聖書の探求(107) 民数記 14章26~45節 不信仰なつぶやきに対する神の処置

26~38節、不信仰な呟(つぶや)きに対する神の処置

27節、不信仰は必ず、呟(つぶや)きを吐き出します。

民 14:26 【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
14:27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。

呟(つぶや)く人は、人に対して呟(つぶや)いていると思っていますが、主は、「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。」と言っておられます。
私たちは、人と言い争いをしているつもりでも、それが神に対する反抗であることがしばしばあります。そのことに自分が気づいていないで、神のさばきを受けてしまうことがあります。霊的に高められてくると、そういうことが段々と分かるようになってきます。しかし、いつまでも肉的で、自己中心で、自己主張を続けている者に対しては、神はついに怒りを発せられます。

28節、残念ながら、不信仰な呟(つぶや)きや、不満を言う者に対しては、さばきが行われることによって、主が生きておられるお方であることを知らさせるのです。

民 14:28 あなたは彼らに言え。これは【主】の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。

主は、信じて従う者に対しては、信じる者の言葉の如くにされ、不信仰な者に対しては、不信仰な者の言葉の如くにされるのです。このことをよく覚えて、私たちは毎日の考えや、思い、言葉を用いなければなりません。

29節は、不信仰な態度をとった者に対する厳粛な審判の宣告です。だれもこれを厳し過ぎると言うことはできません。

民 14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。

「二十才以上の登録され数えられた者たち」とは、責任を問われるのに十分資格、能力のある者のことです。私たちが不信仰になる時は、必ず、その責任が自分に問われることを覚悟しておかなければなりません。
しかし私たちが信じて従う時には、主が責任をとってくださいます。この場合の、二十才以上の不信仰な者の責任は、カナンの地に入れないだけでなく、死でした。カナンの地に入らないで、荒野の生活をずっと送って、そのまま天の御国に行けるという道はないのです。カナンに入らないことは、滅びることを意味しているのです。
クリスチャンも霊的にこのことを厳粛に受けとめて、すみやかに聖潔の恵みに与(あずか)らなければなりません。

30,31節は、神の約束の地に入ることのできる人を記しています。

民 14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。
14:31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。

まず、一代目の成人のうち、神の約束の地に入ることが許可された者は、カレブとヨシュアの二人だけです。この二人は各々の信仰の故に入ることが許されたのです。それ以外の人は、「だれも決してはいることはできない。」と言われています。不信仰な人が、他の方法で紛れ込むことは、絶対にないということですから、信仰を中途半端にしておきながら、天の御国を期待することは絶対に出来ないことを明確に自覚しておかなければなりません。

31節の「あなたがたの子どもたち」とは、カナン偵察後の不信仰な振舞いに対して、まだ責任を問われる資格のなかった者のことですが、彼らも成長して責任がとれるようになった時、不信仰になれば滅びます。
私たちはクリスチャン・ホームの二世、三世を正しく信仰に導かなければなりません。これは子どものころに洗礼を受けさせるだけでも、親の言いなりになっている間、教会に連れて行っているだけでも十分でありません。親自身が真剣に信仰に生きている姿を、毎日、子どもたちに見せていく必要があります。

民 14:32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。

こうして、不信仰な者は荒野で死ぬことになるのですが、信仰を堅持したカレブやヨシュアまでも、三十八年間の長きにわたって、荒野の放浪の苦しみをしなければならなくなったのです。不信仰は自分が刑罰を受けるだけでなく、受けなくていい者にまで、わざわいの影響を与えることになってしまうのです。ですから、不信仰な発言、自己中心な態度や行動は慎まなければなりません。

34節、「こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。」

民 14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

不信仰になって、神に逆らうことほど、恐ろしいことはありません。主はカナンを偵察した日数の一日を一年に計算して、イスラエルに四十年の刑罰を与えました。信仰によって主に従っていれば、この四十年は恵みあふれた生活になったはずなのに、不信仰のために、それが滅びと変わり、苦しみと変わったのです。四十年は成人した者にとっては、人生のすべてを意味しています。すなわち、不信仰は自分の人生のすべてを滅ぼしてしまうのです。

35節、主のさばきを受けるのは、不信仰な報告をした十人の偵察員だけでなく、彼らと一緒になって呟(つぶや)いたすべての人が、ひとり残らず荒野で死ななければならないのです。

民 14:35 【主】であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行う。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。

私たちは、信仰の発言をする人の言葉は聞き流しやすく、不信仰な人の言葉に従いやすいのです。それは私たちが肉的で、自己中心ですから、やゝもすると、不信仰なほうに傾きやすい性質を持っているからです。これは潔められなければなりません。私たちは、自分にその主要な原因がなくても、不信仰に同調すれば、必ず刑罰を受けることになります。
36,37節、不信仰な十人の偵察員は、その場で、主の前に、疫病で死んでいます。

民 14:36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
14:37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、【主】の前に、疫病で死んだ。

これは明らかに主のさばきであることを民に悟らせました。

38節、しかしヨシュアとカレブだけは生き残りました。

民 14:38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

ここに、信仰は自分に何を与えるかを十分に悟らなければなりません。そして、信じる者がわずか二人であっても、主は真実な信仰をもって従う者に必ず恵みを与えられることを、はっきりと自覚すべきです。

39~45節、神抜きの行動

民 14:39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。

イスラエルの不信仰に対して、神がモーセを通して審判のすべてを示された時、民は「ひどく悲しんだ。」とあります。14章1節で、不信仰な偵察員から報告を聞いた時、イスラエルの民は、夜通し泣き明かし、「この荒野で死んだほうがましだ。」と言いました。

民 14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

そこでは、挫折と絶望、自己中心と自己憐憫から泣いています。しかし今回は、彼らが、不信仰の故に受けなければならない審判の故に悲しんでいるのです。どちらも真実な悔い改めの涙ではなく、絶望的で、反抗的な涙です。不信仰な人は、自己中心の故に自分勝手な道をたどりますが、必ず、神のさばきを受けて、泣き叫び、悲しむようになるのです。
同じ涙でも、ペテロの悔い改めの涙のような涙を流してほしいものです(マタイ26:75)。

マタ 26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

主は、各々、自分勝手な道に歩んでいる者の罪をも、十字架の上で背負って下さったのですから(イザヤ53:6)、主に立ち帰って、愛と悔い改めの涙を流したいものです。

イザ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

40節、不信仰な者の考えは、いつもあさはかで、表面的です。

民 14:40 翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかく【主】が言われた所へ上って行ってみよう。」

神との関係を回復することなしに、以前の主の命令どおりに従えばいいんじゃないか、と考えたのです。私たちも、これと同じ愚かをしやすいのです。神との信仰の関係を確立させることなしに、形の上だけ、神に言われたことをすればいいと思いやすいのです。しかし、いつでも、行動より先に、神との関係を正しくしておかなければなりません。そうしなければ、「神なしの行動」をすることになります。もし私たちが、主の同行なしでも、なんとかやっていけるという思いを持っているなら、それはとんだ思い上がりで、必ず、敗北することになります。このことはすでに多くの人が経験済みのことですから、このことを軽く見ないようにしていただきたいものです。

「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」
これは罪の悔い改めでも、信仰の行動でもありません。神技きの人間的な自分たちの考えでしかありません。よく、「やればいいんでしょ。」という態度をとる時がありますが、これは信仰とも、神に従っているとも、認められないのです。彼らはこれによって、主に対して二重の反逆をしてしまったのです。

41節、彼らは、これから山地に上っていくことが、主のみこころにかなった良いこと
だと思ったのかも知れません。しかし、モーセは、「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。」と言いました。

民 14:41 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、【主】の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。
14:42 上って行ってはならない。【主】はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。
14:43 そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが【主】にそむいて従わなかったのだから、【主】はあなたがたとともにはおられない。」

最初に主が約束の地に入るように命じられた時に、カナンの地に上っていくことは、神のみ旨にかなうことでした。しかし彼らが不信仰になって、主が彼らから離れてしまわれ、審判が下ると言われた時、はっきりと真実な罪の悔い改めもしないで、ただ、「それでは、一応、カナンの地に上って行こう。」というのは、非常に自己中心な考えと行動でしかありません。このような行動は、さらに大きな悲劇を生むだけです。

モーセは、彼らが何をしようとしているのか、よく知っていました。「神なき行動」が、何を意味するのか、よく知っていました。いつも神とともに生きている者には、それがよく分かるのです。しかし高慢で、自分中心な者にはこれが分からないから、愚かなことをしてしまうのです。
神がともにいてくだされば、アマレク人やカナン人は恐れるに足りません。しかし神がともにいてくださらなければ、カナン人やアマレク人とは、自分の力で戦わなければならず、打ち倒されてしまいます。かつて、不信仰な報告を聞いて、カナン人らを恐れて、泣きわめいていた者たちが、今度は、彼らを恐れず、自分の力で戦おうとして上っていくのは、どうしたことでしょうか。ここに、不信仰な人の判断がいかに錯誤しているかを示しています。主が戦ってくださると約束してくださっている時に、敵を恐れ、自分の力で戦わなければならない時に、自己過信しているのです。

モーセは神の力を実際に知っていました。主がともにいてくださるのと、ともにいてくださらないことの違いを、よく知っていました。この違いが分かるようになったら、片時も主から離れることはなくなるでしょう。あなたは、この差を知っているでしょうか。この差を知らなければ、私たちもまた、悲劇を起こすことになります。それ故、私たちは行動を起こす前に、神との関係を正しくし、信仰を回復しておく必要があります。毎日、神との関係を正しく保って、生活することが大切です。

44節、イスラエル人は、モーセの警告を振り切って、山地に登って行きました。

民 14:44 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、【主】の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。

彼らはこれまで、多くの、そして偉大な神の奇跡的みわざを見ていながら、神の臨在の力を悟っていなかったのです。信仰は大きな出来事を見ることによっては、分かりません。自分の内に主がともにいてくださるという自覚と生活によってのみ、信仰を養うことができます。
「主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。」とあります。これはおそらく、モーセが差し止めたものと思われます。

45節、彼らの神なき行動の結果は、モーセの警告のとおりになりました。

民 14:45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

この時の経験は、今日のクリスチャンにも、「神なしに行動しても、決して成功せず、却(かえ)って敗北する」ことを、教訓として教えています。

神に従うことは、神が命じられた時、神が語られた時に、すぐに従うのがよいのです。あとで従うことは、決して忠実ではありません。あとになっても、全然、従わないより、従ったほうがいいではないかという論理もありますが、しかしその論理が通用する時ばかりではありません。却(かえ)って、あとで従うことが、神への反逆になり、神をあなどることになることがあります。私たちはいつも、主とともにいる生活をしたいものです。

(14章 完)

あとがき

新しい年に入って、一ケ月が過ぎようとしています。皆様は年の初めに、みことばをいただき、主とのお約束や信仰の決意、再献身をもって出発されたことと思います。どうぞ、コツコツと一年間、全うさせていただきたいと思います。
実を結ぶためには、みことばにしっかりと立った信仰生活を送ることが必須条件です。今年も聖書の探求をよろしくお願い申し上げます。
ちょうど民数記もカデシュの事件を越えて、三十八年の荒野の旅に入っていきます。このことを各々の警戒とさせていただいて、信仰の放浪生活をせず、真直ぐカナンの地に入らせていただきましょう。
今年から、私たちの教会では、「地の塩クリスチャン・インスティチュート(牧師、教師養成のための訓練)」を始めました。ますます忙しくなっておりますので、霊性が強められ、健康も強められて、すべての奉仕が全うできるように、ぜひともお祈り下さい。

(まなべあきら 1993.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「The Grapes of Canaan(カナンのぶどう)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)


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