聖書の探求(149) 申命記13章 偶像に誘う者の根絶、起こりうる三つの背教の場合

この章は、偶像に誘う者を根絶するように命じています。この章は、起こりうる三つの背教の場合を上げています。

13章の分解

1~5節、預言者や夢見る者のことばに従ってはならない-主は、私たちが心を尽くし、精神を尽くして主を愛するかどうかを試みておられる

6~11節、親族や友人たちのそそのかしに従ってはならない-殺されなければならない

12~18節、町の住民を偶像に誘うよこしまな人々の根絶

モーセはここにおいて、十戒の第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)を厳しく取り扱っています。

イスラエル人はカナン入国後、カナン人を滅ぼし、偶像を抹殺するのですから、当然、彼らのうちから偶像を作り出してはならないのです。もしイスラエルが主に背反するなら、彼らもカナンの異教徒と同じように厳しい神の審判を受けるのは当然です。このことは今日のクリスチャンにも当てはめなければならないのは当然です。安易な世俗化と背教は自らを滅ぼすものです。

1~5節、背教の警告(1)

預言者や夢見る者によってひき起こされる背教に対する警告です。

申 13:1 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
13:2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
13:3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、【主】を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

「預言者または夢見る者」これはおもに神秘主義的性格の強い人々であったと思われます。神の啓示を受けていない宗教者には、こういう人が多い。これは、異教徒の中にも多く存在していたし、またイスラエル人の中にも主の啓示を受けずに、主のみ旨に反することを語る偽預言者がいたことを聖書は語っています(列王記第一22:6,8,20~23、エレミヤ書6:13、28:1~17)。

Ⅰ列王22:6 そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」彼らは答えた。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」

Ⅰ列王 22:8 イスラエルの王はヨシャパテに答えた。「いや、ほかにもうひとり、私たちが【主】のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」すると、ヨシャパテは言った。「王よ。そういうふうには言わないでください。」

Ⅰ列王 22:20 そのとき、【主】は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。
22:21 それからひとりの霊が進み出て、【主】の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、【主】が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。
22:22 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。
22:23 今、ご覧のとおり、【主】はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。【主】はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

エレ 6:13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。

エレ 28:15 そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。【主】はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。
28:16 それゆえ、【主】はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。』」
28:17 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。

彼らは新約聖書では、悪へと誘惑するサタンの手下です(マタイ24:24、ヨハネの黙示録19:20)。

マタ 24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

黙 19:20 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

彼らは何も出来ない存在ではありません。むしろ信仰のはっきりしないクリスチャンよりも多くのしるしや不思議を行ないます。すなわち奇跡のようなものや物質的繁栄をもたらしたりすることができるのです。そして、その奇跡や物質的繁栄のわざを見せて、神の民を誘惑するのです。マタイの福音書4章8,9節で、イエス様を誘惑した時も同じです。

マタ 4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

大抵のクリスチャンが、このサタンの誘惑で背教してしまっているのです。

しかしそれはエデンの園でサタンがアダムとエバを誘惑した時から、本当の繁栄は与えていないのです。見かけだけの偽りの繁栄でしかありません。アダムとエバはそのサタンの言葉に従いましたが、モーセはその「ことばに従ってはならない。」(3節)と命じました。

申 13:3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。・・・・・

しかし実際は、イスラエル人はこのことばに従ってしまったのです。

3節後半、このような誘惑の言葉は、あなたが本当に、心を尽くし、精神を尽くして主を愛しているかどうかを知るための試金石として主が用いておられるのです。

申 13:3 ・・・・・ あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、【主】を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

もし私たちの信仰が欲得を求めるための信仰なら、直ちに誘惑の言葉にひっかかって従うであろうし、本当に主を愛している信仰なら誘惑の言葉を拒み、退け、主にのみ従うことができることを示しています。

4節は、六重の言葉で、主に従うべきことを命じています。

申 13:4 あなたがたの神、【主】に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。

(1)主に従って歩み-生活の実践
(2)主を恐れなければならない-主への畏敬
(3)主の命令を守り-忠実さ
(4)御声に聞き従い-即刻の従順な服従
(5)主に仕え-愛の動機(コロサイ3:23)

コロ 3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

(6)主にすがらなければならない-主への信頼

信仰の堕落をしない最善の方策は、神への全き献身と服従を具体的に実行して、主の恵みを受け続けていくことです。聞いて知っているだけの信仰では、サタンの誘惑に対して大盾として役に立たず、すぐに堕落し、背教してしまいます。

この4節の動詞の先には、すべて「主」が強調されています。私たちの前にいつも主をおいて生活するなら、堕落はありません。いつも主にゆだねて潔められ、聖霊に満たされた生活ができます。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8,9)

5節には、もう一つの危険が暗示されています。

申 13:5 その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、【主】に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、【主】があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

すなわち、一般の民衆は、根拠なしに、地位のある者、公的立場にある者、権力者や有名人の言葉を簡単に信じてしまいやすいことです。たとい預言者であっても、間違ったことを言ったり、行なったりする危険性があります。預言者が主のみことばに忠実である限りは従うべきですが、主のみことばからそれるなら、その言葉は拒否されなければならない。それに従うなら、あなたも偽預言者の仲間となって神の刑罰を受けるのです。

5節では、預言者たちが、ただ間違えたというだけでなく、そそのかし、故意に迷い出させようとしている意図があることが示されています。今の牧師たちの中にも、信仰が明確でない迷える他の教会員に対して、軽々しく他の牧師や教会の悪口や陰口を一言う人がいます。それは、その迷える人を自分の教会の教会員にしようという意図があるからだと思いますが、これは単純なミスではありません。これは明らかに故意なる神への反逆です。今の教会には、信仰が明確でなくても洗礼を受けさせたり、他の教会員を簡単に受け入れてしまう傾向があります。表面上の、正当な理由はいろいろ付けていますが、このような傾向が日本全体の教会員を、我侭な放浪者のようにしてしまっているのです。「迷える羊を導くため」とか言っているのを聞きますが、本音は教会員を増やし、献金を増やすことが目的ではないでしょうか。「人数が減った。献金が減った。」という話は、よく聞かされます。このような牧師が沢山いる限り、決して主の働きは進んでいきません。勿論、教会の人数が増えてくるのは幸いですし、献金が増えてくるのも幸いです。しかしそれは主の恵みと真実な献身的な奉仕の結果です。口実が何であれ、人数と献金を増やすために、洗礼を受けさせ、他教会員をすぐに受け入れることは、真実な奉仕とは言えないでしょう。

6~11節、背教の警告(2)

ここでは、身近な家族や友人たちによって背教がそそのかされる危険を警告しています。歴史的に見るならば、夫婦の不信仰な影響によって背教に陥る危険が一番多く、親や友人の影響によって背教する者も少なくありません。しかもこれが、神の民であるイスラエル人の家族の中で起きることの故に、重大なことなのです。異教徒を取り除いた後に、自らが異教徒と同じ道を歩むなら、主は異教徒に下したのと同じ審判を下されます。私たちがこの世を離れて教会に来た後、教会の中で世俗化していくなら、この世の人と同じさばきを受けることになるでしょう。

6節に「母を同じくするあなたの兄弟」「息子、娘」「あなたの愛妻」「あなたの無二の親友」とある、これらの修飾語や血縁関係を見ると、このような恐ろしいことは、神と自分との関係よりも、肉親の関係、血縁関係、人間関係を重要視するところから生じています。クリスチャンが背教する原因は、大抵こういうものによっています。

申 13:6 あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、
13:7 地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。

ダビデは詩篇27篇10節で、「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」と、親との関係よりも、主との関係を重視しています。

主イエスもマタイの福音書10章37節で「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われ、同12章50節で、主イエスの母マリヤと兄弟たちが主イエスのもとを訪れたとき、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われて、肉親の家族以上に、神との関係を重要視するように教えられました。これは神を中心とした家族形成の重要性を強調しています。ただ、夫婦がクリスチャンで、家族で教会に行っているというだけでは十分ではありません。家族の一人一人がみことばを握った信仰生活を営んでいくように指導していく必要があります。クリスチャン・ホームが増えたと、単純に喜ぶ牧師がいますが、それは落し穴になる危険性があります。ほとんどのクリスチャンが、神との関係よりも、肉的関係を重視するために、せっかく救われていても背教する者が多いのです。

6節、「ひそかにあなたをそそのかし」とは、気づかないうちに、心は神から遠去かり、聖書や祈りなど、霊的なことに無関心、無感覚になり、主に不服従になってしまっていくのです。現代のクリスチャンが祈祷会にあまり出席していません。いろいろ事情があるとは思いますが、この状況が全国どこの教会でも、ほとんど同じであることは、霊的無関心によるものではないでしょうか。祈祷会にクリスチャンがみんな集まり始めたら、神の力強いみわざが始まることは確かです。

6節、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」という誘惑やそそのかしは、私たちのまわりを取り囲んでいます。

異教的な思想、哲学、教育、慣習、生き方、価値観は、私たちの周囲にあふれています、8~11節は、その対策です。

8節、第一は、彼らに耳を貸さないこと、信じるつもりがなくても、異教の思想を読んだり、聞いたりしていると、気づかないうちに、その影響を受けて不純になっていきます。

申 13:8 あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。

この世の考え方にも、一部道理にかなったように見えるものがあります。しかしそれに同意したり、納得したりしてはなりません。そこには必ず、ワナが仕掛けられており、根本的には異教の性質がしみ込んでいるからです。このようなものに憐みをかけたり、同情したり、かばったりしてはなりません。肉親であるということの故に、不信仰な者をも弁護したり、弁解したくなることがあります。もしそうするなら、あなたも彼らと同じ、不信仰な者に下る神の刑罰を受ける危険があります。

9~10節、彼らへの厳罰が記されています。

申 13:9 必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。
13:10 彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、【主】から、あなたを迷い出させようとしたからである。

彼らがそのまま生かされているなら、増え広がって、神の民を滅ぼしてしまうでしょう。教会の中からは、たえず不信仰を取り除かなければなりません。特に、他人に不信仰な影響を与える者や、そそのかす者は、厳重に取り除かなければなりません。人を信仰の道から迷わす者は、厳罰に処せられなければならないと言っています。教会は、どんなことをしても許される所ではないのです。

11節、このような厳罰によって、イスラエルのうちから、悪しき行ないが消えていくはずです。

申 13:11 イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行わないであろう。

イ、教会では、まず救われていない人に洗礼を受けさせて教会員にしないことです。教 会員は全員、はっきりと救いを持っている者でなければなりません。

ロ、救われている者は、熱心に聖潔の恵みを求めるように導かなければなりません。こ の世と調子を合わせ、この世と妥協し、この世に未練を持つ生活をしているなら、必ず信仰から脱落していきます。

ハ、そして、すべてのクリスチャンが聖潔の恵みに与かり、成長して実を結ぶことを積 極的に求めなければなりません。

クリスチャンがこれらのことを怠るなら、教会は必ず不信仰に満たされ、教会全体が世俗化し、背教していくことになります。教会堂の建物があっても、人が集まっていても、教義や規則があっても、イエス・キリストが教会員のひとり一人のうちにいなければ、それはもはや、キリストのからだでも、神の家族でもなくなってしまいます。

最初の教会には、教会堂の建物はなく、教義や規則を記した書物もなく、ただイエス・キリストがおられたのです。現代の教会は、これと全く逆になっていないでしょうか。

12~18節、背教の警告(3)

12節からは、社会性が強調されています。

申 13:12 もし、あなたの神、【主】があなたに与えて住まわせる町の一つで、
13:13 よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、
13:14 あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行われたことが、事実で確かなら、
13:15 あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。

13節の「よこしまな者」は、べリアルの子たち、すなわち、サタンに支配されている下劣な者たちのことです。
彼らはしばしば、宗教や社会的権力を使って一般社会の人々に悪影響を与えてきました。これは今日でも同じで、ベリアルの子たちが教会の中でも働いていて、信仰者たちを迷わせています。彼らは、信仰者に多少の非を許容させ、この世の快楽に溺れることも許容させ、聖い生活をさせなくし、低俗な信仰生活を容認させる者たちです。彼らは、この世にならった肉欲的な生活をすることが、最も進歩的なすばらしいことであるかのように宣伝して、人々を惑わせているのです。

15節を見るなら、彼らによって迷わされ、神に公然と反逆する状態に陥る危険があることが予想されています。

14節以後は、三つのタイプの背教に対する厳粛な審判を記しています。

第一は、よく調査し、尋問して事実を確かめること。旧約のさばきにおいても、その特徴の一つは、事実を確かめることにあります。推測でさばかないこと。証人は必ず二、三人以上を必要としています。噂や虚偽の証言でさばいてはならない。しかしアハブとイゼベルは、二人のよこしまな者の証言によって、ナボテを殺し、ナボテのぶどう畑を奪い取っています(列王記第一21章)。主イエス・キリストも、よこしまな祭司長、律法学者、パリサイ人、そしてよこしまなイスカリオテのユダと無知な群衆の「十字架につけろ」という叫び声によって、十字架につけられたのです。この世は偽りの証言に満ちていると言っていいでしょう。それに惑わされないためには、永遠に真実な証言である神のみことばを信じる以外に道がありません。

第二は、罪に対しては厳罰が科せられています。それは道徳的犯罪のみならず、偶像礼拝をはじめとして、神への不服従は最も厳しい死刑とされています。それはいつでも徹底しています。使徒の働き5章で、アナニヤとサッピラの夫婦が偽りの動機から献金をささげたとき(おそらく、その献金は多額であったと思われます。)、ペテロから「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺(あざむ)いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒五3~4)と言われ、アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶え、この夫の死を知らずに三時間後に入ってきた彼の妻サッピラも同じ理由で、たちまちペテロの足もとに倒れて、息が絶えてしまいました。

現代のクリスチャンは、あまりにも神を、キリストを、聖霊をあなどって、自分勝手なことをしすぎているのではないでしょうか。その結果は必ず出てきます。

「思い違いをしてはいけません。神は侮(あなど)られるような方ではありません。人は種を蒔(ま)けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔(ま)く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔(ま)く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:89)

私たちは、このみことばを厳粛に受けとめるべきではないでしょうか。

15節では、町の住民のすべての者、家畜までも、16節では、略奪物のすべてを火で焼き尽くし、町そのものが永久に廃墟にされ、再建することが許されていません。背教によって得られる利益は何一つないことが、徹底的に教えられています。

申 13:15 あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。
13:16 そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、【主】への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。

罪を大目にみることは、クリスチャンのすべきことではありません。自分をも、教会をも滅ぼすことになります。罪は厳密に取り除いていかなければなりません。

「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」(コリント第一5:6~8)

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」(コリント第二6:14~18)

神は最終的には、ご自分の民としたイスラエルをご自分の約束の地から、捕囚によって全部取り除いてしまうところまで、罪を取り除かれたことを覚えなければなりません。教会が、少しでも罪を許容する態度をとるなら、教会は自ら滅びることになります。

17節は、主の祝福を受ける条件が記されています。

申 13:17 この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。【主】が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。

神が忌み嫌われる聖絶のものを自分のものとしてはなりません。それを手もとに残しておくことによって、神の燃える怒りを受けることになります。神の民が繁栄し続ける第一の条件は、神の忌み嫌われるものを全く取り除くことです。

18節は、もう一つの条件を記しています。

申 13:18 あなたは、必ずあなたの神、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、【主】が正しいと見られることを行わなければならない。

これは、これまで申命記中、何度も命じられていることです。すなわち、「あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私がきょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなけれはならない。」ことです。信仰は実際の生活において、神のみことばを行なうことによって、いのちを持つのです。実際に行なわない信仰は、信仰とは言えません。死んでいます(ヤコブ2:26)。

ヤコブ 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

それは、祝福も、結実も、もたらしません。クリスチャンは毎日の生活が信仰の働きの場となっていなければなりません。

「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(ピリピ1:27)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

あ と が き

 梅雨明けを思わせる暑い目が続いていますがお元気でしょうか。この聖書の探求が皆様の所に届くころには、真夏の太陽が輝いていることと思います。私たちは難渋な働きを続けてきましたが、それで本当によかったと思っています。ある人は非難されましたが、多くの人々は喜んでくださり、成長して実を結んでいってくださっている方が日本の各地に起こされて、増えつつあることは、本当にうれしいことです。このような聖書の探求の発行は他に見ませんが、これを今日まで続けることができましたのは、主の恵みと皆様の祈りとご支援によるものです。この聖書の探求を通して、聖書が分かるようになったと言ってくださる方も出てきております。またお友だちから紹介されて、お申し込みくださる方もおられます。また、この書を学びつつ、天に帰られた方もおられます。今後も、皆様のお祈りとご支援に支えられて励みたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。

(まなべあきら 1996.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上のイラストは、Doodle Through The Bible My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time!のサイトから引用しました。Scripture quotations taken from the NASB © The Lockman Foundation


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