聖書の探求(148) 申命記12章 カナンの偶像の根絶、主を礼拝する場所の規定

上の写真は、イスラエルのTel Dan(ダンの遺丘)で発掘された祭壇と石の柱、カナンの異教の偶像礼拝場所だったと思われる。(2013年の訪問時に撮影)


12~26章は、主要な律法を解説しており、カナンの地での、宗教、民事、社会、家庭の問題を扱っており、宗教的、政治的、社会的の三重の性格を持っています。一部は、シナイの律法を反復しており、他は、シナイの律法では扱われていない状況が顧慮されています。これは、主の聖なる民イスラエルがカナンの地に入る時、その全生活を規定することが、この律法の目的です。また神の民の全般の福祉の増進を図る諸雑法です。

12~16章はおもに、主の約束の地に住む時の宗教に関する律法を扱っています。

特に、12章ではカナンの偶像の根絶とともに、主を礼拝する場所についての規定が記されています。

ここでは、主がご自身の御名を置かれた所だけに祭壇を築いて、礼拝するように教えられています(5、11、21節)。これは出エジプト記20章24節と、本質的に一致しています。

申 12:5 ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

申 12:11 あなたがたの神、【主】が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが【主】に誓う最良の誓願のささげ物とである。

申 12:21 もし、あなたの神、【主】が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは【主】が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。

出 20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

(注意点)

申命記中どこにも、エルサレムが唯一の正統な聖所だとは明記されていません。たとえば、シロのように、中心が聖所の役割を果たしていた、エルサレム以外の場所もありました(サムエル記第一1:3,24、3:21、ヨシュア記18:1、エレミヤ書7:12)。

Ⅰサム 1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の【主】を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、【主】の祭司ホフニとピネハスがいた。
Ⅰサム 1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの【主】の宮に連れて行った。その子は幼かった。
Ⅰサム 3:21 【主】は再びシロで現れた。【主】のことばによって、【主】がご自身をシロでサムエルに現されたからである。

ヨシ 18:1 さて、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らによって征服されていた。

エレ 7:12 それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ。

申命記のこの律法の目的は、ヨシヤの宗教改革をうみ出すことにあったと、長い間主張されてきました。しかしヨシヤの宗教改革の主要な出来事は、中央の聖所の強調ではなく、むしろ偶像の撤廃であったことは、注意すべきことです。この事実は、申命記が紀元前七世紀に書かれたとするいかなる見解にも、決定的に反しています。申命記は中央聖所での礼拝が盛んになったダビデの時代よりずっと古い時代、すなわちモーセの時代に書かれたことの重要な証拠となります。申命記12章10節以下によると、聖所はすぐにではなく、主がその敵を除いて、主の民に安息を与えられて後に、はじめて建てられるべきものと言われています。

12章の分解

1~3節、カナンの地における偶像の根絶の命令
4~14節、主を礼拝すること
15~28節、食物といけにえのために獣を殺すこと-血を食べてはならない
29~31節、カナンの偶像礼拝の禁止
32節、戒めの遵守と戒めの増減の禁止

1~3節、カナンの地における偶像の根絶の命令

1節、主の民が主の約束の地で生活するために不可欠なことは、主を礼拝することです。それ故、あらゆることに先んじて、主を礼拝することの規定が記されています。

申 12:1 これは、あなたの父祖の神、【主】が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行わなければならないおきてと定めである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

2節、異教のカナン人は、偶像礼拝の場所として、高い山や丘の上や、木の下を好んで使っていました。

申 12:2 あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。

これは今日でも同じです。高い山や大木を神聖な所、神木と考えています。このような所での彼らの偶像礼拝は、必ず、堕落した行為が伴っていました。イスラエル人がそこに近づくなら、それは罠となり、深刻な偶像礼拝が侵入してきて、異教の民との雑婚が行なわれる危険があります。それ故、そこにある偶像は必ず破壊するように命じられているのです。

3節、祭壇、石の柱(マツェバー、「建てられたもの」の意味)は、カナンの偶像の象徴です。

申 12:3 彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。

石の柱はアシェラ像のすぐ横に建てられていたと言われています(列王記第一14:23、列王記第二17:10)

Ⅰ列王 14:23 彼らもまた、すべての高い丘の上や青木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。

Ⅱ列王 17:10 すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、

石の柱は男神で、木立ち(ヘブル語アシェラー)が女神を表していたことはありうることです。しかし、「マツェバー」は全く正統な記念碑をさすこともあります(創世記28:18、出エジプト記24:4、イザヤ19:19)。

創 28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

出 24:4 それで、モーセは【主】のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。

イザ 19:19 その日、エジプトの国の真ん中に、【主】のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、【主】のために一つの石の柱が立てられ、

ここではカナン人の偶像をさしています。

「それらの名をその場所から消し去りなさい。」石や木の偶像をただ取り除くだけでなく、人々の心の中からも、その偶像の名を消し去るほどの徹底した破壊が命じられています。このことは今日、まずクリスチャンと教会の中にある世俗主義や儀式主義などの偶像を取り去ることから始めなければなりません。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

4~14節、主を礼拝すること

4節、主に対する礼拝は、偶像礼拝の真似事や変形であってはなりません。

申 12:4 あなたがたの神、【主】に対して、このようにしてはならない。

主の御名を汚すようなものであってはなりません。主が定められた実質的内容を保っていなければなりません。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

5節、主の民は、主を礼拝する場所を聖別して、そこで礼拝するように求められています。

申 12:5 ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

「主がご自分の住まいとして御名を置くために」とありますが、イエス様は次のように約束して下さいました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

初めは、移動する幕屋が礼拝の中心(レビ記17:3~7)でしたが、後に、エバル山の祭壇のように(申命記27:5,6)、主の選ばれた所が主の聖所となり、主の民の礼拝の場所となりました(出エジプト記23:19、申命記16:6)。

レビ 17:3 イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、
17:4 【主】の幕屋の前に【主】へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。
17:5 これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、【主】に持って来て、【主】への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。
17:6 また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある【主】の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を【主】へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、
17:7 また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。

申 27:5 そこに、あなたの神、【主】のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。
27:6 自然のままの石で、あなたの神、【主】の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、【主】に全焼のいけにえをささげなさい。

出 23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

申 16:6 ただ、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。

5節のこの「場所」は、神殿(列王記第一5:5、8:16)と、イエス・キリスト(マタイ1:23、ヨハネ2:19~21)をさしています。

申 12:5 ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

Ⅰ列王 5:5 今、私は、私の神、【主】の名のために宮を建てようと思っています。【主】が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる』と言われたとおりです。

Ⅰ列王 8:16 『わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』

マタ 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

ヨハ 2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

6節は、ここでささげるいけにえとささげ物を記しています。

申 12:6 あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

これは礼拝において、全き献身や、誓願、感謝、その他のささげ物をささげることを教えています。十分の一と初子は義務的なささげ物で、その他は自発的なささげ物で、聖なる用途のために聖別されたささげ物です。

7節、礼拝は家族で主の祝福を喜び、楽しむ時です(12:12,18、14:26、16:11,14、26:11、27:7)。

申 12:7 その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、【主】の前で祝宴を張り、あなたの神、【主】が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

申 12:12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。

申 12:18 ただ、あなたの神、【主】が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、【主】の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、【主】の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。

申 14:26 あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。

申 16:11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、【主】の前で、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。

申 16:14 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。

申 26:11 あなたの神、【主】が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。

申 26:14 私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、【主】の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。

申 27:7 またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、【主】の前で喜びなさい。

喜びは、キリスト信仰の本質的要素の一つです。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)

「いつも喜んでいなさい。」(テサロニケ第一5:16)

このほかに、ピリピ人への手紙は、喜びの手紙です(ピリピ1:4,18,25、2:2,17,18,28,29、3:1、4:1,4,10,18)。

ピリ 1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、

ピリ 1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

ピリ 1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

ピリ 2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

ピリ 2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

ピリ 2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。

ピリ 3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

ピリ 4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

ピリ 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ピリ 4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

ピリ 4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

8~9節、イスラエル人はエジプトを出て以来、定住して主を礼拝することは、旅や戦いなどの故にできませんでした。

申 12:8 あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。
12:9 あなたがたがまだ、あなたの神、【主】のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。

しかし主が与えてくださる相続の安住の地であるカナンに入ったなら、そのような生活を続けてはいけない、と命じられています。彼らの生活の特徴は、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」というものでした。

これは今日の大方のクリスチャンもしている特徴ではないでしょうか。しかし、この特徴は、ヨシュアの時代の後の士師の時代になって、再び礼拝を正しく守ることをしない乱世の時代の原因となっています。士師記には、何度もその時代の特徴を示す言葉として、この言葉が記されています。

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)

このことは、主の民が主のみことばとみこころを行なわずに、自分の悟りに頼って、自分の正しいとするところを行なうことによって、人の心の自分中心が現われ、社会が乱れ滅んでいくことを示しています。

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴言12:15)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)

イスラエル人は、エジプト脱出の時代から、カナンに向かう旅の生活、そして不信仰になって四十年の放浪の生活、その次は戦いの時代、そして土師記の乱世の時代を通って、やっとサムエルやダビデという霊的指導者を得て、主を礼拝することを中心とする社会を形成していったのです。

それ故、乱世から主を礼拝するように変わっていくためには、主のみことばとみこころを明確に示す霊的指導者が起こされる必要があります。そのためにサムエルはいち早く、預言者学校を設立して神の人を育てる訓練を始めています。そこから、エリヤやエリシャのほか、多数のすぐれた勇敢な神の人が続々と育ってきたのです。

今日、好んで外国の神学校に行く者や、学歴や職位を誇る者、若者を集める演出家や芸能人のような活動家が増えていますが、本当に迫害や困難をも恐れず、主のことばを語り続ける神の預言者、神の人が育ってきているのでしょうか。ますます教会の中も乱世になってきているのではないでしょうか。これは今日の私たちへの警告として聞かなければならないメッセージです。

10節では、カナンの地での定住が約束されています。

申 12:10 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、【主】があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、

これは主を礼拝することを中心にした生活の結果です。私たちの周囲が異教であっても恐れることはありません。私たちが日ごとに潔めの信仰を更新し、主を礼拝することをしっかりと守っているなら、私たちはいつも勝利を得、平安に生活することができます。主がお守りくださるからです。

11節、主が御名を住まわせるために選ばれた場所が、主の民の中心となります。

申 12:11 あなたがたの神、【主】が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが【主】に誓う最良の誓願のささげ物とである。

そしてイスラエルのすべての男子は、年に三回、過越の祭りと、ペンテコステと、仮庵の祭りの日に全国から集まって来て、いけにえをささげて主を礼拝しました(出エジプト記23:14~17、34:18~23)。

出 23:14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。
23:15 種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。
23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。
23:17 年に三度、男子はみな、あなたの主、【主】の前に出なければならない。

出 34:18 あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。
34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。
34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。
34:21 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。
34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行わなければならない。
34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、【主】、主の前に出なければならない。

主は主の民が礼拝をささげている限りにおいて、外敵から守ってくださったのです。

12節、再び、主の前での喜びと楽しみが強調されています。

申 12:12 あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。

それは息子や娘だけでなく、男女の奴隷たちにまで及んでいます。主に対する真の礼拝が行なわれるなら、一人も残らず、すべての人が喜ぶようになるのです。喜べない人、不満、不平を言う人、争いを起こす人がいるのは、救いや聖化の恵みの経験が明確でないからです。日毎の生活が自分中心で、みことばが信仰によって活用されていないからです。このような人の心を主の喜びで満たすことはできません。このような人が教会の中に多すぎるのではないでしょうか。洗礼を受けているかどうかではなくて、もう一度、教会員に対して救いのメッセージを語り、すべてのクリスチャンと呼ばれている人が回心経験を明確にする必要があります。そうしなければ、喜びを経験することができません。

ここでは、特に、土地が割り当てられていないレビ人が忘れ去られる危険があるので、特別に記されています。レビ人は幕屋の準備や礼拝の準備のために働いていたので、所有地が割り当てられていませんでした。彼らは礼拝者がささげる物で生活するように定められていました。しかし後にイスラエル人がささげ物をしなくなった時、レビ人は幕屋の奉仕を放り出して、田畑を耕すようになっていました。今日でも、教会の奉仕者の生活が忘れ去られがちです。

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(ガラテヤ6:6)

クリスチャンは、度々、主の御前に集まって、主にある喜びと楽しみの礼拝をささげて、神の家族として堅く結び合わされていくのです。このような礼拝は私たちが背教や異教に陥ることから守ってくれます。

「特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)

「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

13節、しかし自己流の勝手気ままな礼拝は禁じられています。

申 12:13 全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。

それは異教化、世俗化していく原因となります。

14節、必ず、主が臨在してくださる所で、主が命じられたように霊とまことをもって礼拝をささげなければなりません。

申 12:14 ただ【主】があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

15~28節、食物といけにえのために獣を殺すこと-血を食べてはならない

これまでイスラエル人が肉を食べるのは、いけにえとして獣をささげた時や祭の時だけでした。人々が幕屋を中心にして、一箇所に集中して生活していた間は、それでもよかったのですが、今後のイスラエルの民の発展に伴って、規則を幾分改訂する必要が生じてきたのです。モーセは、これからイスラエル人がカナンの地に入って行った時に、人々は広い地域に分散して生活し、これまでのように、いつもいけにえの肉や祭の肉を食べることができなくなることを考えたのです。民の発展に対してはそれにふさわしい新しい規則を必要としたのです。勿論、決して変えてはならない真理を変えてはなりませんが、生活上変えていかなければならない規則も時代とともに、民の発展とともに生じてくるのです。これをそのままにしておくと、かえって民は不便や不満を抱くようになり、主を礼拝することから遠去かっていくようになります。変えても支障のないものは、必要に応じて、ふさわしくしていく必要があります。

それまでは、食物のために獣が殺される時は、すべて幕屋の中で行なわれていました。それはすべていけにえの肉でした。しかし民がカナンの地でふえ広がっていくためには、いけにえの肉とは別に、食用の肉のために獣を殺すことが許可されました。いけにえのための牛と羊の肉は、主が選ばれた礼拝の場所でだけ食べることができました。しかしその外に、15、22節で、「かもしかや鹿」を殺して、その肉を町囲みの中で食べることが許可されました。このかもしかや鹿は山地にいる野生の獣で、当時は相当数いたようであり、エサウもよく鹿狩りをしていたようです(創世記27章)。

15節の「主があなたに賜わった祝福にしたがって」とは、このような野生の獣もすべて、主から与えられた神聖なものという原則に立っています。

申 12:15 しかしあなたの神、【主】があなたに賜った祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。

「いつでも自分の欲するとき」とは、以前よりずっと自由に肉を食べることが許されました。しかし、いけにえの肉については、以前と同じようにして食べなければなりませんでした。いけにえの肉を食べるための主の選ばれた場所と祭壇も、カナンの地の中央の幕屋一箇所だけでなく、一般のイスラエル人が勝手に祭壇を作ってはいけませんでしたが、神の霊感を受けた権威ある預言者や指導者は特別な状況において、祭壇を築くことが許されていました。

まず、モーセはエバル山に中央の祭壇を築くことを命じました(申命記27:5~7)。

申 27:5 そこに、あなたの神、【主】のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。
27:6 自然のままの石で、あなたの神、【主】の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、【主】に全焼のいけにえをささげなさい。
27:7 またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、【主】の前で喜びなさい。

しかしサムエルは中央の祭壇がなかった時、ミツパに別の祭壇をつくって、いけにえをささげています(サムエル記第一7:9,12)。

Ⅰサム 7:9 サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして【主】にささげた。サムエルはイスラエルのために【主】に叫んだ。それで【主】は彼に答えられた。

Ⅰサム 7:12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。

エリヤもカルメル山に祭壇を築いています(列王記第一18:30~32)。

Ⅰ列王 18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。

しかしこれらの祭壇は、はっきりと他の偶像の祭壇と区別されていなければなりません。
18,19節、ここでも、主のために奉仕し、相続地を持たないレビ人をないがしろにしないようにと警告されています。

申 12:18 ただ、あなたの神、【主】が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、【主】の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、【主】の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。
12:19 あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。

時々、レビ人がないがしろにされた時代もありましたが、その時、レビ人は主のための奉仕を止めて、田畑を耕し始め、礼拝は中断されてしまいました。

さらにここで特に言われていることは、「血は絶対に食べてはならない。」(16,23節)ということです。いけにえの血は主の祭壇に注ぎ出さなければなりません(27節)。

申 12:16 ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

申 12:23 ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。

申 12:27 あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、【主】の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、【主】の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。

しかし、かもしかや鹿のような野性の獣を殺した場合、その血は、異教の偶像の祭壇に注がれないように、地面に水のように注ぎ出さなければなりません(16,24節)。

申 12:16 ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

申 12:24 血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。

ここで「血」について、何度も強調されているのは、明らかにキリストの十字架のあがないを予表しています(レビ記16章、ヘブル9:12~14、ペテロ第一1:18,19、ヨハネ第一1:7)。

ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

Ⅰペテ 1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ここで、「血を食べてはいけない。」と言われているのは、血はいのちであり、神のものだからです。しかし今日、神のいのちを受けるためには、主イエスは、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。‥‥‥」(ヨハネ6:53~57)と言われました。

ヨハ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

今日、私たちは、毎日、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むという信仰の営みをしなければ、永遠のいのちを持続することができません。教会の集会の時だけでなく、毎日の個人生活においても、キリストの肉と血を食べるという、霊的信仰の営みをする必要があります。これらのことを行ない続けるなら、必ず、あなたも後の子孫も永久にしあわせになります(28節)。

申 12:28 気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、【主】がよいと見、正しいと見られることをあなたが行い、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。

29~31節、カナンの偶像礼拝の禁止

29,30節、イスラエル人がカナンの地に入って、カナンの異教の偶像を断ち滅ぼして、根絶やしにした後でも、カナン人にならって、彼らの偶像のわなにかかる危険があることを警告しています。

申 12:29 あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、【主】が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、
12:30 よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」と言わないようにしなさい。

カナン人がいなくなっても、人の心の中にはその偶像の風習や習慣は残っており、そのわなに陥る危険があります。教会の歴史はそれを語っています。どんなに栄えた活動や集団でも、しばらく後には、必ずと言っていいほど、世俗化したり、異教化の道をたどっているのを見ます。モーセは、大勝利のあとに忍び込んでくるこの危険を予測して、この警告を語ったのです。それは「彼らにならう」、すなわち、この世の人の真似をすることによって、この世のやり方を取り入れることによって、サタンのわなに陥っていくのです。これは服装にしても、結婚式にしても、教会のあらゆる行事や活動にしても、この世の人を真似ることによってサタンのわなにひっかかっていくのです。

31節、この世の習慣にならうことは、恐ろしい結果を招くことになるのです。

申 12:31 あなたの神、【主】に対して、このようにしてはならない。彼らは、【主】が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」(ペテロ第一1:15)

32節、戒めの遵守と戒めの増減の禁止

申 12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。

滅亡の危険より免れる道は一つしかありません。それは神のご命令を忠実に守り行なうことです。

「これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」は、ヨハネの黙示録22章18,19節でも繰り返されています。

黙 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

自分の都合に合わせて、みことばを曲解したり、水増したり、割り引いたりしてはなりません。自分に都合のいい解釈をしてはならないのです。

(まなべあきら 1996.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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