聖書の探求(106) 民数記 14章11~25節 放浪に出発する者と主のしもべカレブ

11~19節、「いつまでわたしを信じないのか。」

11節、主の忍耐は永遠に続くのではありません。再三再四の不服従に対しては、必ず神の審判が下ることを覚悟しなければなりません。

民 14:11 【主】はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
このことを十分に自覚していないために、クリスチャンが何度も自己中心になり、不服従になり、教会の中で争いを繰り返しているのです。イスラエル人の姿を見るなら、「神が奇跡を行うのを見たら、信じる。」という人の言葉がウソであることが分かります。

主は民の間で多くの奇跡を行われました。しかもそれは決して小さい奇跡ではありません。それでもイスラエル人は主に対して何度も、侮(あなど)り、不服従になっています。このことは今日の私たちにも言えることではないでしょうか。主の助けや祝福を受けた後に、すぐにでも不服従な態度をとりやすいのです。

主は私たちに、「いつまでわたしを侮(あなど)るのか。」「いつまでわたしを信じないのか。」と問われています。私たちが自分の都合で、主に従ったり、従わなかったりする態度に、主は嫌気がさしておられるのです。

12節、イスラエルの民は主から「わたしの民」と言われた民であるにもかかわらず、「疫病で打って滅ぼしてしまう。」とまで言われています。

民 14:12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

私たちは、「クリスチャンになったから、もう滅びない。」と安心してはいけません。主に不服従な者は、クリスチャンであろうと、なかろうと、滅ぼされてしまいます。

主はアブラハムから起こされたイスラエル民族を滅ぼして、もう一度、モーセから新しい民族を起こすと言われました。もし、モーセがこの時、少しでも自己中心の野心を持っていたなら、主に対してどういう返事をしたでしょうか。13節以後のモーセの言葉を見
るなら、彼が全く潔められた動機を持つ人で、ただひたすら主の栄光だけを求めている、真底、神の人であることを示しています。裏腹のない神の器です。こういう人でなければ、主に用いられることはできません。自分の都合でコロコロ自分の考えや態度を変えるようでは、神の人になることができません。自己中心の人間的野心の一切が取り除かれなければなりません。私たちが持つべき野心があるとするなら、それはなんとしても主の栄光を現わしたいという野心だけです。

13節、モーセは主に祈っています。その大意は、主がイスラエルの民を滅ばされることによって、エジプト人や異邦の民が主を嘲笑(あざわら)うようになることを恐れたことです。

民 14:13 モーセは【主】に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
14:14 この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、【主】がこの民のうちにおられ、あなた、【主】がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。
14:15 そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。
14:16 『【主】はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』

主の御名が汚されることを恐れたのです。もし私たちがこれほどに主の御名が汚されることを恐れるなら、生活はもっと福音にふさわしくなり、あかしが立つようになるでしょう。

エジプト人は主がご自分の力強い御手によって紅海を分けて導かれたことを聞いていました(13節)。また、諸国の異邦人たちは、主がこの民の内におられ、雲の柱、火の柱のうちにあって導いておられることを聞いていました(14節)。ところが、ここで民を滅ぼしてしまったなら、彼らは、主が力がなくて、約束の地に導き入れることができず、民を荒野で滅ぼしてしまったのだと言って、主の御名を汚すことになるでしょう、と言いました。

モーセは、たえず主の御名を気にして行動しています。主の御名が傷つけられることを恐れ、たえず主の御名が崇(あが)められるようにと望んでいました。

私たちも、いつも主の御名を気にして生活したいものです。どんな小さいことでも、主の御名が崇(あが)められることをしたい。また主の御名が汚(けが)されることは、どんな小さいことも止めたいものです。それが祝福を受ける秘訣です。

18節、次にモーセは、主のご性質に対して訴えています。

14:17 どうか今、わが主の大きな力を現してください。あなたは次のように約束されました。
14:18 『【主】は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。

私たちが争う時は、いつも起こしたことを問題にしやすいのですが、モーセはイスラエル人の問題はさておいて、主のご性質に訴えています。

モーセは、主ご自身が出エジプト記34章6,7節で約束されたみことばを持ち出して、民のためにとりなしています。

出 34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

ここには、三つのことが約束されています。

第一は、「怒るのにおそく、恵み豊かな神」・・・あわれみ深い神
第二は、「咎(とが)とそむきの罪を赦す」・・・主のあがないの計画
第三は、「罰すべき者は必ず罰して、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代に及ぼす。」・・・罪を決して見逃すことのない神の律法と神の正義。

19節、ここで、モーセは結論的な祈りをしました。

14:19 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

主の大いなるあわれみによって、今一度、民の咎(とが)を赦してくださいと、とりなしたのです。ここには、犯した罪に対する刑罰のことは言われていませんが、真の赦しには必ず、完全な代理的刑罰が必要です。それ故、このモーセの祈りは、イエス・キリストの十字架のあがないによって完全に答えられることになります。

しかし、17節で、モーセは「どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。」と祈っていますが、罪が赦されることは、人の努力によってでは不可能で、主の大いなる力によってのみ、なされるのです。このことを私たちは忘れていないでしょうか。

結論として、主はモーセの祈りに答えて、イスラエル民族を引き続き導き、カナンの地に入らせることにされたのです。しかしそれはイスラエルの民の子孫であって、その時に不服従になった十人の族長たちはその場で打ち殺され、その他の不信仰になった全会衆はカナンの地に入ることができず、四十年間の放浪の間に荒野で死んでしまいました。

こうして神は不信仰に対しては、必ず審判を下されたのです。私たちはこのことを覚えて、主に全く信頼して従っていく生活をしたいものです。あなたはそれを実際にするでしょうか。

20~25節、放浪に出発する者と主のしもべカレブ

この部分は、モーセのとりなしに対する主のお答えです。

20節の赦しは、この度のイスラエルの民の反逆の罪に対する赦しではありません。イスラエルの民を滅ぼして、モーセからもっと大いなる強い国民をつくるという主のみこころをとり止められるということです。

民 14:20 【主】は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。

19節で、モーセは民の咎(とが)の赦しを求めました。そして主は、「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。」と仰せられた。しかしそれは、民の咎(とが)の赦しではなかった。なぜなら、この度の不服従の罪が赦されたのなら、民はみな、神の約束の地に入る資格を回復したはずであるから。しかし彼らは神の約束の地に入ることが禁じられた。

21,22節で、民がなぜ、神の約束の地に入れないのかを、主は論じておられます。

21節は、主の側からの理由です。

民 14:21 しかしながら、わたしが生きており、【主】の栄光が全地に満ちている以上、

第一に、「わたしが生きており、」・・・生命を持たない偶像なら、たとい従わなくても、偶像自身が審判を下すことばありません。しかし生ける神のご命令には従わなければなりません。従わなければ、生ける神は必ず、審判を下されます。生ける神は従う者を祝することもなさるけれども、また反逆する者に刑罰を下すこともされる。だから私たちはまず、主が永遠に生ける神であることを実際に強く認識しなければならないのです。主はご自分をこう呼んでおられます。

「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」(ヨハネの黙示録1:17,18)

私たちは、この生けるお方を毎日意識して生活しているでしょうか。

「生ける神」とは、偶像のように生命のないものではないというだけでなく、思想や哲学や儀式や戒めだけのものでもなく、聖なるご人格をもって働かれる神です。このお方を無視し、無自覚になるところから、不服従と堕落が始まるのです。

第ニに、「主の栄光が全地に満ちている以上」、イスラエルの民はカナンの地に主の祝福が満ちているのを見ました。しかしまた、そこに敵がいるのも見ました。彼らは主の祝福があるのに、そこに入って行こうとせず、敵がいた故に、入って行くことを拒んだのです。もしその地に主の祝福がなかったのなら、入って行かなくても、主は審判を下したりはしなかったでしょう。しかし主の栄光は全地に満ちているので、そこに困難があっても、敵がいても、入って行くことを主は求めておられるのです。それを拒むなら、主に対して不服従の罪となり、主の審判を受けることになります。今も、私たちの生活の間に、主の祝福と困難の二つが見えます。私たちは困難の方だけを見て、不信仰、不服従になりやすいので気をつけなければなりません。主がともにいてくださることを忘れると、困難だけに心が奪われて、恐れて、不信仰、不服従になっていくのです。主の同行を確認し、主の祝福を見つめて、前進しましょう。そうすれば、エリコの城壁がくずれたように、大山に見えている困難も海に移ってしまい、困難を乗り越えることができ、勝利を経験することができます。

22,23節は、民の側の理由が語られています。

民 14:22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、
14:23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

民はこれまで、何度も彼ら自身の力では決して乗り越えることのできない危機を乗り越えて、勝利を経験してきていました。それにも関わらず、この度、主のみ声に聞き従わなかったのは、主を侮(あなど)ったからです。

私たちの信仰の戦いは、毎回、新しい戦いなのです。前回、勝利を得たからといって、今回も安易に勝てると思ってはなりません。だからといって、戦いごとに不信仰になってはなりません。毎回、新に十分な信仰の整えをして、戦いに臨むべきです。イスラエルの民は、先の数々の勝利に慣れてしまって、主の栄光を意識しなくなっていたのかもしれません。主の栄光を意識しなくなる時、私たちは主を侮(あなど)りやすいのです。主にはカナンの敵に勝つほどの力がなく、自分たちが直面している困難を乗り越えさせてくれる力もない、と思ってしまうのです。こうして彼らは、神の約束の地をその目で見ながら、入ることができなかったのです。
私たちは天の御国について聞いていながら、そこに入れない者にならないようにしなければなりません。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

24節、主は二百万人以上もの不信仰な者の中からでも、忠実なカレブを見落とさず、忘れてもいませんでした。主は決して一人の忠実な信仰者も見落とさないのです。

民 14:24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。

主はカレブを「わたしのしもべ」と呼ばれました。この称号は、モーセにも与えられた、人が受けることのできる最高の称号です。カレブは何の高い地位や身分、役職も与えられませんでしたが、彼は民の間において、モーセと同じく神のしもべとして働いた霊的リーダーです。教会の中で、すべての人が役員になったり、集会の司会をしたり、教師になったりはしないでしょう。しかしすべての人が、神のしもべとして奉仕することができるのです。そして主は、そういう一人一人を決して見落とさず、忘れていないのです。

カレブの信仰の特長は、

第一に、「ほかの者と違った心を持っていて」・・・他のほとんどすべての人々と違った心を持って生活することは、大変なことです。摩擦が起きる原因になります。それはまわりの人がほとんど異教の地において、クリスチャンが信仰を忠実に守るのと同じです。周囲の不信仰な人々に迎合せず、影響されず、自分の信仰を守り通すなら、その人は神のしもべです。

第二に、「わたしに従い通したので」、カレブは、従っただけでなく、最後まで従い通したところに、彼の信仰のすぐれている点があります。他のイスラエル人も全然従わなかったわけではありません。ブツブツ呟(つぶや)きながらも、カデシュまでは従って来ました。しかし彼らは途中まで従って来たけれども、最後まで従い通さなかったのです。
神の約束の地に入れるか、入れないかは、途中で従うのをやめたか、最後まで従ったかの違いだけによるのです。信仰は最後まで走り抜くことによってだけ価値があるのです。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(テモテ第二4:7,8)

カレブの信仰は、彼自身のためだけでなく、彼の子孫にも大きな祝福をもたらしました。信仰は子孫に残す最高の財産です。

25節は、目的地を失った、滅亡への放浪の旅の始まりです。

民 14:25 低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」

ほとんどの人の人生が、これと同じように目的地のない、滅亡への放浪の旅を毎日過しているのです。アブラハムのように天の都、天の故郷を目指して歩んでいる(ヘブル11:10、16)のではないのです。

ヘブル 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

ヘブル 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

このことを早く悟って、キリストの救いを求める者は幸いです。また、クリスチャンは目的地を目指して確信をもって、この地上生活をあかしの生涯としたいものです。

それでも主は、この不信仰な民に憐みをかけておられます。それは、主は一代目のイスラエルを荒野で滅ぼされるとお決めになられましたが、カレブとヨシュアとともに、二代目のイスラエルをカナンの地に導き入れるご計画をお持ちだったからです。ですから、この三十八年にわたる荒野の放浪の生活は、一代目のイスラエルには審判となりましたが、二代目のイスラエルにはカナン入国のための信仰の訓練の役目を果たしたのです。

それ故、もしイスラエルの民が不信仰のまま、アマレク人やカナン人が住んでいる低地に入って行けば、神の助けが得られないので、一瞬のうちにイスラエルは滅んでしまったでしょう。そこで向きを変えて、再び、これまで来た道、「葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」と命じられています。申命記2章1節では、その後、長い間、彼らはセイル山のまわりを回っていたとありますから、これは現在のスエズ湾のほうまで行ったのではなく、アカバ湾のあたりに行ったことが分かります。

申 2:1 それから、私たちは向きを変え、【主】が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。

しかしとにかく、彼らは不信仰になった結果、この時点から、目的地を失って、滅亡への放浪の旅を続けることになったのです。同じ荒野の旅でも、エジプトからカデシュまでは、目的地に向かう旅で、これは決して放浪ではありませんでした。しかしカデシュから先は一代目のイスラエルにとっては、滅亡に向かう、空しい放浪の旅となってしまったのです。

クリスチャンの中にも、途中から信仰を捨てて、再びこの世の罪の生活に舞戻っている人が大勢います。かつては新生経験の喜びをしたのに、少しの困難や、この世の誘惑に会ってか、その信仰が実を結ばず、滅びの道へと迷い込んでいる人が多いのです。大抵のクリスチャンは新生経験から神の国を目指して、聖潔の恵みの直前までは来るのですが、そこで全く主にゆだねて、全く主に信頼して歩むことが求められると、この世に半分未練があって、躊躇(ちゅうちょ)し、不信仰になり、不服従になり、荒野の放浪の生活を選ぶようになりやすいのです。こうして一度は、キリストの御救いに与かりながらも、途中で信仰の破船をして滅びていく人も決して少なくないのです。

それ故、パウロは、「恐れおののいて自分の救いを達成(全う)してください。」(ピリピ2:12)と勧告しています。一時的に、調子よく、熱心な信仰ではいけません。雨の日も、風の日も、嵐の日も、みことばに立った信仰を全うしてください。主はその人に豊かな報いをお与えくださいます。

(14章 続く)

あとがき

今年もはや、クリスマス、そして最後の月となりました。十二月になると、まわりはクリスマス一色になりますが、私にとっては新しい年への信仰の備えが気になってきます。新しい年への準備は九月頃から始めますが、十二月に入ると、年末の締め括り方、そして元旦礼拝と諸集会、一月のセミナーの準備に年間の計画を煮つめることなど、これらがどれも恵みに満ちたものになるようにと、主の助けをいただきつつ、毎年、この時期を過すのですが、心の中は一番重圧を感じる時です。
読者の皆さんは一年が終わって、解放感を味わう時であるかも知れませんが、私にとってはこういう時でありますので、実に重要な、そして一歩間違えば、一年間、間違った道を歩んでしまう大変な時です。どうぞ、こういう者もいることを覚えて、お祈りいただければ幸いです。ある牧師は、新年聖会の説教を一年前の新年聖会が終わった時から準備を始めていると伺って、なるほどと思ってしまいました。

(まなべあきら 1993.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1860年に出版された”Die Bibel in Bildern”の版画、作者は、Julius Schnorr von Carolsfeld(1794–1872)(Wikimedia Commonsより)


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