聖書の探求(141) 申命記6章 十戒を守ることによる祝福、守るための勧告、子孫に伝える責任

6章5節には、主イエスが律法の中心として挙げられた、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という命令が記されています。旧約と言えども、すべてが強制的な律法であったわけではありません。主を愛することが強調されています。主を愛することによってのみ、主のご命令を行なうことができるからです。
ここでは、主を愛することと、みことばを忠実に守ることが強調されています。つまり、信仰とは、この二つに要約することができるのです。

主を愛することと、みことばに忠実に従うことのない信仰は、異端か、熱狂主義者ということになります。ですから、すべてのクリスチャンをそのように指導し、養い、訓練していく必要があるのです。しかしそのようなクリスチャンはどれほどいるでしょうか。教会に行っている、聖書を読んでいるというだけでは十分ではありません。主を愛し、何をするにも主に仕える動機をもって、生活の中でみことばを実行し、活用する生活が必要です。

6章の分解

1~3節、十戒を守ることによる祝福

4~9節、十戒を守るための勧告

10~16節、主の道からそれてしまう危険に対する警告

17~19節、再び十戒を守ることによる祝福

20~25節、子孫に教え、伝える責任

1~3節、十戒を守ることによる祝福

主はモーセを通して、信仰者が祝福の生涯を送るための道筋を立て、ガードレールを設けて下さいました。この道をまっすぐに歩んでいけば、必ず「しあわせ」を得ることができます。これは何度も約束されてきていることです。しかし各々が信仰によってこれを受けとめなければ、戒めは自分を縛り、苦しめるものと感じるようになってしまいます。「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)と、主が言われましたが、それはみことばを信仰によって受けとめる時にだけ、霊魂の自由を経験するのです。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

1節では、「行なうためである。」 2節、「守るため」 3節、「聞いて、守り行ないなさい。」と段々と、ち密に命じられています。

主のみことばはすべて、信じて守り行なうために与えられていることを、人類は忘れかけています。主のみことばは、決して研究するためや、批評したり、感心したりするために与えられているのではありません。主の具体的な祝福は、主のみことばを信じて守り行なう者にだけ与えられることが、はっきりと語られています。

1節では、守り行なう場所を示しています。

申 6:1 これは、あなたがたの神、【主】が、あなたがたに教えよと命じられた命令──おきてと定め──である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行うためである。

それは、ヨルダン川を渡って所有する地です。これは今日では、潔められた信仰生活においてです。

2節では、守り行なう期間を示しています。

申 6:2 それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、【主】を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。

それは、一生の間です。そして「あなたも、あなたの子も孫も」家族全員が守り行なうことを求められています。

その祝福の内容は、2節では「長寿」、3節では「しあわせ」すなわち、乳と蜜の流れる国で、心豊かな生活をして大いにふえることです。

申 6:3 イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

これらの繁栄の土台には、主の戒めを守ることが必要なのです。

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。‥‥‥もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:5,10,11)

4~9節、十戒を守るための勧告

ここでは、注意深く、主と主のみことばに仕えることを、ことこまかに、執拗なほどに教えています。

4節は、「聞きなさい。」という命令で始まっていますが、これは、「以下のことを注意深く心にとめるべきである。」という意味です。

申 6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。

私たちが仕えるべきお方は、ただおひとりの主です。これは14節の「ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。」という、異教の神々の偶像に仕えることの危険に対する、積極的な意味での警告です。

5節は申命記中にしばしば出てくる重要なみことばであり、主イエス様も戒めの中心として引用されています。

申 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

このみことばこそ、すべての戒めの基本です。これは自分の全存在をあげて主を愛するという動機を持つことに集約されています。これこそ、聖書が示す宗教であり、私たちの信仰なのです。

6~9節は、5節の愛を、いつも心の中に保ち続けるために必要な条件、手段です。

6節、みことばを心に刻みなさい。

申 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

これはみことばを記憶すること以上のことです。みことばがいつも心の中で主のいのちと力となって働き、各自の生活の中で活用していることです。自分の人格に根ざすまで、みことばを思いめぐらし、信頼していることです。

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ1:21)

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」(テモテ第二3:14)

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:16)

7節、子どもたちに、よく教え込むこと。

申 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

「よく」とは、子どもたちが自分で具体的に自分の生活の中で行なうようになるまで、根気よく何度でも十分に教え続けることです。

さらに、「あなたがたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」とは、生活のあらゆる行動が、主のみことばで裏付けられる生活を営むことです。これは毎日、みことばを握った信仰で生活すること、みことばを握って具体的な課題に当っていくことです。

8節、主イエスの時代の律法学者たちは、形式上、このみことばの文字通りに、手や額にみことばを入れた箱を結びつけていました。

申 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

しかしここでの命令の意味は、手とは行ないのことであり、額とは思考のことです。すなわち、考えや思いや、行ないに、主のみことばが浸透していることです。聖句を記憶することも大切ですが、それ以上にもっと生命的に大切なことは、私たちの人格と生活行動の中に主のみことばが浸透するようになっていくことです。

9節、これも律法学者たちは形式的に文字通りに、家の門柱や門にみことばを書き記していました。

申 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

しかしその真の意味するところは、私たちの家庭生活の中心にみことばが活用されることです。こうすることによって、主を愛し、主の祝福を受けることができるようになるのです。

10~19節、祝福と繁栄による試み

ここには、主の民が祝福された時の警告が記されています。私たちが主を信じて、どんな時にも主に従った生活を続けていくなら、必ず祝福を受けるようになります。しかし祝福と繁栄は、新しい試みを生み出します。試練は苦しい時だけではありません。むしろ苦しい時は、主に祈り、主を信じて従うことが比較的に容易です。しかし繁栄した時には、主を忘れ、自分を誇り、自分の力に頼って歩んでいこうとしやすいので、危険度は高いのです。もはや、へりくだって、忠告や助言を聞き入れようとしなくなります。それ故、繁栄がワナとなって、滅びを招くことにもなる危険も多分にあるのです。主に忠実な民は必ず祝福を受けるので、必然的にこの危険なワナに必ず直面すると言っていいでしょう。

私たちは自分の努力によって繁栄してきたと思いやすいのですが、実際は主の恵みによっていることを忘れてはなりません。

主は、こう言われます。

「あなたの神、【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、」(申 6:10~11)

私たちは、ほとんどのものが、自分で努力しなかったもの、あるいは努力以上のものが与えられているのではないでしょうか。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(エペソ3:21)

しかしこうして繁栄してくる時、私たちは自分の力で繁栄してきたかのように思い上がった錯覚をし、主を捨て、主から離れ、自己主張をして、この世の生き方をとるようになる危険が絶えずあります。

それ故、主は警告されました。

1、「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」(12節)

自分を罪と滅びの中から救い出してくださった主を忘れないようにしなさい。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖(あがな)い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」(詩篇103:2~5)

2、「あなたの神、主を恐れなければならない。」(13節)

これは、霊とまことをもって、主を礼拝することです(ヨハネ4:24)。

ヨハ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

3、「主に仕えなければならない。」(13節)

自分の全存在をもって、全き献身をもって、主のしもべとなることです。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国(みくに)を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23,24)

4、「御名(みな)によって誓わなければならない」(13節)

これは御名を汚さず、御名によって祈り、御名を崇(あが)め、讃美し、御名によって主との約束を果たさなければならないことです。

主イエス様は、サタンの誘惑を受けられた時、13節を引用して、サタンを退けられています(マタイ4:10)。

マタ 4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

これは今日の私たちへの重要な模範でもあり、警告でもあります。とかく、私たちは自分が切り出された岩と掘り出された穴(イザヤ51:1)を忘れてしまいやすいのです。

イザ 51:1 義を追い求める者、【主】を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

これを忘れると、必ず堕落します。

14節、イスラエルはカナンの地では、これまでの放浪する遊牧民から、定住して生活する農耕民となっていきました。そうすると、周囲の異教の農耕民族と交わるようになり、偶像礼拝に陥(おちい)る危険がありました。

申 6:14 ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。
6:15 あなたのうちにおられるあなたの神、【主】は、ねたむ神であるから、あなたの神、【主】の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。

この危険は、そのまま現実となっていって、ついにバビロン捕囚の刑罰を受けるところまで行ってしまったのです。

今日、クリスチャンと教会は、まずキッパリと信仰生活の中から、この世の生き方を取り除かなければなりません。クリスチャンと教会の中に、この世が残っている時、神の民は滅んでいくのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

16節、マサで主を試みたことは(出エジプト記17:1~7)、飲み水がなかったことに対する呟(つぶや)きから生じました。

申 6:16 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、【主】を試みてはならない。

出 17:1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

不平不満の呟(つぶや)きに対しては、主は怒りを発せられます。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦(ゆる)してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

17,18節で、再び祝福の条件が語られています。

17節の主の命令、さとし、おきてを忠実に守らなければならないという命令は、今日、みことばを信じて、毎日、実際生活に活用する生活を意味しています。

申 6:17 あなたがたの神、【主】の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。

18節の「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。」は、みことばによって、主のみこころを知り、主を喜ばせることを実行することであって、私たちが自分の都合に合わせて、自分で正しいと思い、良いと判断することを行なうことではありません。

申 6:18 【主】が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、【主】があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。

クリスチャンもしばしば自己中心の判断で事を行ないやすいので、気をつけなければなりません。私たちは、聖書や信仰について教えを学んでいるだけ、知っているだけでは十分でありません。健全で確かな信仰経験を持ち続けていることと、健全な知識と実際生活での適用のバランスがとれていることが必要です。

これらに対して、祝福の約束が三つ記されています。

1、「あなたはしあわせになり」

これには、霊的祝福、地上生活における祝福、永遠的祝福が含まれているでしょう。

2、「先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。」

主が約束された良い地、アブラハムがあこがれていた神の都、天の故郷に迎え入れられます(ヘブル11:10,16、ヨハネ14:2,3)

ヘブル 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

ヘブル 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

ヨハ 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

3、「あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」(19節)

この世の妨害者も、最後の敵である死も(コリント第一15:26)、サタンも、ことごとく滅ぼされてしまいます。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント第一15:58)

20~25節、子孫に伝えるべき戒め

ここには、主が与えられた戒めは、私たちが守り行なうだけでなく、後の子孫にあかしし、伝えるべきことが命じられています。それは知識として伝えるだけでなく、主をあかしし、主の命じられたことを生活の中で守り行なうように伝え、教えていくことが求められています。

これまでクリスチャンはこのことをおろそかにしたために、子孫への信仰の継承に失敗しているのではないでしょうか。信仰は、自分が持てばよいもの、伝えるべきものと思ってきましたが、ここにもう一つ、主の戒めを伝える方法が命じられています。それは子孫に教え、あかしし、生活の中で守り行なわせるという、訓練を用いる方法です。

主の契約は、わずか一世代の民のために結ばれたものではありません。旧約時代に命じられた契約と律法でも、それらのうち霊的で、信仰的なものは、今日、新約時代においても有効な契約と律法として適用されるものが多くあり、決して単なる道徳的教えとして終わらせてしまってよいものではありません。主の祝福か、刑罰が伴うところの契約であり、律法です。

20節以後で、主は、戒めを子孫に伝えるに当って、親たちが経験したことをあかしすることによって、主の戒めを教えるようにと命じています。親たちが主の律法を忠実に守ることなしに、子どもたちに主の戒めを植えつけることは不可能です。親たちが主の戒めを忠実に守り行なうならば、これ以上に効果のある宗教教育はありません。いかなる教えも、良い具体例がないならば、価値ある教えとなることができません。この点で教会は、模範となる親、模範となる家庭、模範となる聖徒が少ないことが、最大の弱点です。教会は外側の未信者の人々に福音を伝えつつ、教会の内に良き模範をつくらねばなりません。

さらに、ここで、主は親たちは、子どもたちに信仰の基本を教えるように命じています。

1、21節では、パロの奴隷であったエジプトの生活から、主の力強い御手によって救い出されたこと。これは罪からの救いを教えるべきこと。

申 6:21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。

2、22節では、民の目の前で、主がエジプトに対して行なわれた厳しいさばきと、初子を滅ぼされたこと。これは罪の支払う報酬が死であることを教えるべきこと(ローマ6:23)。

申 6:22 【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

3、23節では、神の約束の地に入ること。

申 6:23 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。

これは潔められた信仰生活を営むことを教えるべきこと。

4、24節は、申命記中、何度も繰り返されていることですが、主のご命令は、私たちが幸福に生きるためのものであることを教えなければなりません。

申 6:24 それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

私たちは主のみことばを教える時、恵みなしに、ただ律法的に守るように教えてはなりません。主の恵みの中にとどまって、みことばに従った信仰生活の豊かさを教えなければなりません。これは神の不変のみこころです。主は私たちを苦しめ、悩ませるために、戒めや命令を与え、それを守り行なうようにと教えておられるのではないことを、十分に悟って教えなければ、大きなわざわいになってしまいます。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネ第一5:3)

5、25節、主のご命令を信仰によって、守り行なうことは、私たちの義となり、最高の善となります。

申 6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」

主のご命令と戒めを守り行なうことは、私たちが主を愛し、主を畏(おそ)れているからできることで、それは私たちの信仰の結実であり、証拠となります。そればかりでなく、主のご命令を守り行なうことは、私たちの人格のうちに神の義を根ざさせ、イエス・キリストに似た人格をつくっていくのです。しかしクリスチャンになっても、自分中心の思いと動機をもって、自分勝手な生き方をしているなら、神の義はその人のうちに根ざさず、この世の人と何も変わらない状態にあるのです。

主のご命令に喜んで従う人は、必ず徐々にではあっても、その人の性質が神の義によって成熟してきて、イエス・キリストに似てくるのです。

これらのことを、良き模範として、子どもたちの前に見せることが、信仰の継承と非常に深い関係があるのです。

あ と が き

あかし講演のテープを聞かれて、「家族の中にリバイバルが起きています。」というお知らせをいただいて、主がお用い下さっているのだと知り、主に感謝致しております。
三つの「A」「あわてず、あせらず、あきらめず」は、いかがだったですか。やってみた方の効果のほど、お知らせいただければ、うれしいです。こうしてお送りしているものも、一方通行だけでなく、あかしなどお知らせいただけると、ほんとうに力づけられます。
エペソ4章16節に、「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」とありますが、ただ教えたり、教えられたりするだけでなく、互いに信仰と愛によって心が結び合わされ、組み合わされることによって、キリストのからだが建て上げられていくものと思います。これから寒くなります。お年寄りの方、また北国の方にはご自愛下さいますよう心よりお祈り致します。

(まなべあきら 1995.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型(2013年の訪問時に撮影)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421