聖書の探求(164) 申命記26章 産物の初物のささげ物、十分の一のささげ物、主の宝の民

26章は、21章から始まった私的生活に関する規定の最後の章で、16~19節はその結論を示しています。

ちなみに、27~34章は、申命記の最後の第三区分で、預言的で、将来における神の愛を記しています。

27~28章、遠方視(祝福とのろい)
29~30章、前方視(契約の更新)
31章、四つの命令
32章、預言の歌
33~34章、最後の出来事

26章の内容は、

1~11節、主の相続地(カナン)で産物の初物をささげる時の祭司の執成
12~15節、第三年目の十分の一を納める年の主の御前でのあかし
16~19節、律法遵守(じゅんしゅ)の命令と、主の宝の民、主の聖なる民となる約束

1~11節、主の相続地で産物の初物をささげる時

申 26:1 あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、
26:2 あなたの神、【主】が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。

産物の初物と、収穫の十分の一をささげる方法は、神への賛美と祈りをささげる美しい型です。

産物をささげることは、感謝を表すとともに、自分の生活をささげて主を礼拝することを意味しています。

「・・・あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:20)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一 10:31)

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」(ヘブル13:15~16)

主への礼拝は、主の日に礼拝式に出席しているだけでなく、賛美も、祈りも、心から信仰を持ってささげ、各々の日常の生活をも主に喜ばれるように過ごし、互いに持っているものも分かち合い、心の中の喜びも、悲しみも、痛みも分かち合う時、主に受け人れられる霊的礼拝をささげているのです。これらの点で、私たちの礼拝が形だけの儀式になってしまっていないか、点検してみる必要があります。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(コりント第二 13:5)

産物は、「かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ所へ行かなければならない。」(2節)

「主が・・・選ぶ場所」は特に、申命記中に繰り返されています(12:11,14,18,21,26、14:25、15:20、16:7,15,16、17:8,10、18:6、31:11)

申 12:11 あなたがたの神、【主】が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが【主】に誓う最良の誓願のささげ物とである。

12:14 ただ【主】があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

12:18 ただ、あなたの神、【主】が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、【主】の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、【主】の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。

12:21 もし、あなたの神、【主】が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは【主】が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。

12:26 ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、【主】の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。

・・・・・

申 31:11 イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、【主】の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。

これは明らかに、主への礼拝を、他の偶像礼拝と区別するためです。主に礼拝をささげる人は、主との正しい関係を保っていなければなりません。産物を与える与え主との交わりを持っている者だけが、主に喜ばれるささげ物を正しくささげることができるのです。この点で、カインはささげ物をするのにふさわしくない生活を送っていたのです。

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」(創世記4:5)

アナニヤとその妻サッピラも、主にささげ物をするのにふさわしくない人物でした(使徒5:1~11)

私たちの礼拝は、主の日に礼拝式に出席している、献金もしている、というだけのものであってはなりません。毎日の生活における動機や思いが主に喜ばれるものとなっている必要があります。

3節、主の相続地に入って、最初の産物を主にささげた時、「任務についている祭司」(大祭司、あるいは、その代理人、11節の「レビ人」とは明白に区別されています。)は、主が、昔、約束されたこと(創世記28:13)が成就されたことを、主に報告しなければならなかった。

申 26:3 そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、【主】が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。きょう、あなたの神、【主】に報告いたします」と言いなさい。

申 26:11 あなたの神、【主】が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。

創 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

その時にささげる産物の初物は、主の約束が成就されたことの証拠です。

そして祭司はかごを主の祭壇の前に供え、礼拝者は、自分を今まで導いてくださった主のすばらしいみわざをほめたたえるのです。これが私たちのあかしであり、感謝であり、賛美となるのです。

申 26:4 祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、【主】の祭壇の前に供えなさい。

ここでは、イスラエル人の父、ヤコブがさすらい人としてラバンの所に行き、ラバンのもとから解放されて、エジプトに下って、寄留地で大きな国民となり、主の御力によってエジプトの過酷な奴隷生活から解放されたみわざを列挙しています。

申 26:5 あなたは、あなたの神、【主】の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。

5節で、ヤコブを「私の父は、さすらいのアラム人でしたが」と言っているのは、ヤコブの母リベカが、アラム・ナハライム(パダン・アラム)出身であり(創世記24:10、25:20)、ヤコブ自身も、リベカの兄ラバンの下で長く過ごしていたので(創世記29~31章)、アラム人(シリヤ人)と呼ばれているのです。

創 24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

創 25:20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。

5~10節は、モーセによって整えられた祈祷式文のようです。

申 26:5 あなたは、あなたの神、【主】の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。
26:6 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
26:7 私たちが、私たちの父祖の神、【主】に叫びますと、【主】は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。
26:8 そこで、【主】は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
26:9 この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。
26:10 今、ここに私は、【主】、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、【主】の前にそれを供え、あなたの神、【主】の前に礼拝しなければならない。

その中には、
エジプトにおける苦役、虐待(6節)
救いを求める叫び(7節)
力強い主の救いの御手(8節)
乳と蜜の流れる豊かな約束の地(9,10節)
が言及されています。

礼拝者たちは、自分が主の御手によって救い出され、自由にされたのではあるけれどもどのような苦しい奴隷の状態から救い出されたのかを十分に認識する必要がありました。

そして今、新しい神の約束の地に入ることができたことは、神の賜物であることを認識して礼拝をささげるのです。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがその切り出された小石、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)

私たちは、自分の罪のために救い主イエス・キリストが十字架にかかって、その代価を払って下さったことを信じることなしに、洗礼を受けても、救われないことを、十分に知るべきです。私たちは自分がどのような状態から救い出されたかを十分に知ることによって、今の恵みの豊かさを心から主に感謝するようになるのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし - あなたがたが救われたのはただ恵みによるのです。- 」(エペソ2:1~5)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

これらのことが終わって後、レビ人や在留異国人も加わって、喜びの祭りが行なわれたのです。救いの恵みが明確になる時、神の家族に加わる者の間には、喜びの交わりが始まるのです。

民数記18章12,13節や、申命記18章4節を見ると、産物の初物は祭司たちのものとして与えられているが、ここにも、祭司たちのささげるもののための規定が記されていない。それは恐らく、この部分は、祭司たちを指導するための手引書ではなく、神の民全員のための律法の書であったからだと思われます。

民 18:1 そこで、【主】はアロンに言われた。・・・・・
18:12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が【主】に供える初物全部をあなたに与える。
18:13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが【主】に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。

この「かご」の中に初物のすべてがはいっていたのか、それとも祭りで用いられる主なものが、しるしとしてはいっていたのか、明らかではありません。

申 18:4 あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。

しかしこの儀式全体とそのかごの中の初物が示していることは、神の約束された相続地が肥沃で、豊かであること、そして自分たちが主の民であること、カナンの偶像礼拝をする民でないことを明確に示していたのです。そしてその豊かさを貧しい者たちとも、共に分かち合って喜ぶことを示していたのです。これこそ、申命記の主要な強調点であり、聖書全体が示している強調点でもあります。そこには豊かな恵みと感謝と喜びが満ちあふれています。

12~15節、第三年目の十分の一を納める年の主の御前でのあかし

申 26:12 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、
26:13 あなたは、あなたの神、【主】の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。
26:14 私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、【主】の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。
26:15 あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

一年目と二年目の十分の一のささげ物は、主の御前での祭りのために用いられました。(申命記14:22~27)

申 14:22 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。
14:23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、【主】の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶために。
14:24 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、【主】が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、【主】があなたを祝福される場合、
14:25 あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、【主】の選ぶ場所に行きなさい。
14:26 あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。
14:27 あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。

しかし三年目の十分の一のささげ物は、レビ人や貧しい人々に与えられました(14:28,29)。

申 14:28 三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。
14:29 あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、【主】が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

これらのことをなし終えた時、礼拝者たちは主の御前に出て、主のご命令にそむかず、忘れもせず、従ったことを主に報告し、あかししました。それは三つのことを守ることによって、主にささげた十分の一のささげ物を汚さなかったことをあかししているのです。

一つは、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えることによって。

レビ人とは主の奉仕者のことであり、在留異国人とは神の民としての特権を持たないけれども、信仰をともにしている貧しい、弱い立場の人々であり、みなしご、やもめは主以外に頼るものを持たない、貧しい、弱い人々です。このような人々と、生活を助け合い、ともに分かち合うことは、主の、みこころであり、愛の宗教の源に関することです。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて釆なさい。」(マタイ19:21)

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

「彼らの中には、ひとりも貧しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」(使徒4:34,35)

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2)

「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピニ・四)

私たちの信仰も、自分の課題だけでなく、他の人と分かち合うことが、必要なのではないでしょうか。そうすれば、喜びも倍増すると思います。

二つ目は、喪のときに、ささげ物を食べなかったことです(14節)。

申 26:14 私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、【主】の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。

「汚れているとき」とは、儀式的に汚れることであって、喪中にパンを食べた者は汚れた者となり(ホセア書9:4)、そのような時、ささげ物をだれかに分け与えることは、他の人をも汚れた者にすることになってしまうのです。

ホセ 9:4 彼らは【主】にぶどう酒を注がず、彼らのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚れた者になる。彼らのパンは彼ら自身のためだけであって、【主】の宮に持ち込むことはできない。

三つ目は、「死人に供えたこともありません。」です。

これはカナン人の葬儀における習慣の中に、死人への供え物があったのに対して、それを真似しなかったことを言っているのです。こうして、神の民は、はっきりと偶像と区別して、主にだけ従っていることをあかししたのです。

15節は、このような忠実な服従に対して、主が豊かな祝福を与え続けてくださるようにと祈ったのです。

申 26:15 あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。
・・・・・

民数記18章21~32節には、十分の一はみな、レビ人に割り当てられています。

民 18:21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。

しかし申命記では、十分の一はレビ人だけでなく、在留異国人やみなしごややもめにも分け与えられています。

申 26:12 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、

この食い違いをどう説明するのかと言う人がいますが、伝統的なユダヤ人の説明では、申命記の十分の一は、第二の十分の一のささげ物のことを語っているのだとされています。

これはそれまでの荒野における厳しい生活状態における状況から、豊かな乳と蜜の流れる、多くの産物が得られる神の相続地に移ったことによって、説明できるでしょう。レビ人たちは、荒野の生活では十分の一のすべてが必要だったでしょう。しかしこの豊かな地では、十分にあり過ぎて、他の貧しい礼拝者たちに分かち与えたのです。これは、この世の人々の間の、物のやり取りの付き合いとは、全く内容の異なったものです。今日、キリストの教会の中で、互いに愛を分かち合う生活を営むなら、どんなに主の栄光を現わすことができることでしょうか。

これらの実際上の細かいことは、今日の私たちには分からなくても、当時のイスラエル人たちには、よく理解できていたことですから、全く問題になりません。それよりも、むしろ、ここで問題になるのは、十分の一のささげ物が、主によって潔められた目的のために用いられたことを明確にすることで、カナンの異教の多産の儀式を行なうために用いられたのではないことを主に報告することにあったのです。

16~19節、律法遵守の命令と、主の宝の民、主の聖なる民となる約束

ここには、契約という言葉は使われていないけれども、ここに記されていることは、神によって解放された民と神との間の契約が明らかにされています。この契約はただ一つ、シナイにおいて結ばれた契約(出エジプト記24:7)でしたが、それが今、ここで再び契約を更新しようとしているのです。私たちの信仰は、最初に信仰に立った時だけで終わらせず、洗礼を受けた時だけで終わらせずに毎日、更新していく必要があります。

16,17節「きょう」この時を表す言葉は、信仰の現在性を示しています(11:26,32)。

申 26:16 あなたの神、【主】は、きょう、これらのおきてと定めとを行うように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行おうとしている。
26:17 きょう、あなたは、【主】が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。

申 11:26 見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。

申11:32 私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行わなければならない。

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント第二 6:2)

主は、きょう、みことばを通して私たちに語ってくださいます。そして私たちの信仰は、「きょう」という現在しかないのです。昨日まで、どのような生活を送っていたとしても、「きょう」イエス様を信じて歩んでいることが最も大切なのです。また「あす」信じようと言うことも、無駄です。「あす」は、まだ自分のものではないからです。毎日が「きょう」です。その「きょう」を信仰によって生きるのです。信仰は、「きょう」なのです。「きのう」でも、「あす」でもありません。ですから「きのう」のことで悔やむことも、「あす」のことで悩む必要もないのです。「きょう」主を信じて、「きょう」なすべき分を主に対してするように、心からする時、私たちは主に仕えているのです。そして、主から報いとして神の国を相続させていただくことができるのです。

16,17節、「おきて(フキーム)」は良心に記されている律法のこと、

「命令(ミッヴォート)」は、一回だけ成就すればいい命令のこと、

「定め(ミシュパティーム)」は、判例法で、申命記に記されているすべてのものが含まれています。

神の民は、これをただの義務的な律法としてではなく「心を尽くし、精神を尽くして」守り行なおうとしています。そうすることによって、主を更に確かに自分の神とすることができたからです。

このことは主イエス様も、マタイ22章37節で教えておられます。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

このことを私たちがするなら、主はもっと確かな私たちの神となってくださるのです。恵みは律法を約束に変え、愛は信仰を確信に変えるのです。

17節、「断言した。」これは、「力強く認識した」という意味です。

18節、それに対して、主もまた、約束を確かにされています。

申 26:18 きょう、【主】は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、
26:19 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民となる。

神の民を、「主の宝の民」、「主の聖なる民」(19節)とすることを明言されました。信仰を持つことは、かせがはめられ、窮屈になることだと思っている人がいますが、それは真の信仰を知らない状態で見ているからです。主の宝の民、聖なる民となることは、かせではなくて、特権であり、光栄なのです。心がきよめられることは、義務ではなくて、讃美と喜びと、光栄にあふれた者となることなのです。クリスチャンがこのことを経験していないとしたら、信仰が健全でないか、明確になっていないからなのです。

この26章は、イスラエルの民を神の約束の地にあるものとして(1節)、また神の恵みを受けて楽しむものとして(9、15節)描いています。

申 26:1 あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、

申 26:9 この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。

申 26:15 あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

しかしその繁栄の故に、イスラエルの民が、救いの神、またここまで導いてくださった神を忘れてしまうことのないように、「繁栄した神の民がなすべき礼拝の三つの行為」が命じられているのです。

第一は、主がしてくださった、恵みのみわざをあかしする礼拝です(1~11節)。

第二は、十分の一のささげ物と、貧しい人々と分かち合う礼拝です(12~15節)。

これは、今日、もっと積極的に愛を持って行なわれるペきではないでしょうか。

第三は、神のみことばを守り行なう礼拝です(16~19節)。これは信仰を継続的に更新することです。

これらを守ることによって、イスラエルは事実上、神の宝の民となり、主の聖なる民とされ、讃美と名声と栄光が与えられ、ダビデ、ソロモンの時代には、大繁栄した神の王国を建設しました。しかし、彼らがこの三つの命令を忘れた時、たちまち、王国は分裂し、バビロン捕囚へと向かって行ったのです。

こうして、申命記の中心的な律法に関する部分(12章~26章)の終わりに到達したのです。

最後に、付け加えておきたいことは、モーセの律法には、契約の更新が見られることです。契約の更新は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも見られたことですが、主は神の民イスラエル全体とも契約の更新を求めておられます。イスラエルはシナイ山で主と契約を結ばれただけでなく、事ある度に、主との契約を更新しています。そしてこの26章も、その契約の更新の祝いの儀式です。

さらに、すでにお話しましたとおりに、イスラエルの生活環境が変わるに従って、すなわち、荒野の厳しい状況から、豊かな収穫が与えられる神の約束の地へと移って行ったとき、モーセの律法も、絶えず変化する状況における必要を満たすために、形を整えられ、適用が拡大される余地を残していたのを見るのです。その一例が、レビ人に与えられるはずの十分の一のささげ物が、在留異国人やみなしご、やもめにまで拡大して分かち与えられていることです。これは、神を愛し、隣人を愛するという不変の原則に基づいて、人の生活の絶えず変化していく状況に対して、頑なになっているのではなくて、主の本来のみこころを十分に成し遂げるために、適用が拡大されているのを、聖書中の律法の変化の中に見ることができます。

さらに、イエス様はモーセの律法を霊的なものへと変えられましたが、私たちは律法学者、パリサイ人のように心を頑なにして、主イエス様が語られた本意を受け取ることに失敗しないようにしなければなりません。

私たちの生きている時代は、モーセの時代からは約三千五百年、イエス様の福音書の時代からは約二千年過ぎています。その間の人間の生活状況は大きく変化してしまいました。しかし、主が言われたように、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ということと、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」という主のみこころとは、永遠に変わることはありません。しかし生活上における一つ一つのみことばの適用はそれぞれにふさわしく良心的に健全に主に喜ばれるように適用していかなければなりません。とかく宗教は無理な一つの物差しで、すべてを測ろうとしやすいのです。そして主のみこころから大きくそれて行ってしまいやすいのです。この点に、私たちは十分に注意を払うべきではないでしょうか。主のみことばは、真理にかなって用いる時、力がありますが、真理に逆らって使えば、自らを刺し通します。みことばは、主を愛して、主の栄光のために用いれば、実を結びますが、自分の欲のために、心を頑なにして用いれば、滅びを招くことになります。主を愛し、互いに愛し合うために、主のみことばを使おうではありませんか

あとがき

暑い夏が終わったと思ったら、立て続けに台風が押し寄せてきました。皆さんの所では
被害がなかったでしょうか。お見舞い申し上げます。
私たちが心を一つにして主をあかしすることができるためには、主のみことばを信じて、歩んでいることが必要です。このことなしにいかなることをしても、心を一つにすることはできません。キリスト教の知識をいくら振かざしても、主のみことばを真直に語らなかったら、主のみことばを信じて歩むように指導しなかったら、教会員は心を一つにすることはできないのです。「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:29)とありますが、私たちはイエス様のようにではなく、律法学者たちのように語る傾向があるのではないでしょうか。主のみことばは学んで知識を増やすためにあるのではなく、信じて歩むために与えられているのです。信じて従うためには、神の権威が必要なのです。
(まなべあきら 1997.10.1)

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1896~1913年頃にthe Providence Lithograph Companyにより出版されたBible cardの一枚「Thank offering unto the Lord, offering of first fruits(主への感謝のささげもの、産物の初物のささげもの)」(Wikimedia Commonsより)


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「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


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