聖書の探求(140) 申命記5章 22~33節 永久の幸せのための戒め

22~33節、永久の幸せのための戒め

22節は、主が十戒を与えられた時の様子を記しています。

申 5:22 これらのことばを、【主】はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。

主の臨在は「火と雲と暗やみ」で表されています。これらはみな、民に主に対する畏敬の思いを与えるためのものです。
火は罪人が近づけないこと。雲と暗やみは主が罪人の目から隠されているお方であることを意味しています。これらは、主の尊厳と主の権威的力とを示しています。私たちは、自己中心になると、主を自分と同じ程度の力しかない方と思い上がって、尊大な態度をとり、勝手なことをしやすいのです。

この十戒は大声で告げられており、すべての民は聞いていたので、言い逃れをすることはできませんでした。今も、主の啓示はすべての人に与えられており、さばきの日に言い逃れをすることはできません。

この時には、「このほかのことは言われなかった。」
十戒が中心的な戒めであり、この戒めが神的起源をもっており、これをモーセを通して全人類に与えられたのです。

23~27節は、その時の民の反応です。一言で言つて、民は恐れました。

これは信仰的な畏敬というよりも、恐怖に近いものでした。ですから、後々まで守り通すことができなかったのです。今も、主のみことばを信仰によって正しく受けとめず、人間的恐怖や、あるいは反対に自分の力で出来ると思って、高慢に受けとめている者が多いのです。これはあまりにも主から離れた、物質主義や自己中心の生活をしすぎているからです。普段から、もっと人格的な生活の営みをするように指導していかないと、救いに与(あず)かることが困難になり、人類は滅びてしまいます。

23節の部族のかしらたちや長老たちは、モーセのもとに近寄りました。

申 5:23 あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。

これは彼らが、モーセに、主に対する仲介役を求めたのです。これは神と人との仲介者であるイエス・キリストの型です。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ第一2:5)

モーセは主のみことばを聞いていたのですが、人々は雷鳴を聞いているようにしか、聞こえなかったのです。

「『父よ。御名の栄光を現わしてください。』そのとき、天から声が聞こえた。『わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。』そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、『御使いがあの人に話したのだ。』と言った。」(ヨハネ12:28,29)

「私といっしょにいた者たちは、その光を見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。」(使徒22:9)

同じように主のみことばを聞いていても、各々の霊性によって、全く異なる受けとめ方をしてしまうのです。不信仰な人は、反対や敵意さえ抱くようになるのです。エバの心が主からサタンのほうに向いた時、「善悪を知る木の実を取って食べてはならない。」という主のご命令は、もはや愛と信頼の交わりの言葉として受けとめることができなくなってしまって、ただ、自分たちが賢くなるのを嫌っているのだという思いを抱いて、主の動機を疑い、ただ主は厳しいだけの神だと反発心を抱くようになったのです。アダムの心も同じような状態になっていたことは、彼が「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)と言ったことでも分かります。

私たちが主のみことばを聞いて、霊魂が養われて、成長するためには、私たちの霊魂が砕かれて、へりくだっており、従順になっていなければなりません。自己中心で、高慢な心の状態で、みことばを聞いても反発するだけでしょう。私たちの霊魂は聖書の知的理解ができても、少しも成長しないのです。かえって、その人を高慢にしてしまいます。それ故、主のみことばを聞く、へりくだった霊性を養い育てることが必要なのです。

「‥‥‥信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)

24節、「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。」

申 5:24 そして言った。「私たちの神、【主】は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。

民は、主の栄光と偉大さとに触れました。しかし民は死なずに、生きていました。罪ある者が主の栄光の顕現に触れるなら、それは死を意味しました。

それ故、25,26節で彼らは主の御声を聞いたことによって、死ぬのではないかと恐れていました。

申 5:25 今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、【主】の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。
5:26 いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。

これは自分たちの非を認め、自覚していたことを示しています。本当の罪の自覚は、主の栄光に触れることによって生じます。それは他人から教えられた知識によってではなく、聖霊に教えていただくことによってですから、祈らなければなりません。

「その方(助け主、聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:8,9)

27節、人々はモーセに執り成しを頼み、彼らはモーセが主から聞いたみことばを話してもらい、それらを行なうと約束しました。

申 5:27 あなたが近づいて行き、私たちの神、【主】が仰せになることをみな聞き、私たちの神、【主】があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行います。」

今日、私たちはすでに、仲保者であるイエス・キリストをいただき、主のみことばもいただいています。あとは、私たちが信じて実行するだけです。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

28~31節は、これらの人々の反応に対する主のおことばです。

申 5:28 【主】はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、【主】は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。
5:29 どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。

この部分の要約は、主がこの戒めを与えられたのは、民とその子孫が永久にしあわせになるためであり、そのしあわせを実際に持つためには、民が主を畏れ敬って、主のすべての戒めを守り行なうことが必要です。このことは、聖書全体の原則です。それなのに、主が戒めを私たちに与えられたのは、自分たちを苦しめるためであったと考えるのは、不信仰の現われでしかありません。それは主のみこころを踏みにじるものであり、決して赦されるものではありません。主は旧約においても、新約においても、愛とあわれみの神です。主の愛とあわれみの動機を疑ってはなりません。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22.23)からです。

主が与えてくださるしあわせは、「永久のしあわせ」です。この世の一時的なものではありません。「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13,14)

この「永久のしあわせ」をあなたのものにする条件は、信仰による服従です。しかしこれについては、新約では、主に従う者に聖霊の内住が与えられると言われています。

「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊」(使徒5:32)

30,31節、主は、民を各々自分の天幕に帰されましたが、モーセには主のもとにとどまるように命じられました。

申 5:30 さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい』と言え。
5:31 しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令──おきてと定め──を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行うのだ。」

モーセは民のリーダーとなり、執り成し手となったからです。リーダーも信仰者の一員であることには違いがありませんが、一般の民と同じ程度の信仰や知識ではいけません。すぐれた模範と指導力が求められるからです。勿論、すべての信仰者が、リーダーと同じ実質のある信仰者となっていることは、理想的で、望ましいことですが、しかし現実は異なっています。

よく、「信者と牧師の二つの信仰があるわけではない。」という言葉を聞かされますが、願わくは、牧師の信仰がもっと高度に成長していてほしいものです。私は、牧師も信者の一人であることを知っています。ですから、牧師と信者に差をつけようとしているのではありません。しかし名称や立場はどうであれ、羊飼いには、羊を導く指導力が求められているのです。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ペテロ第一5:2~5)

それ故、いつまでも主のみもとにとどまって指導を受ける者が、群れの中に何人出てくるかが、神の群れの成長、発展を決定するのです。

モーセは主から、民に教えるべき命令(おきてと定め)を教えられました。それは、モーセの指導によって、民がカナンの地の信仰生活において実行すべきものでした。今日、クリスチャンの中においても、このすぐれた指導力を持つ教師、リーダー、牧師、説教者が切実に必要なのです。

32,33節は、モーセが民に語ったことばです。

申 5:32 あなたがたは、あなたがたの神、【主】が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたがたの神、【主】が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。

ここでも同じことが簡潔に語られています。それは、忠実な服従と、主の報い、すなわち、しあわせと長寿です。主への全き信頼と忠実な服従は、必然的に大いなる祝福をもたらすのです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ2:29)

あ と が き

前回、あかし講演のテープのご案内をさせていただきましたら、全国から、多くの方々のお申し込みをいただき、驚いています。私たちはこれまで、どうしたら本当に信仰が成長して、生き生きとした信仰の喜びを教会員が経験できるか、ずっと長い間、探求してきました。そして行き着いたところが、前回にもご紹介しました。救いと聖潔の霊的経験を明確にすること、信仰によるみことばの実践、そして聖書の探求をすることです。

この経験と知識と実践のバランスこそ、困難をも乗り越えて、生き生きと喜びと、感謝と勝利の生活を送る秘訣であることを発見しました。そして、そのことは聖書全体が私たちに教えていることも分かりました。さらに根気よく教会員をそのように導いていくと、実にその結実が得られることも分かったのです。
今、私たちの教会で流行している言葉は「あわてず、あせらず、あきらめず」の三つの「A」です。これができるようになると、信仰が生きているのです。あなたもやってみて下さい。

(まなべあきら 1995.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、オランダの画家 Caspar Luyken (1672-1708)が1699-1705年頃に描いたエッチング画「Moses receives the Ten Commandments(モーセは十戒を受け取る)」(Wikimedia Commonsより)、ちなみにCaspar Luykenは、同じくエッチング画家のJan Luykenの息子である。


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421