聖書の探求(108) 民数記15章 なだめのかおりのささげ物、過失の責任、故意の罪、着物のふさ
14章で、神の審判は下され、いよいよイスラエルは四十年間の荒野の放浪の旅に出ることになります(四十年というのは概算で、ほぼ三八年です。)。
この放浪期間における詳しい記録はありません。神の民が神に従わなくなった時、聖書の中のイスラエルの記録は途絶えてしまいます。聖書はイスラエルの旅について、所々、暗示を与えているにとどまっています。
まず、この放浪期間中も、神はイスラエル人にマナを与え続け、衣服や靴もすり切れず、足もはれないように保たれました(申命記8:2~6、29:5,6)。
申 8:2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。
8:6 あなたの神、【主】の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
申 29:5 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。
29:6 あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、【主】である」と、あなたがたが知るためであった。
このことは、神がイスラエルの民を完全に捨ててしまわれたのではないことを示しています。
第二に、ヨシュアは、この期間には割礼が行われなかったことを示しています(ヨシュア5:2~8)。
ヨシ 5:2 そのとき、【主】はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」
5:3 そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。
5:4 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。
5:5 その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。
5:6 イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは【主】の御声に聞き従わなかったので、【主】が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、【主】は彼らには見せないと誓われたのであった。
5:7 主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。
5:8 民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。
また、他の儀式も中止されていたものと思われます。過越の祭りも、イスラエルがシナイを出発して、カナンに到着するまで行われませんでした(ヨシュア5:10)。
ヨシ 5:10 イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。
5:11 過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。
5:12 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。
第三に、安息日の厳守などが、強調されています(民数記15:32~36)。
民 15:32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
15:33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
15:34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
15:35 すると、【主】はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」
15:36 そこで、【主】がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
この四十年間の荒野の放浪の旅から、私たちが学ぶべきことは何か。それは、「神の口から出ることばを守ること」です(申命記8:3、マタイ4:4)。
申 8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
マタ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
民数記15~19章が、三八年間の放浪の旅の唯一の記録であると言ってもよいでしょう。そして、20章1節に、「イスラエル人の全会衆」という語が使われていることから、ここで民は再統合されたようであり、それまでの放浪の旅では、イスラエル人はもはや、整然とした組織体ではなくなっており、家族単位や、思い思いのグループ単位で、三々五々に旅をしたようです。ただ、中心は、モーセとアロンが契約の箱を置いていた所にあったようです。こうして、シナイ山のふもとで整えられた、あの整然とした神の組織体はくずれてしまっていたのです。
この15章が、放浪の旅を始めて、どれくらい経っていた時のことであるかは、分かりません。しかし、2節の「わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり、」の主のご命令からすると、神は民の心を将来のカナン入国に向けようとされているので、カナン入国が近づいていた時期ではないかと思われます。
こうして神は、なおも罪人の子孫に対して希望を与えておられます。「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)であるはずなのに、神はなおも、その罪人にあわれみを注いでくださっているのです。それは、主イエス・キリストの十字架の贖罪(しょくざい)の約束があるからです。
「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
このことを決して忘れてはいけません。
1~16節 主へのなだめのかおりのささげ物
民 15:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
15:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り、
15:3 特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、【主】へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を【主】にささげるときは、
15:4 そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを【主】にささげなければならない。
15:5 また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。
15:6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、
15:7 さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを【主】へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。
15:8 また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして【主】にささげるときは、
15:9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、
15:10 また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。
15:11 牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。
15:12 あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。
15:13 すべてこの国に生まれた者が、【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行わなければならない。
15:14 また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。
15:15 一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。【主】の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。
15:16 あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。」
ここでは、「主へのなだめのかおりのささげ物」をすることについての定めが復習されています。それは永遠の霊的、道徳的価値を表すものとして、重要な意味を持っています。
3~13節で言われていることは、全焼のいけにえにする獣が、子羊か、雄羊か、若い牛かによって、それに添えてささげる穀物のささげ物の油や、小麦粉や、ぶどう酒の量が少しずつ変わることを取り扱っています。
主は、このような付属的なことを教えるために、この定めを復習させているのでしょうか。そうではないと思います。主のご目的は、どんな小さいものも、すべてのささげ物は、主へのなだめの香としてささげるべきであるという真理を強調しておられると思われます。
すべてのささげ物は、主の規定にかない、主に受け入れられるもの、主を喜ばせるものでなければなりません。
私たちがささげ物をする時は、主を喜ばせたいという動機でささげているでしょうか。
私たちの毎日の生活は、主を喜ばせたいという動機で営まれているでしょうか。
パウロは、私たちに
「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:22)
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)
と勧めています。またピリピのクリスチャンの贈り物に対しては、
「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)
と言い、エペソのクリスチャンには、キリストの模範を示しています。
「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:2)
また、このささげ物が主を喜ばせるために、自発的に進んでささげられるものであるなら、必ず、このささげ物をする礼拝者自身も、そうすることによって、十分な喜びと満足を経験することができます。
礼拝者はささげ物をこのような動機ですることによってのみ、儀式主義や律法主義に陥ることなく、主との霊的に自由な交わりをすることができます。このような礼拝が霊とまことをもってする礼拝なのです(ヨハネ4:23,24)。
ヨハ 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
要は、私たちがどんな動機をもって生活しているか、ということにかかっているのです。
最後に、この原則は、イスラエル人だけでなく、在留異国人にも同じであると言われています。この礼拝の原理は、時代を越え、民族を越えて普遍的なのです。すべての人が主を喜ばせ、それによって自分も十分に喜び、満足できる礼拝をささげることができるのです。
17~21節、家庭経済の管理
民 15:17 【主】はまたモーセに告げて仰せられた。
15:18 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたが入り、
15:19 その地のパンを食べるとき、あなたがたは【主】に奉納物を供えなければならない。
神の恵みと祝福によって養われ、支えられている者の家庭は、ささげ物をすることによって、正しく管理することが求められています。これは、神の御前での家庭建設の精神を教えています。
イスラエル人は、シナイの山で幕屋建造のために多くのささげ物をしていました。そして四十年間の荒野の旅では、まだ安定した生活を営むことができませんでした。
しかし、神の約束の地に入って、その地のパンを食べる時、すなわち、神の保護のもとに安定した生活を営むことができるようになる時、ささげ物をすることによって、規則正しい家庭生活の管理をすることが求められました。
このことは、神の民が神によって養われていることを自覚するために必要であるとともに、生活が貧欲やぜいたくに堕してしまわないためでもあります。
20節の「打ち場」の初物の奉納物については、既にレビ記2章14節に定められていましたが、ここでは各家庭で初物の麦粉で作った輪型のパンを供えるように命じています。
レビ 2:14 もしあなたが初穂の穀物のささげ物を【主】にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない。
民 15:20 初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。
15:21 初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、【主】に奉納物を供えなければならない。
これは信仰者が産業や仕事、農業からの収入面の管理をするだけでなく、個人と家族の家庭生活の管理も含むことを示しています。
クリスチャンは献金をしたら、それで義務を果たしたと思わないで、家庭生活そのものを主にささげるべきです。これをしないから、本物の祝福を受けることができないのです。
クリスチャンは、自分の家庭そのものを神にささげるための管理者精神を持たなければなりません。ただ、献金を税金のように考えて払えば、あとは自分の好き勝手な生活をしてもいいと考えている人を多く見かけますが、これは神のご命令からはずれています。
22~29節、過失に対する責任
22,23節は、これから教えようとしていることの中心テーマです。
民 15:22 あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、【主】がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも、
15:23 【主】が命じられた日以来、代々にわたって【主】がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わないときは、
それは、たとえ、知らずに、気づかずに、過って犯したとしても、主のご命令に反することは、神の国を犯し、主を侮辱することですから、贖(あがな)いを必要とします。
しかしそれは、回復不可能な絶望的な罪ではありません。罪も、過失も、贖(あがな)いの血によって、赦しが与えられます。
24~26節、会衆による過失
民 15:24 もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、【主】へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。
15:25 祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、【主】への火によるささげ物、罪のためのいけにえを【主】の前に持って来たからである。
15:26 イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。
この場合、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえは、若い雄牛一頭、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物と、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければなりません。これは民全体の過失ですから、比較的に多くのささげ物が求められています。
教会の中でも、リーダーが神の道からはずれた生き方をしているのを、黙って放置しておくと、それは教会全体の責任問題となり、大変な代価を払わなければならなくなります。とかく教会では、だれかがするだろうと皆んなが思っていて、怠慢になってしまうことが多いのです。こうして教会は息の根がとまってしまうのです。
27~29節、個人による過失
民 15:27 もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。
15:28 祭司は、あやまって罪を犯した者のために、【主】の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。
15:29 イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。
この場合、一才の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければなりません。
この過失は個人によるもので、いけにえは小さいものです。しかし、会衆は個人の真似をするものです。一人の人が過失を犯し続けると、それはすぐに伝染して、やがて全会衆に及んでいく危険があります。
教会の中に一人の不従順な者がいると、やがて教会全体が破滅するようになります。私たちは、しばしば自分がしていることの意味に気づいていません。それが神の教会にどんなに大変な悪影響を及ぼしていくかを悟り、早く摘み取らなければなりません。そうしないと、教会は動揺し、破壊されるのです。そのような教会が沢山あります。
このことは、イスラエル人だけではなく、在留異国人にも同じように当てはめられていますから、普遍的なものです。私たちは、「過失だから」、「知らなかった、気づかなかった」では、すまされません。それはキリストの教会に悪影響を与え、教会を破壊するものとなることを覚えて、早く取り除かなければなりません。
特に、霊的な高慢については、潔められなければなりません。牧師と人間的に親しくなることや、教会の中に肉的グループをつくることなどは、教会を破壊する最も多い原因です。
30~36節、故意の罪
民 15:30 国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、【主】を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。
15:31 【主】のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」
「故意に犯す罪」は、先の過失とは全く異なります。故意の罪は、罪であることを知りつつ、意識的に神とその律法を無視して、高圧的に押し切って犯す罪です。聖書は、これを、「主を冒涜する者」、「主のことばを侮(あなど)」る者、主の「命令を破」る者と言っています。
私たちは、自分で罪を知りつつ、神に逆らう行為をすることは、それがたといどんな小さいことであっても、故意の罪であると知らなければなりません。
これに対しては、厳正な刑罰が下されます。
「その者は民の間から断たれなければならない。」
「必ず断ち切られ、その咎(とが)を負う。」
これは神の聖と義と真実がさせるのです。もし、罪が大目に見逃されていたり、放置されているなら、神の民全体が堕落していくのです。
今、教会は罪を取り除くことなしに人々を受け入れようとしています。その結果、教会の中には、不信仰、高慢、この世との妥協、自分勝手な行動がはびこっています。信者は恩寵の手段(集会出席、聖書拝読、祈り、献金、あかし伝道など)を守らないのが、普通になってしまっています。これではクリスチャンも、教会も、この世の人々に対して、あかしする力を失っているのは当然です。
31節に、「その咎(とが)を負う」という言葉がありますが、イエス様が私たちの咎(とが)を負ってくださらなければ、私たちは自分の咎(とが)を負って、滅びなければならないのです。
32~36節は、故意の罪の一例として、安息日にたきぎを集めている男が記されています。
民 15:32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
15:33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
15:34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
15:35 すると、【主】はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」
15:36 そこで、【主】がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
この男は、真面目で熱心に働く、良い男でしょうか。神の律法を持たない人は、そう思うかも知れません。しかし、これは律法を知らなかったから過失であるという言い逃れはできません。律法が与えられているからです。私たち人間は、聖書が与えられていますから、聖書を読んでいようと、読んでいないとに関わらず、罪を犯して、知らなかったではすまされません。神の御前では、言い逃れることができません。
安息日を破った者に対する神の刑罰は、石打ちで殺すことでした。昨今、クリスチャンの間では、主日に主を礼拝しないことが、故意の罪であるという意識が欠けています。平気で主日の礼拝を怠っています。これに対する神の刑罰は、今でも厳しいことを忘れてはいけません。これに対しては、先ず、霊的堕落が始まります。そして主に対して無関心になり、不敬虔になり、ついには永遠の滅亡にまで行ってしまいます。病気などで、どうしても主日の礼拝に出席できない場合でも、真実な意味で、各々が置かれた所で主を礼拝すべきですし、主を心から愛している人なら、そうしないではいられないはずです。
ここには、罪についての普遍的な原理が示されています。すなわち、罪は人格的、道徳的なものであり、人間の選択や、神の律法の取り扱い、神への服従に対する強情な無視や拒否と関係しています。なかには、過失か、罪か、判定しにくいものもありますが、極端な背教や、聖霊を冒涜する罪を除けば、すべての罪は赦され、潔められるものです(マタイ12:31,32、ヨハネ第一5:16)。
マタ 12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。
12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
Ⅰヨハ 5:16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
しかしまた、罪を犯し続けて、滅びていく者も決して少なくないのです。十分に警戒したいものです。
37~41節、着物のすその四隅のふさ
主は、いかに私たち人間が、主のご命令を忘れてしまいやすいかを知っておられました。そこで、いろいろな方法で主のみことばを覚えて、それを守り行うようにと命じられました。
申命記6章6~9節では、みことばを心に刻みつけるように、子どもたちによく教え込むように、みことばを手に結びつけたり、記章として額につけたり、家の門に書きしるしたりするように命じています。
申 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
なぜ、これほどまでにして、みことばを覚え、教える必要があったのでしょうか。それは、主のみことばこそ、人間が神の道を生きていく唯一の規範だからです。
このことは今も、少しも変わっていません。
民 15:37 【主】はモーセに告げて仰せられた。
15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。
ここでは、着物のすその四隅にふさをつけさせて、それを見て、神のすべてのご命令を思い起こさせようとしています。
39節は、その目的の意味を記しています。
民 15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、
15:40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。
15:41 わたしはあなたがたの神、【主】であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、【主】である。」
日常生活の中で、主のご命令を思い起こして、自分の欲の思いのままに従った生活(エペソ2:3)をしないようにとの戒めです。
エペ 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
私たちは、どんなに忙しくても、神と神のご命令を忘れた生活をするなら、必ず、信仰が低下して、堕落します。
後に、新約聖書で、十二年の血の病いの女が、イエス様の着物のふさにさわって、病いがいやされています(マタイ9:20~22)。
マタ 9:20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
9:21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。
9:22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
これはおそらく、この女が「ふさ」の意味を知っていた上で、この信仰の行動に出たからであると思われます。しかし他方、パリサイ人たちは、自分たちがいかに敬虔であるかを、これ見よがしにするために、このふさを特に長くしていました(マタイ23:5)。
マタ 23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
私たちは、いつも主と主のみことばに頼り、従う生活をしたいものです。しかし、それは他人に見せるためではありません。他人に聞かせる敬虔そうな祈り、他人に聞かせる、いわゆる上手な讃美歌など、私たちはこれらを十分に慎まなければなりません。どんな奉仕でも、自分の敬虔さを見せ物にし始めたら、それはもう、堕落です。
あとがき
自分中心な人は、強そうで、熱心そうであっても、何事も長続きしません。少しの困難や忠告、嫌なことが起きれば、すぐに崩れていきます。すぐに仕事をやめるし、信仰も捨ててしまいます。
日本の教会に、信仰からはずれていった人が多いのは、クリスチャンになっても、自己中心をそのまま残しているからです。主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われましたから、自己中心をそのまま持っているなら、当然、やがて信仰を捨て、キリストから離れていくことになります。
私たちが敗北するのは、外から困難が来るからではなく、自分の内側に自己中心があるからです。自己中心な人は、困難がなくても、自分の欲と我侭(わがまま)の故に自滅していくのです。繁栄した社会であればあるほど、その自滅の速度は早くなります。
勝利の秘訣は、ガラテヤ2章20節にあります。それを受け入れるか、どうかです。
(まなべあきら 1993.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「The Sabbath-Breaker Stoned(石打ちされる安息日を破った者)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)
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