聖書の探求(151) 申命記15章 ゆるしの年、奴隷の解放、家畜の初子の聖別

この章は、ヘブル人たちの間の互いのゆるしや、貧しい者への援助、奴隷にせられた者の釈放、そして牛と羊の初子の聖別についての規定が記されています。

分解

1~11節、ゆるしの年
12~18節、ヘブル人の奴隷の解放
19~23節、家畜の初子の聖別

1~11節、ゆるしの年

申命記のこの律法は、出エジプト記23章10~12節や、レビ記25章1~7節の拡大
であると思われます。

出 23:10 六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。
23:11 七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。
23:12 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

レビ 25:1 ついで【主】はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。
25:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。
25:3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
25:4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
25:5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
25:6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、
25:7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる

出エジプト記とレビ記の規定は、遊牧民としてのへブル人のために定められた特殊な性格を持ったものでありましたが、申命記の規定は定住生活に入ろうとするへブル人のために定められた一般的な性格を持ったものでした。

1節、七年目の安息の年であり、安息の年には、すべての負債は取り消され、農耕地は休耕地とされます。

申 15:1 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。

聖書の生活リズムは、今日のような休息なしの労働の生活とは、全く異なっています。人は、働くこと自体に意味があるのでもなく、遊ぶのに意味があるのでもありません。いかに神に仕えるかが、人の一生の意味なのです。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23,24)

2節、この負債の免除は、「その隣人の兄弟」、すなわち、同胞のイスラエル人に限定されています。

申 15:2 その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。【主】が免除を布告しておられる。

「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)

3節、「外国人」は、イスラエル人と商業取り引きのある他民族(ナクリー)であり、彼らには、この特典は与えられていません。

申 15:3 外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。

彼らの負債は取り立てることができるとしています。しかし14章29節の「在留異国人」(ヘブル語、ゲール)は、他民族ではありますが、イスラエルの中に居住している者として、この特権に与(あず)かっています。

4節の文脈は、農耕地を示しており、この規定も農耕生活者に当てはめられています。

申 15:4 そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、【主】は、必ずあなたを祝福される。

紀元一世紀頃になると、イスラエルは商業共同体に変わっていたので、ヒルレルはこの規定を、商業共同体にも適用できるように修正しました。

5節、とにかく、神の民がこの規定を守っていくなら、「あなたがたのうちには、貧しい者がいなくなるであろう。」(4節)と言われています。

申 15:5 ただ、あなたは、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。

それにも拘らず、7節以後でもモーセが、貧しい者について語っているのは、モーセが、神の民がこの規定をきちんと守らないであろうと想定していたことを示しています。今日も、クリスチャンが神のみことば通りに実際に生きていたら、どんなに祝福に満ちていることでしょうか。しかし自己中心と自分の欲から、ほとんど神の戒めは守られていないために、霊的にも、生活的にも、祝福を失っているのです。それ故に、モーセは「貧しい者はいなくなる」と言いつつ、貧しい者を保護するための規定を定めたのです。

「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:10~12)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネ第一5:3)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18)

6節の繁栄ぶりは、ダビデとソロモンの時代に実現しました。

申 15:6 あなたの神、【主】は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。

ソロモンの時代の繁栄は、ダビデの時代の残りの継続です。イギリスにおいても、アメリカにおいても、信仰が盛んな時は、国も繁栄しました。このことは歴史が示すところです。神は、祝福の神です。しかしそれは、私たちが神の命令を守り行なうという条件付きです。

7~11節は、貧しい者に対する規定です。

7節、まず、貧しい兄弟に対しては、心も手も閉じてはならない。

申 15:7 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。

自分に出来得る最善をするように命じられています。

「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」(詩篇37:3)

パウロは、ガラテヤ6章10節で、「信仰の家族の人たちに善を行なうように」勧めています。また「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」(ローマ15:1)と言っています。

「あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。」(箴言3:27七)

「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」(箴言19:17)

親切の手が閉じられていることは、愛の心が閉じていることを示しています。

8節、心から進んで、手を開き、必要としているものを十分に貸し与えなければなりません。

申 15:8 進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。

これは神の民の義務です。

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)

9節、しかしモーセは、人の心の中に自己中心の利己主義の動機が働くことを見抜いています。

申 15:9 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで【主】に訴えるなら、あなたは有罪となる。

すなわち、貧しい兄弟が何を、どれくらい必要としているのかを考えるのではなく、七年まであと何年残っているのか、すなわち返済の可能性を先に考え、七年目が近づいていると貸さない人が現われることを予測しています。それは罪になります。愛の心を閉じて、神の命令に背くことは罪だからです。卑しい動機や考えからは、卑しい行為しか出てきません。それは神の前に罪となります。

10節、惜しまずに与えなさい。たとい、その人が返済できなくても、七年目で負債が免除になり、返済できなくても、神があなたのすべての働きと手のわざを祝福して下さる。

申 15:10 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。

私たちがあまり祝福されないなら、それは惜しみながら与え、惜しみながらさゝげているからかも知れません。

「どうか、この献金を、惜しみながらでなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(コリント第二9:5~7)

7~11節には、祝福を受けるための、いくつかの心の状態とその態度が記されています。

7節、閉じられた心と閉じられた手、すなわち、愛とあわれみを失った無関心、無感覚な心と愛を施さない手には、祝福は与えられません。

申 15:7 あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。

8節、「進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)

9節、自分の利益だけを優先する利己心と何も与えない手は、邪念であり、有罪となると言われています。

申 15:9 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで【主】に訴えるなら、あなたは有罪となる。

10節、未練のない、惜しみない、開かれた心と、与える手は、すべての働きが主によって祝福されます。

申 15:10 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。

11節、兄弟たちの悩んでいる者と貧しい者たちに向かって開かれた手

申 15:11 貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

開かれた心と開かれた手(行ない)は、神の御霊を受ける条件です。この条件が実行されないと、単なる宗教的知識で終わってしまい、パリサイ人と同じになってしまいます。

12~18節、ヘブル人の奴隷の解放(七年目には、自由の身に)

1~11節の負債の免除は、9節からすると、安息の年の七年目のことを言っているようですが、12~18節は安息の年ではなく、仕え始めてから七年目に、貧しさのために売られてきたへブル人の男女が解放されて、自由の身になることを言っているようです。

申 15:12 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。

これは出エジプト記21章2~6節に基づいたもので、守るべきことは、奴隷のためを思いやり、自由を与えて去らせる時には、生計が立つように惜しみなく与えなければなりません。

出 21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。
21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。
21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。
21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、
21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

レビ記25章39~55節は、奴隷たちがヨベルの年に自由にされることが記されており、非常に人道的な律法であって、奴隷が七年間仕えないうちに、ヨベルの年が来たとしても、やはり自由にされることが明らかに定められています。

レビ 25:39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。
25:40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。
25:41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
25:42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。
25:43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。
25:44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。
25:45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。
25:46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。
25:47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、
25:48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。
25:49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。
25:50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。
25:51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。
25:53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。
25:54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。
25:55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、【主】である。

こういうことは、神の民が神のご命令をしっかり守っているなら、神の民が貧しさのために奴隷に売られるということは起きないはずです。しかし現実には、イスラエルは家族の間で奴隷に売られる者が出たたけでなく、イスラエル全体が民族ごと、アッシリヤとバビロンに捕囚にされ、奴隷とされてしまいました。かつてイスラエルはエジプトで奴隷生活を強いられていましたのに、再び民族ごと奴隷となってしまう、愚かを行なってしまったのです。これは神の民が神に対して不服従な態度を取り続けたからです。今日も、クリスチャンが主に対して不服従になっている国において、かつてのクリスチャンがひどく堕落していたり、家庭が崩壊していたり、酒や快楽の奴隷になっていたり、富や虚栄の奴隷になっていたり、サタンと罪の奴隷になっている者が多いのです。

しかし奴隷からの解放は神によります。バビロンからの解放も神により、ローマ時代には、多くのクリスチャンになった権力者たちが奴隷を解放したし、近代の奴隷解放運動も神の働きかけによっています。しかし現代、すべての奴隷状態が解決しているわけではありません。人種や民族的差別があったり、女性の軽視、蔑視、差別は少なくありません。貧富の差、学歴の差による人権の侵害は今の日本にいても珍しいことではありません。これらの状態は、人が神に逆らい続けている限りなくならないでしょう。どんなに法律で取り締っても、人の心の中の差別意識はなくならないでしょう。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ローマ6:16~22)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

13,14節、神による自由は、ただ束縛から自由にされることだけではありません。

申 15:13 彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。
15:14 必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、【主】があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。

主人は、奴隷だった人が独立して、生活していけるだけのものを、羊の群れの中から、打ち場の穀物から、洒舟から、彼に与えるように命じられています。ここで、これらの主人に与えられている財産を、「主があなたに祝福として与えたもの」と言われていることに注目しなければなりません。すべての人の財産は、主から与えられた祝福です。これを貧しい者、弱い者たちに分かち与えないことは、自ら滅びを招くことになります。マタイの福音書19章21節で、主は金持ちの役人に、彼の持ち物を売って、貧しい者に施すようにと命じられました。

マタ 19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

しかし彼は自分の財産を惜しんで、主のご命令に従わずに、永遠のいのちを失ってしまったのです。現代のクリスチャンがどれくらい、これができるでしょうか。自由人は自分の財産を自分のためだけに使っているのではないでしょうか。主にささげる献金さえ、惜しんでいるクリスチャンが多いのではないでしょうか。自分に与えられているすべてのものは、主が与えられた祝福であることを悟って、分かち与える愛を持っている必要があります。

15節、第二に、イスラエルは自分自身がかつてエジプトの地に奴隷であった時、主が贖(あがな)い出してくださったことを覚えていなければならなかったのです。

申 15:15 あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、【主】が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

先のは物質的な祝福についてでしたが、これは霊的な祝福について記されています。クリスチャンは、どこまで成長していっても、罪を贖(あがな)われた罪人であって、イエス・キリストなしに神の恵みが受けられる者であると思ってはなりません。このことを忘れることから、自己中心になり、他人を顧みなくなります。自分が働いて得たものは、自分が勝手に使っていいものと考え、自分が今ある状態を当然のこととして受けとめてしまうことほど、神から離れていることはありません。それはキリストの願いから離れて、滅びの子となる状態にあります。

18節、第三に、自由の身となる者に独立のために必要なものを分け与えるのは、彼が普通の賃金をもらって働く雇い人の二倍働いているからです。

申 15:18 彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、【主】は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。

主人は彼の働きを通して二倍の恵みを受けているからです。クリスチャンはキリストが十字架にかかられ、聖霊が与えられることによって、無限の恵みを受けているのです。

16,17節は、その奴隷が、そのまま、その主人のもとにとどまることを望むなら、一生涯、自分からすすんで愛の奴隷となったしるしとして、その人の耳を戸に刺し通しなさいと言っています。

申 15:16 その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません」と言うなら、
15:17 あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。

これは愛の動機によることなく、この規定を適用することのないように命じられているのです。

ここには、神のしもべとなる者の姿が予表として記されています。その特長は、

第一に、主人とその家族を愛していること‥‥愛の動機。主のしもべとなる人は、神と神の家族を愛していなければなりません。

第二に、心と耳に謝礼を受けて、主の御声をよく聞き、喜んで主に仕え、兄弟たちと互いに仕え合う人です。仕えることを最高の特権、最高の幸せとしている人です。‥‥価値観、生き甲斐、幸福、満足

第三、「あなたのところから出て行きたくない」ベタニヤのマリヤのように、いつも主の足元に坐っている人(ルカ10章39節)‥‥全き信頼と献身

これは今日でも、神のしもべとなる者の条件です。これ以外の動機で主のしもべとなろうとするなら、動機は不純であり、長続きしません。

19~23節、家畜の初子の聖別

19節、牛や羊の群れの雄の初子は、主にささげなければならないことが命じられています。

申 15:19 あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、【主】にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。

その初子を自分の仕事をさせるために働かせたり、自分の利益を得るために使ってはならないことが命じられています。牛は、当時、重要な労働力であり、羊の毛は高価な品物だったので、人々が神にささけることを惜しんで、自分のために使う危険があったのです(使徒5:1~10)。

使 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。
5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。

神から預かったものを、神のものとしてささげることは、私たちが祝福を受ける重要な恩寵の手段です。神にささげるべきものを、自分のために使うことによって、神の恵みと祝福はとどめられてしまい、大変な損失をしてしまいます。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8:34~36)

新約聖書では、私たちは、神に買い取られたものであり(コリント第一6:20)、神への生きた供え物である(ローマ12:1)と言われています。

Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

ロマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ですから、ただの金儲けや生活のためだけに働いたり、生きたりしてはなりません。いつでも主の栄光を現わすため、主に仕える動機で最善を尽くすことが求められています。また、子どもたちも、ただ、給料をとることが生きる目的だけの人間に育ててはならないのです。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)

20節、民数記18章17,18節では、牛や羊、やぎの初子は祭司に与えられることが記されています。

申 15:20 【主】が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、【主】の前で、それを食べなければならない。

民 18:17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、【主】へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。
18:18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。

それ故、「あなたは家族とともに」は、祭司とその家族をさすという人もいます。また他の人は、この初子は第二の十分の一(14:23)の初子ではないかという人もいます。

申 14:23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、【主】の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために。

申命記15章22節から見ると、おそらく後者であろうと思われます。

申 15:22 あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。

20節の「毎年」は、初子が生まれて一年以内にささげることが命じられています。

申 15:20 【主】が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、【主】の前で、それを食べなければならない。

一年以上を過ぎてはいけないのです。恵みの感謝はできるだけ早くささげるのがよいのです。後回しにすると、忘れてしまい、忘恩の民となってしまう危険があります。

出エジプト記22章29,30節には、「第八日目に」とありますが、これは八日目以後を意味しているものと思われます(レビ記22:27)。

出 22:29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。
22:30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にわたしに、ささげなければならない。

レビ 22:27 「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それは【主】への火によるささげ物として受け入れられる。

21節、初子に欠陥があれば、それを主にささげることはできません。

申 15:21 もし、それに欠陥があれば、足がなえたり盲目であったり、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、【主】にそれをいけにえとしてささげてはならない。

普通の家畜として扱うことができます。しかし血だけは神のものであり、地面に注ぎます。神には最も良いものだけがささげられたのです。

22節、その肉は、主にささげることはできませんが、多くの人が食べることができました。これは汚れた人も、きよい人もともに食べることができました。

申 15:22 あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。

私たちは、初子であっても、欠陥だらけの初子のようなものです。しかし潔められるならば、主に用いられて、汚れた人にも、きよい人にも、恵みを分かち与えることができるようになります。

「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」(テモテ第二2:21)

私たちは信仰によって、その働きのすべてがどんなに多くの人々に及んでいくかを知っています。しかしそうなるためには、欠陥があっても潔められ、よく訓練を受けて、霊的に成長していなければ、多くの人々に主の恵みを分かち与えることができるようにはならないのです。

23節、血は命であり、命は神のものであり、それ故、命は神にだけささげられなければなりません。

申 15:23 ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。

勿論、このいけにえの血は基本的にキリストの十字架の血を示しています。キリストの血潮なしに主に受け入れられ、喜ばれ、用いられることはできません。

「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(コリント第一5:7)

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:14)

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)

神への奉仕は、才能でも、テクニックでも、学歴でも、地位でもありません。いけにえをささげる度に血が流されたように、人々が肉を食べるために血が流されたように、人々に恵みを分かち与える奉仕には、いつもキリストの血が心に流されていなければなりません。

(まなべあきら 1996.10.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上のイラストは、“Doodle Through The Bible My Visual Bible Study – One Verse or Chapter at a Time!“のサイトから引用しました。(Scripture quotations taken from the NASB © The Lockman Foundation


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