聖書の探求(137) 申命記4章 32~45節 神の民であることの特権、第二の説教の序
32~40節、神の民であることの特権
32~34節、モーセは、神の民に過ぎ去った時代、すなわち、歴史を回顧させて、自分たちにこれまで与えられてきた特権、そしてこれからも与えられる特権を深く自覚させようとしています。
ここに現代の私たちが旧約聖書を学び、また二千年の教会の歴史を学ぶ意味があります。
32節では、神の選民イスラエルに与えられた特権は、世界で他に類を見ない特権であると言われています。
申 4:32 さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。
旧約の民に与えられた特権がそれほどであるなら、まして、新約のクリスチャンに与えられている特権はいかに大きいかを思わなければなりません。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」(ローマ2:22)
第一に、神の民に与えられている特権は、神の声(33節)、神の啓示、神のみことばが与えられていることです。
申 4:33 あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。
この神のみことばを信じて従うことが、祝福の条件なのです(40節)。
申 4:40 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、【主】が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。
神のみことばは、神の民が生きる基準です。しかし彼らは神のみことばに聞き従わなかったのです。
「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)
第二は、奴隷にされていたエジプトからの解放です。
申命記中にエジプトへの言及は、四七回にものぼっています。このことは申命記がモーセの作であることを強く証明しています。モーセはエジプトの奴隷状態と苦悩からの解放をすべて、主に栄光を帰しています。
申 4:34 あるいは、あなたがたの神、【主】が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。
「試み」は、多くの試練のことであり、それはパロによってもたらされましたが、それは背後にあって、主がイスラエルを試みられたものでした。
クリスチャンは様々な苦難を通過しつつ、主の試みを受けて、信仰に成長していきます。その試みの中で信仰を投げ捨てると敗北します。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(テモテ第二3:12)
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10:13)
申 4:34 あるいは、あなたがたの神、【主】が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。
「しるしと不思議」は、重要な超自然的な行為です。これらはみな、神のみわざであるという証拠です。霊魂の救いはそのうちでも、特別なものです。
「戦い」は、神の戦いであり、エジプト軍は紅海で滅んでしまいました。
「力強い御手と、伸べられた腕」の組み合わせは、申命記特有のもの(5:15、7:19、11:2、26:8)であり、神の全能を表しています。
申 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。
申 7:19 あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、【主】は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、【主】が同じようにされる。
申 11:2 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、【主】の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。
申 26:8 そこで、【主】は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
「恐ろしい力」とは、神の恐るべきみわざを行われる力です。
神は何のためにこれらのことをされたのかというなら、取るに足りない一つの小さな国民を他の国々の中から選んで、神の民とするためです。なぜ、神は価値のない小さいイスラエルの民のために、こんなに大いなることをされたのか。それは、この小さい国を用いて、主の栄光を現わすためです。それ故、自分が小さければ小さいほど、主に忠実に従えば、主の栄光を現わすことができるのです。
「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第二12:9,10)
新約聖書の使徒の働きにおける主の働きにも、モーセの時代に見られたのと同じ三つの要素が見られます。「しるし(ギリシャ語のセーメイオン、ヨハネ2:11)」と「不思議(テラス、使徒2:22)」と「力(デュナミス、使徒1:8)」です。
ヨハ 2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
使 2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
使 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
これによっても、同じ主が今も働いてくださっていることが、よく分かります。
35~38節は、この特権が与えられた目的を示しています。
第一は(35、39節)、主だけが真の神であって、ほかに神はないことを、神の民がはっきりと知ること。
申 4:35 あなたにこのことが示されたのは、【主】だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。
申 4:39 きょう、あなたは、上は天、下は地において、【主】だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。
私たちが畏れ、仕え、従うべきお方は、主だけです。
第二は(36節)、神の民を訓練するため。
申 4:36 主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。
それはみことばを守り、従うことによって行われます。パウロは、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒(いまし)めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテ第二3:16,17)と言っています。神のみことばを信じて実行すること以上に、神の人を訓練するのに良い方法はありません。主イエスも、弟子をつくるのに、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:20)と命じられました。
第三は(38節)、神の約束の地を相続地として定住させるためです。
申 4:38 それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。
神がイスラエルの民に、このようにされる理由は何でしょうか。それは、神の愛と恵みによる選びでした(37節)。
申 4:37 主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。
しかしそれは「先祖たちを愛して」とあるように、族長たち、特に、アブラハムの信仰と服従に対して与えられたのであることを忘れてはなりません。このことの故に、神は、イスラエルにご自身の愛と、主ご自身の直接的な大いなる力と、臨在による救出を与えられたのです。
この「愛」は、ヘブル語の「アハブ(ahabh)」ですが、これは新約の「アガペー」に相当します。これは受ける価値も資格もない者に、恵みによってだけ与えられる神の自発的愛であり、それはキリストの十字架の愛を思わせる愛です。旧約において、イスラエルが神の民として選ばれた理由は、神の愛だけでした。今日、私たちが神の家族とされているのも、神の愛だけによるのであって、それ以外に何の理由も根拠もありません。
39~40節、それ故に、モーセは神の民に、神に対しての応答を求めているのです。
主はこのように愛され、救い出してくださったからといって、甘やかされるお方ではありません。主から離れ、偶像礼拝に陥るなら、さばかれます。大いなる愛と特権を主から受けた者が、十分に主に応えないなら、それは主を冒涜することです。
そこでモーセはまず、「主にだけ心を留めるように」(39節)命じています。
申 4:39 きょう、あなたは、上は天、下は地において、【主】だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。
これは心に主を唯一の神として崇めることです。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」(ペテロ第一3:15)
40節の、主のおきてと命令を守ることは、33節の第一の特権とつながっており、あらゆる「しあわせ」な祝福を受ける基本的条件です。
申 4:40 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、【主】が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。
申 4:33 あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。
41~49節、第二の説教の序
申命記は、4章40節で、モーセの第一の説教が終わっています。そして、4章44節から、第二の説教が始まります。
それ故、4章41~43節は、この二つの説教の間に語られたものであり、41節の「それから」という言葉は、この二つの説教の間に、ある程度の時間が過ぎていたことを示しています。
申 4:41 それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。
41~43節には、ヨルダン川の東の二部族半のための、三つの逃れの町について記しています。
逃れの町はヨルダン川の両側に三つずつ指定されており、ヨルダン川の西側の逃れの町については、19章に記しています。
なぜ、モーセはここで、ヨルダン川の東の三つの逃れの町だけについて記したのでしょうか。それは彼らが、その時、ヨルダン川の東の地に立っていたからです。モーセは民の現実的な関心に対しても、十分に応えていたのです。それは民にとって非常に理解しやすかったでしょう。
逃れの町の意味については、民数記35章で、くわしく学んだので、42節では簡単に記されています。
申 4:42 以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。
ここでは、細かい規定は記していませんが、「以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。」と記しています。ここでも重ねて、犯した結果そのものよりも、その動機が重要視されることをくり返していますことは、主が私たちの動機をどんなに重要視しておられるかを示しています。ヨハネは、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」(ヨハネ第一3:15)と言っているのは、そのことです。ダビデは姦淫と、殺人の罪を犯しているのに信仰を回復され、サウル王はただ主のみことばを守らず、自分でいけにえをささげたり、アマレク人を滅ぼし尽くさなかったりしましたが、彼は主から見捨てられてしまいました。サウルの動機が、主に対して悔い改めて、向き変わらなかったからです。
これらから、主を信じないこと、主に逆らうことは、主に対して、動機の上で、具体的な犯罪行為よりも恐ろしい罪であることを教えられます。これが、主イエス様が取税人や罪深い女たちを愛され、律法学者やパリサイ人を退けられた理由です。
「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:20)
「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11,12)
私たちは今一度、主の前に信仰の動機を大切にしなければなりません。モーセはこのことを何度もくり返して教えているのです。私たちが神に対する正しい動機をもって、毎日の生活をことごとく営むなら、主は必ず助けてくださいます。
また三つの町、ベツェルとラモテとゴランは、はっきりと、「逃れの町」の用途のために指定され、聖別されました。
申 4:43 ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。
クリスチャンはキリストの救いにあずかったならば、大きな意味で、主をあかしするために、はっきりと指定されて聖別されていることを覚えなければなりません。クリスチャンとは、主をあかしすることを主要目的として生きている人のことです。
44~49節は、第二の説教の序の部分です。
モーセは第二の説教をより効果的にするために、ベテ・ペオルの谷からピスガまでを一望できる場所で話しました。
申 4:46 そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。
4:47 彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。
4:48 それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、
4:49 また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。
べテ・ペオルはイスラエルが罪を犯して、神のさばきを体験した地です。そこは、民に警告を与えるのに最もよい地です。またピスガはモーセがそこから約束の地を展望し、神のお約束に光を注がれた地です。すなわち、ベテ・ペオルとビスガは、光とやみを思い出す地であり、それらを見ながら、モーセは第二の説教を話したのです。
48節のへブル語の「シーオン(持ち上げられた)」は、シリヤ語訳では「シルヨン」あるいは「シリオン」です。これはヘルモン山を指し、シオン山(太陽の照り輝く山)ではありません。ヘルモン山を指す「シーオン」はここにしか出てきません。
45節は、モーセの第二の説教の内容の要約を記しています。
申 4:44 これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。
4:45 これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。
それは、イスラエル人がエジプトを出た時に、モーセが彼らに告げたさとしとおきてと定めです。これまで「おきて」と「定め」は沢山出てきましたが、ここに「さとし」が加わっています。「さとし」はへブル語の「エダー(edah)の訳であり、これは「さとし」の意味の外に、「あかし」や「宣言」という意味も含まれています。これは神のご性質、神のご意志、神のご目的の厳かな言明であり、出エジプト記25章21,22節では、十戒が「さとし」「あかし」と呼ばれており、列王記第二11章12節では、祭司エホヤダがヨアシュにこの申命記の一部か、全部と思われているものを「さとしの書」と言って渡しています。
このモーセの第二の説教は26章まで続くのですが、私たちは先にお話しました動機の大切さとともに、神のご性質、神のみこころ、神のご目的を知り、それを自分のものとして毎日の生活の中で営まなければならないのです。主をあかししようとする時、それを本当に力強い、効果あるものとし、多くの人々を救いに導くためには、クリスチャンひとり一人の徹底したあかしの生活なしには、あり得ないことなのです。
「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い(良いあかしの立っている)人たち七人を選びなさい」(使徒6:3)
「かえって、ことばにも、感度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(テモテ第一4:12)
あ と が き
また暑い夏がやって来ました。若い時には、夏になると、ファイトが湧いてきたものですが、最近は、少々疲れを覚えるようになりました。それでも皆様のお祈りと主に支えられて、奉仕が続けられますことを、心から感謝致しております。
この聖書の探求を毎号、楽しみにして待っていて下さる方がおられることは、私にとって大きな励ましになっております。神のみことばだけが、私たちに与えられた唯一の御霊の剣ですから、ぜひ、みことばに熟達して、主をあかしする者にならせていただきたいと思います。聖書は学問的に研究するために書かれたのではありません。また論争したり、他人をさばくために書かれたのでもありません。聖書は、教えと戒めと矯正と義の訓練のために書かれています(テモテ第二3:16)。ですから、これ以外のことに神のみことばを使うなら、神のご目的に違反した用い方をしていることになります。みことばは建徳のために用いましょう。
(まなべあきら 1995.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカで1907年にthe Providence Lithograph Companyから出版されたバイブル・カードの挿絵「Israel’s Escape from Egypt(イスラエル人のエジプトからの脱出)」(Wikimedia Commonsより)
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