聖書の探求(109) 民数記16章 コラたちの反抗とそれに対する主の審判

この章は、コラたちの反抗とそれに対する主の審判が記されています。今回で、呟(つぶや)きと反抗は三回目になります。民数記中には五回呟(つぶや)きと反抗が記されています。

一回目 11章 マナに対する呟(つぶや)きと反抗
二回目 14章 カナンの不信仰な報告に対する呟(つぶや)きと反抗
三回目 16章 コラたちの呟(つぶや)きと反抗
四回目 20章 メリバの水での呟(つぶや)きと反抗
五回目 21章 食物に対する呟(つぶや)きと反抗(燃える蛇と青銅の蛇)

これだけ呟(つぶや)きと反抗を続けると、主の御怒りを引き起こすことは間違いありません。

1~15節、コラ、ダタン、アビラムの反抗

モーセにとって、最も困難だった仕事は、紅海を渡ることでも、幕屋を建造することでもなく、神の民の中から自己中心と不平、不満の呟(つぶや)き、そして高慢とねたみを取り除くことでした。

これは今でも同じです。教会にとって最大の難事は会堂建設ではなくて、すべてのクリスチャンの自己中心が取り除かれて、潔められることです。

11章の不平と呟(つぶや)き、12章のミリヤムとアーロンがモーセを非難したこと、13章の不信仰の報告と14章の反抗は、16章において、一気に徒党を組んでのモーセへの反逆となって現われました。これは十分に予測できることです。ジワジワ、ジワジワと反乱の波が押し寄せてきていたのです。

1節に、「共謀して」とあります。

民 16:1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

その主謀者たちは、二つのグループからなっていました。

第一はレビ人のケハテの子イツハルの子コラです。コラはモーセとアロンの同族のレビ人でしたが、モーセとアロンの家族だけが祭司としての任務と特権に与かっていたことに憤慨していたようです。この反逆の主謀者はコラです。

もう一方の主謀者は、ルベンの子孫であるダタンとアビラムとペレテの子オンが加わっていました。ルベンはヤコブの長子であり、彼らはルベンの血を引いていました。彼らは、自分たちこそ、イスラエルの間で最高の地位に着くべきだと考えていました。彼らは長子の権を失っていましたので、長子の権を回復しようと、いらだっていたのでしょう。

彼らが共謀したのは、モーセの指導権に対する不満が一致したこととともに、ルベンとケハテの幕屋が近かったことも原因していると思われます。ケハテ族の宿営は、幕屋の南に位置しており、ルベン族も南に位置していました。行進の時も、ケハテ族とルベン族は接していました。こうして、彼らは共謀するに至ったのでしょう。
ヘロデとピラトとは、敵対関係にありましたのに、イエス様を十字架につける時には仲よくなっています(ルカ23:12)。

ルカ 23:12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

この世の人々も、イエス様を拒むことについては共謀しています。これは人の心の中に同じサタンが働いていることを示しています。

2節、この反逆は13、14章以来の大きな反逆になりました。

民 16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

主謀者たちは、会衆の中の名のあるリーダーたち二百五十人を巻き込んで、モーセに反抗しました。モーセは外敵よりも、こうした会衆の中から起きてくる反乱部隊を取り除くのに、神経をすり減らしていたのです。
教会は今日、外側に果敢な伝道をするまでに達する前に、内側の争いで衰退し、消滅しているのです。教会が力強く成長し、この世の人々に対して力強いあかしと伝道をするためには、まず内側が潔められていなければなりません。

3節、彼らの言い分からして、その反逆は単なる謀反でしかありません。

民 16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」

全会衆が聖なるものであって、主はそのうちにおられるのだから、モーセとアロンだけが主の集会の上に立って指導するのは分を越えている、と言って、モーセの指導権に従わず、拒否したのです。確かに、彼らの言い分には一理あります。主は全会衆の間におられたからです。しかし全会衆はしばしば神に従っていません。呟(つぶや)きと不平を言い、逆らっていました。事実、この主謀者たちと二百五十人の者たちは、主の臨在の権利を主張していますが、実際は主に逆らっていたのです。

教会では、牧師も信者の一人であることには違いありません。そして会衆制の教会では、信者の選挙で牧師の信任をはかったりするところもありますが、信仰のよく分からない信者が牧師をはかったり、教会の霊的活動を決めていくことは、最も危険なことと言わざるを得ません。この世約な考えから、全教会員が同等の議決権を持っていると考えるなら(日本の宗教法人法ではそうなっていますが)、教会は霊的いのちを失い、ただちに破滅してしまいます。否、みんながワイワイ発言して、破滅状態になっている教会も少なくありません。牧師、リーダー、長老に任命されている人々は、身を引き締めて、主のみこころを忠実に行うように、責任を果たしていただかなければなりません。
今日、クリスチャンは聖書を持っていますが、主が立てられた牧師がいなかったら、多くの人は神の国を経験することができないでしょう。それなのに、牧師の指導に従おうとしない人は多いのです。

コラ、ダタン、アビラムたちの反逆は、自己中心的な、肉的考えからでしたが、それは神の任命権に対する反逆だったことを忘れてはなりません。彼らは自分たちで投票でもして、自分たちで祭司を決めることができる権利があるとでも思い上がっていたようです。
今日、牧師や伝道者になる人だけでなく、CSの教師や各リーダーたちも、主の召命を明確にして任命を受けて奉仕につく必要があります。牧師に頼まれたからとか、自分にもできそうだから、というのではなく、主に召されているという召命感が必要です。召命を受けていない者が指導的地位につくと、教会はすぐに世俗化し、ネタミや争いが生じます。また主の召命を受けた者は、恐れず、臆せず、躊躇(ちゅうちょ)せず、訓練を受けて、神の奉仕を果たすべきです。この召命感が明確でなくなってくる時、教会はこの世の集団と何ら変わりのない世俗集団に堕落してしまうのです。

4節、モーセはひれ伏しました。

民 16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

それは彼が、主に反逆することがいかに恐ろしいかを十分に知っていたからです。イスラエルはこれまで何度も神のさばきを経験していたのですから、彼らも十分に悟っているはずでした。しかし、人は喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、何度でも愚かなことを繰り返します。そして再び、自分の上に神のさばきが下るまで、真剣にその恐ろしさを考えないのです。神のさばきには警告的なさばきもありますが、滅亡のさばきもあることを忘れてはいけません。

5節以後は、コラたちへの叱責です。

民 16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、【主】は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。
16:6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、
16:7 あす、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。【主】がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」
16:8 モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。
16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、【主】の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。
16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。

モーセはコラたちを主の前に出るように命じました。そして、主ご自身に、だれが民の指導者で、だれが聖なる者なのかを決めていただくことを求めました。神の民の中での争いは、人の議論によって決着をつけず、神ご自身によって決着をつけていただくことが必要です。

3節で、コラたちはモーセとアロンに「あなたがたは分を越えている」と言いましたが、モーセはコラたちに「あなたがたが分を越えているのだ」と言いました。彼らは、神の幕屋の奉仕をし、会衆の前に立って奉仕をするために、主のみもとに近づけてくださったのに(9節)、このことを過少評価してモーセとアロンをねたんで反逆することは、分を越えていたのです。

11節、モーセははっきりと、彼らが主に反逆していると指摘しました。

民 16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって【主】に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

しばしば不満をもらす人は、人間の指導者に反逆していると思っています。しかし、実は、その指導者を立てられた主に反逆しているのであって、そのことに気づいていないのです。

12~15節は、ダタンとアビラムへの叱責です。

民 16:12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。
16:13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。
16:14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」

コラは、宗教的指導権を奪おうとしているのですが、ダタンとアビラムは政府的指導権を要求していたようです。彼らは不満をもらしていましたが、臆病な者たちで、モーセの前に出て来ることを拒みました。

13節で、ダタンとアビラムが言っている「乳と蜜の流れる地」とは、エジプトのこと
です。これは神の約束の地が「乳と蜜の流れる地」と言われていることを皮肉って言ったのです。これは、神の祝福の地をけなす、冒涜です。しばしばこういう人は、指導者の揚げ足をとって反抗します。

彼らは、まだ、神の約束の地に入って行くことが出来ず、ぶどう畑も与えられていないことに不満を抱いて、モーセが不当に民の上に君臨しようとしていると言ってののしりました。しかしそうなった原因は、モーセにあったのではなく、民の不信仰にあったことを、あれほどの事件があったにも関らず、彼らは全く気づいていないのです。罪の性質は、いつでも自分の苦しみを他人のせいにします。

13節で、彼らがモーセに対して、「それでも不足があるのか。」と言ったのは、9節で、モーセがコラに言った言葉の揚げ足をとっているのです。このように不遜で、高慢で、恥知らずの人間が、神を悩まし、モーセを苦しめ、また全会衆を悩まし続け、主の祝福を受けさせなくしているのです。
教会の中にも、いつまでも自分の信仰をはっきりさせず、自己中心が潔められず、自分勝手の道を取り続ける者がいると、神の群れを悩まし続けます。これは取り除かなければなりません。

15節、モーセは、彼らの心頑なな態度に激しい怒りを示しています。

民 16:15 モーセは激しく怒った。そして【主】に申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」

彼らがそのままの態度で、神にささげ物をしても、主が彼らのささげ物を受け入れられないようにと祈り、また、モーセの指導は、神のみ旨に沿ったものであり、決してモーセ自身の欲による独裁主義でも、権威主義でもないことを告白しています。ここに、神に立てられた指導者が、いかに重い重荷を背負っているか、またそのためにどれほどの霊的力を必要としているかを教えられます。

16~35節、反逆者たちに対する主の審判

神が真実であられることは、神が祝福を下されることと共に、反逆者たちには必ず審判を下されることによっても立証されています。

16~19節、モーセは反抗の第一の首謀者であったコラに、コラとコラに従う者は主の前に出てくるように命じています。そして、アロンも主の前に出るように言われています。

民 16:16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、【主】の前に出なさい。
16:17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの【主】の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。」
16:18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。

彼らはひとり一人、自分の火皿を取り、それに香を盛って、主の前に出るように命じられています。

香をたくことは、祭司だけができることであり、祭司以外の者が神の前で香をたくなら、必ず神のさばきを受けることになるので、香を持って主の前に出るということは、だれが神に任命された祭司であるか、アロンか、コラか、神ご自身がはっきりとお示しになる方法として採用されたものと思われます。ウジヤ王も高ぶり、香をたくことにおいて罪を犯し、神のさばきを受けてらい病になったと記されています(歴代誌第二26:16~21)。

Ⅱ歴代 26:16 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、【主】に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして【主】の神殿に入った。
26:17 すると彼のあとから、祭司アザルヤが、【主】に仕える八十人の有力な祭司たちとともに入って来た。
26:18 彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。【主】に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である【主】の誉れは与えられません。」
26:19 ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、【主】の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にツァラアトが現れた。
26:20 祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はツァラアトに冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。【主】が彼を打たれたからである。
26:21 ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は【主】の宮から絶たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、この国の人々をさばいていた。

17節をみると、コラの側につく者が二百五十人いたようですが、19節では、コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、モーセとアロンに逆らわせようとしています。コラは神を自分の味方とすることよりも、全会衆を自分の味方につけることによって、勝つことができると考えたのです(使徒5:39、ローマ8:31)。

使 5:39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、

ロマ 8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

これは数で勝負しようとする、神抜きの無神論者の考えです。コラは、全会衆を集めて、一斉にモーセに逆らわせようとした時、彼は勝利の確信に満ちていたようです。しかし、神を計算に入れない者にはいつも敗北しか来ないのです(ルカ12:21)。

ルカ 12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

19節、「そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。」

16:19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、【主】の栄光が全会衆に現れた。

主の栄光は、主に忠実な者にとっては祝福であり、保護となりますが、主に逆らう者にとっては審判となります。正しい審判は、人の判断によるものではなく、神の前に立つ時に明らかになるのです。
私たちも、自分が救われているのか、潔められているのかを判断しようとする時、自分で自分の出来具合を見て、自分の知恵で判断するのではなく、自分のすべてを主に明け渡して、聖霊に探っていただき、聖霊による納得をいただくことが大切なのです。人の知恵ほど当てにならず、高慢に導くものはないからです。

20~35節、神の審判の様子
21節、主は、反逆する者を絶滅されると言われました。

民 16:20 【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
16:21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」

反逆は決して、見逃されたり、大目に見られるものではありません。この時、全会衆がコラの側に立っていましたから、このままでは、わけのわからないイスラエルの全会衆がすべて絶滅してしまうことになります。

22節、そこでモーセとアロンは主に執り成しの祈りをしました。

民 16:22 ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」この執り成しは、創世記18章23~32節のアブラハムの執り成しと似ているところがあります。

創 18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
・・・・・
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

アブラハムは主を「全世界をさばく正義のお方」(創世記18:25)と呼んでいるのに対して、モーセは主を「すべての肉なるもののいのちの神」と呼んでいます。
ここにも神観についての啓示の進展が見られるように思います。

二人が、このように執り成したのは、イスラエルが全滅することは、主の御名に関ることだったからです。

24節、そこで主は、もう一度、譲歩してくださいました。

民 16:23 【主】はモーセに告げて仰せられた。
16:24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

会衆に対して、コラ、ダタン、アビラムの住まいの付近から離れ去るように言えと、命じられました。反逆者の側に立つ者は、反逆者と同様に扱われます。

25節、モーセは主の指示に従って、長老たちを従えて、会衆に警告しました。

民 16:25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、
16:26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」

彼は、徹底的に悪者どもから離れるように命じました。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」

27節、こうして会衆は、反逆者たちの住まいから離れ去りました。

民 16:27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。

しかし、悲しいかな、ダタンとアビラムの妻子、幼子たちはその場にとどまり、自分たちの天幕の入口に立っていて滅ぼされました。信仰が血筋のつながりより強くないと、こういう悲劇を見ることになります。

コラについては、32節で、「コラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。」と記されていますが、コラの家族はどうなったのでしょうか。
民数記26章10,11節を見ると、コラとともに立っていた二百五十人は滅びましたが、「コラの子たちは死ななかった。」(11節)

民 26:10 そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。すなわち火が二百五十人の男を食い尽くした。こうして彼らは警告のしるしとなった。
26:11 しかしコラの子たちは死ななかった。

コラの子たちは、全会衆と共に、自分の父コラとその住まいを捨てて、離れたのです。彼らは父の命令でも、神への反逆には加わらなかったのです。このコラの子たちの中から、やがて預言者サムエルが生まれるのです(歴代第一6:33~38)。

Ⅰ歴代 6:33 仕えた者たちとその一族は次のとおりである。ケハテ族からは歌い手ヘマン。彼はヨエルの子、順次さかのぼって、サムエルの子、
6:34 エルカナの子、エロハムの子、エリエルの子、トアハの子、
6:35 ツフの子、エルカナの子、マハテの子、アマサイの子、
6:36 エルカナの子、ヨエルの子、アザルヤの子、ゼパニヤの子、
6:37 タハテの子、アシルの子、エブヤサフの子、コラの子、
6:38 イツハルの子、ケハテの子、レビの子、イスラエルの子。

また詩篇の中には、かなり多くの詩に、「コラの子の歌」という表題がつけられていることから、彼らの子孫から、讃美をもって主に仕える者が起こされています。
このことは先祖に大罪者がいても、その子孫が神の前に正しく歩めば、神に用いられることを示している実例です。

私たちの先祖もさかのぼっていくと、必ず、良からぬ者が一人や二人はいるものです。また自分が親の悪しき罪の行為から生まれた者であっても、そのことで少しも自己嫌悪に陥る必要はありません。自分にいのちと人格を与えてくださったのは神であり、自分が正しく神の道を歩んでいるなら、神は必ず、愛し、祝してくださいます。
私たちはとかく、その生まれが親の罪によるものだと、日陰の人生を歩まなければならないと思ったり、また他人をそのような目で見がちですが、大事なことは、どのような生まれ方をしたかではなくて、今、どのように生きているかです。

私は主のご用をさせていただく中で、正当な夫婦の間に生まれた子どもの中に、多くの心の頑なな罪人がいるのを体験してきました。親の罪によって生まれることは、子どもにとって悲しいことではありますが、愛に包まれ、信仰をはぐくまれながら育てられるなら、最もすばらしい神に用いられる人になることができます。

28節、モーセは、今回の審判がモーセ自身の考えから出たことではなく、主から出た審判であることを全会衆に知らせるために、反逆者たちが通常の死に方でない死に方をすると宣言しました。

民 16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは【主】であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。
16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは【主】ではない。

30節、彼らが生きながらよみに下ることによって、彼らの死が、彼ら自身の主を侮(あなど)った罪が原因であることを、すべての民が知る必要がありました。

民 16:30 しかし、もし【主】がこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが【主】を侮ったことを知らなければならない。」

31~33節、モーセのこの宣言が終わるや否や、すぐに神の審判が下りました。

民 16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。
16:32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。
16:33 彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。

もはや、彼らがモーセをののしったり、反論するひまは与えられなかったのです。彼らの下の地面が割れて、反逆者を呑み込んでしまいました。

しかし、35節をみると、二百五十人だけは、地に呑み込まれる方法ではなくて、主の火によって焼き尽くされています。

民 16:35 また、【主】のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。

神のことばは審判においても、真実でした。私たちは、ますます、神のみことばに対して厳粛になり、忠実に従う者とならねばなりません。

しかし34節をみると、イスラエルの民がこのことによって、生ける神を十分に知ったかどうかは、疑問です。

民 16:34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。

彼らは神を畏れて、コラの側に立ったことを悔い改めるよりも、自分たちも地に呑み込まれてしまわないかと、恐れて、叫び声を上げて逃げまわっていたからです。そうですから、反逆の首謀者が滅ぼされても、なおしばらく争いが続くことになります。要は、徹底的に罪の性質が潔められなければならないということです。

36~50節、さらに続く神の審判

36~40節、罪が取り除かれたならば、聖なるものとなる。
37節、モーセは祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から二百五十人の持っていた火皿を取り出させました。

民 16:36 【主】はモーセに告げて仰せられた。
16:37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。

さらに、「火を遠くにまき散らさせよ。」とも命じています。この「火」は神の火ですから、聖なるものであり、すべての罪の汚れを焼き尽くす潔める火です。それ故、全会衆に届くように、遠くにまでまき散らすように命じられました。

イエス・キリストは聖霊と火で打ち場を潔めるお方としてバプテスマのヨハネに紹介されています(マタイ3:11,12)。

マタ 3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

この「潔めの火」は、遠くにまで、まき散らさなければなりません。

38節、次に、火皿は打ちたたいて延べ板として、祭壇のための被金とするように命じています。

民 16:38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが【主】の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」

それは、人々がそれを見るたびに、高慢になって神に逆らい、罪を犯す者がどうなったかを思い起こし、警戒するためです。

40節、こうして、祭司に任命されたアロンの子孫だけが、神の前に香をたくことが許されていることがはっきりと示されました。

民 16:39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、
16:40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、【主】の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。──【主】がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。

それなのに、後にウジヤ王はこのことを忘れて、再び、この神の戒めを破って、自ら香をたこうとして神のさばきを受けました。

このように、高慢な者は跡を絶ちませんが、外側からの律法的な戒めでは、罪を犯す者がいなくなることはできません。しかしキリストの福書によるリバイバルによって、刑務所が空になったということは起きています。私たちは、かけ声だけでなく、本物のリバイバルのために日々にみことばと聖霊に従うことによって備えていかなければなりません。

41~50節、翌日、イスラエルの全会衆はモーセとアロンの責任問題だといって、詰め寄っています。

民16:41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは【主】の民を殺した。」

会衆は、コラたちが滅ぼされると、自分たちがコラの側についたことを悔い改めるのかと思えば、逆に反抗し始めたのです。モーセにしてみれば、全会衆が滅ぼされるところを、主に執り成してくい止め、あらゆる指導と世話をしてきたので、このような反抗を受けるとは、思いもよらなかったことでしょう。

私もこのような、思いもよらない経験を何度もさせられてきましたが、その度に、人から感謝されたり、お礼を言われたりすることを求めて、指導や世話をすべきでないことを思い知らされました。むしろ世話のやける人から、ののしりや反抗をしばしば受けるものなのです。人は、どんなに世話を受けていても、面倒をかけていても、教えを受けていても、自己中心の心が残っていれば、受けた恵みはすべて忘れてしまい、反抗し始めるものであることを覚えておかなければなりません。今も、教会の中に、このような態度をとる者が少なくありません。自己中心が徹底的に潔められないと滅亡することを、この記事は明確に示しています。

42節の主の栄光の現われ方は、19節のコラの時と同じです。

民 16:42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、【主】の栄光が現れた。

民 16:19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、【主】の栄光が全会衆に現れた。

これは決して祝福の栄光ではありません。この栄光はモーセとアロンを守りましたが、会衆にはさばきでした。

モーセはどの場合も、議論や説得で勝とうとしないで、主にゆだねて、主の栄光の顕現で勝利を得ています。モーセにも言いたいことは、山ほどあったでしょう。しかし言い争ったからといって、相手が理解するわけでも、解決するわけでもない。主の栄光の顕現こそ、最も有効な解決方法です。パウロは、「自分のからだ(自分の全存在と生活を含む)をもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:20)と教えています。そうす
れば、決定的な勝利が得られます。

45節、「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」

民 16:43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、
16:44 【主】はモーセに告げて仰せられた。
16:45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。

これは神に忠実なモーセの重さを教えています。モーセが会衆の中にいることによって、神は会衆を滅ぼさないでおられるのです。この世に、極くわずかであっても神に全く忠実なクリスチャンが存在する価値は大きいのです。お互いはこの自覚を持って、信仰生活を全うしたいものです。この時、神はイスラエルの全会衆を滅ぼすつもりであられました。

46節、モーセは主のご命令とは反対に、アロンにすぐに火皿をとって、それに香を盛って会衆の所へ行き、贖い(あがな)いの執り成しをするように命じています。

民 16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。【主】の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」
16:47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。
16:48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。
16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。
16:50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。

この度も、民はモーセとアロンの執り成しによって救われたのです。なぜ、モーセはこのような民のために執り成しをしたのでしょうか。それは民のためではありません。神のためなのです。神の御名がつけられた民が滅亡することによって、主の御名が汚されないためです。モーセの心にあったのは、いつも主であり、主を思う心でした。この心が、彼を偉大な神のしもべ、リーダーにしたのです。今日、このような思いを持つ神のしもべが必要ではないでしょうか。

あとがき

日本のクリスチャン人口、1%突破のかけ声を聞き始めて、もう二十年以上が過ぎました。そしてこれまで、全国的な大衆伝道会が何十回と行われ、テレビ伝道も行われるようになりました。しかし現状は少しも変わっていません。この壁が打ち破れない本当の原因は何でしょうか。それは信仰生活五年、十年というのに、聖書全巻を通して、まだ一度も読んでいないというクリスチャンがほとんどだということではないかと思います。中国では、日本のように大集会が開かれているわけではないのに、回心者は毎日起こされています。その秘訣は、クリスチャンになって五年もすれば、聖書全体に通じている信者が沢山いることです。彼らは私たちのようにみんなが聖書を持っているわけではありません。それなのに私たちより聖書のみことばに立って生活しているのです。私はこの十年くらい教会員に聖書を読むように主張し続けてきました。それでも読まない人もいますが、五回、十回と読む人も起こされつゝあります。

(まなべあきら 1993.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1890年に出版された”Holman Bible”の挿絵「Destruction of Korah Dathan and Abiram(コラ、ダタン、アビラムの滅亡)」(Wikimedia Commonsより)


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