聖書の探求(162,163) 申命記25章 争いの裁判、脱穀をしている牛、死んだ者の妻の再婚

この章は、日常生活における法(訴訟)について記されています。

25章の分解と内容

1~3節、争いの裁判
4節、脱穀をしている牛
5~10節、死んだ者の妻の再婚
11~12節、夫の敵の男の隠し所をつかんだ妻の処分
13~16節、公正な秤と枡
17~19節、アマレクを全滅すべき命令

この章では、おもに個人の人権、人格が守られるようにということに、目が向けられています。頼る者のいない人、弱い立場にある人々をどのように取り扱うかは、文明の発達した国民であるかどうかの試金石であると言われています。しかしその反対のことも、言えるのではないでしょうか。権力や富の力を持った者が、その力をどのように使うかは、その人の人格性を審査する、最も良い指標です。その意味で、経済大国と言われた日本に住む私たちは、自分に与えられた力や富を何に使って来たでしょうか。神の国建設のために、貧しい人々のためにどれくらい使って来たでしょうか。主イエスは金持ちの青年役人に、

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マタイ19:21)

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、たしを見舞い、わたしが
牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。・・・おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」(マタイ25:35,36,40,45)

力と富はサタンに悪用されやすく、堕落をもたらしやすいのです。それ故、私たちはいつも、神の栄光を現わすために、自分に与えられた力と富を用いるようにしなければならないのです。

1~3節、争いの裁判

申 25:1 人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、
25:2 もし、その悪い者が、むち打ちにすべき者なら、さばきつかさは彼を伏させ、自分の前で、その罪に応じて数を数え、むち打ちにしなければならない。
25:3 四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。

「正しいほうを正しいとし、」 これは裁判で、まず第一になされなければならないことです。義は神の属性であり、その律法もまた神の義を主張するものです。

人間の正義は罪人を断罪し、石打ちにして殺してしまおうとするのですが、義なる神は不敬虔な者を義とする道を備えてくださったのです。

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためです。」(ローマ3:25,26)

モーセの時代のイスラエルには牢獄がなく、有罪の判決を受けた者には体罰を加えることがしばしばでした。特に体に傷をつけることが行なわれました。それ故、その刑の執行には条件が付けられました。

第一は、正当な裁判における審理の後に、刑は執行されなければならない。

第二は、刑の執行はさばきつかさの前で行なわなければならない。

第三に、その刑罰は、その罪に応じて適当なものでなければならない。怒りや憎しみや、辱しめのために、過剰に行なわれてはならない。

第四に、むち打ちの刑は、四十回を越えてはならなかった。この数を誤って越えないために、ユダヤ教においては、むち打ちの最高の数を三十九に制限し、それが伝統的になっていました。ユダヤ人はこの律法の文字を守りましたが、その精神は守らなかったのです。

「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度」(コリント第二 11:24)あったと、パウロはあかししています。「ユダヤ人は自分たちで定めた三十九回のむち打ちの回数を守りましたが、その精神であり、怒リや憎しみや辱しめのためにむち打ちをしないということは守らなかったのです。今日でも、体罰を与えないけれど、口でののしり続ける人は大勢います。こういう人は外側のことは守っているように見せかけていますが、その本質においては、律法を破っている、最も陰険で、邪悪な人です。

3節において、モーセは、「それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためです。」と言っています。これは、このむち打ちの数の制限がつけられた大事な目的を示しています。モーセは、犯罪者をも「あなたの兄弟」と呼んでおり、同胞として認めており、同胞が必要以上に卑しめられ、品格が引き下げられることのないようにと配慮するように命じています。同胞が卑しめられることは、自分自身の属する社会の倫理性の低さを示していることにもなります。それ故、犯罪者がその体罰を受ける時であっても、その人の人格を重んじ、卑しめてはならない。もし裁判官が、同胞の犯罪者に対して、さげすむような刑罰を下すことをさせるなら、裁判官自身を害することになるのです。さらに、犯罪者の人間性の基盤である、自分の人格を大切にするという気持ちを失わせてしまうなら、その犯罪者をさらに害することになり、人格性の回復をますます困難なものにしてしまいます。

4節、脱穀をしている牛

申 25:4 脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

個人の人格の尊重の原理が、働いている牛にまで拡大して適用されています。牛は、もの言わぬ動物ですが、それだからこそ、働いている牛を虐待してはならないとしたのでしょう。脱穀している牛から、脱穀した物の一部を食べる権利を奪ってはならないと言っているのです。人間が自分だけ利益を得るために、脱穀の働きをしている牛にくつこをかけることは、手の込んだ残虐な仕打ちと見られたのです。今では、日本で牛が脱穀するのを見ませんが、私が子どもの頃は、ほとんどの農家で牛が労働力として飼われており、牛の口に小さいカゴがつけられているのを見ました。牛が田んぼの麦や稲を食べないためです。しかし牛は、自分のお腹がどれくらいすいているかを主人に言葉で伝えられないのです。牛は自分に餌を食べる必要が生じた時に食べるのです。牛は、これから仕事をするから、食べておかなくては、とは考えないのです。ですから牛の口にくつこをつけるのは、牛の立場を全く無視した人間の欲から出た方策なのです。働く牛は、それに相応しい報いを受ける権利を有しているのです。

パウロは、この原理を取り上げて、主のため、福音のために奉仕する者が生活する権利を主張しています。

「モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。」(コリント第一 9:9,10)

5~10節、死んだ者の妻の再婚

申 25:5 兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
25:6 そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

死んだ人の兄弟が、そのやもめとなった妻と結婚する習慣は、古く族長時代から行なわれていました(創世記38:6~11)。

創 38:6 ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。
38:7 しかしユダの長子エルは【主】を怒らせていたので、【主】は彼を殺した。
38:8 それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところに入り、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」
38:9 しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところに入ると、地に流していた。
38:10 彼のしたことは【主】を怒らせたので、主は彼をも殺した。
38:11 そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい」と言った。それはシェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこに住むようになった。

このような習慣が今も残っている所があります。しかしクリスチャンの間で、この規定が行なわれなければならないという主張を全く聞いたことがありません。律法を盾にして争うのが好きな自称クリスチャンたちが、なぜこの律法を取り上げて主張しないのか、尋ねてみたいものです。それは時代背景や生活状態の変化、個人の価値観の変化から、このような規定があったことすら、気にも留めていないのです。私は、この規定をクリスチャンも守らなければならないと主張しているのではありません。むしろ、この規定が定められた真の意味を悟って、それを守ることこそ大切であると思います。

イスラエル人に対して、この律法が定められたのは、神の国を相続する家系が消滅することを恐れたからです。

「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」(ルツ記4:5)

「さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」(ルツ記4:10)

イスラエルで、このことが行なわれたのは、一つは、万一、やもめになった女性が同族の家族以外の者と結婚することによって、自分たちの部族に分け与えられていた相続地が他の部族に移ったり、また彼女が異邦人と結婚するようなことがあれば、その人の相続地が異邦人に渡ってしまい、神の国から失われてしまう危険があったからです。

さらに、この時代には、永遠のいのち、復活のいのちについての啓示が十分でなかったので、いのちの継承は子孫を残すということに片寄っていたのです。それ故、子どもを残さずに死んだ者の妻は、その家族以外の者とは結婚しないで、死者の相続財産を永続させようという考えにつながっていったものと思われます。この規定は、確かに旧約時代にイスラエルの部族の財産、富が一部の者たちに片寄ってしまわなかったことに貢献したものと思われます。

しかし、時々、死んだ者の兄弟は、不本意ながらも、死んだ者の妻と結婚しなければならなかった者もいたでしょう。所詮、律法は十分ではないのです。

この律法はいくつかの特徴を持っています

第一は、兄弟が一緒に住んでいる場合にのみ、当てはめられています。兄弟が別々に住んでいる場合には当てはめられません。しかも子がない場合というのは、男の子だけでなく、女の子もいない場合です。娘の相続権については、民数記27章1~11節で認められています。

第二に、再婚したやもめが最初に産んだ子どもだけが、先に死んだ人の名を継ぐことになります。その後に生まれた者は、自分の実の父の家系を継ぐことになります。

第三に、この律法は、後になって、ルツ記の中に見られるように、贖(あがな)い人である親族がその責任を拒否することも許されるようになっていますから、初期の頃とは違って絶対的なものではなくなってきています。信仰生活には、永遠に、絶対に変えてはならないものもありますが、時代の状況の変化とともに、緩和されてくる規定や、ユダヤ人の七日目の安息日から、主が復活された主の日に変えられたものもあります。当時なかった問題が今は生じているものもあります。旧約の律法の精神は大切であっても、実際的行動においては、現代に適用されないものもあります。これらの点において、見解の違いも生じてきますが、それは各々の信仰と聖霊の示しによって、個々の場合に、判断していかざるを得ないのです。その精神は一つであっても、その実際的適用は個々の場合において異なってくるからです。

このやもめとなった妻を、死んだ者の兄弟がめとるという律法は、初期においては、オナンがこれを破ったために殺されるほど、厳しく適用されていますが(創世記38:8~10)、申命記の時代には、恥辱を受けるというところにまで変わってきています。現代ではほとんどこの律法を忘れてしまったかのように問題視しなくなってしまっています。しかし現代のクリスチャンは、その精神を十分に汲み取って、自分の信仰をしっかりと継承していく結婚を選び取っていかなければなりません。安易に不信者と結婚することによって、信仰を失ってしまっている者も少なくありません。不信仰な者と結婚することによって信仰を失ってしまうことは、何を意味するのかを、よく悟らなければなりません。自分も、夫も妻も、生まれてくる子どもたちもみな、地獄に滅んでしまうという恐ろしい結果になることを聖書は示しています。それ故信仰を継承していく結婚を選び取っていかなければなりません。

7節から10節は、やもめになった、死んだ人の、妻をめとりたくない場合のことが記されています。

申 25:7 しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」
25:8 町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない」と言い張るなら、
25:9 その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」
25:10 彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。

こういう人は多かったと思われますが、これは兄弟としての義務を果たさなかったということで、辱しめを受けることになります。やもめとなった妻は、死んだ夫の兄弟から拒否されると、律法上からも、ほとんど再婚して子どもを得る可能性がなくなってしまいますので、町の門の長老たちの所に訴えることができます。これは弱い立場にある者の権利の保護の道でもあります。なぜなら、彼女は夫の家系を継ぐことができないばかりでなく、自分の生活すら危うくなってしまうからです。そこで彼女は、長老たちに訴えて、兄弟たちを説得してもらうのですが、それでも兄弟たちは自分の財産が減ることを嫌がって、中々、やもめを受け入れようとしないことが多いのです。その時、その兄弟は、長老たちの目の前で、正式に兄弟としての義務を放棄することになります。これは、その死んだ人の妻である女性が拒否する兄弟の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて、兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」と言わなければならないのです。彼はこの辱しめを受けなければならないのです。くつを脱ぐことは、モーセやヨシュアが主の御前でした時には、主に対してへりくだることや、献身を意味しましたが、ここではくつは、自らが自分の足で歩いた土地を所有することを指していましたので、くつは土地の所有を意味していました。そのくつを脱ぐことは、所有権を失うこと、あるいは、拒否することを意味していました。彼はイスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれて、継続的に恥辱を受け続けることになります。

しかしルツ記をみると、ルツは贖(あがな)い人のくつを脱がせていません。彼は自分ではきものを脱いでいます。またルツは彼につばきをかけたり、「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」という辱しめの言葉も言っていません。それ故、ルツ記の時代には、この律法は随分緩和されており、ほとんど辱しめの意味はなくなってしまっています。このことは、当時のイスラエル人のうちには、自分の財産を守ることには必死になっても、神の国の財産を守るという意識がうすれていたことを示しています。それは今日のクリスチャンの状態とほとんど同じです。

この律法について、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエス様に質問をしています(マルコ12:18~27)。

マル 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。
12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

勿論、彼らは、やもめとなった人を保護するためにこの質問をしたわけではありません。この律法がモーセを通して定められていることは、主イエスが語られる復活の教理と矛盾するのではないかと、責め寄るためのワナでした。サドカイ人たちの考えでは、妻は夫の所有物の一つでしかなかったのです。ですから、彼らは、「復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。」(マルコ12:23)と言ったのです。彼らは妻を一人の独立した人格として認めていないのです。これは今日の人々の認識と同じではありませんか。

これに対して、主は、妻は夫に隷属されるものではないことを示しています。

「そんな思い違いしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マルコ12:24,25)

明らかに、サドカイ人は申命記のこの律法を正しく受け止めていなかったのか、それとも正しい意味を知りつつ、悪意からこの質問を主イエスにしたのか、どちらかです。

これに対する主イエスのお答えは、復活の時には、この地上でしばしば行なわれている夫による妻の隷属化ということは全くないこと、天の御使いのように一人一人は、主にのみ従うように、独立した人格が保証されていることです。

11~12節、夫の敵の男の隠し所をつかんだ妻の処分

申 25:11 ふたりの者が互いに相争っているとき、一方の者の妻が近づき、自分の夫を、打つ者の手から救おうとして、その手を伸ばし、相手の隠しどころをつかんだ場合は、
25:12 その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。

攻撃を受けている夫の妻が、自分の夫のために夫の敵である男の性器に攻撃を加えて、夫を助けようとすることに対する処分について記されています。夫が攻撃される時妻が夫を助けることはよいことでしょうが、どんなあくどい、みだらな方法を使ってもよいのではありません。方法を間違えば、かえって、自分にわざわいを招いてしまいます。

この妻の行為に対して「その女の手を切り落としなさい。容赦してはならない。」(12節)と言われているのは、厳罰すぎるではないかと思われる方も多いでしょう。しかしこれは恐らく、この妻が敵の男の性器を切断しようとレているか、切断した場合のことを言っていると思われます。そしてそれは、単にみだらな攻撃というだけでなく、イスラエルの男性の性器には、神の民であるというしるしの割礼が施されていましたので、それを切断することは、神との契約のしるしを軽視することになり、「その女の手を切り落としなさい。」という厳しい刑罰が命じられたものと思われます。

13~16節、公正な秤(はかり)と枡(ます)

申 25:13 あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。
25:14 あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。
25:15 あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。
25:16 すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、【主】は忌みきらわれる。

商取引において不公正はいつの時代にも、今日も、つきまとっています。人間が自己中心である限り、不公正な取り引きはなくならないでしょう。

「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺(あざむ)きのはかりで欺(あざむ)こう。弱い者を銀で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。」(アモス書8:5,6)

客は買うために、重い重り石を持っているし、売り手は売るために軽い重り石を持っている。この重り石の統一基準を王が定めたのはダビデの時代で(サムエル記第二 14:26)あったようで、それまでは、各々が適当に重り石を使っていたようですから、人を欺くことは簡単にできたのです。

Ⅱサム 14:26 彼が頭を刈るとき、──毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた──その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった。

当時の時代は、今日のように一グラムまで正確に量ることが求められていませんでしたから、普通に正直な取り引きをしているなら、問題にはならなかったはずです。今日でも詐欺(さぎ)は横行しており、それに引っかかる人も沢山いるのは、安易に富を得ようとする貪欲の故です。

公正な商取引をする者には、神の祝福が伴いますが、すべての不正な取り引きをする者は、人々に嫌がられるだけでなく、主も忌み嫌われます。

ウソの含まれている、陰のある正直さは、不正直であり、正直そうに見せかけているのは、不正直の偽りです。

完全な正直は、いつでも主によって祝福の報いを受けます。

しかし不正直や不正は必ず、神からとがめを受けることになります。

17~19節、アマレクを全滅すべき命令

申 25:17 あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。
25:18 彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。
25:19 あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、【主】が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。

これまでの規定は、イスラエルの内部でのことでしたが、その部分の終わりは、アマレクに対する厳しい命令で閉じられています。

イスラエル人が決して忘れてはならなかったことは、彼らがエジプトから出てきた時にアマレク人から受けた攻撃でした。レフィデムでの戦い(出エジプト記17:8~16)は、その一つの記録です。

アマレク人は、ライオンが弱い動物に襲いかかって食い尽くしてしまうように、イスラエル人が荒野の旅で疲れて弱っている時に、突然、道で襲いかかり、イスラエルのうしろのほうの疲れ果てて弱って、おくれそうな者たちを倒したのです。彼らは、人の弱い所を見つけると、すかさず襲いかかる猛獣のような危険な人間です。神を畏れている人なら、決してしないようなことを平気で行なうのです。

しかし、イスラエルには、今はまだアマレクを完全に取り除く力がなかったので、神の約束の地に入って、主が周囲のすべての敵から解放して下さる時、アマレクを滅ぼしてしまうように命じられています。ですから、ヨシュアの時代にこのことは完了しておかなければならなかったのです。これをしなかったので、士師の時代に、イスラエルは何度も、アマレクやミデヤン人から苦しめられることになるのです。後のサウル王もアマレクを全滅するように命じられたのに、果たしませんでした(サムエル記第一 15章)。

そしてこのアマレク人の子孫のアガグ人のハマンはペルシャの王アハシュエロスをだまして、ユダヤ人を全滅することをたくらんだのです。アマレク人の全滅は、モルデカイとエステルの下で行なわれたと言ってもいいでしょう。

このアマレク人もまた、弱くて、貧しい者に対して、あわれみも、公正も示さなかった人間であり、神の怒りをかったのです。

これらの申命記のメッセージは、主を信じる信仰は、自分個人の内だけで信じていればそれでいいと言うような、個人主義のものではないことを示しています。

私たちの信仰が、真に聖なるものであり、真実なものであるなら、それは生活の中に、家庭生活の中に、そして教会の中にも、職場にも、具体化されていくはずです。特にパウロが育ったように、「信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)
イスラエル人は、単に一人一人が聖なる神の民であるだけでなく、聖なる国民であることが求められたように、クリスチャンは一人一人がきよめられた信仰者であればいいというだけでなく、キリストの家族として聖く結び合わされて、キリストの体としての聖なる、キリストの愛によって営まれる社会を形成していくことが求められているのです。

クリスチャンは、次の四つのことを持ってキリストをあかしし、信仰による最も幸いな社会を築いていかなければなりません。

一、隣人に対して、愛とあわれみの実践において、主イエスは、よいサマリヤ人のたと え話の中で、このことを教えてくださいました(ルカ10:25~37)

ルカ 10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。

二、クリスチャンは、キリストをあかしする結婚によって、家庭を築き、家庭を通して主の栄光を現わすようにします。

三、貧しい者や弱い立場にある者に対して、実際的な助け、保護、配慮をしていく事。これは、純粋な信仰が実際に現わされる中心的なものです。

四、裁判は公正なものでなければならないし、刑罰は、律法の要求にそうものでなければなりませんが、真実に罪を悔い改める者には、あわれみあるものでなければなりません。怒りやのろいや憎しみ、悪意に満ちて刑罰を過酷に行なってはなりません。律法学者とパリサイ人は、姦淫の場で捕えた女を石打ちにしようとし、主イエスをワナにかけようとしましたが、主は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言われました。

クリスチャンがこれらの四つの点を忠実に実行していくなら、この世の社会に大きな影響を与えていくことができることは間達いありません。

あとがき

暑さが続いていますが、主に守られておられることと思います。
この地上にあっては、病いや課題が絶えることがありません。別けても、子どもたちの悲惨な事件を次々と聞く時、今の日本人の心はどうなっているんだろうと、嘆きをもって、主に祈らざるを得ません。イエス様のいない社会に住む人々が、どこまで非人間的な状況にまで堕落してるかを見せつけられる思いがします。ますます、イエス様を伝えることの緊急性を痛感します。この時に当たって、クリスチャンがキリストの光を人々の前にかかげないなら、主は私たちを捨てられてしまい、もはや、私たちを証人として用いられなくなってしまうでしょう。
「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14)

(まなべあきら 1997.9.1)

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、オランダの画家 Jan Victors (1619–1676) により1651~1653年頃に描かれた「Boas übernimmt das Erbe Elimelechs(ボアズはエリメレクの遺産を引き継ぐ)」(フランクフルトのシュテーデル美術館蔵、Wikimedia Commonsより)


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発行人 まなべ あきら
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