聖書の探求(152) 申命記16章 過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り、さばきつかさ

この章で語られている三つの年祭は、イスラエル人がカナンに定住した時に、中央神殿に詣でて祝う三つの大きな祭りのことです。それらは16節にまとめて語られています。

すなわち、種を入れないパンの祭り(過越(すぎこし)の祭り)、七週の祭り、仮庵(かりいお)の祭りです(出エジプト記12章、23:14~17、34:18~23)。これらの三大祭りのくわしい内容は、レビ記23章、民数記28章16節~29章全体に記されています。

上の絵画は、1897年のBible Picturesのイラスト「The Angel of Death and the First Passover(初子を殺そうとする天使と最初の過ぎ越し)」 (Wikimedia Commonsより)

分解

1~8節、過越(すぎこし)の祭り(ペサハ)・・・春
9~12節、七週の祭り(シャブオット)・・・夏
13~15節、仮庵(かりいお)の祭り(スコット)・・・秋
16,17節、三大祭りの締括りの再述
18節~17章7節、さばきつかさ

1~8節、過越(すぎこし)の祭り(ペサハ)・・・春

申 16:1 アビブの月を守り、あなたの神、【主】に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、【主】が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。
16:2 【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、【主】にささげなさい。

この三大祭りの第一のものは、過越の祭りです。この祭りは過越とともに、その後に、七日間、種を入れないパンの祭りを伴っています。これはカナンの暦の第一月アビブの月に行なわれました。「アビブ」とは、「とうもろこしの緑の穂」を意味します。バビロン捕囚の後は、カナン名の「アビブ」から、バビロンの暦の名称の「ニサン」と呼ばれるようになりました。これは今日の太陽暦では、三~四月です。

三大祭りは、すべてのイスラエル人が神の民としての一体性を堅く保つために有効でした。その中でも過越の祭りは、ユダの王国時代の宗教改革の時には、ヒゼキヤ(歴代誌第二30章)やヨシア(歴代誌第二35章)によって盛大に行なわれ、それは民全体に信仰のリバイバルを巻き起こしています。

3節、この過越の祭りの目的は、イスラエル人にエジプト脱出の日の夜、主がエジプト人の長子を打ち、イスラエル人を子羊の血によって贖(あがな)われたことを覚えさせるためです。

申 16:3 それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。

この「覚える」は申命記全体の中で重要なメッセージの一つです。勿論、この「覚える」は記憶することではなく、すなわち、時間が過ぎても、出来事を忘れないようにするためだけでなく、自分が神によって贖(あがな)われたのだという信仰の自覚を深くすることです。パウロはコリント第一5章6~8節で、「私たちの過越の小羊キリスト」について語っています。

Ⅰコリ 5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

ここでパウロは高慢、悪意、邪悪の古いパン種を取り除いて祭り(礼拝)をしようではありませんか、と言っています。今日、クりスチャンはもっと、自分がキリストの血によって贖(あがな)われた者であるという信仰の自覚が必要です。この自覚が増せば、救いの確信を持ち、聖潔の恵みに与かるはずです。この自覚を失うと、クリスチャンは罪の泥沼に陥ってしまう。

2,5,6節、この過越のいけにえは、各々勝手に自分たちの町囲みの中でほふることはできません。

申 16:2 【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、【主】にささげなさい。
16:5 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。
16:6 ただ、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。
16:7 そして、あなたの神、【主】が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。

この過越のいけにえは、必ず神が選ばれた中央神殿で、ほふられなければなりません。「夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。」(6節)と、時刻まで定められています。これは単純なことではありますが、非常に重要なことです。私たちの過越のいけにえは、イエス・キリストの十字架であって、これ以外に、各々が自分で勝手に捏造(ねつぞう)してはならないからです。

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたに宜べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテヤ1:6~8)

4節、また、その肉は、残さず、その日の内に食べるように命じられています。

申 16:4 七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。

主も、ヨハネの福音書6章53~57節で、主イエスの肉を食べる者は生きると言われました。

ヨハ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

この霊的意味は、信仰によって、主イエスを自分の霊魂の内に受け入れることです。

8節、七日目には、「主へのきよめの集会」を行ないます。

申 16:8 六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、【主】へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。

これは「拘束された厳粛な集会」という意味であり、仕事をせず、定められた場所に集合し、すなわち、中央神殿に集まって、律法の教えを聞くことを意味していました。しかし残念ながらイスラエル人たちはカナン入国後、この過越の祭りを長い間行なっていなかったようです。その結果、すぐにイスラエル人の間に信仰の堕落が始まり、士師の時代がやってくることになるのです。イスラエルの王国時代の異教諸国との妥協と偶像礼拝は、カナン入国後、過越の祭りを怠っていたことが原因となっています。今日、キリスト教会がイエス・キリストの十字架の贖罪(しょくざい)を強調しなくなっていることは、クリスチャンの信仰の堕落と衰退の大きな原因になっているのです。私たちはこの警告を深く覚えなければなりません。

9~21節、七週の祭り(シャブオット)・・・夏

上の絵画は、ドイツの画家 Moritz Daniel Oppenheim (1800–1882)により1880年頃に描かれた「Shavuot (Pentecost) (七週の祭り、ペンテコステまたは五旬節)」ニューヨークのJewish Museum蔵(Wikimedia Commonsより)


申 16:9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。

七週の祭りは、大麦の刈り入れの始めから七週間(五十日、ギリシャ語で、「五十」はペンテコステ)守らなければなりません。この祭りは、感謝と服従と喜びを意味するささげ物をする時です。

10節は、主が賜わる祝福に応じた、自発的なささげ物を、それも自分の手でささげるように命じています。

申 16:10 あなたの神、【主】のために七週の祭りを行い、あなたの神、【主】が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。

ここには一つの信仰の試みが含まれています。それはささげる者のささげ物によって、その人が主から受けた祝福を、どれくらい値(あた)い高く考えているかが計られるからです。今日、私たちはささげ物の量によって、感謝の内容を計ることはできませんが、それでも全力を尽くしているかどうかによって、神の祝福に対する感謝の程度が計られているのです。

「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、貧しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ21:41~44)

11節、これはレビ人から奴隷、在留異国人、みなしご、やもめに至るまで、全員が守るべき祭りでした。

申 16:11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、【主】の前で、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。

これは主の御名を住まわせるために選ばれた場所、すなわち中央の神殿で祝うべき、特別な祭りでした。「喜びなさい。」は、主にささげた物を自分たちで食べることを言っています。このような祭りの時は、貧しい奴隷や、在留異国人、みなしご、やもめたちにとって、十分に食べることができる数少ない時であったでしょう。落ち穂を拾って生活しなければならなかったナオミやルツたちにとって、楽しい、喜びの時となったに違いありません。

12節、イスラエルがエジプトで奴隷であったことを覚えて、この祭りを守るように命じています。

申 16:12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行いなさい。

私たちは自分が罪のために苦しんでいた罪の奴隷の時代のことを忘れる時、自分を愛するように隣人を愛することを忘れてしまうのです。このご命令は、主への贖(あがな)いの感謝と、今後の服従と、そして在留異国人や奴隷やみなしご、やもめなど、弱い立場にある人々への愛と同情の行ないをさせるためのものです。

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)

私たちも、自分がどういう状態から救い出されたかを、たえず覚えていないと、高慢になってしまい、神の愛を失ってしまうのです。

「あなたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)

13~15節、仮庵(かりいお)の祭り(スコット)・・・秋

上の写真は、アメリカのG. Eric and Edith Matson Photograph Collection 収録、1900~1920年に撮影された「Feast of Tabernacles [Bukharan Jews during Sukkot](仮庵の祭り、ブハラ・ユダヤ人のスコット)」(1900~1920年に撮影)、アメリカのLibrary of Congress蔵(Wikimedia Commonsより)


申 16:13 あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。
16:14 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。
16:15 あなたの神、【主】のために、【主】が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、【主】が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。

この祭りは、大麦や小麦の刈り入れの後、ぶどう園や果樹、その他の穀物の収穫の最後の取り入れの後の祝いの祭りです。これも、先の七週の祭りと同様に、すべての者が守り、七日間、喜びと感謝の祭りを行ないました。この祭りはイスラエルの大祭の中で、最も豊かな時期に行なわれ、最も楽しい、喜びに満ちた祭りでした。イスラエルの祭りには、過越の祭りのように質素で厳粛な祭りもあれば、楽しみにあふれた豊かな祭りもありました。しかし、どの祭りも、主の祝福を喜び祝うものでした。

16,17節、三大祭りの締括りの再述

申 16:16 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、【主】の選ぶ場所で、御前に出なければならない。【主】の前には、何も持たずに出てはならない。
16:17 あなたの神、【主】が賜った祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。

これまで述べてきましたイスラエルの三大祭りには、三つの大きな特徴がありました。

第一は、神の民は、神の贖(あがな)いの真理をいつも思い出さなければならなかったことです。(1,3,6,12節)

第二は、すべての祭りは、喜びの時であったということです。

第三は、すべての祭りの時に、神の祝福に応じた感謝のささげ物をする時でなければなりませんでした。

今日、クリスチャンが行なっている集会や行事は、主の救いの真理にしっかりと基づいているでしょうか。愛と喜びの交わりは行なわれているでしょうか。主の祝福に対する感謝のささげ物をささげているでしょうか。毎週の集会は、喜び、感謝、服従などに満ちたものになっているでしょうか。旧約時代と仕方は変わっていても、その実質的内容は正しく受け継がれていかなければなりません。私たちのささげ物は、心を尽くしたものとなっているでしょうか。それが次の祝福へとつながっていくのです。霊的な働きは、必ず結果を生み出していくことを、決して忘れてはなりません。

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(コリント第二8:1~5)

神が、イスラエルにこの三大祭りを定められたことは、イスラエルに大いなる祝福を与えるためでした。しかし、モーセの死後、この祭りはほとんど行なわれませんでした。それ故、イスラエルは異教的偶像へと陥っていったのです。私たちも、なんとなく集会を守り行なっているだけなら、必ず霊的いのちを失って衰退し、世俗化していくことになるのです。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

16章18節~17章7節、さばきつかさ

上の写真は、イスラエルのテル・ダン(古代ダンの丘状遺跡)にある城門の入口にあるさばきつかさの台座(手前に置かれた丸い石は柱の台)、その上の写真はさばきつかさの想像図(2013年の訪問時に撮影)


16章18節~21章は、民を統治する律法を扱っており、そのテーマは宗教的律法から、政治や司法的律法へと移っています。

ここでは先ず、その律法を執行する人々から始めています。

16章18節~18章は、つかさの義務について語られています。

つかさについては、1章16~18節でも語られていますが、ここでは更に詳しく付け加えられています。

申 1:16 またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。
1:17 さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」
1:18 私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。

その中でも、16章18節~17章7節は、「さばきつかさ」について記しています。さばきつかさは各地域のリーダーとなる人々で、各部族ごとに任命されることになっています。
1章15節では、さばきつかさに選ばれる者は、部族のかしらたちの中から、知恵があり、経験のある者たちで、指導力のあるリーダーでなければなりませんでした。

申 1:15 そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。

彼らは各々の地域にあって、民を指導していく責任を負っていました。使徒の教会でも、「あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を達びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」(使徒6:3)と言っています。ただ、教会に長く来ているからとか、楽器が弾けるからとか、熱心だからというだけで、教会のリーダーにするのは誤りです。本人を高慢にさせるだけです。聖霊に満ち、神の知恵に満ち、よい証しの立っている、真実に潔められている、へりくだった人で、よく訓練に耐えた人を、教会のり-ダーにすれば、祝福を受けるのです。こういうリーダーが起きることこそ、今日の教会が地域にあって、発展、成長していく鍵です。

18節、町囲みの門は、さばきつかさが坐り、大切なことが処理される公的な裁判所の役割をしていました。

申 16:18 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。

さばきつかさに要求されていることは、私情をはさまずに、正しいさばきをすることです。ここに、そのいくつかの警告がなされています。

19節、第一に、公正なさばきを堕落させる最も大きな悪、賄賂を拒否するように、特に強調されています。

申 16:19 あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

これは今日まで、人類史上ずっと続けられている悪です。リーダーは私利私欲、自分の都合のためにさばきを曲げたり、人を片寄り見たりしてはなりません。賄賂がなくても、人情がらみで、正しい指導をゆがめてはなりません。賄賂や人間的付き合いは、どんなに霊的に正しい、知恵ある人をも堕落させ、その正しい基盤をゆるがせにしてしまいます。霊的目を曇らせてしまうのです。

20節、次に、神の義こそ、第一に守るべきであり、追求すべきであり、固執すべきです。

申 16:20 正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

これが祝福をもたらし続ける中心的条件です。これを守っている限り、さばきつかさはリーダーとしての資格を失うことはありません。神の義を固執することこそ、今日においても、霊的リーダーが力を持ち続ける源です。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

次に、三つの宗教的罪について、警告しています。

第一は(21,22節)、当時、中央神殿以外にいくつかの祭壇が認められていました。日常は、そこで主にいけにえをささげていました。

申 16:21 あなたが築く、あなたの神、【主】の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。
16:22 あなたは、あなたの神、【主】の憎む石の柱を立ててはならない。

しかし、その主の祭壇のそばに、偶像のアシェラ像を立ててはならないという禁止です。これは、主の祭壇から「離れていればアシェラ像を立ててもいいのか」という問題ではありません。主を信じる礼拝と同時に、偶像を拝む宗教が侵入してくることを禁止したのです。しかし、後にイスラエルは主の神殿の中にバアルとアシェラの像を立ててしまったのです。今日、キリスト教会の中にも異教的習慣や考え方、価値観、生活様式が沢山混入しているのではないでしょうか。これは勇気をもって取り除いていかなければなりません。

「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」(出エジプト記33:16)

「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。」(民数記23:9)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民をご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

第二(17:1)は、欠陥のある牛や羊をいけにえとして主にささげることでした。

申17:1 悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、【主】にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、【主】の忌みきらわれるものだからである。

これは今日の私たちに多くのことを教えてくれています。

第一に、私たち自身、毎日、潔められた生活を主に生ける供え物としてささげるべきだし(ローマ12:1)、

ロマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

また、讃美も、高慢や自己満足などの汚れのないものをいけにえとしてささげるべきであるし(ヘブル13:15、イザヤ57:19、ホセア14:2、詩篇96:1~4)、

ヘブル 13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

イザ 57:19 わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と【主】は仰せられる。

詩 96:1 新しい歌を【主】に歌え。全地よ。【主】に歌え。
96:2 【主】に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。
96:4 まことに【主】は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

さらに、献金も、奉仕も、欠陥のない潔められたものをささげるべきです。

私たちの罪のためには、イエス・キリストという罪も、汚れも、しみもない、欠陥の何もないいけにえがささげられたのですから、私たちのささげ物も欠陥のないものでなければなりません(コリント第二8:1~5、9:6~8、エペソ五5:26,27)。

Ⅱコリ 8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
8:2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

Ⅱコリ 9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

エペ 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

第三(17:2~7)は、背教についての警告を扱っています。

通常、宗教の問題は、祭司がこれを決裁しましたが、神を王とする神政国家では、宗教的犯罪は絶対者なる神への反逆であり、それは厳罰に処せられました。
今日、クリスチャンは背教を簡単に考え過ぎていないでしょうか。今日、背教しても、人による厳罰を受けないというだけに、背教を安易に考えていますが、それは非常に危険であり、必ず神による厳罰を受けることになります。

「あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、」(17:2)は、明らかに神の律法を犯すことです。

申 17:2 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、【主】の目の前に悪を行い、主の契約を破り、

3節の天体の自然崇拝は偶像礼拝であり、主が命じられなかったものを拝む、これらのことは、主が忌みきらわれることです。

申 17:3 行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、

4節では、さばきつかさの仕事として、これらのことを、よく調査し、事実を確かめるようにと命じられています。

申 17:4 それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行われたのなら、

5~7節では、二人あるいは三人の証人の証言によって死刑の判決を受け、証人は最初の死刑執行人となり、その後、民のすべてが死刑の刑罰に手を下すように命じられています。

申 17:5 あなたは、この悪事を行った男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。
17:6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。
17:7 死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

これは町の広場で全会衆の前で行なわれることになっており、「悪は完全に取り除け」という命令が強調されています。

しかしイゼベルはこのイスラエルの律法を知っていて、これを悪用して、真実な信仰者ナボテを、二人のよこしまな証人を立てて、石打ちにして殺しました。今も、聖書のことばを使って、「あなたは悪霊につかれている」とか言って、恐怖に陥れたり、不安にさせたりする人がいます。また他人を責めたり、苦しめたりするために聖書のことばを使う人がいます。これは悪魔のわざです。悪魔は主イエス様を誘惑するのに、詩篇91篇11,12節を悪用しました(マタイ4:6)。

詩 91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

マタ4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

イエス様はヨハネの福音書8章7節で、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言って、この律法を適用しておられます。

ヨハ 8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

主は人を救うためにこの律法を用いられたのです。

あとがき

イエス様のみことばのすばらしさを日々に味わっておられるでしょうか。私は機会ある毎に、三つのバランスを強調しています。三つのバランスとは、霊的経験(特に、救いと聖潔の経験)と、みことばの実行(毎日の生活の中でのみことばの活用)、そして健全な知識を蓄えていくことです。聖書の中にこの三つが並べて書いてあるわけではありませんが、聖書を注意深く読んでみますと、旧約聖書も新約聖書も、この三つを強調していることが分かります。この三つを守り育てることこそ、私たちが力強いキリストの証人になる秘訣であり、条件であることが分かります。

さらに、この三つの順番も大切です。第一には、霊的経験を明確にすることが必要です。ところが多くの人が、霊的経験よりも先に知識でキリストの救いを理解しようとします。また教師たちも知識を教えて分からせようとします。しかし生まれていない子に教えることはできないのです。知識を教えることは最後です。先ず信仰経験を明確にすること、次は生活の中でみことばを実行することです。この三つのバランスこそ、リバイバルの始まりです。

(まなべあきら 1996.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


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お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
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バックナンバーもあります。
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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421