聖書の探求(124b) 民数記32章 ヨルダン川の東に定住した、ルベン族、ガド族、マナセの半部族

この章は、神の約束の地の外に定住した、ルベン族、ガド族、マナセの半部族について記しています。神の民なのに、なぜ、神の約束の地の外に住むことを欲したのでしょうか。それは神の霊的恵みより、家畜を飼ったりする、この世の生活を優先することを求めたからです。今日、クリスチャンにもこの傾向が強いのは明らかです。ここにも異教化、世俗化が見られます。

1~15節、ルベン族とガド族の二部族の要求

民 32:1 ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、
32:2 ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。
32:3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。
32:4 これら【主】がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」
32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」
32:6 モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。
32:7 どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、【主】が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。
32:8 私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。
32:9 彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、【主】が彼らに与えられた地に入って行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。
32:10 その日、【主】の怒りが燃え上がり、誓って言われた。
32:11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。
32:12 ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは【主】に従い通したからである。』
32:13 【主】の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで【主】の目の前に悪を行ったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。
32:14 そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する【主】の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。
32:15 あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

イスラエルはエジプトを脱出して約四〇年が過ぎようとしており、神の約束の地力ナンを目前にしていました。その時、ルベンとガド族、そして後にマナセ族の半分がヨルダンを渡ってカナンの地に入らないで、ヨルダンの東のヤゼルの地とギルアデの地に定住すると言い出したのです。これは理由がどうであれ、神のご目的とご計画と異なっていることは明らかです。彼らは神のご計画を途中で不履行にし、肉的自己満足の地に腰を下してしまおうとしているのです。

これと同じことが今日の多くのクリスチャンのうちに見られます。救いの恵みにあずかっていても、聖潔の恵みにまで行かないで、途中で腰を下しているのです。神の全き安息に入らず、この世的自己満足の生活の中に満足を得ようとしているのです。この状態は主のみこころではありません。イスラエルの場合、二部族半以外はみな、カナンの地に入りましたけれども、今日、クリスチャンの大半は神の全き安息のカナンの経験に入らず、ヨルダンの東の地、すなわち、この世に最も近い地で生活して、潔められないままの生活を送っています。これは神のみこころではありません。

このルベン族とガド族の要求は、一見、罪がなく、合理的であるように思われます。大勢の家族や家畜を危険なヨルダン川を渡らせなくてすむし、広い土地はあるし、家畜のための牧草は豊かだし、何ら問題がないように思われます。実は、私たちには、何ら問題がないように見えてもやってはいけないことが沢山あります。他の人がしていても、自分はしてはいけないことがあります。こういうことに気づかないで、遊びの旅行に加わったり、買い物をしたりすることが習慣になって、この世的に世俗化しているクリスチャンは非常に多いのです。

ここには、非常に危険な要素が含まれています。
第一に、彼らの要求は、もっぱら物質的な理由から出ており、神の約束や信仰が計算に入れられていません。

彼らの要求の理由は、彼らが多くの家畜を持っており、ヨルダンのこちらに牧草が多くあって、牧畜に適しているという計算からだけでした。この考え方はアブラハムの甥のロトの考え方と同じです。物質的な財産や繁栄を求めることの故に、神のみこころと神のご要求をないがしろにしてしまうことは、滅亡の危険があります。もし、ルベン族やガド族が多くの家畜を持っていなかったら、ヨルダンを渡ったかもしれない。主イエスのもとに来た金持ちの青年に財産がなかったら、永遠のいのちを求めて主イエスの弟子になっていたでしょう。今日、私たちは自分の物質的幸せと安定を握って離そうとしないので、キリストの弟子になることができないのです。

彼らは好条件の地でよく働き、家畜を増やすことによって、子孫の繁栄を考えたかもしれません。しかし神と霊魂と信仰を後回しにして、物質的繁栄を優先させることは滅びの道につながっています。事実、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが攻めて来た時、最初に捕囚にされたのは、ルベンとガドとマナセの半部族でした(歴代第一5:26)。

第二に、それはモーセが非常に心配したことの一つですが、イスラエルが危険なヨルダンを渡ってカナンに入って行こうとする意気をくじくことでした。

彼らはカナン入国後、カナンを征服することが命じられていました。この二部族半は明らかに、この使命と責任を無視していました。

今日、教会とクリスチャンは、主をあかしし、福音を伝え、救いに導き、訓練してキリストの弟子をつくり、神の国を建設していくという使命と責任を忘れて、各々の生活を楽しむことにふけっていないでしょうか。今日クリスチャンは、福音宣教の使命を牧師一人に任せて、傍観者になって、その責任を果たすことをせず、教会の意気をくじいてしまっていないでしょうか。

モーセはカデシュで、不信仰な偵察員の発言によって、民全体が不信仰に陥った苦い経験をしていたので、厳しく叱っているのです。あとで、彼らはカナン征服への戦いに加わっているけれども、子どもと妻と家畜はヨルダンの東に残しています。彼らは後髪を引かれる戦いをしているのです。いつも引き返すことを考えながら戦ったのです。これだけでも十分にイスラエルの意気をくじくのに十分であったと思われます。

私たちが主に従うのに、後戻りを考えながら従うようであってはなりません。後戻りができないように、後の橋を焼き払って、主に従うのでなければなりません。キリストの教会では、一人の傍観者も出してはいけません。子どもから老人までみんな、一人残らず福音宣教の前戦に立ち、キリストの弟子となり、戦士となり、あかし人となるように育てていかなければなりません。私も、これまで何度も教会の意気をくじかれそうになる経験をさせられてきました。それを乗り越えて進むには何倍もの霊的力を必要とするのです。

第三に、彼らは神が備えて下さった神の相続地を相続しないことになります。

ヨルダンの東はカナンの地の近くにあります。しかし近くても、神の約束の地力ナンの外であることには違いありません。これは多くのクリスチャンの姿でもあります。私たちは聖なる者となることを求め、主の如くならまほしと思いつつ、この世的生き方から抜け出そうとしないで、相変らず肉的欲に従っていないでしょうか。聖潔の恵みの手前まで来て、ヨルダンを渡らず、足踏みし、躊躇していないでしょうか。物質的利益や私欲のために、カナンの地に人らないで、ヨルダンの東にとどまっていることが多いのです。12節に、カレブとヨシュアは、「主に従い通した」とあります。

民 32:12 ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは【主】に従い通したからである。』

これは人数が少ないから、例外だと思ってはいけません。この二人がクリスチャンの標準なのです。主を中途半端に愛し、中途半端に従うのではない。自分の全存在をもって主を愛し尽くし、全面的に、しかも全生涯を通して、余すところなく従い通すのです。神は生きておられます。神はあなたの信仰のすべてを知っておられます。そのお方があなたに何もしないではおかれないのです。あなたが心配したり、恐れたりしていることのすべては、主が解決して下さるのです。あれこれ考えず、ただ主を愛する愛に満たされ主に従い通すことだけが、あなたを幸せの絶頂に連れて行ってくれるのです。

17節で、彼らは、武装してイスラエルの先頭に立って戦いますと言っていますが、彼らの腹の中は主に従うことを第一にしていません。

民 32:16 彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。
32:17 しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。

むしろヨルダンの東に住むことから考えは離れていません。その証拠は、子どもや妻や家畜をヨルダンの東に残していることです。私は、いかに真面目に真剣に主を第一にした生活をしますという告白を沢山聞いてきました。しかしそのほとんどの人は、実際生活においてはこの世的だったのです。

19節では、彼らは自分で既にヨルダンの東に住むことに決めてしまっている言い方をしています。

民 32:19 私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

これは明らかに不信仰であり、主に対する反逆です。彼らが最も重要に思っていることは、カナンで戦うことではなく、ヨルダンの東に住んで、家族のために町を建て、羊のために囲い場をつくることだったのです。あなたは自分の生涯を何に使うのでしょうか。

20~24節、モーセは、ルベン族とガド族とマナセの半部族の要求を許可したようであるが、これは決して喜んで許可したのではありません。

民 32:20 モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし【主】の前に戦いのため武装をし、
32:21 あなたがたのうちの武装した者がみな、【主】の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、
32:22 その地が【主】の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは【主】に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は【主】の前であなたがたの所有地となる。
32:23 しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは【主】に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。
32:24 あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」

彼らの不信仰のために諦めてのことです。よく、こういう許可を喜んでいる人がいますが、その人は信仰が全く分かっていない人です。霊のことは霊によって弁(わきま)えるものですから、この世的な肉的な性質をもっている人は、霊のことを弁(わきま)えることができません。信仰の話をも肉的水準でしか受け留められないのです。これは解説や説明でも、分からせることはできません。本人が御霊の内住経験をして、新しい人に変えられるまで、霊のことばを弁(わきま)えることはできないのです。

「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(コリント第一2:12~15)

私たちは、罪になるか、ならないか、不信仰になるか、ならないかというような低空飛行する信仰生活を営んではなりません。いつでも恵みの高嶺を目指した信仰生活を全うさせていただきたいものです。

28~32節、そこで、モーセはせめても、残りの十部族半がきちんとカナンを征服して、そこに定住するために二部族半が戦いに加わる約束を果たさせるように、祭司エルアザルとヨシュアと、各民族のかしらたちに命じています。

民 32:25 ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。
32:26 私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。
32:27 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、【主】の前に戦います。」
32:28 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の一族のかしらたちに命令を下した。
32:29 モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、【主】の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。
32:30 もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」
32:31 ガド族とルベン族は答えて言った。「【主】があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。
32:32 私たちは武装して【主】の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

こうして少しずつ神の民が崩れていって、世俗化しているのを見るのです。

33~42節は、二部族半が定住した地を記しています。

民 32:33 そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。
32:34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、
32:35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、
32:36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。
32:37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、
32:38 ネボ、バアル・メオン──ある名は改められる──またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。
32:39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。
32:40 それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。
32:41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。
32:42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。

ここには彼らがいかに自分たちの町々を建て直すのに熱心であったかを記しています。彼は地上の朽ちていく財産を築くためには一所懸命、熱心でしたが、神に従うことには熱心でなく、途中で放棄した人々でした。このようにクリスチャンの中にも、物質的繁栄や私利私欲を求めて、自分の信仰を全うせず、途中から信仰を捨てる者や、この世との妥協の道にはずれていく者が多いことは、主を悲しませる、最も残念なことです。

エジプトを出発したなら、すなわち、回心したなら、必ずカナンの地に入り、すなわち、聖潔の恵みに与かり、天の御国に入らせていただかなければなりません。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6:27)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

しかしこういうみことばを読んでいても、本当に自分と自分の全生涯を主にささげて、主に仕える人は、一万人のクリスチャンのうち一人いるかいないかが現実です。ほとんどのクリスチャンがこの世の仕事をするためにその生涯を使い果しているのです。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の図は、ヨシュア記による「The twelve tribes of Israel(イスラエルの12部族)」の地図、ヘブライ語版を英語訳したもの(Wikimedia Commonsより)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421