聖書の探求(118) 民数記 23章 バラムの第一の預言と第二の預言

22章41節から24章24節までは、バラムの預言を記しています。

バラムは四度、神からのことばを話しました。しかしバラクから報酬の富を受けるチャンスを失い、最後に彼は殺されました。サタンは、最初、富と楽しみを与えると、現物を見せて確実であるかのように約束をします。しかしサタンに従って、約束通りの富を得た者はだれもいません。富を手にしたかに見えた人でも、すでにその人は堕落しており、心には平安がなく、全く幸せを失った生涯をたどらなければならないのです。

22:41~23:10 バラムの第一の預言

22章41節から23章6節は、その序です。

民 22:41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。

翌朝、バラクは早速、バラムにのろわせるために、バモテ・バアルに上らせ、イスラエルの一部を見せました。一部分しか見えなかったことは、イスラエルの民が非常に多かったことを意味しています。

民 23:1 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」
23:2 バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。
23:3 バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、【主】は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。
23:4 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。」
23:5 【主】はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。」
23:6 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。

預言のための準備として、七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をささげて、バラムはわかりきったことをするために、物々しい儀式を行わせました。彼は全焼のいけにえをささげましたが、彼自身の全焼のいけにえとして、全き献身をしていませんでした。それでも主は、バラクへのメッセージをバラムに与えられました。

7節で、「彼のことわざを唱えて言った。」とあるのは、バラムが神から受けたメッセージのことです。

民 23:7 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』
23:8 神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。【主】が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。

7,8節、人は、神がのろわない者をのろおうとし、神が滅びを宣告しない者に対して滅びを宣告しようとします。しかしそれは不可能なことです。神がのろわない者をのろうことはできないし、神が滅ぼさない者を滅ぼすことはできません。
それ故、クリスチャンが互いに言い争ったり、ののしり合ったりすることは、すぐに止めなければなりません。私たちは、互いに不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、忍び合い、自らへりくだることが求められているのです。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

民 23:9 岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。

9節後半、「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない」
これは高慢でも、独善でもなく、神の民の特長です。神の民はこの世の民の中の一つとなることができません。なぜなら、その内に宿している本質的な霊が異なるからです。外見はこの世の民と同じように見えても、神の御霊を宿していることにおいて、本質的に異なるからです。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。・・・あなたがたがその神殿です。」(コリント第一3:16,17)

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:19,20)

「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」(ヨハネ17:16)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

それでも、神の民がこの世の民の中に融合していこうとするなら、もはや神の民ではなくなってしまいます。

民 23:10 だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」

10節前半、「だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。」

クリスチャンは地のちりに等しいようなものであるかも知れませんが、神が祝福された民は、だれがのろっても、だれが迫害しても、その繁栄をとどめることはできません。神の民が衰退し、滅びる時は、自ら、神を離れ、忠実な信仰を捨てる時だけです。

10節後半、バラムはイスラエルをのろわなかったので、バラクに殺されるかも知れないと思ったのです。

「私は正しい人が死ぬように」の、この「正しい人」は複数形なので、イスラエルを指していると思われます。すなわち、「神の民、信仰者の死のように」ということです。つまり、「私は殺されるとしても、神の民として、信仰者として死にたい。」ということになります。「私の終わり」とは、「死の後」「死のかなた」のことを言っているものと思われます。バラムは、「死後も神の民と同じようになりたい。」と言ったのです。もしバラムが本当にこのことを願うなら最初から神にだけ従い、バラクの招きに従わないことです。
クリスチャンの中には、この世の生き方をしつつ、このように願う人が多いのです。これはかなわない願いです。はっきりと潔められて、神の道を真直に進みたいものです。

23:11~26、バラムの第二の預言

民 23:11 バラクはバラムに言った。「あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」
23:12 バラムは答えて言った。「【主】が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」

モアブの王バラクは、預言者バラムがイスラエルを祝福すると、バラムを責めました。

民 23:13 バラクは彼に言った。「では、私といっしょにほかの所へ行ってください。そこから彼らを見ることができるが、ただその一部だけが見え、全体を見ることはできない所です。そこから私のために彼らをのろってください。」
23:14 バラクはバラムを、セデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、それぞれの祭壇の上で雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。
23:15 バラムはバラクに言った。「あなたはここであなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私はあちらで主にお会いします。」
23:16 【主】はバラムに会われ、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう告げなければならない。」
23:17 それで、彼はバラクのところに行った。すると、モアブのつかさたちといっしょに、彼は全焼のいけにえのそばに立っていた。バラクは言った。「【主】は何とお告げになりましたか。」

しかし彼はバラムに魔術的力があると信じていたのです。そこで、場所を変えれば、その魔術的力が発揮できるのではないかと考えました。あるいは、イスラエルの姿が十分に見えなかったから、のろうことができなかったのではないかと考えたのです。そこで、彼はバラムをセデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行きました。ここなら、きっとバラムは、魔術的力を得て、イスラエルをのろうことができると考えたのでしょう。このピスガの頂は、モーセが最後にカナンの全土を眺望した頂(申命記3:27)と同じかどうか分かりませんが、この地域が見晴らしがよかったことは、よく知られていたようです。

申 3:27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

しかし同じ場所から眺めたとしても、ある者はのろわせようとして、ある者は祝福するためと、全く異なっています。今日、クリスチャンの中にも、神のみこころに関する見方を変えたり、考え方を変えたりして、神のみこころを自分の都合のいいように変えようとする傾向があります。しかしどんなに見方を変えても、考え方を変えても、また時代が変わっても、神のみこころは変わらないものです。神を変えようとしても無駄です。自分が変わらなければならないのです。

今日、生じているもう一つの危険は、カリスマ的な雰囲気をかもし出そうとしていることです。私たちが真実に主に従っているなら、カリスマ的力があるように振舞わなくても、必要な時には、主は力を現わしてくださいます。しかし教会の指導者の中には、自分をカリスマ的存在にしようとしたり、周囲の者たちがそのようにし向けている傾向があります。これは信仰による聖霊の力ではなく、むしろ魔術的力を求めていることで、のろわれるべきです。私たちは、単純に、純粋に、霊的に人格的にガラテヤ5章22,23節の御霊の実を結び、主をあかししていくことこそ、主が求められていることを知るべきです。

ガラ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

自ら、カリスマ的な特別な人間になることを、求めるべきではありません。必要な力は主が信仰に応じて与えてくださいますので、それに真実な態度で従うべきです。

ここで預言者バラムは、一度、神のみこころが示されたのですから、「場所を変えて、再びのろえ」というバラクの求めを拒否すべきであったのに、バラムは何回でもモアブの王の要求に従っています。もはやバラムは神の預言者というより、悪魔の手に握られた占い師や魔術者になり下がっています。彼は、キリストの弟子でありつつ、悪魔に従って行ったイスカリオテのユダに似ています。私たちも十分に気をつけたいものです。

18~24節に示されている主のみこころは、さらにはっきりしています。

民 23:18 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。
23:19 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。
23:20 見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。

19節は、神のご性質が語られています。
神は人のように偽りを語りません。また神は人のように後悔してみこころを変えたり、他人から説得されて考えを変えたりしません。
それ故、バラクが何度バラムに、イスラエルをのろうように頼んでも、また場所を変えても、神のみこころは変わりません。神は語られたこと、約束されたことを、必ず成し遂げられます。これが、神の真実のご性質なのです。20節で、バラム自身も神が「祝福せよ」と命じられたことを、くつがえすことができないと告白しています。神が祝福すると言われたら、必ず祝福されます。神のみことばは、天地が滅んでも、変わることがないのです。

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(ヨハネ第一2:17)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネ第一5:3)

21節で、「ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。」と言われていますが、現実には、イスラエルの民は呟(つぶや)きと反抗を繰り返していました。それなのになぜ、このように言われているのでしょうか。

民 23:21 ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、【主】は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。

ここでは、イスラエルの現状を言っているのではなく、神に罪赦され、潔められ、あがなわれて神の御前に立つイスラエルの民のことを言っているのです。そしてここには、イエス・キリストの十字架のあがないの故に義とせられている者に対して、サタンがいかに激しい攻撃をしてきても、のろいを受けることがないことを暗示しています。それ故、私たちは潔められて、神の御前に立つことができる者となることのみを求めるべきです。そうすれば、少しものろいを恐れる必要はありません。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケ第一5:23)

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」(ユダ書24節)

21節後半、「主は彼ら(彼)とともにおり、」主はイスラエルを見捨てることがありません。祝福の源である主が臨在され、同行されます。そういう民は必ず祝福を受けます。私は二五才でクリスチャンになり、二九才で献身し、三一才で牧師として教会の開拓を始め、三五才でこの教会をゼロから開拓創設を始めました。その間、私を悩ませるような人々が出たり入ったりし、健康を打たれたこともありましたが、主はいつもともにいてくださり、祝福は途絶えたことがありません。

22節では、イスラエルをエジプトから連れ出されたのは神であり、その神はイスラエルにとって、「野牛の角のようだ」と言われています。

民 23:22 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。

「野牛の角」とは「力」を意味し、神がイスラエルの力だと言っているのです。

23節では、魔術的力を期待していたバラクに対して、イスラエルには魔術も、占いも、その効果がないことを示されています。

民 23:23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。

これは今日の日本においても、まじないや占いを気にする多くの人々がいて、そういうものを利用した悪徳宗教が流行し、なかには精神的障害まで受けている者も相当出ています。しかしそれらは、悪魔の仕業であって、神の民には何のわざわいももたらすことができないことを知るべきです。神の民に対しては、まじないや占いによってではなく、時に応じて、神が行われることが神の民に知らされていきます。

24節、そして神の民は全能の神の力をいただいて立ち上がり、敵に対して勝利を重ねていき、究極的な勝利を得るのです。

民 23:24 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

この24節は、創世記49章8,9節と関係して語られていると思われます。

創 49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。
49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

バラムは、バラクが最も聞きたくない預言を語りました。

それ故、25節で、バラクは、「彼らをのろうことも、祝福することもしないでくれ。」と言ったのです。

民 23:25 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください。」

バラクは、「もう何も聞きたくない。」と言って、耳をふさいでしまったのです。バラクは神のことばを聞く耳を持っていない人です。
クリスチャンの中にもそういう人がいます。いつも忠告に反発するか、言い返し、弁解し、言われたことを少しも実行しないで、他人を批判する人です。このような高慢で自己中心な人は、自分の好むことだけを聞きたがり、それ以外のこと、特に、自分に警告や叱責となる言葉は「聞きたくない。」と言って、耳をふさぐか、教会を転々と変えているのです。だから、滅びるのです。

しかし26節で、バラムが「私は主が告げられたことをみな、しなければならない。」と言ったように、人が好むと好まざるとに関わらず、神のことばをはっきりと語らなければなりません。

民 23:26 バラムはバラクに答えて言った。「私は【主】が告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」

その結果、神のことばに耳をふさぐ人は滅びるし、聞き従う人は祝福を受けます。パウロも次のように警告しています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(テモテ第二4:2~4)

実に、今が、パウロが警告している時代で、クリスチャンたちは、自分の好む説教をしてくれる教会、自分の思い通りのことをさせてくれる教会を求めて、教会を次から次へと渡り歩いているのです。教会側も人が増えることを望んで、どんな人でも転入会させたり、すぐに洗礼を授けたりしています。これは教会が自ら滅びていく行為です。

あとがき

「クリスマスが近づくと、人々の心がキリストに向く」と言う人もいますが、現実はその反対です。クリスマスが近づくと、人々の心は快楽にしか向いていません。牧師やクリスチャンですら、楽しい、にぎやかなクリスマス会をどのように盛り上げようかと考えているだけです。イエス様を讃美し、礼拝し、感謝し、また世の人々にイエス様をあかしすることに心を用いている真実なクリスチャンは、わずかしかいません。ただ、クリスチャンの数が増えるだけでなく、教会の数が増えるだけでなく、真実なクリスチャンが増えることこそ、重要なことです。逆に、先のような牧師とクリスチャンが増えれば、教会の将来は暗黒であり、滅亡です。クリスマスは最も幸いな節期であるのに、私がこのように書かなければならないのは、まことに残念なことです。ぜひ、私たちは、もっともっとイエス様を積極的に前面に押し出していきましょう。そうしないと、この世が教会の中に侵入してくるのです。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Phillip Medhurst Collection of Bible illustrationsより「Balak’s sacrifices(バラクのいけにえ)」(Wikimedia Commonsより)


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