めて、神に立ち帰ることが大切です。神に立ち帰ることをグズグズしていると、どんどん不信仰の泥沼に沈んでいって、回復が困難になってしまいます。罪を犯したなら、すぐに立ち帰る。これが鉄則です。しかし願わくは、潔められて、罪から遠く離れていてほしいものです。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一2:1)

この場合、故意にではなく、突然、不用意に起きた出来事によって汚れたのですが、それでも恵みは失われてしまいます。私たちは故意にでなくても、見るもの、聞くものから、多くの霊的汚れを受けてしまいやすいのです。それがどんなに祝福を奪い去ってしまっているでしょうか。私たちは日頃から、この世の汚れから遠去かっているように心がけたいものです。

主は、この汚れを取り除くために、山鳩か家鳩のひなの二羽を罪のためのいけにえと、全焼のいけにえにし、これに加えて、一才の雄の子羊を罪過のいけにえにするように命じておられます。これによってその人の頭(すなわち、人格)は聖なるものとされるのです(11~12節)。

民 6:11 祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、
6:12 ナジル人としての聖別の期間をあらためて【主】のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。

思わず、一寸、死体に触れただけで、それまでの聖別の期間が無効にされ、これほどのいけにえをささげさせるのは、厳しすぎると思われるかも知れませんが、神と交わり、神に仕えるためには、潔さが要求されているのです。これは神の基準です。人は、「まあまあ、これくらいはいいだろう。」と思いがちですが、神はどんな汚れをも許容なさらないのです。これまで、しばしば、人の「まあまあ、これくらいはいいだろう。」という信仰の妥協から、キリストの福音は大きく曲げられてきました。クリスチャンは絶えず、キリストの血と聖霊によって潔められていなければなりません。すべてのクリスチャンは、ナジル人と同じ精神で信仰生活を営むべきです。

13~21節、ナジル人の聖別期間が満了した時の規定

民 6:13 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入口に連れて来なければならない。
6:14 彼は【主】へのささげ物として、一歳の雄の子羊の傷のないもの一頭を全焼のいけにえとして、また一歳の雌の子羊の傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとして、
6:15 また種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパン、油を塗った種を入れないせんべい、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を、ささげなければならない。
6:16 祭司はこれらのものを【主】の前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。
6:17 雄羊を和解のいけにえとして、一かごの種を入れないパンに添えて【主】にささげ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげる。
6:18 ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。
6:19 祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそって後に、これらをその手の上に載せる。
6:20 祭司はこれらを奉献物として【主】に向かって揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなる。その後に、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。
6:21 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上に【主】へのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」

ナジル人は新約時代のクリスチャンの献身の生活を予表しています。しかし旧約時代の規定では、その内容も、その期間も限られていました。その期間が完了すると、再び、通常の低い水準の生活にかえっていたのです。

今日のクリスチャンにも、しばらくの間、霊的に恵まれた高い水準の聖い信仰生活を送っていたかと思うと、再び、低い水準の生活に戻ってしまっている人が多いのです。これは本当に残念なことです。
主イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)と言われました。
主が私たちに「豊かないのち」を与えてくださるのは、一時だけ恵まれ、あとは低い水準の生活をするためではありません。
パウロも、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一5:23)と祈っています。これは、私たちが低い水準の信仰生活をしていればいいと、祈っているのではありません。

救われて間もない、信仰の初期の間は、多少、上がり下がりがあっても仕方がないとしても、聖霊によって歩むことを覚えれば、高い恵みの水準の信仰生活を続けることは容易です。私たちの信仰生活が上がったり、下がったりするのは、困難や課題があるか、ないかが問題ではなく、私たちの心がどこに向いているのか、主イエスを見つめ続けているか、それともこの世の波を見たり、自分の安易な安全を求めているかによるのです。ある人は、大きな困難でも動揺しないのに、ある人はわずかの問題で悩み、思いわずらっています。ペテロは、風と波とを見た時、水の中に沈みそうになりましたが、主イエスから目を離すと、落ちてしまうのです。信仰はいつも条件つきであることを忘れてはなりません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

しかし、旧約の人でも、サムエルやバプテスマのヨハネは全生涯を全く神にささげ切ったナジル人でした。旧約時代であっても、決して信仰の水準の低い人ばかりだったわけではありません。

ナジル人としての聖別の期間が終わった時、公けに儀式を行い、彼がナジル人でなくなることを明確にすることを命じています。

①、全焼のいけにえ‥‥全き献身のささげ物

②、罪のためのいけにえ‥‥誓願の期間中に犯した罪の贖いのため。
16節では、順序としては、罪のためのいけにえが先にきています。

民 6:16 祭司はこれらのものを【主】の前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。

③、和解のためのいけにえ、種を入れないパン、穀物のささげ物、注ぎのささげ物、この四つのささげ物はみな、感謝を表しています。

これらのささげ物をささげて、世俗の生活に帰っていくというのを変に感じる人もいるかと思いますが、旧約はやはり儀式的であって、この当りが旧約の啓示の限界なのです。まだ、一般のイスラエル人は、新約聖書が意味する全き献身の信仰には届いていなかったのです。

18節では、ナジル人だった人は、天幕の入口で、聖別していた頭をそり、その髪の毛を和解のいけにえの下にある火にくべるように命じられています。

民 6:18 ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。

長い髪の毛はナジル人の象徴でした。それをそることは、ナジル人でなくなることを、周囲の人々にも知らせることになります。ナジル人でなくなる時は、ナジル人のしるしであるものは、すべて取り去り、一つも残しておいてはいけないのです。偽りの敬虔な装いは、偽善であり、許されません。

「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(テモテ第二3:5)

教会では、牧師や役員、教師という立場で敬虔を装ってはいけません。敬虔は建前や立場などのうわべのものであってはならず、実質が敬虔でなければなりません。言葉は丁寧で、起居ふるまいが穏かであっても、心の中が高慢であるということがよくあります。多少、言葉や態度、行動が粗野であっても、心の中が本当に主を畏れている人であることのほうが、ずっとすばらしいのです。見せかけの敬虔さは偽善です。特に、牧師や教師は気をつけたいものです。

21節、しかし、このようにしてナジル人の聖別期間を終えてしまいたくない人もいたようです。

民 6:21 これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上に【主】へのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」

この人は、この聖別の規定以上に献身の生活を送ってもよかったのです。

私たちは、どこまでささげ切った献身の生涯を送ってもよいのです。しかし、それはあくまでも自発的な信仰によるものでなければならないし、主を愛し、主を喜ぶ動機からなされるのでなければなりません。他人と比べたり、真似したり、他人から強制されてしても、決して長く続くものではありません。また主に喜ばれるものではありません。それ故、自分の献身の程度は、自分が主を愛する愛の程度を示しています。主を愛する愛だけが、献身の生活を可能にするのです。ここにキリスト教の神髄があります。しかし願わくは、私たちは、全生涯を通して、愛に満たされたナジル人でありたいものです。

22~27節、三段階の祝福

この箇所は、祭司が全会衆を祝福するように命じられています。

民 6:22 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
6:23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。

24~26節は、その祝福の式文のようです。

民 6:24 『【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
6:26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

クリスチャンは互いに、他の人を祝福するというのが、基本的なことです。パウロも「人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)と教えています。私たちは、他人をけなしたり、批判したり、非難したりせず、祝福する言葉を話したいものです。

24~26節の祝福は非常に高い霊的な要素を含んでいます。この三つの節の祝福はすべて「主が」という言葉で始まっています。これは、この祝福の源が主から発していることを示しています。しかも、この霊性の高さは、神のご人格の高さを人に分からせようとしているものと思われます。

この三つの節の祝福には、発展性が見られます。

①、24節の祝福は、「守られる」ことです。

民 6:24 『【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。

これは「防御する」「保護する」という意味をもっています。すなわち、外敵やわざわいから保護され、肉体的、物質的幸いが与えられることです。これは神の助けの中でも、最も初歩的なものです。この助けを求める祈りは、最も低い段階の祈りです。入信間もないクリスチャンはここから出発する人が多いのですが、いつまでも、肉体の健康、仕事上の祝福、経済的豊かさだけを祈り求めていて、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)というところに到達しないのです。肉体的、物質的な神の保護も重要です。しかしクリスチャンはこれを乗り越えて、更に高い霊的祝福を求めるようにならなければなりません。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい(求め続けなさい)。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

主イエスも、先ず第一に求めるべきものは、霊的な神の国と神の義であると教えられています。霊的なものを第一に求めていけば、生活に必要な物質的なものは与えられると、約束してくださいました。しかし大抵のクリスチャンは神の国と神の義を求めることよりも、物質的な仕事を第一にしているために、霊的なものは得られず、また肉体的健康を失い、経済的にも苦しい状況に追い込まれてしまっているのです。日本は経済大国になったと言われていますが、現実は、大半の国民がローンに一生追いかけられていたり、子どもの教育費のために母親も働き続け、年老いては、不本意ながらも経済的理由から、子どもたちは親の世話ができないというケースが沢山あります。これが物質的な仕事を第一に求め続けてきた経済大国の現状であることを、私たちは充分に悟らなければなりません。人間の知恵で、どんなに重要なことだと思って行っていても、神のご命令から離れていれば、決して本当に幸いな状態を生み出すことはできないのです。主は私たちに、霊的な神の国と神の義を第一に求めなさいと命じておられます。このことをあなたの日々の生活で実施し、実証してください。病気がいやされなくても、苦しみや困難から解放されなくても、霊的祝福を求めたいものです。いつまでも第一段階の祝福を求めることで止まっていてはいけません。

②、25節の主の御座が照らされるということは、非常に霊的な領域のことを扱っており、自分と神との親密な人格的交わりを示しています。

民 6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

パウロはコリント第二の手紙4章3~6節で、この世の神が不信者の思いをくらまして、主の御顔の輝きを隠しているのだと言っています。

Ⅱコリ 4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4:4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

自分勝手な自己中心な生活がしたいという思い、この世の富や快楽を求めたいという思いが、主の御顔の輝きを分からなくし、つまらないものと思わせているのです。
この不信仰のおおいが取り除かれる時、主の御顔の輝きに照らされます。この25節の祝
福は、キリストの十字架の死によって信じるすべての人に成就されています。キリストの十字架によって罪の暗闇にいた者の心に、主の光が与えられ、恵みと愛とが示されたのです。この祝福はすばらしいものですが、しかしなお、主の祝福の頂上ではありません。

③、26節の「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」は、25節とよく似ているようですが、もう一段、進んでいます。「向け」という動詞は、非常に積極的な意志を示すとともに、個人的な祝福であることを示しています。すなわち、主はあなたという特定の個人に平安を与えるために、徴顔を向けられるのです。「平安(shalom)は、ただ、思いわずらいや、心理的戦いが終わることだけでなく、「完結すること」「完全であること」を意味しています。すなわち、主はあなたに完全に調和のとれた人格的成熟を与えるために、御顔を向けられるのです。「与える」は、「定め置く」「据える」「確立する」ことを意味します。

すなわち、主はあなたの心の中にすぐれた調和のとれた成熟した人格を確立するために、御顔を向けられるのです。
パウロはこのことを、「あなたがたのうちにキリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)ことだと言っています。

27節、この祝福はどのようにして与えられるのでしょうか。

民 6:27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

祭司が民のために神のみ名によって祈る時です。これを今日のクリスチャンに適用するなら、キリストの御名によって集まり、祈り(マタイ18:19,20)、互いに教え戒め、感謝し、神を賛美するようになる時です(コロサイ3:16)。

マタ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

あなたの教会で、このようなことが普断に行われているでしょうか。これを実行するためには、互いにへりくだっていなければなりません。自己中心の自尊心があったり、少しでも高慢があると、できません。それらのものが打ち砕かれるとき(詩篇51:17)、できるようになります。

詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

これが行われるようになる時、私たちは霊的に成長し、力強い主のあかし人になり、毎日の生活が恵みと力に満ちたものとなってきます。このことなしに、どんな華々しい行事を計画しても、決して一人一人のクリスチャンは霊的に成長しないのです。

あとがき

ジョン・ウェスレーは、自らを「一書の人」と呼んでいますが、それは彼が聖書だけを読み、学んでいたと言っているだけではありません。聖書に生き、神のみことばの力を知り、それを体験していたからに外なりません。

私事で恐縮ですが、聖書を一度も読んだことのない私が二十五才で救われ、旧約聖書は五十回以上、新約聖書は七十回以上(正確な回数は分かりませんが)読ませていただきました。伝道、牧会生活に入りましてからは、まだ二十年足らずですが、数々の難しい問題の中を通過しながらも、今日に至らせていただいています。この間、私は本当に、主と主のみことばによって霊肉ともに養われてきましたことをあかしすることができます。主とみことばなしに、今日の私は存在し得ないのです。昨今、こういうのが「一書の人」というのかなあ、と思っております。聖書は信仰を持った初期の頃から、読み終わると、日付を書く習慣になっていましたが、いろいろな訳を読んでいるうちに、正確な回数が分からなくなってしまいました。
(まなべあきら 1992.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、民数記6章の分かりやすい図解説明。引用元は、「Doodle Through The Bible_ My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time! 」(http://www.doodlethroughthebible.com/)


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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
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