聖書の探求(153) 申命記17章8節~20節 訴訟に対する裁判、王を選ぶ条件
この箇所は、前半で訴訟に対する裁判と、後半では、王を選ぶ条件が記されています。
分解
8~13節、訴訟に対する裁判
14~20節、王を選ぶ条件
8~13節、訴訟に対する裁判
申 17:8 もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、【主】の選ぶ場所に上り、
17:9 レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。
17:10 あなたは、【主】が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行い、すべて彼らがあなたに教えることを守り行いなさい。
17:11 彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行わなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。
17:12 もし人が、あなたの神、【主】に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、
17:13 民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。
上の写真は、イスラエルのテル・ダン(古代ダンの丘状遺跡)にある城門の入口にあるさばきつかさの台座(手前に置かれた丸い石は柱の台)、一番上の写真はその想像図(2013年の訪問時に撮影)
各地域の町々で、地方のさばきつかさが処分決定できない問題が起きた場合、すなわち、ここでは流血事件や権利の訴訟、暴力事件が挙げられていますが、これらの場合は、中央神殿に行って、最終段階のさばきを受けることになります。今日で言えば、最高裁判所の判決を受けることに相当するでしょう。
このさばきに当たる人は、レビ人の祭司か、その時に立てられているさばきつかさの長、たとえば、ヨシュアやギデオンやサムエルのような人物です。
ヨシュアの判断にも甘いところがあり、ギブオン人の偽装作戦に対して、主のみこころを尋ねることなしに、誤った判断を下したこともありましたが、とにかく、さばきつかさが下した判決は最終判決となり、絶対に従わなければなりませんでした。もし不遜にも従わない者がいるなら、その人は死刑の判決を受けなければならなかったのです。これは過ちを侵すかも知れない人間の判断に従うのに、随分厳しい判決が下されているように思われます。勿論、人間のリーダーが過ちを侵さないことが望まれることですが、たとい過ちを侵す可能性があっても、これほど厳しく、その判決に従うように命じられているのは、神の民全体の秩序を保つためであったと思われます。
士師記の時代には、民が各々、自分の好むこと、思うことを勝手に行ない、リーダーを無視する無政府状態になっています。その期間、イスラエルの民は絶えず偶像礼拝を行ない、周囲の敵から攻撃を受けて、ひどい苦しみの状態に何十年も置かれているのです。民の間に乱れとスキが生じるなら、サタンはすぐに侵入してきて、神の民の破壊を始めるのです。
昨今、クリスチャンの、牧師や教会に対する批判の声が多く聞かれるようになっていますが、それは牧師やりーダーの質の低下が問題になっている一方、教会がサタンの攻撃にスキを与えているのだということに、すべてのクリスチャンが深く自覚すべきであると思います。このような問題が生じないためには、神のみことばが常に強調され、明確な回心経験と聖潔の恵みの信仰を更新し、すべてのクリスチャンが神のみことばに従う生活をするようになることです。教会が様々な事業や活動をすることも必要なことですが、そのことの故に神のみことばを後回しにするようなことがあってはなりません。神のみことばは、いつでも最優先に強調されていなければなりません。
「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。‥‥私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:2、4)
初代の使徒たちの教会でも、神のみことばを後回しにして、福祉活動を優先した時、教会の中に争いが生じたのです。勿論、教会政治や福祉活動は必要です。しかしそれらが神のみことばの重要性と入れ換ってしまってはならないのです。それ故、教会の中には、まず、神のみことばを取り次ぐ説教者や教師が多く育ってくることが必要です。
「主はみことばを賜わる。良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。」(詩篇67:11)
みことばに熟達した人が教会のリーダーとなり、様々な活動をしていくなら、教会は大いに成長し、力強くなっていきます。パウロは若い弟子のテモテに、
「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(テモテ第一4:13)
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(テモテ第二2:15)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテ第二4:2)
と、命じています。パウロは神のみことばを宣べ伝え、教えることが、人の霊魂にはどんなに重要なことなのかを十分に悟っていたのです。今日、クリスチャンたちは、このことを十分に悟っているでしょうか。
モーセの時代にはいつも神のみことばが強調されていましたが、ヨシュアと士師の時代は異教の敵との戦いに明け暮れして過ぎ去り、神のみことばは全く強調されなくなってしまったのです。サムエルとダビデの時代になると、再び神のみことばが強調されるようになりましたが、ソロモンとレハブアムの時代には政治的策略をめぐらすだけになり、神のみことばは再び等閑にされるようになり、イスラエル王国は二つに引き裂かれてしまいました。(等閑・・・ものごとをいい加減に見過ごすこと。)
それ故、神は、神のみことばを語る預言者を次々と起こしましたが、支配者たちは預言者たちを迫害して殺しました。
それ故、神のみことばと神のみことばを取り次ぐ熟練した真実なリーダーの指導に従うのが最もよいことです。これに対して不遜な態度をとる時、自ら滅びを招くことになります。
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13:17)
14~20節、王を選ぶ条件
申 17:14 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、
主はやがて、神の民が神政々冶を嫌うようになることを知っておられました。その理由は、民が肉的で自己中心であることと、イスラエルの民がカナンの地に入って行って、異教の王国を見る時、自分たちも彼らと同じような王国をつくりたいと願うようになることによってです。このことはサムエル記第一8章で実際に起きています。これは世俗化です。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
イスラエルの民は神政政治を捨てて、王政政治をとったために、急速に偶像礼拝へと進んでいきました。教会は様々な活動をするようになっていくのですが、教会の働きの中心は、神を礼拝することであり、福音宣教であり、聖書の探求と神のみことばの生活化でなければなりません。このことを忘れて、教会がこの世と同じ福祉団体になってしまったら、世俗化の堕落が始まります。
そこで神は、王を立てる時のいくつかの条件と警告を語っておられます。王を選ぶことは随意的なことでありますが、王の資格は極めて厳密に規定されています。
第一に、15節、王は、ヘブル人の中から、主が選ばれた者でなければなりません(主の任命)。
申 17:15 あなたの神、【主】の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
しかし現実には、サウルとダビデ以外、世襲であったり、戦いの勝利者が王となっています。
今日、教会の牧師、教師、リーダーも、信仰が明確であり、主の任命を受けた者を、教会が神の器として承認して立てるのでなければなりません。ただ、見かけ上熱心だとか、学歴とか、社会的地位とか、何かができるというだけで安易に牧師、教師、リーダーとして立つべきではないし、また立てるべきでもありません。救いと聖潔が明確であるか、主の任命が明確であるか、そして良きあかしが立っているかを十分に検討し、確かめた上で神の器として立てるべきです。
「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。また信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪者と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。‥‥きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(テモテ第一3:5~10)
第二に、16節、王は自分のために決して馬を多くふやしてはならない。
申 17:16 王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない」と【主】はあなたがたに言われた。
信仰による神の保護を受けての安全でなく、武力による安全、信仰による神の恵みを受けての繁栄ではなく、軍事的侵略による繁栄を求めることを厳しく禁じています。軍事力はそれを行使しなくても、それを持つことによって、増強することによって、周囲の国々に脅威を与え、緊張関係をつくり、争いの原因となってしまうのです。
また、当時の武力である馬を多く集めるためには、かつての奴隷の地エジプトに行かなければなりませんでした。エジプトが軍馬の産地だったからです。こうして昔の奴隷の地に行ったり、来たりすることを禁じたのです。
私たちクリスチャンも、信仰によらないで生活を営むと、かつての罪の奴隷の生活に行ったり、来たりして、ついに再び、罪の生活に舞い戻ってしまうことになりかねないのです。ですから、エジプトには帰ってはならないのです。うしろのものは忘れ、前のものに向かって進んでください。クリスチャンはあくまでも信仰で戦わなければなりません。
しかしソロモンはこの戒めを破っています。
「ソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品であった。それは王の御用達が代価を払って、ケベから手に入れたものであった。エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。」(列王記第一10:28,29、4:26)
Ⅰ列王 4:26 ソロモンは戦車用の馬のための馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。
いかに配慮が尽くされた戒めも、それを踏みつけにするなら、何の効果も現わさず、わざわいをもたらすだけのものになります。
第三は、17節、多くの妻と自分のための富を多くふやしてはならないことです。
申 17:17 多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。
この戒めには、「多く」という言葉が繰り返されています。この「多く」は人の貪欲(どんよく)の性質を示しています。ヤコブは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)と警告しています。
ソロモンはこの二つの戒めも破りました。彼は金銀に酔い痴れる生活をしていました(列王記第一10章)。
また彼は、パロの娘のほかに、多くの異教の女たち、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛したと記しています。これらは政略結婚的要素があったと思われますが、これらの異教の女たちはソロモンの信仰を骨抜きにしてしまい、ソロモンの心を彼女たちの偶像へと向けさせてしまったのです(列王記第一11章)。多くの妻は偶像をもたらし、多くの富は神を忘れさせたのです。
「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:8,9)
第四は、18,19節、王に任命された第一の重要な仕事は、自分のために律法の書を書き写すことでした。
申 17:18 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。
これを一生の間、自分の手もとに置いて、読むように命じられています。これによって人は、主を畏れるようになり、主の御教えのすべてのことばと、おきてとを守り行なうことを学ぶのです。特にこのことは人を指導する者には重要です。神のみことばによって、心が謙遜にされ、人々の前に高ぶることがないように守られ、神のご命令の道からそれることがないように守られるのです。そして国、社会は平安になっていくのです。
しかしこのことは、歴代の王において、ほとんど守られていませんでした。ヨシヤ王の時代に律法の書が発見されて、一時、リバイバルが起きていますが(歴代誌第二34章)、預言者エレミヤの時には、主のみことばを読み聞かせると、ユダの王エホヤキムは小刀で巻き物を切り裂いて、暖炉の火に投げ入れ、全部焼き尽くしています(エレミヤ書36章)。
しかし今日、クリスチャンと教会は本当に主のみことばを強調し、これを守り行なうことに全力を尽くしているでしょうか。みんな聖書を持っているかも知れません。しかしその聖書は毎日手もとにおいて読まれ、主を畏れ、謙遜にされ、みことばを行なう生活を営んでいるでしょうか。クリスチャンによっても、主のみことばを等閑にしていることが、堕落と敗北の最大の原因です。(等閑・・・ものごとをいい加減に見過ごすこと。) 私たちが心から、主によるリバイバルを願うなら、祈り求めるのなら、私たちは主のみことばを再発見し、探求を始め、みことばを守り行なうことによって主を畏れることを知り、へりくだることを身につけていかなければなりません。
第五は、20節、王は特権階級ではなく、神のしもべでなければならないことが記されています。
申 17:20 それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42~45)
王が高ぶらず、へりくだり、主のご命令の道から右にも左にもそれず、長く王国を治めることができるためには、主のみことばをよく知り、それに従うほかに道はありません。このことはそのまま私たちに当てはまることではないでしょうか。
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇29:9~11)
「人間の王の存在は、神政国家の理想に反しない。」
なぜなら、ここに記されている王は、
①、専制的、利己的な独裁者ではなく、
②、主の光に照らされて歩み、その賢明で公正な施政により、その王国に祝福をもたら し、契約の神の御名に栄光を帰そうとする人間であったからです。
彼は王の真の型でなければならず、支配者であるよりも、むしろ羊飼いであります。
「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。」(詩篇78:70~72)
今日、教会においても主による指導者を失っていることによって、クリスチャンの霊魂は命を失い、打ち倒れているのではないでしょうか。
「また群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:36~38)
「サムエルの態度(サムエル記第一8:6~18)は、決して理想と食違っていない。」
Ⅰサム 8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは【主】に祈った。
8:7 【主】はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
8:10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、【主】のことばを残らず話した。
8:11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、【主】はあなたがたに答えてくださらない。」
8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
イスラエルの民が王を要求した場合、サムエルが老年になっており、サムエルの息子たちが主の道を歩んでおらず、民の指導者となるのにふさわしくないことが明らかである故に、彼らが王を求めたことは、全く彼らの当然の権利であったと言えるでしょう。民は自分たちを導いて行ってくれる指導者を求めていたのです。指導者がいなくなったり、指導が明確でなくなる時、民は不安になり、混乱が生じてくるのです。このことは今日の日本のあらゆる状況の中に、はっきりと現われてきています。今こそ、日本の社会の中に力強い霊的指導者を必要としているのです。そしてその社会における霊的指導者には、ただ一人の人物というよりも、クリスチャンの群れそのものが社会における霊的指導力を発揮する時に、社会の改革は行なわれてくるのです。
サムエルが王を求める民の要求に反対したのは、彼らが異教の民と同じようになりたいために、自分たちをさばく王を求めたからです(サムエル記第一8:5、20)。
Ⅰサム 8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
Ⅰサム 8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
その非神政国家的精神に対して、サムエルは反対したのです。主ご自身も、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(サムエル記第一8:7)と言っておられます。
民は、主が望まれる神政国家を建設するために、王を求めたのではありませんでした。彼らは周囲の異教の国々のようになりたいために、王を求めたのです。このことはやがてイスラエルに多くの異教の偶像が侵入してくることの最大の原因となっています。
神政国家の特徴は、イスラエルがまわりの国々のようではないところにあったのですが。
「見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。」(民数記23:9)
それ故、サムエル記第一において、王を求めた事件が起きたことは、その時、申命記がまだ存在していなかったことの証拠にすることはできません。特に、申命記17章14,15節は、サムエル記第一8章の王を求める出来事があって後に書かれたとするのは正しくありません。
申 17:14 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、
17:15 あなたの神、【主】の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
それは人間の知恵による曲解であって、聖書の真実性をねじ曲げるものです。正しくはサムエルの時代のイスラエルの民は、モーセによる警告があったにも関らず、異教の民と同じような王を求めたのです。これは今日、クリスチャンの間にも、世俗化への傾向が強いのと同じです。
更に、申命記がサムエル記第一よりも後に書かれたものだとしたら、サムエル記第一にあるいくつかの特徴のある点(たとえば、サムエル記8:11~18)を、申命記中に見い出してもいいはずではありませんか。
聖書をそのまま、聖霊の霊感によって書かれた神のみことば(テモテ第二3:16、ペテロ第二1:20,21)として信じないで、自分の知恵によって曲解する者は愚かです(ペテロ第二3:16)。
Ⅱテモ 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
Ⅱペテ 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
Ⅱペテ 3:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
まして、曲解して教えたり、伝えたりする者は、自分だけでなく、他の人々も滅びに陥れることになります。
あとがき
今年も来年のカレンダーが送られてくるような時期になり、クリスマスの声も聞かれるようになってきました。私たちの教会では、今年の働きの反省と来年の活動を計画しています。また聖書の探求や本の読者の方やテープを聞いて下さっている方から、遠くはアメリカ在住の方からも、お手紙やファックスをいただいています。皆さん、様々な困難な戦いの中で、恵みと勝利を得ているお知らせをいただいて、主が私たちの小さい働きをも祝して、用いて下さっていることが分かり、感謝しています。私たちが進めている働きは、間違いのない確実なものだということが証明されてきています。名の知られた牧師や学者の評価よりも、実際に信仰の戦いの現場にいる皆様のあかしのほうが、私にはずっとうれしいし、励ましになります。これまで、いつの間にかキリスト教が知識階級のものになってしまっていましたが、私たちの働きはいつまでも、普通の私たちの生活に密着したものにしておきたいものです。
(まなべあきら 1996.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
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