聖書の探求(138) 申命記5章 1~15節 ホレブでの主の契約、十戒の再述(1)主に対する戒め

5章から26章まで、モーセの第二の説教が行われるのですが、この説教は申命記の大部分をなす基幹的なものです。その内容は十戒を中心に展開したものです。モーセは5章6~21節で十戒を再述し、11章までは十戒が与えられた時の様子や内容が次々と記されています。そして12~26章は、イスラエルの民がカナンの地に入ってからの生活に焦点を当てて、十戒の諸原則をいかに適用すベきかを語っています。ですから、申命記はくり返し、くり返し十戒を教えている書であると言ってもいいでしょう。そしてこれは、人間としての標準的なあるべき姿なのです。

私たちはこれを守ることによって、神の祝福を受けることができます。しかしこれは私たちの人間的決心と努力によっては、守り行うことができません。これは信仰によって神の恵みを受けなければ、実行することはできません。信仰により、神の恵みによるのでなければ、それは自分の生まれながらの力で、律法の行ないをしようとしていることであって、決して神に義と認められることはありません。(ガラテヤ2:16)

ガラ 2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

旧約のイスラエル人も信仰があった時は、これを行うことができましたが、信仰を失った時には、守ることができず、神に逆らい、さばきを受けたのです。


1~5節、ホレブにおける主の契約(主の戒めと契約を守り行いなさい。)
6~21節、十戒の再述
22~27節、十戒が与えられた時の状況
28~33節、主の命令を守ることの勧告と幸せの約束(永久の幸せのための戒め)


1~5節、ホレブにおける主の契約-主の戒めと契約を守り行いなさい。

モーセは6節からの十戒に入る前に、民に耳を傾けるように呼びかけて注意を喚起しました。

申 5:1 さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行いなさい。

もしクリスチャンが、もっと主のみことばに注意と関心をもって聞き入るなら、多くの実を結んで、主の栄光を現わすことができます(ルカ8:15)。

ルカ 8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

私たちは、聖書を読む時、説教を聞く時、信仰書を読む時、自分の心に主の語りかけを聞きとるように、心を用いて注意深い態度で臨みたいものです。

「聞きなさい。イスラエルよ。」(1節)は、4章1節、6章3,4節、9章1節、20章3節、27章9節に出てきます。

申 4:1 今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、【主】が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

申 6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。
6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。

申 9:1 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。

申 20:3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。

申 27:9 ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、【主】の民となった。

これは、ただ聞くだけでなく、聞いて従うための従順を要求しています。主イエスはマタイの福音書19章17節で、金持ちの青年の役人に対して、「もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と言われました。そして主は十戒の後半の人に対する戒めの部分だけを取り上げて話されました。それはこの青年が、主に対する信仰が全く分からなかったからでしょう。

このことから、この十戒はマタイの福音書22章37節の「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という、主に対する戒めと、39節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」の戒めに分けて、構成されていることが分かります。

マタ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

そしてまた、十戒は単なる禁止事項ではなく、愛と表裏一体の関係にあることも分かります。私たちは、主の愛を受け、主を愛することによって、十戒を守ることができるようになり、また十戒を守ることによって、主をさらに深く愛することを現わすことができるようになるのです。

モーセがこれらの戒めを、「おきてと定め」と言ったのは、多くの実際生活的な戒めが含まれていたからです。私たちの信仰は聖書を読んだり、お祈りしたり、教会の集会に出席するだけでなく、日常の実際生活にまで浸透し、及んでいかなければ、本物ではありません。主のみことばが実際生活の中で活用されるのでなければ、実を結び、あかしをし、主の栄光を現わす信仰にはなっていきません。どんなに知識を身につけていても、外面だけの宗教的なおつとめになってしまいます。

モーセは「これを学ぶ」ようにすゝめています。この「学ぶ」は、研究するというより、主イエスがマタイの福音書11章29節で、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われた意味での「学び」です。

マタ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

主に忠実に従うことによって、主のみこころを悟るようになり、主のご人格に似た者になっていくことです。

「守り行ないなさい。」も、申命記中に繰り返されている言葉です(5:32、6:3,25、7:11、8:1、11:22、12:1、13:18、15:5、17:10、19:9、24:8、28:1,15,58、31:12、32:46)。

申 5:32 あなたがたは、あなたがたの神、【主】が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。

申 6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

申 6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」

申 7:11 私が、きょう、あなたに命じる命令──おきてと定め──を守り行わなければならない。

申 8:1 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、【主】があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

申 11:22 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行い、あなたがたの神、【主】を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、

申 12:1 これは、あなたの父祖の神、【主】が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行わなければならないおきてと定めである。
申 13:18 あなたは、必ずあなたの神、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、【主】が正しいと見られることを行わなければならない。

申 15:5 ただ、あなたは、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。

申 17:10 あなたは、【主】が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行い、すべて彼らがあなたに教えることを守り行いなさい。

申 19:9 ──私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行い、あなたの神、【主】を愛し、いつまでもその道を歩むなら──そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。

申 24:8 ツァラアトの患部には気をつけて、すべてレビ人の祭司が教えるとおりによく守り行わなければならない。私が彼らに命じたとおりに、それを守り行わなければならない。

申 28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

申 28:15 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

申 28:58 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、【主】を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行わないなら、
28:59 【主】は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。

申 31:12 民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためである。

申 32:46 彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。

ヤコブは、「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)と言っています。

ヤコブ 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

2,3節、この十戒は、主が、主の民との契約として与えられたことを思い起こさせています。

申 5:2 私たちの神、【主】は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。
5:3 【主】が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。

私たちに主のみことばが与えられていることは、主が私たちと契約を結びたいとのご意志の表れです。用事のない者を呼ばないのと同じように、主のみことばが与えられることは、主が私に用事があり、契約を結びたいという意志表示をしておられるのです。そして私たちが、そのみことばを信じて従う時、主との契約が正式に結ばれるのです。

しかしこの契約は、四十年前の、主に反逆して荒野で滅んだイスラエルの先祖たちとではなく、その時生きていた荒野の旅路の間に生まれたイスラエル二世の人々と結ばれたのです。

主の契約は、団体よりも、個人個人一人一人と結ばれるのです。それ故、教会に所属しているというだけでなく、私たち一人一人の信仰が必要なのです。今、ここに生きている私たち一人一人と、信仰によって、契約を結んでくださるのです。主のみことばは永遠に変わることがありませんから、どの時代の真実な信仰者とも契約を結ぶことができるのです。主の契約は、旧約でも新約でも、主のみことばを信じる者と結ばれます。

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。」(ヤコブ1:21,22)

4,5節、主と契約を結ぶことは、大いなる特権と責任に与(あず)かることになります。

申 5:4 【主】はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。

特権とは、主が顔と顔とを合わせて語ってくださることです(4節)。これは主の強いみこころでした。主はモーセとだけでなく、民とも親しく交わりたいのです。しかし民は、それにふさわしい状態にはなかったのです。私たちは、主のみことばに従順に聞き従い続ける生活をするなら、霊的に深く主と交わることができるようになります。主は私たちと親しく交わることを望んでおられるからです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)

5節は、民が火を恐れて山に登らなかったので、モーセが主と民との仲保となって、主のみことばを取り次いだと言っています。

申 5:5 そのとき、私は【主】とあなたがたとの間に立ち、【主】のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。

出エジプト記19章12節では、主が「山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」と命じられていたので、民は山に登ることができなかったと言われています。

出 19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。

この二つの記録は一見、矛盾するように見えますが、出エジプト記の方は、主のご命令を記しているのであり、申命記の方では、モーセはただ、民が恐れていた状態を話して聞かせただけです。民は主のご命令に従って山に登らなかったのですが、民が恐れて、山に登るような状態でなかったことも事実でしょう。そこには何ら矛盾するところはありません。

しかしここでモーセが教えたかったことは、主のみことばを受けた民は、そのみことばを守り行い、周囲の人々に主をあかししていく、重要な責任があることです。イスラエルは神の律法が教えられ、主イエスの預言もいただいていたのですが、それらのみことばが益とならなかったのは、彼らが信仰によって自分に結びつけて受け入れなかったからです(ヘブル4:2)。

ヘブル 4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

私たちも、みことばを聞くだけにして、忘れてしまう者とならないように、このことを十分に自覚して生活したいものです(ヤコブ1:21~25)。

ヤコブ 1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
1:26 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
1:27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

6~15節、十戒の再述(1)

この部分は、出エジプト記20章1~17節の十戒に、モーセが主の霊感によって解説を加えたものと思われます。しかし実質的には全く同じものです。

出 20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

第一戒は、主への言及から始まっています。

申 5:6 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
5:7 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主(ヤーウェ)である。」(6節)

このことは、この十戒がただの道徳律ではなく、主に対して信仰者の守るべき戒めであることを示しています。

この十戒を主の民が守らなければならない理由は、どこにあるのでしょうか。それは主が民を奴隷の家エジプトから救い出して下さったからです。滅びに向かっている異教徒が十戒を守らないのは仕方がないとしても、罪と滅びの中から救われた者は、喜んで、主を愛して、主の戒めを守り行うはずです。

「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネ第二5:2~3)

しかしもし、この戒めを拒むなら、その人はそれ以上、主の民としてとどまることができなくなります。

主はここで、「わたしは‥‥あなたの神、主(ヤーウェ)である。」と、契約者として、名前をサインするように名乗っておられます。これは民との交わりを求めておられるしるしです。この契約の故に、主と主の民との間には、どんな偶像も、人間的権力者も介入することが許されないのです。この、主と人との人格的関係こそ、キリスト信仰の基礎です。この関係を確立するために、主は時満ちて、御子イエス様を地上に遣わして下さったのです。

第二戒は、偶像礼拝を禁じるものですが、これは、第一戒から当然引き出されるものです。

主はご自分の民をエジプトの偶像の支配から贖(あがな)い出されたお方です。

この戒めは、第一戒の「ほかの神々があってはならない。」だけでなく、8節の「自分のために、偶像を造ってはならない。」と9節の「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」が、付け加えられて、より厳密になっています。これらは聖画や彫刻を禁じているのではありませんが、それらを礼拝の対象として造ることを禁じたのです。

8節は、人間が考え得る、あらゆる分野のものを包含して禁じています。

申 5:8 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それ故、言い逃れはできないのですが、イスラエルは金の子牛を作って拝んでしまっています。
また、人を神として拝んだり、主を人と同じように考えたり、人間の思索探求によって到達した思想や哲学の中に主を見い出すこともできません。主は、みことばと受肉された御子イエス・キリストに啓示されている限りにおいて、知り得るお方です。

9節、「わたしを憎む者」とは、勿論、主の戒めを破る者で、そういう人には父の咎(とが)を子にまで報いられ、三代、四代にまで及ぶと宣告されています。

申 5:9 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

親の罪で子どもたちが苦しむことは、よく見られることです。そしてその影響が三代も、四代も続くことがあり得ることも事実です。この罪の悪影響を断ち切るためには、今の私たちが主イエス様の救いと聖潔を受けるしか方法がありません。

10節、しかし、主を愛し、主の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すと約束されていますが、その恵みがいかに大いなるものであるかは、アブラハムの子孫を見れば分かります。その恵みと祝福は払たちにまで及んできているのです。

申 5:10 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』 と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。‥‥‥このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。‥‥‥もしあなたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:7~9,14,29)

この祝福は永遠に続きます。それ故、親の責任は、子どもたちに最も敬虔な信仰を育てることです。親が子どもに与えることのできる財産とはこれ以外にありません。これ以外のこの世的財産を残すと、子どもを堕落させるでしょう。この信仰を植えつけることは、子どもの誕生と同時に始めなければなりません。「物心がついてから」と思って、先き延ししていると、自己中心の自我が根を張ってしまい、この世が子どもの心に侵入して占領してしまい、「さあ、信仰を植えつけよう」と始めても、子どもは全く信仰を受けつけない頑な心の状態になってしまっているのです。

ですから、どんな代価を払っても、子どもたちを信仰に導かなければなりません。主イエス様が、この私をのろいと滅びの中から救い出してくださるのに、ご自身で十字架にかかって命を捨ててくださったことを思えば、私たちは子どもたちの救いのために、どれだけの代価を払えばよいのでしょうか。多くの子どもたちが、親の自己中心や見栄や貪欲、肉的快楽のために滅んでいっているのです。子どもを信仰に導くことは、親として最も重要な責任の一つです。

第三戒(11節)は、主の御名を軽々しく、みだりに唱えてはならないことです。

申 5:11 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

特に、祈りにおいて、無意味に主の御名を連発して使うことは慎まなければなりません。主の御名を無闇に使う人の祈りは、不敬虔で、主を意識していない祈りであり、主に向かって祈られている祈りではありません。

「また、祈る時、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。」(マタイ6:7,8)

主の御名は、主のご人格と密接に結びついており、主のご性質を表し、主の権威を示しています。そして私たちは、主の御名を信じ、主の御名を呼ばわって救われ、主の御名を信じる信仰によって、すべての信仰の行ないをしているのです。

「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:13)

「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9~11)

私たちは、異教徒がご利益宗教で使うように、やたらに主の御名を唱え、自分の利益のために主の御名を乱用してはならないのです。

主イエスは、主の祈りにおいて、「み名があがめられますように」と祈るように教えてくださいました。私たちが主の御名を使う時には、特に、主の御名が崇められることを意識して用いなければなりません。これを守らない者には、必ず罰が加えられると言われています。これは私たちに真の敬虔さを教えています。とかく、祈りはパリサイ人のように敬虔さを装うことに利用されやすいので、注意しなければなりません(マタイ6:5~6)。

マタ 6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

第四戒(12~15節)は、安息日を守ることです。

申 5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。
5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

私たちは主の日に、主を礼拝することによって、その日を聖なるものとして守ることが命じられています。主の日を自分のために使うことによって、主の日を汚し、自ら汚れた者となるのです。このことは、これを体験している霊魂がよく知っています。安息日を守ることは、休息(サバト、「すわる」「やめる」)と主を畏れて主を待ち望むことを意味しています。

14節は、第七日目には、主による全創造が完成しており、主の祝福の日であったことに起因して語られています(創世記2:3)。

創 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

その日を人が富や地位や名誉の追求のために使わないようにという警告です。この日は、主を待ち望み、主とお会いし、主の御声を聞くために聖別し、また主の家族が互いに主にあって交わりを深め、折り合い、互いに重荷を負い合って仕え合うことを強める日でもあります。こうして、各々の人生を主に導かれ、満ちたりたものとしていただくための日であります。この安息日は、霊的安息を示す型でもあり、また永遠の安息を示す預言的型でもあります。

「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:9~11)

また、これは奴隷状態からの救いを意味しており、主による新しい生活の始まりのしるしです。それ故、すべての奴隷が仕事から解放されているのです。これは罪の奴隷の生活からの解放であり、また死の支配からの解放である復活の日の預言的型でもあります。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡たされ、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ばし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)

それ故、新約聖書では、主イエスが復活された「週のはじめの日」(マタイ28:1、マルコ16:1,2,9、ルカ24:1、使徒20:7、「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」、コリント第一16:2、「いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」)を「主の日」(ヨハネの黙示録1:10)として礼拝を守っています。

黙 1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

14節、この戒めは、すべての他国人や奴隷たちにも適用されています。

申 5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。

それは家族や使用人をも含めた全員が主を礼拝し、主の安息にあずかることにあり、それはさらに、国家全体が礼拝することであり、休息することになります。

15節、また、ここで、自分たちがエジプトの地で奴隷だったことと、主の力強い御手によって救い出されたことを自覚するように命じられています。

申 5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

この日、主を礼拝することによって、自分の救いを新に確認して、へりくだり、勇気づけられ、主の贖(あがな)い(私たちにとってはキリストの十字架)の愛を確認して立ち上がり、そのことによって、苦しむ者に対して愛の奉仕ができるようになることが、主のみこころだったのです。これは今日の私たちにとっても同じで、パウロは次のように教えています。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」(ローマ15:1~2)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)

これらはみな、キリストの心を自分の心とする時に出来るのです。

この贖(あがな)いの愛の確認は、過越の祭りにおいて、さらに強く強調されることになります。

あ と が き

夏、真盛りですが、お元気でお過しのことと思います。朝夕、少し気温が下がるだけでも、ホッとしております。今月は、いつもの私の多忙にバイブル・キャンプが加わりましたので、聖書の探求をお届けするのが、遅れてしまいましたことをお詫び申し上げます。 この聖書の探求をグループで学んだり、教会で学んだりして下さっていますが、心から感謝申し上げます。聖霊が働いて下さいますようにお祈りしております。毎月、発送しては、みことばが聖霊に用いられるように、お祈りしております。ただ、知識を知るだけでなく、霊魂の奥深くにみことばが根を下して、確信となり、力となり、あかしとなっていただければと、切に願っております。時折、聖書の探求を学んであかしのお手紙も寄せられて、うれしく励まされています。今月号も全力を尽くして執筆しました。恵みを経験していただければ幸いです。

(まなべあきら 1995.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「Moses and the Ten Commandments(モーセと十戒)」(アメリカ、ニューヨークのthe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)


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