週報No.2314 詩篇(17) 7篇「無罪の主張」 7:1~5

2021年11月21日(日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

詩篇 7:1~5
< 7 > ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に歌ったシガヨンの歌
7:1 私の神、【主】よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。
7:2 救い出す者がいない間に彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。
7:3 私の神、【主】よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。 セラ
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージ>(一部分)

1~2節、保護を求める祈り

先にもお話しましたが、表題に出て来る「ベニヤミン人クシュ」という人物は、ダビデの命を狙っていた危険な人物でした。

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか追い迫るすべての者から、私を救ってください。私を救い出してください。救い出す者がいない間に、彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。」(詩篇7:1~2)

クシュはダビデの逃亡の隙を見て、猛獣の獅子が襲い掛かって引き裂くように、ダビデのたましいを引き裂こうとしていたのです。ダビデは非常に危険な状態になっていました。クシュたちの手に陥り、殺されそうになり、ダビデはおびえていたのです。

そのような滅亡寸前のダビデを助けてくれる人は、だれもいないかに思われました。しかし人は見捨てても、天を仰ぐと、絶対に見捨てることのない、助けてくださるお方がおられます。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1~2)

「私はあなたのもとに身を避けました。」(1:1)「身を避ける」ことは、主に全面的に信頼することです。これは、私が救われるために不可欠の条件です。「私の神、主よ。」は、私の救い主、助け主。救いの原動力、永遠のいのちの源であるお方です。「私を救ってください。私を救い出してください。」これは、祈りの結果です。

私が救いの条件を果たす時、救いの原動力であられる主が働いてくださり、救いのみわざが実現します。

これは個人経験ですから、私の救いに確信が持てなければ、救いの条件が確実に果たされていないからです。救いの条件さえ確かであれば、神は真実で正しいお方ですから、必ずお救いくださいます。

第一ヨハネ1:9
「自分の罪を言い表わすなら」は、牧師や会衆の前で、さらけ出して、告白することではありません。ギリシャ語原語の「言い表わすなら」は、ホモロゲオーで「同じことを言う」という意味です。即ち、神があなたに示し語られる罪の状態を、「アーメン、そのとおりです。」と、告白することです。人の前でどんなに深刻な告白をしても、人には、牧師にも罪を赦す権威はありません。

「追い迫るすべての者から」すべての敵、すべてのわざわいは、静かに静止しているものではありません。追いかけて、迫って来る者です。しかし主は、全てに間に合って、救ってくださいます。

3~5節、無罪の主張

ダビデはヨブと同じように、自分に罪がないことに強い確信を持っていました(ヨブ記31章)。

ダビデの命を狙う者たちは、ダビデを恥知らずとののしりました。神の油注がれたサウル王に、反逆を企てる者として責め立てました。信仰のない者から見ると、ダビデの度重なる勝利は、サウル王に対する反逆の企てに見えたのです。権力の座にある者は、後から来る者のすぐれた成果は、自分の権力の座が狙われる脅威に感じるのです。特に妬みや嫉妬心の強いサウル王のような人には、ダビデの存在は大きな脅威に感じたのです(Ⅰサムエル記18章)。

4節後半の「私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、」は、Ⅰサムエル記24:1~12の、エン・ゲディの洞穴に隠れていた時、サウルの衣の裾を切り取って、神に油注がれた王に刃を向けたことに、心を痛めたことを思い出させます。ダビデはそれほど、鋭敏な心の持ち主に成長していたのです。

3~4節の、四つの「もし」は、仮定の「もし」です。

1、3節「もし私がこのことをしたのなら」敵対者が責めているように、サウル王に反逆する意図を持っていたのなら、と言う意味です。これは、ダビデの動機の潔白を告白しています。

2、3節後半「もし私の手に不正があるのなら」これは、ダビデの不正行為の潔白の証言です。

3、4節「もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら」「親しい友」とは、かつて共に働いていたサウルの家来たちのことであると思われます。彼らがダビデを殺害しようとしても、仕返しをしなかった、と言っています。

4、4節後半には「もし」はありませんが、隠されています。「また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら」ダビデの集団の働きには、イスラエル人の家畜や財産を守る警備であっても、略奪することではありませんでした。このことも、ダビデの従者たちの行動によって、明らかです。

5節、ダビデは、自分に罪があるなら、刑罰を受ける覚悟をしていたのです。その上で、神の前にありのままになったのです。

ダビデは、敵対する者に反抗することを避けて、あわれみ深い神に、祈り求めて、苦難の日々を過ごしたのです。

<今週の活用聖句>

へブル人への手紙4章16節
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

<集会案内>

◇11月24日(水)聖別会(67)午前10時半
新約聖書における聖化(1)「語彙から見る聖化の意義」

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横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421

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牧師 真部 明