聖書の探求(139) 申命記5章 16~21節、十戒の再述(2)人に対する戒め

モーセは、十戒の前半の主に対する部分については、かなりの解説を加えていたのに、後半の人に対する戒めについては、ほとんど解説を加えていません。これはすでに、人に対する戒めについて多くのことが教えられていましたから、その必要がないと考えたからでしょう。しかし、この、人に対する戒めは実に行き届いています。両親に対する戒めから始まって、夫婦、隣人、隣人の妻との関係、使用人など、あらゆる分野に及んでいます。

16節、第五の戒めは「両親を敬え」という戒めですが、

申 5:16 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

これは人に対する戒めであるとともに、「あなたの神、主が命じられたとおりに。」と言っているように、両親を主の代理人の位置においているので、これは主に対する敬虔さと結びついています。それ故、先の、主に対する四つの戒めの直後に語られたのだと思われます。

私たちは、夫や妻や友人は自分で選ぶことができますが、両親は自分で選ぶことができません。それ故、両親のほうも、主の代理人となるのにふさわしい人格を身につけていてほしいものです。そうでないと、自分だけでなく、子や孫など、子孫に取り返しのつかない大きな悪影響を及ばすことになります。

この「両親を敬え」という戒めは、長寿としあわせな生活を保証する条件となっています。パウロも、この戒めをエペソ6章2,3節で引用して、クリスチャンの親子関係を教えています。

エペ 6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

このことは、実に大切なことです。主を中心とした親子関係が健全に保たれていくことは、言葉に言い表せないほどの祝福をこれまでももたらしています。しかし主を抜きにした親子関係は自己中心的で、たえず争いやののしりを繰り返し、悲惨です。ただし、16節の戒めは、両親が主に従っているということが大前提にあります。主に従っていない両親の場合、親の言うこと、なすことが主の道からはずれてしまっていますので、子どもたちは親を敬うことができないことが多いのです。その時には、父なる神、主を敬い、主に従うべきです。このような時は、教師は正しく健全に指導する必要があります。

17節以後の五つの戒めは、社会性が含まれています。

申 5:17 殺してはならない。
5:18 姦淫してはならない。
5:19 盗んではならない。
5:20 あなたの隣人に対し、偽証してはならない。
5:21 あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

主は聖であり、義なる神です。
ですから、私たちの人間関係や社会生活においても、聖で義なる営みをするように私たちに戎めておられます。

「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(ペテロ第一1:15,16)

第六の戒めは、「殺してはならない。」です。

これは自殺をも含めて、すべての殺人を禁じています。人の命はすべて、主が創造された主のものです。人に命を与え、また奪うことのできる権威を持つのは、主ご自身だけです。主は、罪のためのさばきとして、代価として命を奪われます。しかし信仰による賜物として永遠のいのちを与えられます。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23節)

私たちの命は、創造主の栄光を現わすために与えられており、死は罪の支払う報酬です。それ故、命は人が勝手に奪ってはならないのです(申命記21:1~9)。

申 21:1 あなたの神、【主】があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、
21:2 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。
21:3 そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、
21:4 その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。
21:5 そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、【主】が、ご自身に仕えさせ、また【主】の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
21:6 刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、
21:7 証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。
21:8 【主】よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。
21:9 あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。【主】が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。

殺人の血は、土の中から主に向かって叫ぶのです。

「聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」(創世記4:11)

第七の戒めは、「姦淫してはならない。」です。

これは主の御前での結婚は神聖であることを示しています。それは結婚関係だけでなく、信仰の一致による結婚の神聖さを言っています。この実質を打ち壊すことは、主に対する反逆です。それ故、結婚は霊的なものでなければなりません。新約聖書において、キリストと教会が花婿と花嫁の関係で記されており、旧約聖書において、偶像礼拝が姦淫という言葉で戒められているのは、結婚が霊的であることを示しています。結婚の制度を定められたのは主です(創世記1:28、2:24、マタイ19:4~6)。

創 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

創 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

マタ 19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
19:6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

それは主ご自身の民イスラエル(ホセア書2:14~20)と、キリストの教会に対する(マタイ9:15、エペソ5:32)愛の奥義を示しているのです。

第八の戒めは、「盗んではならない。」です。

これは他人のものを盗むことを禁じただけでなく、主から与えられた能力、富、時間などを、主のために正しく使用する責任があることを示しています。

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』 それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。- 万軍の主は仰せられる。- わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3:8~10)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19~21)

また、他人に対して、自分を愛するように隣人を愛する戒めを守るなら、他人に損害を故意に与えることはなくなります(ルカ10:27~37)。

ルカ 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリント第一13:4~7)

他人の土地の境界線を尊重し、正しい秤(はか)りを使用すること、困っている人を助けることは、クリスチャンにも求められています。

「『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:20,21)

「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」(ルカ16:25)

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」(ヤコブ5:2~5)

特に、人間はキリストの福音を聞く権利が与えられていますが、その権利をクリスチャンが福音宣教をしないことによって奪ってはならないのです。

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが正しい人に非を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル書3:17~21)

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっばでしょう。』」(ローマ10:14,15)

私たちは、「自分さえ救われて、恵みを受けていればそれでいい。人が嫌がることは、わざわざ言わなくてもいい。」と言って、キリストの福音を伝えないなら、キリストの福音を盗んでいることになります。パウロは次のように言っています。

「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。もし私がこれを自発的にしているなら、報いがありましょう。」(コリント第一9:16,17)

第九の戒めは、「あなたの隣人に対して、偽証してはならない。」です。

これは唇の罪、ことばの罪を扱っています。

「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっばに制御できる完全な人です。‥‥‥同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。‥‥‥しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水と同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」(ヤコブ3:2~11)

この戒めは否定形で語られていますが、その内容は積極的な面が強調されています。クリスチャンの賛美、あかしは、真実で、力強く、積極的であるべきです。これは日常生活の会話においても、私たちがキリストの証人であるべきことを示しています。

第十の戒めは、他人のものを欲しがることを禁じています。

申 5:21 あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

これは、むさぼり、貪欲に対する戒めであり、他人をうらやましく思うことやねたむことに対する戒めでもあります。他人のものを奪う前に、心の中にむさぼりの欲心を抱くことを警告しているのです。それはまだ具体的な行為になっていませんから、人の目には分かりませんが、人の心を見られる主は、その欲心を判定されるのです。

「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ一3:14)

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。」(テモテ第一6:9)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」(ペテロ第一1:14,15)

「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」(ペテロ第一2:11)

この戒めを守るためには、クリスチャンは、自制心を養わなければなりません。自制は御霊の実の一つです(ガラテヤ5:23)。

ガラ 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

自制心は、信仰による自己訓練によって成長します。この自制心が弱いと、むさぼりの欲心は必ず行為としての罪を犯させます。むさぼりの芽は、早く切り取らなければなりません。

こうしてみると、十戒は外面的なものだけでなく、内面的、霊的なことを取り扱っていることが分かります。これらの実質的内容が分かってくると、十戒は確かに人の知恵と考えによる戒めではなく、主の戒めであることが確認されます。私たちは聖霊の助けをいただくことによって、これらの戒めを守ることができるようになり、勝利と祝福の道へと進むことができます。

(まなべあきら 1995.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Foster, William A. により1981年頃に出版された「The Bible panorama, or The Holy Scriptures in picture and story(聖書パノラマ、または、絵と物語の聖書)」の挿絵(The Library of Congress蔵、Wikimedia Commonsより)


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