聖書の探求(119) 民数記 24章 バラムの第三の預言と第四の預言

23:27~24:13 バラムの第三の預言

27節、バラクは再び、場所を変えると言い出しました。

民 23:27 バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」

「もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」
今も、場所や方法など、外的条件を変えたら、状況が良くなるかも知れないと考えて、学校や職場を変える人がいますが、愚かなことです。自分自身が変わらない限り、本質的に何一つ変わっていないのです。私たちもしばしば、伝道の困難さを場所や国や、時代のせいにしやすいのです。確かにその理由がないわけではありませんが、それを乗り越えることができる神を信じていると言っていながら、自分自身が変わっていないのではないでしょうか。私たちにとって、問題なのは、場所や方法などの外側のことではなく、私たちの内側の動機と信仰です。主はいつも私たちの内側を見ておられることを知らなければなりません(サムエル第一16:7)。

そこで、バラクはバラムをもう一つの高い場所、ペオルの頂上に連れて行って、同じように祭壇を作って、いけにえをささげました。

民 23:28 バラクはバラムを荒地を見おろすペオルの頂上に連れて行った。
23:29 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」
23:30 バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇ごとに雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。

心の動機を変えなければ、これらの努力はすべて無意味であるばかりでなく、わざわいをもたらします。私たちは自分の利益のためなら、あらゆる努力をし、手段を選ばない生き物になる恐れがあります。それがわざわいを招くのです。

民 24:1 バラムはイスラエルを祝福することが【主】の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。

ここでのバラムの行動は、これまでのものと少し異なっています。彼はすぐに、「イスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見た」ので、これまでのように魔術的なまじないを求めに行くことをしませんでした。

よく霊の目を開いて見るなら、神のみこころが何であるか、すぐに分かります。神のみこころはみことばの中に明らかに示されています。しかしそれが分からないというのは、自分中心の肉の欲が働いていて、自分の好む思い通りのことをしたいからです。それは神のみこころが分からないのではなくて、みこころに従いたくないのです。それを「神のみこころが分からない。」と言う人がいます。

おそらく、バラムの心の中に、バラクの報酬に対する欲心があったために霊の目が閉ざされて、神のみこころに従うことを内心拒み続けていたのでしょう。しかし、主の示しに従っている間に、心がバラクの報酬から離れかけてくると、神のみこころが見え始めたのでしょう。そして彼が目を上げてイスラエルが野営していたモアブの平原を見ると、イスラエルの天幕が部族ごとに整然と並んでいるのが見えたのです。しかし残念ながら、バラムは欲心を捨て切れず、ついに滅びてしまっています。

教会では、集会の出席者が多くなっても明確な回心経験と聖潔の恵みを持っていないと、ただ雑然とした集団になるだけで、騒ぎと混乱を起こすだけです。信仰によって正しい秩序を保って整然としている時、祝福が与えられます。主は五千人の人々にパンを与える時にも、五十人、百人と組をつくって整然と並ばせております。自己中心と我侭で教会の秩序を乱しているなら、その人の上にも、教会にも主の祝福は与えられません。

2節に、神の霊がバラムの上に臨んだと記されていますが、これはバラムが神の御霊に満たされたのではなく、神の指示を受けたことを言っているだけです。

民 24:2 バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。

しかしここで、神の啓示が新な方法を採りつつあることに気づかされます。これまでは幻や具象、夢などを用いられてきましたが、次第に、神の霊によって個人的に指示が出されるようになっていることです。

3,4節で、バラムは、ここで自分を目が開かれた者として、神の啓示を受けた者として宣言し、自己紹介しています。

民 24:3 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。
24:4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

すなわち、神のご目的とみこころを知ることができた者として語っているのです。これは、これからバラムが語ることが真実であることの資格証明になっています。

彼は神のことばを聞いた者であり、全能者の幻を見た者として、彼の語るメッセージには神の権威があると主張しているのです。これは今日の説教者に神の権威が伴っていないのは、神から聞いたことを語っているのではなく、自分が考え、自分が学んだことを話しているに過ぎないからです。主イエスについて、次のように記されています。

「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:28,29)

「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」(ヨハネ3:12)

神のことばを語る者は、ただ教えられたこと、学んだことを受け売りに話すのではなく、親しく主と交わり、主のみ声を聞き、主とお会いし、その上で主の権威をもって語らなければなりません。そうしないと、会衆を恐れて真直に話せなかったり、会衆にこびへつらい、迎合した話をするようになるのです。これは説教者の堕落です。

5~9節は、イスラエルの情景を語っています。

民 24:5 なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。
24:6 それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、【主】が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。

バラムは、植林された杉の木のように整然としてイスラエルの天幕が列をなしてモアブの草原に張られている姿を見て、賛美の詩をもって語っています。天幕の列を「谷間のように」と言い、その広い連なりを「川辺の園のように」と言い、この情景は彼の生まれ故郷のユーフラテス川に沿った果樹園のように見えたのです。
「アロエ」は豊かな命にあふれた新緑を意味しますが、これは神が植えられたものです。「水辺の杉の木」は、絶えることのない命の源につながっていることを意味しています。

7節は、イスラエルの未来を示しています。

民 24:7 その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。その王はアガグよりも高くなり、その王国はあがめられる。

「その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。」は、活気と繁栄を意味します。「その王はアガグ(アマレクの王)よりも高くなり、その王国はあがめられる。」これは、イスラエルの国家の力が、敵を征服したことによって実証されました。

8,9節は、23章22~24節に似ていますが、8節の後半は特有です。

民 23:22 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。
23:23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。
23:24 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

民 24:8 彼をエジプトから連れ出した神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼はおのれの敵の国々を食い尽くし、彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。
24:9 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」

「彼はおのれの敵の国々を食い尽くし、彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。」これは、イスラエル国家の力と偉大さを示しています。9節は、イスラエルの天幕の張られた情景が、あたかも眠るライオンのようであると言っています。この眠りをあえて起こし、彼の襲撃に立ち向かうことができる者はいません。9節の後半、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」イスラエルは他の者からののろいや祝福に影響されず、むしろ、イスラエルは他の者がのろいを受けるか、祝福を受けるかの試金石になるのです。それ故、神の民は特異な存在、すなわち、地の塩、世の光となるのです。

10~13節、バラクの怒りは燃え上がりました。バラクの思惑が裏腹になってしまったので、大変怒りました。

民 24:10 そこでバラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。
24:11 今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、【主】がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」

11節、「主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」バラクは、バラムにイスラエルを祝福させたのは、主であると信じたようです。それなら、これ以上、バラムにイスラエルをのろうことも求めても意味がない。そこで彼は怒って、バラムに自分の家に帰るように命じました。

12,13節で、バラムは最初の約束を繰り返しています。

民 24:12 バラムはバラクに言った。「私はあなたがよこされた使者たちにこう言ったではありませんか。
24:13 『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、【主】のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。【主】が告げられること、それを私は告げなければなりません。』

バラムが本当にこのことを堅く信じて従っていたのなら、ここまで彼は来るべきではなかったのです。よく、信仰の話しをし、人の前であかしをしていながら、その実、実際生活は自己中心の生活をしている人が多いのです。そしてついには自ら破滅に陥ってしまうのです。バラムはここで、イスラエルをのろわなかったけれども、25章では、イスラエルがモアブの娘とみだらなことをするキッカケをつくってしまったのです。モアブの王バラクは、バラムにのろわせることに失敗すると、別の方法を考えたに違いありません。それが25章で現われてきているように思われます。

14~25節、バラムの第四の預言

ここでは、イスラエルについてだけでなく、アマレク、ケニ人、さらにその後についての預言がなされています。

14~19節は、イスラエルが後の日に、バラクの民、モアブに対して行うことの預言です。

民 24:14 今、私は私の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が後の日にあなたの民に行おうとしていることをあなたのために申し上げましょう。」
24:15 そして彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。
24:16 神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

15,16節は、バラム自身が目の開かれた者、神のことばを聞き、至高者の知識を知り、全能者の幻を見た者として、彼の預言の確実性を強調しています。バラムにもう一つ足りなかったものは、彼の性質が潔められ、人格が変貌されることでした。この点が欠けていた故に、彼は神の人として失格者となってしまいました。聖書の知識があり、賛美や楽器ができて、雄弁で、病いのいやしができても、内なる動機と罪の性質が潔められていなければ、神の人として失格者です。

「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。‥‥愛がないなら、何の値うちもありません。‥‥愛がなければ、何の役にも立ちません。」(コリント第一13:1~3)

この「愛」はこの世の人が言う愛ではなく、御霊の実の愛、十字架の愛、自己犠牲の愛、神を愛する愛のことです。

17~19節は、ヤコブから出る王についての預言です。

民 24:17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
24:18 その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。
24:19 ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から消し去る。」

このお方が「一つの星」と「一本の杖」で示されています。星も杖(笏(しゃく))も真の理想的王を示しています。主イエスの降誕の時の東の博士たちは、この星を見て、メシヤを礼拝に来たのです(マタイ2:2)。

マタ 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

この王はモアブのこめかみを打ち砕き、エドムを占領し、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕きます。このことを徹底的に行われるのはイエス・キリストです。17節でバラムは、このことが行われるのは、「今ではない。」「間近ではない。」と言っています。民族的には、バラムより二、三世紀後のダビデが、モアブとエドムを征服しました(サムエル第二、8:2、14)。

Ⅱサム 8:2 彼はモアブを打ったとき、彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。こうしてモアブはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。

Ⅱサム 8:14 彼はエドムに守備隊を、すなわち、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、エドムの全部がダビデのしもべとなった。このように【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

今はもう、モアブ人もエドム人も地上に存在していません。絶滅させられたのです。

20節は、アマレクについての預言です。

民 24:20 彼はアマレクを見渡して彼のことわざを唱えて言った。「アマレクは国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る。」

アマレクはイスラエルと最初に交戦しました(出エジプト記17:8)。

出 17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

「しかしその終わりは滅びに至る。」と言われています。アマレク人は、サウル王の時代には、ほとんど衰退しており、ダビデの時(サムエル第一30章)には、わずかのアマレク人がセイル山に逃れていました。しかしヒゼキヤの時代に、シメオンの部族の五百人の者によって、完全に滅ぼされました(歴代誌第一4:41~43)。

Ⅰ歴代 4:41 そこで、ユダの王ヒゼキヤの時代に、ここに名のしるされた人々が来て、彼らの天幕と、そこにいたメウニム人を打ち、彼らを聖絶した。今日もそのままである。彼らはこの人々に代わってそこに住みついた。そこには、彼らの群れのために牧場があったからである。
4:42 また、彼らシメオン族のうち、五百人の人々が、イシュイの子ペラテヤ、ネアルヤ、レファヤ、ウジエルを彼らのかしらとして、セイル山に行った。
4:43 そして、アマレクの残っていた者、のがれた者を打ち、そこに住んだ。今日もそのままである。

ところがエステル記には、アガグ人ハマンがアハシュエロス王の側近として、高い地位を持って登場しています。アガグはアマレク人の王で、サウルによって捕えられましたが、サウルは殺すことができず、サムエルによって殺された人物です。彼の子孫が生き残っていて、ペルシャ帝国でその権力を誇り、かつてのユダヤ人へのうらみをはらそうとしたのか、ユダヤ人全滅をたくらんだのです。これは、サタンが天から叩き落とされ、滅びの運命に定められていながら、今なお、しぶとくこの世で人を惑わし、神の民をも惑わして滅びに陥れようとして働いている姿を表わしています。そのハマンもついには自らモルデカイをかけようと作っておいた木に自分がかけられてしまいました。サタンがいくらしぶとく働いても、彼の運命はアマレク人と同じように変わることなく、滅びるのです。
それ故、私たちはサタンに惑わされることなく、主の道を真直に歩まなければなりません。

モアブ、エドム、アマレクについては、メシヤ来臨前に、すでに成就してしまっていましたが、今なお、神に敵する者は跡を絶たず、神に逆らう勢力は異教、国家権力、武力、経済力をつかって増強しています。またこの世の人々だけでなく、教会の中からも、脱落してサタンの道に落ちていく者が多い。また、堕落した社会を建設したり、神のことばを真直に語らない牧師、伝道者、教師が増えていることも事実です。しかし彼らの運命はサタンと同じであることを、私たちはしっかりと自覚しなければなりません。

21~22節は、ケニ人について、

民 24:21 彼はケニ人を見渡して彼のことわざを唱えて言った。「あなたの住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。
24:22 しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアシュルがあなたをとりこにする。」

「あなたの住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。」(21節)
ケニ人は、その先祖の戒めに忠実であったために、しばしばイスラエルの鏡として主に取り上げられています。またそのことの故に、彼らは祝福を受けています。ケニ人はアッシリヤの捕囚(BC723年)の頃まで、イスラエルの間に存続していました。しかしアシュル、すなわち、アッシリヤ帝国の来襲によって、捕虜にされてしまいました。

23節、バラムは、かなり先の捕囚のことまで見て、「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。」と言って、恐れています。

民 24:23 彼はまた彼のことわざを唱えて言った。「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。

人はどんなに神に反抗的に生きても、神のさばきから逃れることはできません。私たちにできることは、生きるも、死ぬも、ただ主に忠実に従うことだけです。

24節、バラムはさらに先の未来も見通しています。

民 24:24 船がキティムの岸から来て、アシュルを悩まし、エベルを悩ます。しかし、これもまた滅びに至る。」
24:25 それからバラムは立って自分のところへ帰って行った。バラクもまた帰途についた。

キティムの岸から来た船によって、アシュルもエベルも悩まされています。「キティム」は狭い意味では、キプロスをさしますが、ここでは西方全域を示す総称です。キティムの船はギリシャのアレキサンダー大王の軍隊の到来を預言しているものと思われます。彼は東方のアシュル(ペルシャ地方)も、エベル(ヘブル)も攻め悩ますことを預言しています。バラムの幻は、政治的、軍事的なことに限られています。しかし彼は西方の新しいギリシャの勢力によって、東方の強大なペルシャ帝国がBC300年頃に、完全に滅ぼされることを預言しています。

バラムの預言はここで終わっていますが、神はイスラエルがエジプトを出て、間もなく約束の地に入ろうとしている時点で、すでにギリシャ帝国の出現についてまで啓示しておられるのです。勿論、バラムもバラクも、そして当時のいかなる人も、これらを十分に理解できなかったでしょう。しかし旧約聖書の初期においてすら、神はかなり先のことまで預言しておられることが分かります。今日、私たちは完全な神の啓示を持っているのですから、聖書を深く探求することによって、末の世の状況をかなり詳しく知ることができます。

この啓示に示されている一つの原則は、神に対して騒ぎ立てる民は、どんな強大な勢力を持っていても、ついには滅びることであり、神に忠実に従う民は、どんなに小さくても祝福を受け続けるということです。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)

あとがき

新しい年に入り、読者の皆様は信仰を新にされて、一年を始められたことと思います。信仰は少しのずれでも生じると、霊魂に傷を受け、体の傷と違って、なかなかいやされず、時には信仰を失って滅びの生活に陥ってしまう危険があります。どうぞ、この一年、真理の道からはずれず、さまよわず、真直と歩んでいただきたいと願わずにはいられません。
特に、日本のクリスチャンは聖書を知らず、みことばに従う信仰が身についていないので、さまよい出しやすいのです。私たちには、いのちへの道か、滅びへの道しかありません。日本には、一度、信仰を持ちながら、みことばに生きることを身につけなかったために、再び、堕落した生活に陥っている人々が沢山います。
実を結ぶのは、みことばによる信仰だけであることを、主は種まきのたとえでも語っておられます。今年、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」(ルカ8:15)と言われる人にならせていただきましょう。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、P. de Hondt in The Hagueにより、1728年に出版された”Figures de la Bible”の挿絵「Balaam blessing the Israelites(イスラエル人を祝福するバラム)」(オランダの画家Gerard Hoet (1648-1733)作、Bizzell Bible Collection, University of Oklahoma Libraries蔵、Wikimedia Commonsより)


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