聖書の探求(125) 民数記33章 エジプトを出たイスラエル人の旅路、カナン相続の条件と危険

「出エジプトの経路」(出典:新改訳聖書第3版、日本聖書刊行会)


この章は、前半の49節までには、エジプトの地を出たイスラエル人の旅路が再述されており、後半の50~56節は、カナンの地に入って約束の地を相続するときの条件と危険を記しています。

1~49節は、エジプト脱出からモアブの草原(カナン入国の一歩手前)までの旅路を再述しており、宿泊した場所の名前が記されています。

この宿泊地の名前は、イスラエルがそこに宿営した時につけられた地名であり、今日、これらの地の多くは確認することが困難です。しかし、これらの旅路がここに記されているのは、旅の道筋を記録しておくためというよりも、各地で起こした事件を思い起こさせて、そこで主がどのように取り扱われたかを、もう一度、思い起こさせて、信仰的教訓を与えるためでした。これらの記録は決して後々の考古学者の助けになるために記されたのではなく、民の信仰的教訓のためですから、私たちもその書かれた目的に従って学ぶ必要があります。しかし詳しいことは既にお話してきましたので、ここでは付加的なことだけにとどめておきます。

それにしても、私たちも、主の恵みのみわざ、懲らしめなどを受けた時のことを記録にとどめて、後々の信仰の訓練のために役立てたいものです。

1節、エジプト出発時のイスラエルの民の姿は、秩序なき群衆ではなく、モーセとアロンというすぐれた指導者に率られた軍団でした。

民33:1 モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。

しかし、カデシュ・バルネアの不信仰と不服従から、彼らはその秩序を失い、ただ放浪する群衆になってしまったのです。

今日、教会もこの危険があります。教会は主にあって信仰により秩序正しい軍団となっている時、力強い前進ができ、あかしの実を結び、救われる人も起こされてくるのです。しかし私がずっと聞き続けている相談の大半は、秩序なき争いが教会の中で行われていることです。教会の中で騒ぎを起こす者、争ったり、不信仰になって教会から離れていく者、あるいは教会全体が世俗化しているものも少なくありません。これらはみな霊的秩序を失った群衆でしかないのです。いつも呟き、不平を言い、争っているのです。クリスチャンひとり一人を力強い神の軍団として結び合わせるものは、救いと聖潔の信仰が明確になることだけです。今日、あまりにも信仰の入口である救いの経験が明確になっていない人が多すぎます。これでは教会が、力強い主の軍団になれないのも当然のことです。

2節、しかしこの旅は、主のご命令によって行われたものです。

民 33:2 モーセは【主】の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。

信仰者の信仰生活は一見、自分の意志で営んでいるかのようですが、その根本においては、神のご命令によって営まれているのであることを覚えなければなりません。このことを忘れる時、自分勝手になり、神の道からはずれていってしまうのです。教会の中で信仰の理屈を振りまわしている人が、主の日をこの世のことに使っていることを多く見かけます。私たちの内なる最奥部の霊に主の御霊が満たされない限り、霊的に生きることはできません。肉の欲の原理が働いているからです。

3節、その出発点はラメセスからであり、日付は第一月の十五日です。

民 33:3 彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。

これは過越の翌日からです。すなわち十字架の救いに与かった日から、神の道を歩む信仰生活が始まるのです。そして彼らは、信仰による秩序が堅固であった時には、迫害していた全エジプトが見ている所で、恐れることなく、臆することなく、力強く、堂々とエジプトを出て行ったのです。

イスラエルが敗北した原因をよく見ると、外敵が強いからというだけで敗北したことは、一度もありません。彼らが敗北した時はいつでも、彼らが不信仰になり、この世的考えと欲に陥っていた時です。

このことを私たちは十分に悟っておかなければなりません。なぜなら、私たちもやゝもすると不信仰になり、この世的考えに陥るからです。

4節、過越において、エジプトではその初子が主によって打ち殺されました。

民 33:4 エジプトは、彼らの間で【主】が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。【主】は彼らの神々にさばきを下された。

これは主がエジプトの偶像をさばかれたことを示しています。人間の権力はすべて、偶像と結びついています。
今日、特に、お金や地位という偶像と結びついています。神はこれと戦われるのです。

5~15節は、ラメセスからシナイまでの旅路(十一の宿営地)を記しています。

民 33:5 イスラエル人はラメセスから旅立ってスコテに宿営し、
33:6 スコテから旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。
33:7 エタムから旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテのほうに向きを変え、ミグドルの前で宿営した。
33:8 ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。
33:9 彼らはマラから旅立ってエリムに行った。エリムには十二の泉と、七十本のなつめやしの木があり、そこに宿営した。
33:10 ついでエリムから旅立って葦の海のほとりに宿営し、
33:11 葦の海から旅立ってシンの荒野に宿営した。
33:12 シンの荒野から旅立ってドフカに宿営し、
33:13 ドフカから旅立ってアルシュに宿営し、
33:14 アルシュから旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
33:15 ついで彼らはレフィディムから旅立ってシナイの荒野に宿営し、

13節のドフカとアルシュについては、出エジプト記は記していません。省略しています。
この旅路の記録の特徴は、「旅立って‥‥宿営した。」という文章が繰り返されていることです。彼らはただ、ダラダラと旅を続けたのではありません。主は、ある期間、旅をさせると、宿泊させて、そこで教えられたり、休養を与えたり、試練を与えて訓練されたりしたのです。これはちょうど、私たちの信仰生活をそのまま描いています。私たちの信仰はある程度進むと、またとどまって、竹の節の部分を形成します。そこで教えられたり、試練に会ったり、力を貯えたりします。その後、再び成長するのです。これはまた教会にとっても言えることです。信仰の成長は、一直線の登り坂ではなく、階段式です。成長、停滞、成長、停滞を繰り返していくのです。これは個人においても、教会においても、現実的に同じです。それは成長には、不純物を取り除かなければならないことと、力を貯える必要があるからです。14節のレフィディムで、民の飲む水がなかったことは、その一つの実例です。

16~36節は、シナイからカデシュまで(21の宿営地)の38年間が記されています。

民 33:16 シナイの荒野から旅立ってキブロテ・ハタアワに宿営した。
33:17 キブロテ・ハタアワから旅立ってハツェロテに宿営し、
33:18 ハツェロテから旅立ってリテマに宿営した。
33:19 リテマから旅立ってリモン・ペレツに宿営し、
33:20 リモン・ペレツから旅立ってリブナに宿営した。
33:21 リブナから旅立ってリサに宿営し、
33:22 リサから旅立ってケヘラタに宿営し、
33:23 ケヘラタから旅立ってシェフェル山に宿営した。
33:24 シェフェル山から旅立ってハラダに宿営し、
33:25 ハラダから旅立ってマクヘロテに宿営した。
33:26 マクヘロテから旅立ってタハテに宿営し、
33:27 タハテから旅立ってテラに宿営し、
33:28 テラから旅立ってミテカに宿営した。
33:29 ミテカから旅立ってハシュモナに宿営し、
33:30 ハシュモナから旅立ってモセロテに宿営した。
33:31 モセロテから旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し、
33:32 ベネ・ヤアカンから旅立ってホル・ハギデガデに宿営した。
33:33 ホル・ハギデガデから旅立ってヨテバタに宿営し、
33:34 ヨテバタから旅立ってアブロナに宿営し、
33:35 アブロナから旅立ってエツヨン・ゲベルに宿営した。
33:36 エツヨン・ゲベルから旅立ってツィンの荒野、すなわちカデシュに宿営し、

この期間は、民が不信仰になり、目的のない放浪生活をして大半の民が滅んでいった期間です。あなたは本当に、天の故郷を目指して、この地上生活を旅人、寄留者として歩んでいるでしょうか(ヘブル11:13~16)。

ヘブル 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

それとも、この地上の富や財産や地位を求めて、永遠の目的を見失った生活を営んでいないでしょうか。もう一度、自分の信仰の実質を点検したいものです。

37~49節、カデシュからモアブの草原までの放浪です。

民 33:37 カデシュから旅立ってエドムの国の端にあるホル山に宿営した。
33:38 祭司アロンは【主】の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
33:39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。
33:40 カナンの地のネゲブに住んでいたカナン人、アラデの王は、イスラエル人がやって来るのを聞いた。
33:41 さて彼らはホル山から旅立ってツァルモナに宿営し、
33:42 ツァルモナから旅立ってプノンに宿営し、
33:43 プノンから旅立ってオボテに宿営し、
33:44 オボテから旅立ってモアブの領土のイエ・ハアバリムに宿営した。
33:45 イイムから旅立ってディボン・ガドに宿営し、
33:46 ディボン・ガドから旅立ってアルモン・ディブラタイムに宿営した。
33:47 アルモン・ディブラタイムから旅立ってネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、
33:48 アバリムの山々から旅立ってエリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原に宿営した。
33:49 ヨルダンのほとり、ベテ・ハエシモテからアベル・ハシティムに至るまでのモアブの草原に彼らは宿営した。

この部分は民数記20章22~29節を繰り返していると思われます。

民 20:22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。
20:23 【主】は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
20:24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。
20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
20:26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
20:27 モーセは、【主】が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。
20:28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、
20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。

また指導者の一人、祭司アロンの死が記されています。アロンは主のご命令によって、ホル山で四十年目の第五の月の一日に、百二十三才で死んでいます。すべての人は主のご命令によって生まれ、主のご命令によって死ぬのです。問題は生きている間、主のご命令に従って生きたかどうかです。それによって、永遠が決定されるのです。

ここでは、指導者の交代が徐々に行われ、新時代の到来に備えています。

またこの部分では、民数記21章4~9節の青銅の蛇の事件が記されていません。それはおそらく、比較的に最近の出来事だったので、ここでは省略されているのでしょう。

民 21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

50~56節は、モアブの草原での重大なご命令です。

民 33:50 エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、【主】はモーセに告げて仰せられた。
33:51 「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るときには、
33:52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。
33:53 あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。
33:54 あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。
33:55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。
33:56 そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

これは、これから問題となってくる、ヨルダンを渡って、カナンの地に入ってからなすべきことです。

第一に、カナンの地の住民をことごとく追い払うことです。そしてあらゆる偶像を完全に粉砕することです。

4節において、主はエジプトの偶像と戦われたのです。

民 33:4 エジプトは、彼らの間で【主】が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。【主】は彼らの神々にさばきを下された。

これはいずこにおいても同じ原則です。これは今日、教会にとっても重要な課題です。先ず、すべての教会員が救いの信仰を明確にし、聖潔の恵みを受けることです。このことなしには、今も勝利はあり得ないのです。今日、これを強調し続けなければなりません。イスラエルはこの点が明確でなく、徹底して経験していなかったのです。ただ、教えられた戒めをしばらくの間、守ろうとしただけで、それが時が過ぎていくと忘れられてしまい、再びこの世と首木をともにし、堕落して偶像礼拝へと落ちていったのです。

第二に、55節、もしカナンの住民を追い払わなければ、残しておいたカナン人が、神の民を偶像へと惑わし、イスラエル自身が神から懲しめとさばきを受けるようになることの警告です。

民 33:55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。

事実、わずかに残しておいた異教の民にイスラエルが真似るようになり、あっという間に、偶像礼拝を行うようになったのです。そして主は、神の民をも異教の民を滅ぼすのと同じように刑罰を加えられたのです。

今日、ほとんどのクリスチャンが、このことを真剣に受けとめていません。だから、みな、クリスチャンを自称していながら、この世の人と同じ生活をしたがっている、否、しているのです。このような人はみな、主の刑罰を受けることになります。

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」(コリント第二6:14~18)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

今日、教会の中で問題や争いを起こし、キリストの教会を悩ませているのは、救いと聖潔のはっきりしていない人々の発言や行動によってです。これは霊の問題ですから、学んで訓練したら、そうなるというわけにはいきません。教会は人数や献金が増えることばかりを求めず、真に霊魂が救いの経験をし、御霊の満たしをいただく者たちで満ちるように、真剣に求めなければなりません。そういう民に神は相続地を与えられるのです(53,54節)

民 33:53 あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。
33:54 あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。

(まなべあきら 1994.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の地図は、「約束の地を目さず旅」、バイブルガイド(目で見て分かる聖書)(いのちのことば社刊)から引用しました。


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