聖書の探求(117) 民数記 22章22~41節 バラムのろば、バラムをもてなすバラク

22~35節、神の怒りが燃え上がる

21節で、朝になって、バラムがモアブのつかさたちと一緒に出かけると、神は怒りを燃え上がらせました。20節で神は、「立って彼らとともに行け。」と言われたのに、なぜ、神は怒りを燃え上がらせたのでしょうか。

民 22:20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」
22:21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。

20節は、「行ってもよい。」という許可ではなかったことが分かります。32節で主の使いが「あなたの道がわたしとは反対に向かっていたからだ。」と言っておられることでも分かります。

民 22:32 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。

主が、「彼らとともに行け。」と言われた時、主のみこころは、「行ってはいけない。」ことを意味していたのです。もしあなたが、少しでも主のみこころを悟っている人なら、この意味を悟ることができるでしょう。しかし、この意味の表現が「行け」になっているのは、バラムの野心を試みるためでした。バラムが本当に忠実なキヨメられた預言者なら、「彼らとともに行け」と言われても、主のみこころを悟って、出かけなかったはずです。それを、主が許可して下さったと思って、喜んで行く人は、自分の欲に従う人です。
時々、主のみこころではないことを行おうとする人が、私の許可を求めるような相談を持ちかけてくることがあります。このようなことは、最も危険なことです。

神は22~33節でバラムに警告した後、再び、「この人たちといっしょに行け。」(35節)と言われました。バラムは34節で、「私は罪を犯しました。‥‥‥今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」と言いましたが、結局、バラムはバラクのつかさたちと一緒に行ったのです(35節)。

民 22:34 バラムは【主】の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」
22:35 【主】の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。

預言者バラムは、口で言っているほどに敬虔ではなく、信仰深くもなく、主に忠実でもなかったのです。彼はその行動において、自分の欲を優先させる人でした。大方のクリスチャンがあかしや祈りにおいて敬虔そうですが、実際の生活行動においては、自分の欲を優先させる自己中心な人ではないでしょうか。特に、牧師、伝道師、教師である人は、自分が語り、教えていることにふさわしい生活をしていなければなりません。

「ただ、キリストの福音にふさわしく生活をしなさい。」(ピリピ1:27)

これが潔められて、裏表なく、神を第一にしなければ、祝福はあり得ないのです。

この記事は、神のみこころに逆らって、自分の欲によって進む道が、いかに危険であるかを教えています。ある時は命を失い、もっと悪くすると、信仰も失ってしまいます。なぜなら、神ご自身が、その道を妨害されるからです。神に逆らった歩みは、どんなに順調に見えていても、決して成功しません。

22節、主は怒りを燃え上がらせ、主の使いがバラムに敵対して道に立ちふさがっておられます。

民 22:22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、【主】の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。

23~30節で、注目しなければならないことは、ろばに見え、ろばに分かったことが、バラムに見えず、バラムに分からなかったことです。この世の知識を沢山身につけていても、霊の目が開かれていない者には、決して見ることができないものがあるのです。

「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(コリント第二4:4)

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

31節では、「そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。」と記されています。バラムの欲がバラムの心を曇らせていたのです。

大抵の場合、自己中心の思いが霊眼におおいをかけて曇らせるのです。これは信仰や聖書の知識が多い、少ないと関係がありません。パウロも主イエスに対する偏見のうろこが目から落ちて、見えるようになった経験をしています(使徒9:18)。

使 9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、

あなたの霊眼は今、イエス・キリストをはっきりと見ていますか。

23節、ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行きました。

民 22:23 ろばは【主】の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。

もしそうしなければ、バラムはその場で殺されていたでしょう。ヨシュアもエリコの戦いを直前にして、エリコの近くにたたずんで、思い悩んでいた時、抜き身の剣を手に持った人に出会いました。ヨシュアはこのお方に、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と尋ねましたが、そのお方は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と言われ、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」(ヨシュア記5:13~15)と命じられて、ヨシュアのはきものを脱がせました。

ヨシ 5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
5:15 すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

これは全き献身と服従の要求です。この時、顕現されたお方は、受肉される前の(人となられる前の)イエス様です。「ヨシュア」とは、「メシヤ」を意味しますが、彼は自分の名前が意味する実体のお方と出会ったのです。

この抜き身の剣は緊急の事態を意味していると思われますが、今日、私たちも抜き身の剣、すなわち、御霊によって命が満ちている神のみことば(エペソ6:17)を持つ生けるキリストを内に宿すべきです。このお方に出会い、このお方に全く献身し、服従する時、勝利が得られるのです。

エペ 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

この主の顕現はバラムに献身と服従を求めるものでした。しかしバラムはそれを悟らず、自分を助けようとしたろばをムチ打ちました。欲で目がくらんだ者は、ろばにも劣り、自分に忠告を与え、警告してくれる者に逆らい、反発さえするのです。

24節、次に、主の使いは両側に石垣のある狭い道に立ちふさがっていました。

民 22:24 しかし【主】の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
22:25 ろばは【主】の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。

今度は、ろばも逃げ道がなかったので、石垣の方にすり寄りました。すると、バラムの足が石垣に押しつけられて、痛かったらしく、それでまた彼はろばを打ちました。

26節、次に、主の使いが、バラムを右にも左にもよける余地のない狭い所に立ちふさがれたので、ろばは主の使いを見て、バラムを背に乗せたまま、うずくまってしまいました。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打ちました。

民 22:26 【主】の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。
22:27 ろばは、【主】の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。

少し霊的に目の開かれた人なら、二度、三度と道がはばまれたら、主が警告しておられることに気づくはずです。ところが、これに気づこうとする人は少ない。むしろ、牧師が誤解しているとか、自分は言われたことを真面目に一所懸命にやっているのに理解してくれないと思っているのです。

こういう思いを抱くこと自体、自分は出来ていると思うこと自体が高慢であって、そのために道がふさがれていることに気づいていないのです。悲しいことに、人の目は内側に向かってついていないのです。しもべが主人のために全力を尽して、一所懸命に働いたからといって、何の誇ることがあるでしょうか。

「なすべきことを、なしたるのみ。」ではないでしょうか。自分に何が出来ているかを口にする人は、神に用いられるに価しない人です。あなたが、「私はもっとも主に忠実な人です。」と言うなら、ペテロが、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイ19:27)と言ったのと同じです。この人は信仰が分かっていないのです。こうして霊の目が開かれていない人は、何としても自分の考えを押し通そうとして滅びるのです。

28節、それでもバラムが悟らなかったので、主はろばの口を開き、悟らせました。

民 22:28 すると、【主】はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

バラムはろばを馬鹿にしていましたが、その馬鹿にしていた者から教えられなければならなかったのです。

親は子どもを軽く考えていて、子どもが親に対して取っている態度や、心に抱いている思いや言葉を気にも留めていません。しかし私が子どもたちの親に対する思いを聞いてみますと、親は悔い改めて、自らの信仰を新にしなければならないと思います。大人は外側のことで、ごまかされても、子どもはごまかされません。親は子どもの言葉や態度からもっと深く、もっと早目に内省すべきではないでしょうか。

28~30節は、ろばとバラムの会話です。

民 22:28 すると、【主】はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
22:29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」

ここで主は、バラムに悔い改めさせ、主がそのまま進むことを妨げておられることを悟らせ、自ら引き返させようとされたのです。しかし最後までバラムは、悔い改めて引き返そうとはしませんでした。むしろバラムは腹を立てて、ろばが自分を馬鹿にしたと思って、「もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ」と息巻いたのです(29節)。

このように、どこまでも自分の高慢をさらけ出して反論する信者が跡を絶たないのです。自分の真面目さや努力を主張し続けている限り、神の用に役立つ人になることはできません。全く服従することを徹底的に身につけること以外に、神の人となる道はありません。
パウロも、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、ビテニヤのほうに行こうとしましたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかったことがありました(使徒16:6,7)。

使 16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

その時、パウロは無理押しをせず、すぐに主が禁じておられることを悟り、方向を転じてトロアスに向かい、そこでマケドニヤへの道が開かれたのです。

「牧師は誤解している。」とか、「先生は分かってくれない。」とか言う人がいますが、そのような思いを持つこと自体が高慢であり、そのこと自体が自分の行き先をふさいでいるのだということに気づいていないのです。他人を批判する思いを抱く前に、自ら砕かれて、服従することを学ぶべきです。あなたが仲々、受け入れられない人であるなら、他人のことを言う前に、霊魂が砕かれて、指導者に従うことをおすゝめします。それが出来ない所にあなたの高慢があり、行き詰りがあるのです。
あなたは、「誤解されている」「分かってもらえない」と言うかもしれませんが、確かに、あなたに具体的な原因となる根拠があって、受け入れられないのです。あなたの考えの水準が、この世の水準で、そう考えていることが多いのです。

30節、ろばはバラムに、これまで彼が主人バラムにどれだけ忠実に仕えてきたかを話しました。

民 22:30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」

そして今も、その忠実さを示しているのに、バラムは悟らなかったのです。私が、「もう一年、忍耐強く教会学校に励んだら、もっといいごほうびをあげよう。」と思っているのに、その手前で信仰からはずれて行ってしまう人が多いのです。「そこで、言い訳けをせず、黙って従えば、教会のリーダーとして任命しよう」と思っているのに、言い争いをする人が多いのです。自分が見られている、自分が期待されているということに気づかず、自分が試めされていることに気づいていないのです。

マタイ19章16~24節で、主は金持ちの若い役人に、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。この時、主はこの青年の大きな可能性に期待してこう言われたのです。しかし彼はその主のみこころを悟らず、自分が持っていた多くの財産に心が奪われて、主のもとを去り、彼の可能性は失われてしまったのです。もし彼が主のご命令に全面的に従っていれば、パウロと同じほどの働きをする神の人となったのです。

これまで私の所に、主のために奉仕したいという申し出が何人も寄せられてきましたが、先ず、徹底的に従うことをする人は、ほとんどいませんでした。これでは神の働き人になることはできません。バラムは預言者でありながら、自分の欲と自己主張のために、ろばの忠実さにも劣る人間になってしまったのです。クリスチャンと言われている人、「私は忠実です。」と告白している人が、果たしてどれだけ本当に忠実なのでしょうか。

31節、主はバラムの目のおおいを除かれ、抜き身の剣を持った主の使いの姿が見えるようにされたので、バラムは先の横柄な態度をガラッと変えて、ひざまずいて、伏し拝んでいます。

民 22:31 そのとき、【主】がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は【主】の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。

主イエスの弟子のトマスも、主の姿を見るまでは、他の弟子たちの話を聞いても、主の復活を信じないと言い張りました。しかし主を見た時、「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)と叫びました。しかし、それでよかったのではありません。主イエスは「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と警告されたのです。主は、教会の牧師や教師、リーダー、あるいは子どもの言葉を通してでも語られます。不信仰な人はこれを「人の言葉だ」と言って除け、批判的に聞いています。しかし信仰のある人は、その中に神の御声を聞いているのです。

勿論、神のことばを話す人、教える人は、人の知恵で語ってはなりませんが、聞く人、教えを受ける人は、それを人の言葉として聞かず、神のことばとして聞く必要があります。あなたなら、ろばの言葉を神のことばとして聞くことができるでしょうか。私たちは、ろばのような、話す人に対する偏見を持っており、自分の考えで、正しいかどうかを判断しようとしがちですが、神が求めておられることは、だれに語らせようと、その言葉を信じて、従うことです。人はしばしば、自分で正邪を判断して進もうとして滅びるのです。

サウル王もその一人です。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(サムエル記第一15:22,23節)

イスカリオテのユダも、主の弟子であったにも関わらず、「主が自分を差別している」と思ったのか、「主が自分を誤解している」と思ったのか、仲間はずれにされたという思いを持って、主に不満と反発を抱いて、滅びてしまったのです。教会員の中には、ユダと同じように、牧師に不満と反発心を抱いて、教会を転々としている人が多いのです。これは悲しむべきことです。

32節、これまでの出来事は、主がバラムに敵対しておられることを示しています。

民 22:32 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。

なぜ、バラムに敵対されたのか。バラムは「私は主が語られたことしか話さなかった。」と言い訳けをすることもできるでしょう。事実そうです。しかし主は、バラムが神に逆らっているとされたのです。私たちは自分の正しさを主張し、自分を正当化するために多くの理由を考え出し、またそういう思いを抱いています。それこそ、高慢のしるしであり、反逆の精神なのです。潔められたら、これらの思いが取り去られてしまいます。あなたの心の中の思いは、全く潔められているでしょうか。

33節、主は言われました。もし、ろばが身をかわしていなかったなら、「わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

民 22:33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

これは注目すべきみことばです。主にとっては、主に逆らい続けている預言者バラムよりも、そんな主人に対してでも、忠実であろうとするろばのほうを高く値積られたのです。
人は、学歴とか、地位とか、財産によって、恵みを受けるのではありません。主に忠実であるかが大事なのです。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

私たちは、しばしば自分を傷つけるような忠告をしてくれる人によって、守られているのです。あなたが腹を立てている人によって、あなたは守られていることが多いのです。
「訓戒を無視する者は、自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。」(箴言15:32)

34節、バラムは、「私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。」と言いましたが、これは「知りませんでした。」では、すまされない問題です。

民 22:34 バラムは【主】の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」

地獄に行った人がみな、こう言うのです。「イエス・キリストが本当に救い主なる神であることを知らなかったのです。」
しかし、知らなかったら、赦してもらえるものではありません。自分の欲心を捨て、神のみことばから純心な心で、主のみこころを知ろうとするなら、主のみこころはだれでも悟ることができるのです。

預言者バラムがモアブの王バラクのつかさたちと一緒に行くのが、神のみこころでないことは、ずっと以前から明らかでした。それなのにバラムは、「今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」と言ったのです。しかし彼は決して引き返しませんでした。

クリスチャンは毎週、神のみことばを聞いているのに、いつも「主のみこころが分かりません。」と言っているのはどうしたことでしょうか。それは神のみこころを行うことをしないからです。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ7:17)

私たちは、聖書全体から神のみこころをよく悟って、自らの欲心を捨て、真直に主の道に進みたいものです。この世には多くの誘惑がありますが、それに従うことは、滅びです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)

36~41節 バラムを手厚くもてなすモアブの王バラク

民 22:35 【主】の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。

預言者バラムは、モアブの王バラクの招きに応じて、神の民をのろうために出かけて行きました。バラムは、「神が語られることしか語らない。」と言っていますが、彼が招かれたのは、神の民をのろうためであり、神の民をのろうことは、神をのろうことなのです。この恐ろしい招きを知りつつ、躊躇(ちゅうちょ)しつつも、自分の欲にひかれてバラムは出かけて行ったのです。

このようにバラムのことを他人事として考えている間は、バラムの愚かさがよく分かりますが、いざ自分のことになると、神のみこころでないと分かっていても、キッパリと捨てたり、離れたりしないで、未練がましく、出たり入ったりして、ついについて行ってしまうというようなことはないでしょうか。それ故、バラムの信仰は、今日の多くのクリスチャンのように建前だけの信仰であり、彼の現実の生活が伴った信仰ではなかったのです。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)

バラムは、現代人が考えているのと同じような考えを持っていたのです。すなわち、神に全面的に従う生活は非現実的であり、金銭の豊かさを求めることこそ現実の生活であると考えていたのです。あるクリスチャンを見ていると、口では「神を第一にする」と言っていても、現実には金銭を第一にする生活をしています。金銭は生活上の手段であり、神との生活こそ、その現実であることを悟っていないのです。このような人々が空しく、滅んでしまうのは当然のことです。これが今日の大方のクリスチャンの生き方です。ですから、平気で、神のみこころを知りつつ、神に逆らい、神をのろう招きにも従うのです。

36節、バラクはバラムが来たことを聞いて、自ら、モアブの国の国境のイル・モアブまで出迎えました。

民 22:36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。

これはバラクがどんなに、イスラエルをのろうことを求めていたかを示しています。
サタンはいつでもクリスチャン同志が教会の中で言い争い、ののしり合うことを期待して、ワナを仕かけるのです。だからクリスチャンはどんなことがあっても、互いにののしり合ってはなりません。それはサタンのワナにはめられることになるからです。

パウロは次のように警告しています。
「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(コリント第一6:7)

これは簡単なことではないでしょう。しかし、みすみすサタンのワナに陥るようなことをしてはならないのです。

37節、バラクはここでも、手厚いもてなしと、報酬をちらつかせています。

民 22:37 そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」

サタンの誘惑にはいつでも、過大な、きらびやかな報酬がちらついているのです。

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もし平れ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」(マタイ4:8,9)

私たちがこの誘惑を避けるためには、いつも主の栄光だけを求める生活をすることです。勿論、私たちの生活には、いろいろな物が必要になります。しかしそれらを求める生活をすると、必ず、サタンのワナに捕えられてしまいます。そこで主は、神の国とその義を第一に求めるなら、あなたの必要なものはすべて与えられると、約束してくださったのです。主は私たちの必要を知っておられただけでなく、私たちの弱さも、サタンの誘惑のワナも知った上で、このように教えてくださったのです。なんと有難いことではないでしょうか。

38節のバラムの言葉は、矛盾に満ちています。

民 22:38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。」これは、バラクの招きに応じて来たこと、バラクの希望をかなえるために来たことを告白したのです。しかし、その後半の「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」では、自分は神にしか従わないと言っているのです。バラムの、この矛盾した言葉は、すぐにバラクに見破られてしまいました。バラクはバラムの宗教的偽善をすぐに察知したのです。バラクはバラムの表面上の建前のきれい事など全く気にせず、すぐにバラムをキルヤテ・フツォテに連れて行って、そこでバラムのために大宴会を聞きました。なぜそんなことをしたのでしょうか。「バラムは必ず、イスラエルをのろう」と確信したからです。彼は、バラムの金銭を欲している下心を知っていたからです。

民 22:39 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。

40節の、「バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、」は、宴会のための牛と羊を、まず、モアブの偶像にささげた後、調理したことを意味しています。

民 22:40 バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。

バラクの魂胆は明白です。先に手厚くもてなしておいて、否応なしに「神の民をのろわせる」という考えです。私たちは、過度のもてなしや、プレゼントを受ける時には、十分注意しなければなりません。必ずと言っていいほど、その背後に下心があるからです。バラムはもてなしを受けながら、サタンの手の中に握られて、逃げられなくなっていたのです。イスカリオテのユダも、サタンの手に握られて、滅んでいきましたが、同じ状態だったのではないでしょうか。

民 22:41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。

あとがき

私たちは聖書を知的に学んで理解しようとしていないでしょうか。聖書はそのように学問の教材とするために、神が人に与えられたのでしょうか。私は、聖書を学問的に学ばなくてもいいと言っているのではありません。
しかし聖書の学問的学びは、聖書が与えられた本質的な目的ではありません。また聖書は、どんなに学問的に学んでも、理解できない領域があります。しかし、もしあなたが困難な中に置かれたり、不自由な中に置かれたらその中で神のみことばを信じ、従うことによって、あなたは本当に神のみことばが分かったという経験をするのです。今日、クリスチャンのみことばの理解が浅いのは、知的に学んで知っていても、自ら従って知るという経験をしていないからです。私が切に望んでいることは、この聖書の探求を読んで下さっている方が、ただ読むだけでなく、生活の中で神のみことばを活用してくださることです。その時、知的な理解では分からない、生ける神を知るようになります。

(まなべあきら 1993.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1889年に出版された”American art and American art collections(Montgomery, Walter編)”の挿絵「Balaam and the Angel(バラムと天使)」(Smithsonian Libraries蔵、Wikimedia Commonsより)


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