聖書の探求(171,172) 申命記32章1~14節 モーセの歌、主の保護についての回顧的証言

この章はモーセの歌ですが、それはあかしと訴訟という二つの要素を含んでいます。しかし、申命記32章は、裁きの後の回復も預言していますので(26~43節)、通常の訴訟を越えた、すぐれたものであることが分かります。この32章は、訴訟の形をとった告白と教訓を目的とした文書であり、単なる律法文書ではありません。モーセがここで法的な形をとったのは、それなりの目的があったからであり、後に、この訴訟の形は、預言者たちがイスラエル人の不信仰を叱責する時に基本的な武器として使われています。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。』」(イザヤ1:2)

「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。」(ホセア書4:1)

「さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。」(ミカ書6:1,2)

32章の分解

1~2節、証人としての天と地の召集
3~4節、モーセの賛美
5~14節、主の保護についての回顧的証言
15~26節、エシェルンの背信と主の怒り
27~35節、敵の高慢に対する応報の宣言
36~43節、主のあわれみの約束
44~47節、モーセの勧告
48~52節、モーセの死の宣告とその理由

1~2節、証人としての天と地の召集

申 32:1 天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。
32:2 私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

主との契約を破った謀反人(むほんにん)たちを審理する手順として、まず、この契約が主と人間との間で法的に正式に結ばれたことを証明するために、契約の証人たちとして、天と地が召集されることに始まっています。天と地とは、被造物の中では最も不動なものとして証人に選ばれているようです。

この天地の召集は、契約が正しいことを確認しています。「私のおしえ(教理)」とは、契約の中に記されている戒めや教えです。それは、「私のことば(神のことば)」であるから、若草や青草をうるおす雨や露のような効果を持っています。それ故、契約である、主の教え、主のみことばは、自分の霊魂をうるおし、養い育てるものであるという意味において、信仰によって受け取らなければなりません。

3~4節、モーセの讃美

申 32:3 私が【主】の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。
32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

信仰によって主のみことばを受け取った者はみな、主に栄光を帰すようになります。主の御名が告げ知らされるのは、主の御名が賛美され、主に栄光が帰されるためです。今日における福音宣教の目的も同じです。パウロも、全く同じ目的と動機を持って奉仕していました。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:20)

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一 10:31)

4節、「主は岩」
15節、「自分の救いの岩」
18節、「自分を生んだ岩」
30,31節、「披らの岩」「私たちの岩」
37節、「彼らが頼みとした岩」

ここに「岩」と言われているものは、信仰者であれば、信仰者が信頼している神、主であり、異教の者にとっては彼らが信頼している偶像を指しています。4節の「主は岩」とは、イスラエルの神、主は、全く安心して信頼することができる、また信頼すべき、信頼の本質であることを示しています。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って流れが押し寄せ、風が吹いてその上に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。…岩の上に建てられていたからです。」(マタイ7:24~25)

「主のみわざは完全」、主のみわざとは、創造後の世界では主のご支配を指しています。主による世界のご支配は完全です。なぜなら、「主の道はみな正しい。」からです。「主の道」とは、主のみことばであり、主のみことばの中に表わされている道理でもあり、原理でもあります。それは、主ご自身の真実な性質によって保証されているものです。「主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」は、主のご性質の完全さを表わしています。この主のご性質によって、主のすべてのみわざが行なわれているのです。私たちの救いのみわざも、聖潔のみわざも。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一 1:9)

「あなたがたを召された方は、真実ですから、きっと(「必ず」という意味)そのこと(23節のみわざ)をしてくださいます。」(テサロニケ第一 5:24)

5~14節、主の保護についての回顧的証言

主のご真実さに対して、神の民は、なんと不真実な、悲しむべき状態でしょうか。

5節、「主をそこない」、主をあなどり、逆らい、主の尊厳をそこなうように、背徳的に主に対して態度をとってきた。

申 32:5 主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。

それ故、もはや、「主の子らではない。」と言われています。

「よこしまで曲がった世代。」主に対して逆らう態度をとっていたのは、一部の人々ではなく、神の民のほとんどの者たちであったということです。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が、離れ去って行き、もはやイエスとともに歩まなかった。」(ヨハネ6:66)

今日、クリスチャンと呼ばれている人々がどれくらい、主に忠実であるかを、点検する必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(コリント第二 13:5)

「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。そのばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」(コリント第一 4:1,2)

「多くの証人の前で、私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(テモテ第二 2:2)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

6節は、詰問という形で、主への反逆が強調されています。

申 32:6 あなたがたはこのように【主】に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

「あなたがたはこのように主に恩を返すのか。」エジプトの奴隷(罪の奴隷)の苦しみの中から救い出し、荒野の生活を守り、養い、導き、育てて下さった神、主に対して、反逆、不服従、侮(あなど)りというような背徳的な態度で、主に恩を返すのか、と言っているのです。今でも、このような態度をとる人が少なからずいるのです。

彼らは「愚かで知恵のない民」です。彼らは申命記8章1~5節で語られている、四〇年間の荒野での信仰の訓練の意味を悟らず、自己中心の欲に従っているのです。

申 8:1 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、【主】があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。
8:2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。

彼らは自分たちの不服従、不忠実に対する神の怒りの恐ろしさとわざわいに全く気づいていないのです。彼らの頭上に神の怒りが実際に下る日に、自らの愚かさを悟るでしょうが、その日ではもはや遅いのです。

「主はあなたを追った父ではないか。」 ここで、主が「父」なる神として語られていることは、主の深いあわれみが示されています。

「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」(ヨハネ20:17)

「主はあなたを造った父」とは、自分を造られた創造者としての神という意味もあるでしょうが、ここでは特に、エジプトでの奴隷の束縛から救い出された、主の愛を強調して「父」と言っておられると思われます。私たちも、父の愛があればこそ、御子イエス・キリストを十字架につけてまで、罪の束縛と滅びの中から救い出されたことを深く心に覚えたいものです。

この父を拒否し、逆らうなら、私たちは全く愚かな知恵のない者としか言いようもありません。このように愛を注いで救い出して下さった主に反逆していく姿を御覧になられる主の悲しみと嘆きはいかに深いものでしょうか。

「主はあなたを造り上げ」主はあなたを主の子たちとして育て上げるご計画を持って、エジプトの奴隷(罪の奴隷)の状態から救い出したのではないか。

「あなたを堅く建てるのではないか。」神の民として、主をあかしする証人として、全人類の前に証明するのではなかったのか。

それなのに、この反逆は何なのか。主の深い悲しみが伝わってきます。主のご計画が遅れているのが、私たちクリスチャンの不従順、不服従によるものであったとしたら、何と申し訳ないことでしょうか。しかし、それでもなお、主はイエス・キリストを信じる私たちをキリストの証人としてお遣わし下さっているのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべ光の中に招いてくだ
さった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(ペテロ第一 2:9,10)

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望ます、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロ第二 3:9)

7節、次に、証人として、「昔の日々」「代々の年」「あなたの父」「長老たち」を引き合いに出しています。

申 32:7 昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。

これはイスラエルの歴史を持ち出しているのです。神の民の歴史を振り返ってみれば、主が完全に信頼にたりる岩であったことがすぐに分かるし、主のみわざは完全で、主の道はみな正しく、主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方であることが証明されます。

しかし、自己中心で、主を愛せず、自分勝手なことをしたいと思っている者たちは、目先の欲に心が奪われてしまって、主がこれまでにしてくださった真実な愛とあわれみに満ちたみわざを顧みようともしないのです。イスラエルはエジプトの奴隷の苦しみから救い出されたことをも顧みようともせず、エジプトに帰りたいと言い出し、エジプトで食べていた物のほうが、主が導いてくださっている荒野でのマナよりずっといいと言い出していたのです。忘恩の民を主が荒野で滅ぼされたという事実を忘れてはいけません。彼らはカレブとヨシュア以外全員滅んだということも、十分心に留めておかなければなりません。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)

私たちが、教会の歴史、信仰の歴史を学ぶことはよいことです。また、多くの信仰者のあかしを読むこともよいことです。また、主が自分にして下さったことを深く顧(かえり)みて、人々の前であかしをすることもよいことです。主があなたにして下さったよいことの一つも決して忘れないようにして下さい。それが、あなたがこれから後、恵みの中で成長していく秘訣なのですから。主から受けた恵みを忘れて、主に不忠実に、不服従になってはいけません。

しかし自己中心な人は、自分に都合のいい時だけ、主に忠実な態度を見せていますが、しばらくするとその自己中心の本性を現わし、自分勝手なことを始めるのです。あなたがそのような人でないことを祈ります。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れる
な。」(詩篇103:2)

8~14節は、イスラエルの歴史が示している主の愛に満ちたご真実さです。

イスラエルが叱責されているのは、このような主の豊かな、愛による祝福にも関わらず、彼らが主に対して、逆らい、悪徳な応答をしたことによるのです。

私たちは、主に対して、そのような悪徳な応答はしていないと言うかもしれません。しかし、それでは、私たちはいつでも主に対して積極的に信仰の応答をしてきたでしょうか。しているでしょうか。しかし、主の御声が自分の心に聞こえているのに、それを知らん顔して、無視したことはないでしょうか。いつでも主のみことばに積極的に応答してきたでしょうか。主のみことばを無視することは、今日のクリスチャンに共通している罪ではないでしょうか。自分のしたいことはすぐに始めるけれども、主があなたにするように命じておられることを無視したり、後回しにしたりしていませんか。それは、主から叱責されるべき態度ではないでしょうか。

8,9節、主の愛とあわれみの好意が、イスラエルに示されたのは、「昔の日々」から「国々に相続地を持たせ、振り当てられ、国々の民の境を決められた」ときからです。

申 32:8 「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。
32:9 【主】の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。

すなわち、国々が国家を創建した時からです。このことを行なわれたのは「いと高き方」主によるのです。主は、国々が、各々の国家を定める時、イスラエルの為に最も適切な地を配置され、そして、それをご自分の民への相続地とされたのです。これは、主が如何にご自分の民を愛しておられるかを示しておられるのです。それは、イスラエルがエジプトにいた時にも、イスラエルの民の上にだけは光が与えられていたことでも分かります。(出エジプト記8:22,23、9:4、10:23)

出 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。
8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」

出 9:4 しかし【主】は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」

出 10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

私たちは、この主の愛を受けている特権を決して忘れたくないものです。この愛の特権を忘れるところから不従順が起きるのです。

10節からは、荒野での生活に移っています。

申 32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

主はシナイの荒野で、いかにイスラエルを世話し、配慮されたのでしょうか。

「獣のほえる荒地で彼を見つけ」シナイの荒野は、獲物をねらう獣がほえるような危険な所です。これは、荒野での生活の厳しさを示しています。イスラエルは、その危険な荒野で、獣にねらわれている小羊のようになっていたのを、主は見つけて、お守り下さったのです。特に、主に逆らった四十年の間は捨てられた子どものような状態だったのに、それでも主は見つけて下さったのです。

「言え。神である主はエルサレムについてこう仰せられる。あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。だれもあなたを惜しまず、これらの事一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。」(エゼキエル書16:3~6)

主は、「これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」

主は荒野をさまよっていた者たちを見つけ出し、ご自分のひとみのように、守り、世話
をして下さった。これが愛でなくて、何だろう。衣が古びず、くつがすり切れず、マナが与えられ続けたことは、主が一時も休まず、ずっと、見守り続け、世話をし続けていてくださった愛の証拠ではないのでしょうか。このことを思うと、今日、主が私たち、ひとり一人に対しても、同じように愛のしるしを与えてくださっていることに感謝せずにはいられません。主の愛は十字架に現わされていますが、それだけで終ったのではなくて、私たちの毎日毎日の生活の中で、ご自分の目に焼きつくほど、私たちから目を離さず、見つめ、見守り、必要な助けを与えて、世話をしてくださっているではありませんか。イスラエルは、このことを忘れた時、主に向かって呟(つぶや)き、不信仰になり、反逆し、忘恩の民となったのです。主に対して感謝を忘れる時、私たちもイスラエルと同じように不信仰になり、忘恩の民となる危険がありはしないでしょうか。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすぺて与えられます。」(マタイ6:32,33)

11節は、親のわしが、羽の生えてきたヒナに飛ぶことを教えるために、巣から呼び出しますが、ヒナが落ちそうになると、すぐに飛んで来て、自分の羽で受け止めて助けるために、ヒナのすぐ近くを舞いかけている姿を描いています。

申 32:11 鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

これは、主がご自分の民を守り、訓練し、世話をするたとえとして語られています。主のご訓練は、一見、ヒナを巣から追い出すような厳しいものに見えますが、これなくしては、ヒナのわしは、いつまで経っても、大空を舞いかけることのできる大人のわしには成長しないのです。私たちクリスチャンも、いつまでも、乳ばかり飲み、信仰の初歩にとどまっていれば、良い物と悪い物を見分ける霊的識別力を身につけることはできません。(ヘブル人への手紙5:12~14)

ヘブル 5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

他人の世話になるけれども、他の人をお世話して、仕える大人のクリスチャンになっていきません。いつまでも教会の中で、「つまずいた、つまずかせられた。」というようなことを言い続けるのです。

主のご訓練は一見、厳しいように見えても、すぐ近くにいて助けるための万全の備えもしていて下さっているのです。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)

12節、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出し、四十年間シナイの荒野を導かれ、助け、世話をしてくださったのは、主おひとりだけです。

申 32:12 ただ【主】だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。

主は他のだれの力も借りなかった。必要としなかったのです。特に「主とともに外国の神は、いなかった。」と言われているのは、やがて、異教の偶像と、それを拝む者への刑罰が下されることが暗示されています。

主は決して偶像と仲間になって、一緒に働かれたりはしません。「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」(コリント第一 8:4)それ故、私たちは主と偶像との間を行ったり、来たりしてはなりませんし、また二心になってもなりません。

「彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。」(ホセア書10:2)

「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブの手紙1:8)

「二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4:8)

私たちが祝福を受け、繁栄した時、主と他のものが祝福してくれたと、言ってはなりません。まず、主に栄光を帰する心を忘れてはいけません。確かに他の人があなたを助けてくれる時もあり、他の状況によって、あなたが繁栄することもあるでしょう。しかしその背後には主がその人を用い、その状況を用いてくださっていることを忘れてはならないのです。決して異教の神々が自分を助けてくれたと、言ってはなりません。それは主を怒らせることになるでしょう。イスラエル人は、エジプト脱出の時、主が十の災いをもってエジプトの偶像と戦われたことを忘れてはならなかったのです。

13節は、乳と蜜の流れる、主の約束の地が与えられることです。

申 32:13 主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、
32:14 牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

「地の高い所に上らせ」とは、その地の所有権が与えられることを示しています。

そこでの食事の内容は、シナイの荒野での制限された食事とは、随分違って、豊かなものになっています。畑からとれる産物、蜜と油、「岩からの蜜」は、蜂の巣が岩にあったからでしょう。「堅い岩からの油」は、岩を油の貯蔵庫にしていたからでしょう。家畜からとれるチーズやミルクは祝福そのものでしょう。それに良質の小麦と豊富なぶどうは、荒野の生活では味わえなかったものです。

ここで問題になるのは、「食べさせた。」とか、「飲んでいた。」と、すでに行なわれていたように書かれていることです。こういう書き方や、出エジプトの出来事を遠い過去のような書き方をしていることから、7~14節は、モーセが書いたものではないと言う人もいますが、こういう言い方はヘブル語にはよく見られる預言的な表現の仕方です。将
来起きることを、あたかも現在起きているかのように書いたり、もうすでに起きているかのように書くのはヘブル語の預言の表現の仕方なのです。ですから、この表現の故に、この箇所をモーセが書いたものではないとすることはできません。

この箇所は、ご自分の民に対する主の配慮が記されていました。

その内容は、
①主の保護と世話
②成長させるための主の訓練と保護
③主の独自性
④主の豊かな養い
です。

 

あ と が き

私が文書伝道を始めてから途絶えることなく続いている訴えは、自分たちが行っている教会の牧師に対する苦情です。「聖書の話をすると、人が来なくなると言って、説教で聖書の話をしてくれない。」とか、「子どもの頃から教会に行っているのに、みことばの使い方が分からない」とか、「人を崇拝してもいいと牧師が言っている」とか、「信仰の質問をしたら、ウェストミンスターの信仰告白の本を読めと貸してくれたけど、こんな難しい本は分からない」とか、「姑息なことをやっている」とか、「牧師の話にはいのちがなくて、恵まれない」とか、その訴えは数えられません。なかには神学博士の牧師に対する苦情もあります。あまりにひど過ぎます。どうしたら、いいでしょうか。

(まなべあきら 1998.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型の前に立てられた看板の写真、荒野をさまよう40年間の宿営と幕屋の想像図(2013年の訪問時に撮影)


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