聖書の探求(169) 申命記31章1~13節 ヨシュアの指名、七年ごとに律法を読み聞かせること

31章は、モーセの最後の勧告です。ここには単なる契約だけでなく、主のご命令に従うようにとの強い勧告がなされています。モーセには死が差し迫っており、彼は神の仲保者として、また民の代表者、指導者という役割を果たす必要があったのです。


上の絵は、Hult, Adolf,(1869-1943)により、1910年代に出版された「Bible primer, Old Testament, for use in the primary department of Sunday schools(旧約聖書初級読本、日曜学校の小学生クラスのために)」の挿絵。(アメリカの国会図書館、The Library of Congress蔵、Wikimedia Commonsより)

31章の分解

1~8節、ヨルダン渡河の時に主の臨在が与えられることと、ヨシュアの指名
9~13節、七年の終わり毎に、律法を読み聞かせるようにとの命令
14~23節、モーセとヨシュアへの命令と預言
. モーセに対して、
.  ①死(14節)
.  ②ヨシュアとともに集会の幕屋に立て(14節)
.  ③イスラエルの背信の預言と警告(16~18節)
. ヨシュアに対して
.  ①民をカナンの地に導き入れること(23節)
.  ②主の臨在の約束(23節)
24~30節、モーセのレビ人への命令
.  ①律法の書を契約の箱のそばに置くこと(24~26節)
.  ②モーセの死後の背信の警告(27~29節)
.  ③結語(30節)

1~8節、ヨルダン渡河の時に主の臨在が与えられることと、ヨシュアの指名

申 31:1 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、
31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。【主】は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。

モーセ自身がイスラエル人を率いて、カナンに入ることができなかった理由は、二つあります。

一つは、「私は、きょう、百二十才である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない。』と言われた。」(2節)とあるように、モーセは八十才の時から四十年間、イスラエル人を指導し続けてきており、その大半の期間はシナイの荒野の旅という厳しい環境での生活でした。そして彼は百二十才になっており、年令とともに、指導者としての力を使い果たしていたのです。彼がこれからカナンに入って行って、さらに長い間の戦いを続けることを、主はモーセには過酷に思われたのです。しかしこの時、モーセは、ヨボヨボになっていたのではありません。「モーセが死んだときは百二十才であったが、彼の目はかすまず気力も衰えていなかった。」(34:7)

もう一つの理由は、「しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。」(4:21,22)

「しかし、主はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』」(民数記20:12)

モーセは、イスラエルのあまりにも不信仰な不服従のために、主が「彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」と命じられたのに、会衆に怒りを表わし、彼の杖で岩を二度打って、水が流れ出たのです。主は、これを、「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」と言われています。

モーセはそれまでの温順、謙遜、忍耐を失ってしまったのでしょうか。いや、そうではないと思います。ただ一度だけしか、このようなことが起きなかったことは、モーセがいかに主に似たすぐれた霊性を保っていたかを示していますが、それでも一度、彼の霊性が揺れたことがあったことは、モーセもまた私たちと同じ弱さを持った人間であったことを示しています(参考、ヤコブの手紙5:17)。

私たちなら、毎日、揺れ動いているような心の態度を、モーセは四〇年の間に一度だけ経験したのです。これはモーセの信仰によって養われた人格が、極めてすぐれていたことを示しています。

確かにモーセが主のみことばに従わず、自分の考えと感情に従って岩を二度も打ったことは、主のみことばは必ず実現することを表わさなかったので、主は「わたしをイスラエル人の前で聖なる者としなかった」と言われたのです。エリザベツが、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう。」(ルカ1:45)と言ったことが、どんなに大切か、私たちはしっかりと心に留めたいものです。主のみことばをその通りに信じて、従っていくこと、それが「主の聖」を表わすことなのです。

以上のことの故に、モーセは、ヨルダンを渡って、カナンの地に入ることが許されなかったのです。

このカナンの地とは、今日、私たちの霊的経験の意味では、主の平安と恵みに満ちた状態のことですが、ここに入っていきたいのなら、主のみことばを信じて受け入れ、その通りに従って行くことです。自分の考え、自分の欲、自分の自己中心の願い、自分の感情に従って行くなら、主の安息に満たされる心の状態に入ることはできません。

3節、モーセがイスラエル人をカナンの地に導き入れることを禁じられましたので、主はモーセの後継者としてヨシュアを指名しておられます。

申31:3 あなたの神、【主】ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。【主】が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。

ヨシュアはすでに国民の指導者として任命されていましたが(民数記27:18~23、申命記1:38)、

民 27:18 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
27:19 彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
27:20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために【主】の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」
27:22 モーセは【主】が命じられたとおりに行った。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、
27:23 自分の手を彼の上に置いて、【主】がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。

主は更にここで再び、イスラエル人がカナンに入って行く時の先導者となることを命じておられます。

ヨシュアがここで民の指導者として選ばれたのは、彼が神の霊を宿していたからで(民数記27:18)あって、今日の教会の指導者たちのように学歴や教会堂の大きさや、地位などによるものではありませんでした。

もし今日の教会の指導者たちが神の御霊に満たされた者であったなら、教会員たちはどんなに恵みを受けていたことでしょうか。

しかし真の指導者は、神ご自身です。神ご自身がイスラエル人の先に、そして人間の指導者であるヨシュアの先に渡って行かれ、カナンにいる異教を根絶やしにし、占領されると言われています。

それ故、先に、エモリ人の王シホンとオグと、その国に対して勝利できたように(4節)、カナンに入っても、大いなる勝利を確信することができたのです。

申 31:4 【主】は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行われたように、彼らにしようとしておられる。
31:5 【主】は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行おうとしている。

イエス様は私たちの羊飼いであって、「自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。」(ヨハネ10:4)そして、私たちの内に住む、主に敵対し、反抗する罪の支配力を根絶やしにし、平安と豊かないのちに満たしてくださるのです。

6節、それ故、ヨシュアは敵を恐れてはならなかったし、自分に命じられた任務についても、おののいてはならなかった。彼は強く、雄々しく、進んで行くことが求められています。

申 31:6 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
31:7 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。【主】がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
31:8 【主】ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

異教との激しい戦いがあっても、主ご自身が私たちの先に、ともに進まれ、決して私たちを見放さず、見捨てないのですから、勇敢に前進させていただいて、勝利を獲得させていただきたいものです。勝利はすでに決まっているのですから。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「信仰の戟いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(テモテ第一 6:12)

「私は勇敢に戦い、走るペき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二 41:7,8)

9~13節、七年の終わり毎に、律法を読み聞かせるようにとの命令

9節、「モーセはこのみおしえを書きしるし、」と22節、「モーセは、その日、この歌を書きしるして、」と、モーセ自身が書いたことを明言しています。民数記33章2節にも、「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発点を書きしるした。」とあります。

申 31:9 モーセはこのみおしえを書きしるし、【主】の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。

申 31:22 モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。

しかし他の箇所では、

「これは、モーセが・・イスラエルのすべての民に告げたことばである。」(1:1)

「これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。」(4:44)

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。」(29:1)

「これは神の人モーセが・・・イスラエル人を祝福した祝福のことばである。」(33:1)

という表現がされており、この申命記は、モーセが直接、自分の手で書いた部分もあり、筆記者に書かせた部分もあるように思われます。もし、筆記者がいるとすれば、その人物は、おそらく、34章のモーセの死とその後のことを書き記した、霊感された記者と同一人物であろう。

モーセ自身の手で書いたものと、筆記者が書いたと思われる箇所とを明確に区別することはできないが、これだけ長い説教であるから、筆記者がモーセを助けたとしても、少しも不思議ではない。またたとい筆記者が書いた部分があったとしても、申命記の価値は落ちるものではないし、その記録が当時のものであることは明白であり、申命記が神によって霊感された書であることに変わりはありません。

9~13節で、モーセがこのみおしえの律法の書を末永く、イスラエルの子孫に読み聞かせるように命じていることは、この申命記を非常に重要なみおしえとして、永遠に残る記録としようとしていたことがうかがえます。

申 31:9 モーセはこのみおしえを書きしるし、【主】の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。
31:10 そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、
31:11 イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、【主】の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。
31:12 民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためである。
31:13 これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、【主】を恐れることを学ばなければならない。」

その永続性は、ヨハネの福音書5章46,47節にも強調されています。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

11節、「あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえをよんで聞かせなければならない。」

ヨシュア記18章34,35節を見ると、

「それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げた。・・・モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが・・・読み上げなかったことばは、一つもなかった。」

その後、イスラエルは律法の書をおろそかにするようになり、失われてしまっていましたが、ヨシヤ王の時に発見され、ヨシヤは、「主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(列王記第二 23:2)

ユダヤ人のミシュナによると、申命記の最初の五章と他の部分が祭りの時に読まれたと記しています。

とにかく、この律法の書が忠実に民に読み聞かせられ、教えられたのはヨシュアの時代くらいで、その後、士師の時代から王国時代になると、神の律法の書はなおざりにされ、失われてしまったのです。それは、神の民の信仰が失われ、堕落し、偶像礼拝に陥ってしまう大きな原因となったことは明らかです。

神のみことばを聞かせられなくなった民は必ず堕落していくのです。

「見よ。その日が来る。-神である主の御告げ-。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」(アモス書8:11~13)

さて、私たちの時代、教会で神のみことばが真っ直ぐ、しかも水増ししたり、割引かれたりせず、語られているでしょうか。聞く人が好む聖句だけを取り上げ、一部分だけが誇られたりしていないでしょうか。神のみことばは、あまさず、全部語られているでしょうか。ただ知識として教えられるだけでなく、聞く人々の霊魂の内で、いのちとなり、力となり、恵みの泉がわき出るように語られているでしょうか。罪人が罪を悟り、キリストの十字架の救いを経験し、潔められ、御霊の実を結び、天の御国を待ち望むようになるように、神のみことばが語られているでしょうか。

歴史を学ぶと、教会は段々と、神のみことばをなおざりにし、儀式や神秘主義などに傾いていくことを繰り返しています。そして神のみことばを再発見する度に、リバイバルが起きているのですが、それもしばらくするとまた下火になっていくのです。歴史はこの繰り返しなのです。

聴衆も、真理のみことばが真っ直ぐに語られることを好まなくなり、自分に都合の良いことを言ってくれる教師のいる教会を捜し求めて、さまよい歩き、信仰の実践の伴わない空想話へとそれて行くのです (テモテ第二 4:3,4)。これが現代の教会の姿ではありませんか。

モーセは、「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに」このみおしえを読んで聞かせるように命じています(この時だけが、神の律法が教えられる唯一の機会ではなかったが。6:6,7,20~25)が、私たちは毎週、神のみことばを読んで聞かされる特権が与えられており、自分個人では、毎日、みことばを読んで主と交わる特権が与えられていることは何という大いなる恵みの特権にあずかっていることでしょうか。

モーセは、このみおしえを読む責任を、宗教的な指導者である「主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たち」と、政治的、市民的指導者である「イスラエルのすべての長老たち」に与えました。これは、神のみことばを身につけることは、単に宗教的な行事として行なわれるだけのものではなく、それは社会的に大きな意味を持っていることを示しています。
神のみことばを身につけることは、個人的に平安な生活を送るためにも、また平和な健全な社会を建設していくためにも不可欠なものであることを示しています。社会から生ける神のみことばが消えていく時、人間の社会は汚職と殺し合いと、性的虐待、権力主義の堕落の中に落ちていくのです。現在、私たちの住む社会は、この堕落の穴の中に落ちてしまっているのではありませんか。それは、神のみことばを社会の中で高くかかげて来なかったからです。
もし、神のみことばを教える役目をゆだねられた祭司や長老たちが、他の儀式や働きで十分働いたとしても、神のみことばを教えることを怠っていたら、神の叱責を受けることにならないでしょうか。

また聞く側の民も、男、女、子どもの区別なく、在留異国人も、神のみおしえを聞くために集まり、聞いて学び、主を心から信じて礼拝する者となり、みおしえを毎日の生活の中で守り行なう者となることが求められています。

今日、教会は毎週、ただ集会を行ない、儀式を行なうだけでなく、子どもたちにいたるまで、心で主を経験し、みことばを活用できるように霊的に指導していく必要があります。みことばの暗誦(あんしょう)ができるだけで喜んで、安心していてはいけません。教会に集まるすべての者が、神のみことばによって実際に生きている者となることを主は求めておられるのです。

(まなべあきら 1998.4.1)


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