聖書の探求(170) 申命記31章14~30節 モーセとヨシュアへの命令と預言、レビ人への命令

14~23節、モーセとヨシュアへの命令と預言

申 31:14 それから、【主】はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。
31:15 【主】は天幕で雲の柱のうちに現れた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。

主のご命令によって、指導権がモーセからヨシュアへとバトン・タッチされています。それは会見の天幕で行なわれています。

会見の天幕は、神と人が個人的に会う場所として定められています(出エジプト記25:22、29:42、30:36)。

出 25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

出 29:42 これは、【主】の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。

出 30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。

ヨシュアは長い間、モーセが会見の天幕の中に入って主と交わっている間、外で待っていたのです。しかし、今や、ヨシュアはモーセとともにその会見の天幕に立ち、神の臨在のもとに民の指導者としての任命を受けたのです。今、私たち、主を信じるすべての者が、主と交わる特権にあずかっていることは、ありがたいことです。

ヨシュアはすでにモーセを通して民の指導者としての役目に任じられていましたが(民数記27:18~23)、

民 27:18 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
27:19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
27:20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために【主】の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」
27:22 モーセは【主】が命じられたとおりに行った。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、
27:23 自分の手を彼の上に置いて、【主】がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。

モーセの死ぬ日が近づいて来た時、主の直接の臨在を受けて、その任命を堅くされたのです。これからはヨシュアを指導してくれるモーセはいなくなる。彼は自ら、直接、神の指導を受けなければならなくなるのです。今日の教会の牧師や教師たちも、ただ教会の任命を受けるだけでなく、個人的に主の御霊の臨在によって、各々の任命を堅くしなければなりません。それがないと、人を導く働きをすることができません。

神のしもべは、ただ、教会という組織の中で働くだけでなく、直接、神の任命を受けて、神の働きをしているのだということを知らなければなりません。このことがないと、人を集め、儀式を行なっていても、キリストの救いの経験に導いたり、聖潔の恵みに導いたり、生活の中で霊的勝利を経験し、御霊の実を結んでいく働きをすることができません。にせ教師へと堕落していくことになるのです。

16~21節で、主は、モーセがいなくなった後のイスラエルの不信仰な堕落を予告しておられます。

申 31:16 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、入って行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、
31:17 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』と言うであろう。
31:18 彼らがほかの神々に移って行って行ったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。

主は、人の心の中にある、神への反逆性を見抜いておられるのです。

「人はうわベを見るが、主は心を見る。」(サムエル第一 16:7)

「正しい神は心と思いを調べられます。」(詩篇7:9)

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」 (エレミヤ書17:9,10)

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12,13)

全知の主は、たえず悪を思いはかる人間の罪の性質を見抜いておられるのです。

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)

神の民がやがて、異教の民の中での生活をしていく間に、異教の神々を慕って淫行(偶像礼拝)をしようとしていること。主は、今まさに、民が偶像礼拝を好んで、始めようとしているような言い方をされています。それは人の中に住む汚れた性質を示しています。
さらに、主を捨てること、主と結んだ契約を破ることを予告しておられます。

イスラエルの歴史は、これらの主の予告のすべてが確かであったことを立証しています。

民はみな「いいえ。私たちは主に仕えます。」(ヨシュア記24:21)と叫びましたが、所詮、人の決心や熱意がいかにもろく、むなしく、力のないものであるかを、歴史は証明しているのです。

「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と、ペテロは自分の決意を主に告白しましたが、その数時間後に、彼は三度、主を知らないと否定し、他の弟子たちもみな、同じように告白したのに、全員、主を捨てて、逃げてしまったのです。人の決心の無力さに、モーセの時代の人も、ペテロの時代の人も、今日の人も全く変わっていません。

19節、このような人々のために、なぜ主は、あかしの歌を書きしるさせ、教えさせたのでしょうか。

申 31:19 今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。

それは彼らが主を捨てて、偶像に仕え、主との契約を破り、主の燃える怒りが下された時、このあかしの歌によって、彼らが、知っていながら、神のみおしえを破ったことを、この歌が証言するためです。

「こういうわけで、なすべきことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ 12:48)

20節は、私たちが、主から恵みを受け、裕福になった時、高慢になり、主を侮(あなど)り、主の契約を破り、自己主張をして、自分たちの王を求め、自分たちの力で支配することを主張し、世俗化して、異教化していく危険を警告しています。

申 31:20 わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。
31:21 多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」

「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:8,9)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

ヨシュアは、このような人々を率いて、神が誓われた地に導き入れなければならないと、命じられていますが、このような任務は、とても、主がともにいてくださらないとできません。

それは今も同じです。教会の中にも、冷淡で、不信仰で、不服従になりやすく、不平不満を言う多くの人々がいます。なかには、ののしりや敵意さえ抱く者もいます。そういう人々の間にあって、神の御国の働きを続けていくには、主がともにあってくださる以外に、この任務を続けることは不可能です。主はギデオンの精兵三百人を用いて戦われました。イスカリオテのユダは、主の弟子のグループから脱落し、さらにわずかの人数になりましたが、聖霊に満たされたわずかの弟子たちによって、主の働きは進められたのです。このことを私たちは十分に考えなければなりません。教会員の数が減ることを恐れてはなりません。教会全体が不信仰になって滅びるより、わずかになっても聖霊に満たされた者たちで奉仕するほうが、ずっと主に喜ばれます。

「『だれでも、主につく者は、私のところに。』と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。」(出エジプト記32:26)

24~30節、モーセのレビ人への命令

24節、モーセはこのみおしえを書物にまとめて書き記し終えた。

申 31:24 モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、
31:25 モーセは、【主】の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。

モーセが申命記のすべての部分を必ずしも自分の手で書いたことを意味していないと思われますが、しかし申命記はモーセが説教し、そしてモーセがその構成者であり、モーセ自身が自らの手で書き記した部分もあることは明白であり、申命記の権威は疑うべくもなく、モーセによるものであることは明白です。

26節、このみおしえの書は、主の契約の箱のそばに置くように命じられています。

申 31:26 「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、【主】の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。

契約の箱の中には、すでに十の戒めを記した二枚の石の板が入れられていたので、契約の箱と呼ばれています。本書は箱の中ではなくて、箱の側に置いて、人々は読み聞かせることが重要だったのです。神のみおしえを置く、最もよい場所はどこでしょうか。

「心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。」(詩篇37:31)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇140:18)

「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11)

「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ書31:33)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ1:21)

私たちがみことばを信じて、心に受け入れる時、主は私の神となって下さり、私たちは主を自分の神とするのです。

モーセの最大の心配は、イスラエル人の心の頑(かたく)なさ、うなじのこわい性質でした。それは四十年間のシナイの荒野の旅路で、いやと言うほど、モーセは思い知らされていたのです。その性質が申命記のみおしえを聞かせただけで変わるとは思えない。モーセがいなくなった後、イスラエルは再び主に逆らうことを繰り返すのではないでしょうか。現実は、モーセが心配している通りになりました。

いかなる教育も、訓練も、人の心の性質を変えることができません。ただ、主がその人の内に住まわれる時にのみ、人の性質は変えられるのです。

「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。」(エレミヤ書13:23)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント第二 5:17)

27~29節、人の心の頑(かたく)なさを知っていたモーセは、自分の死を直前にひかえて、何とかして民が神のみおしえの道に歩むように苦心しています。

申 31:27 私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは【主】に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。
31:28 あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。

モーセは、イスラエルに対する証人として天と地を立てた。彼は、その契約がイスラエルと神との間で結ばれたことを証言するために、創造された全宇宙を証人として召集したのです。

すでに、あかしの歌を書き、みおしえの書を契約の箱のそばに置きました。しかしそれでも、モーセは安心できなかった。私たちの信仰のあかしや、健全な教理を文書にして書き残すだけでは十分ではありません。それを度々、読み聞かせ、教え聞かせて、信仰の更新をしていくことが必要です。モーセは部族の長老たちと、つかさたちとを呼び集めて、教えています。

今日、教会の中に真理のみことばを真っ直ぐに教えることができる教師やリーダーを育てていくことが急務です。そしてすべての教会員が日毎に信仰の更新をしていくように指導するようになれば、その恵みと祝福は全地に広がって実を結ぶようになることは、間達いありません。

「他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(テモテ第二 2:2)

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(テモテ第二 22:15)

29節の「後の日に」は、メシヤの預言と関連しているようです。

申 31:29 私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、【主】の目の前に悪を行い、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」

「私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。」(創世記49:1)

「さあ、私はこの民が後の日にあなたの民に行なおうとしていることをあなたのために申し上げましょう。」(民数記24:14)

「しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。・・この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。」(ダニエル書2:28、44)

30節、モーセは彼にできるすべてのことを成し遂げたのです。

申 31:30 モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた

あ と が き

イエス様を愛して、心から賛美する人が起こされてくるのなら、どんな忍耐もできるような気がします。「気がします。」と言ったのは、私自身に自信がないからです。これまで、もうずっと長い間、忍耐の連続でした。そして今もなお、忍耐の訓練の中にいます。敵意を持つ者、妨害をする者もいます。残念ながら、クリスチャンと言っている人も、みんなが仲間であるとは限らないことも痛感させられています。しかしそれでもなお、心からイエス様を愛して賛美する人がこの日本に起こされつつあることは、嬉しいことです。この忍耐は、生きている限り続くでしょう。それを守り通せるのか、私には自信はない。しかし主を愛する人がいる限り、私の希望は失望に終わることがないと信じています。

(まなべあきら 1998.5.1)

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、フランスの画家 James Tissot (1836-1902)が1896-1902年頃に描いた「Moses and Joshua in the Tabernacle(幕屋でのモーセとヨシュア)」(ニューヨークのthe Jewish Museum蔵、Wikimedia Commonsより)


「聖書の探求」の目次


【月刊「聖書の探求」の定期購読のおすすめ】
創刊は1984年4月1日。2021年9月現在、通巻451号 エズラ記(7) 4~6章、まだまだ続きます。
お申し込みは、ご購読開始希望の号数と部数を明記の上、振替、現金書留などで、地の塩港南キリスト教会文書伝道部「聖書の探求」係にご入金ください。
一年間購読料一部 1,560円(送料共)
単月 一部 50円 送料84円
バックナンバーもあります。
(複数の送料) 3部まで94円、7部まで210円.多数の時はお問い合わせ下さい。
郵便振替00250-1-14559
「宗教法人 地の塩港南キリスト教会」


発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
〒233-0012 横浜市港南区上永谷5-22-2
電話FAX共用 045(844)8421