聖書の探求(173) 申命記32章15~35節 エシュルンの背信と主の怒り、敵の高慢に対する応報の宣告
15~26節 エシュルンの背信と主の怒り
申 32:15 エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。
「エシュルン」とは、「真直ぐな」と言う意味です。その語根は「イスラエル」と同じですから、エシュルンはイスラエルと全く同じで、入れ替えることができます。
主はイスラエルに対して、あふれるばかりの恵みを与えられ、イスラエルは肥え太り、主に対して、高慢で卑劣な態度をとるようになった。主の恵み深さに対して、イスラエルの卑劣さには大きな差があり過ぎて、ここで主がイスラエルを、「真直ぐな」を意味する「エシュルン」と呼んでおられることには、大きな皮肉が含まれています。
イスラエルは主の豊かな恵みの養いに対して、感謝して食べることをせず、「むさぼり食って、肥え太った」と言っています。つまり貪欲にむさぼったということです。その結果、彼らは肥え太り、段々、力もつけてきて、自分の力で大きくなったように思い上がったのです。
彼らは主の善なるみわざに対して従順をもって応えようとせず、かえって強情になり、「自分を造った神」を捨て、「自分の救いの岩」を軽んじた。つまり、エジプトの奴隷生活から救い出され、神の民としてくださり、四十年の荒野の旅を守り、約束の地を与えてくださった神を軽視し、無視して捨てたのです。それだけでは飽き足らずに、偶像礼拝を行なうことによって、主のねたみをひき起こし、主の怒りを燃え立たせたのです。彼らは敢(あ)えて、主が忌(い)み嫌うことをやったのです。
申 32:16 彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。
17節では、これらの異教の偶像を「神ではない悪霊ども」と呼んでいます。
申 32:17 神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。
「悪霊」という語は、旧約聖書中、ほかに詩篇106篇37節にだけ出てきます。
詩 106:37 彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、
その両方とも、人間がささげるいけにえ(自分たちの息子や娘)を受け取るものとして描かれています。それは、主の民が知らなかった偶像であり、彼らの先祖たちも礼拝したこともない、聞いたこともない、近頃出てきた新しい偶像(新興宗教)でした。しかしこういうものに迷わされて行く人も少なくないのです。私たちにとって、神と名のつくものなら、どれでもいい、宗教と名のつくものなら、どれでもいい、と言うわけにはいかないのです。もっと言うなら、キリスト教と名がついていれば、どれでもいい、というわけにはいかないのです。
イスラエルは、主の民とされ、豊かな恵みを受けていたのに、繁栄するに及んで高慢になり、宗教なら何でもいいと思い、偶像を拝むことによって、「自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」
申 32:18 あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。
「生む」というのは、新しい命、神の命を与えることを意味しています。今日の私たちにとっては、イエス様によって救われ、永遠のいのちが与えられ、復活のいのちが与えられることです。
19~26節は、イスラエルの背教に対する主の怒りの判決が記されています。
19~21節は、その原理が強調されており、22~26節は、主の怒りの詳細が記されています。
その原理は、主の厳格な正義です。
19節、主は彼らの背教を見て、彼らを怒られて、ご自分の息子や娘としておられたのに、主の子らを退けられ、拒否された。
申 32:19 【主】は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。
20節、主は彼らに対して、御顔を隠された。主は彼らの内に臨在し、同行することを止められた。
申 32:20 主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。
御父は御子イエス・キリストを十字架の上で罪と見られたとき、御願を隠され、御子イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)。」(マタイ27:46)と叫ばれました。このことでも主は罪に対しては、御顔を隠されるお方であることが分かります。しかし幸いなことに、私たちには救い主イエス様がいてくださいますから、私たちがすぐにイエス様に立ち帰るなら、再び御顔の光を回復してくださり、交わることができるようになります。
「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための--私たちの罪だけでなく全世界のための--なだめの供え物なのです。」(ヨハネ第一 2:1,2)
ねじれた性質の、真実のない者たちが、どういう結末を迎えるかを悟らせるために、彼らのなすがままに放置されたのです。忠告され、警告され、叱責されている間は、まだ安全です。しかしそれを無視して逆らい続けていると、ついには、もう何も忠告もされなくなります。放っておかれてしまうのです。その状態はとても危険になっています。
ローマ人への手紙1章24、26、28節には、主に逆らい続ける者に対して、彼らを「引き渡されました。」という言葉が繰り返し記されています。
ロマ 1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
これはもはや主の御手が引っ込められ、なすがままに、落ちていくがままに放置されていることを示しています。もし私たちが主のみこころのほうを選ばず、主を無視して主に逆らい続けるなら、主は恵みの御手を引っ込められ、御顔を隠されて、私たちが堕落していくままに放置されてしまうでしょう。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:6,7)
21節は、主のご性質を反映しているように思われます。
申 32:21 彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。
それは民が主に対して取った卑劣な態度に対して、主は同じような報復をもって応じられるという面です。これは主が卑劣な性質であると言っているのではありません。主は私たちが主に対してとる態度と同じように、主もまた私たちに対して同じ態度をとられるという性質のことです。
イスラエルは神でないもので主のねたみを引き起こし、むなしい偶像を礼拝することによって主の怒りを燃えさせたので、主もまた、ご自分の民ではないものに力を与えて、イスラエルにねたみを起こさせ、主を知らない愚かな国民を用いてイスラエルに敵対させることによって、イスラエルの怒りを燃えさせた。
22節、自分の欲しいものを全部手に入れ、高慢になり、主を捨てて、主を怒らせることは、典型的な地獄への道であると言っていいでしょう。
申 32:22 わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。
主の怒りの火は「よみの底にまで燃えて行く」と言われています。ここでの「よみの底」(シェオル)は、墓のことであり、新約聖書が言う、悪い者の永遠の住家のことではないようです。
主が彼らを放置されることは、主が責任を放棄されることを言っているのではありません。これは罪に対する怒りの火が燃え上がっていることを示しているのです。その火は人が依り頼んでいる地の産物も、山々の基も、すべて焼き尽くされる。確かにイスラエルが主を拒んだ時、エルサレムは何度も火の海となり焼き払われたのである。
23節、わざわいは容易に終わることはなく、次々と積み重ねられ、主は獲物をねらう猟師のように、矢を使い尽くすまで、彼らに矢を放たれる。
申 32:23 わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。
24、25節は、23節の実体を語っています。
申 32:24 飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。
32:25 外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。
イスラエルは干ばつによって飢饉による荒廃は何回も経験しています。災害による壊滅、激しい悪疫、野獣の被害、蛇の毒は、荒野の旅路でも経験したことです(民数記21:4~9)。
民 21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
そしてアッシリヤとバビロンを初めとして、周囲の国々からの侵略によって、若い男、若い女、乳飲み子、老人までも無残に殺害される経験をしてきたのです。これは今も、世界の各地で、命を惜しまない戦いが続けられています。こうして主の怒りはその頂点に達しているのです。
26節、「彼らを粉々にし」は、「彼らを遠くに散らし」と、訳する方がよいと思います。
申 32:26 わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。
主に反逆し、偶像礼拝を続けるイスラエルに完全な絶滅の判決を下すこともできたのですが、主はここで突然、遠い国に捕囚にされることにされています。それはイスラエル自身に対することよりも、侵略者であるアッシリヤやバビロンに対する悪影響を考えてのことであると思われます。イスラエルを完全に絶滅させることによって、侵略者たちが過度に高慢になり、過度の虐待を行なわせることになってしまうからです。しかしイスラエルは七十年のバビロン捕囚の間に、過去のすべての栄光を失い、再び、あのエジプトでの奴隷の生活と同じ状態に陥ってしまったのです。
27~35節、敵の高慢に対する応報の宣告
27節、「 - 彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うといけない。」
申 32:27 もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。── 彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな【主】がしたのではない』と言うといけない。」
イスラエルの敵は、イスラエルに勝って、彼を捕囚することによって、勝利感に酔って、「これはみな主がしたのではなく、自分たちの力が勝利をもたらしたのだ」と、高慢になり、自分を誇るようになる危険があった。事実、バビロンの王ネブカデネザルは、主が与えてくださった繁栄ぶりを見て、こう言った。「『この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。』この言葉がまだ王の口にあるうちに、天から声があった。『ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。』このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。」(ダニエル書4:30~33)
この高慢は、バビロン崩壊の最大の原因となったのです。主の祝福や主による勝利を、自分の力による手柄として誇ることは、主の栄光を奪うことであり、主が最も嫌われることです。
「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:29)
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(コリント第一 8:1)
「だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(コリント第一 15:10)
私たちは、今の恵まれた状態を、当然とし、当り前のこととしてしまっていないでしょうか。自分がイエス様によって救われたことも、自分が真面目で、熱心だったからだと、心のどこかで思っていないでしょうか。いや、そうでなくても、他の人よりひどくなかったから、あの人よりはましな人間だったからと思ったことはありませんか。そのような思いを抱くことが、ネブカデネザルと同じ高慢の性質だということに気づいていますか。イエス様の十字架の代価と大いなる愛にお応えする感謝に満ちた信仰をお持ちですか。主にのみ栄光を帰することを決して忘れてはなりません。しかし、私たちはいつも、主のみわざを自分の手柄にしてしまう誘惑を受けているのです。だれかに、「真面目に、よくやったから」と言われると、つい「そうかもな」と思ってしまいやすいのです。時々、優勝したスポーツの選手が「自分をほめてやりたい」と言ったという話を聞きますが、私たちは決してそうであってはいけない。ほめたたえられるべきお方はイエス様だけです。イエス様は次のように言いなさいと、教えておられます。「私たちは役に立たないしもぺです。なすべきことをしただけです。」(ルカ17:10)
「敵のののしり」は、敵の挑発を意味しています。ののしりは、必ず争いを大きく、深くし、自ら敗北する原因となるのです。神と神の民をののしる者は、決して見逃されることはないでしょう。
「誤解して」は、単純な誤りのことではありません。自分の欲と高慢の故に、判断を間違え、真理をとらえそこねてしまうことです。つまり、神に敵対してしまうことです。神の栄光を現わすどころか、茂みに隠れたアダムとエバのように神に異議を唱え、反論することです。
「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
聖書を自分に都合の好いように解釈して、他人を攻撃する材料に使う人がいますが、それはサタンもやっていることで、神に敵対していると知らなければなりません。基本的には聖書は聖書自身によって解釈すべきです。どこかの神学者や聖書学者の文章を種にして解釈されるぺきではありません。教会の伝統的解釈がいつも正しいとは限りません。教会は時代の事情に応じて聖書の解釈を変えてきている部分がかなりあるからです。また聖書はその書かれた時代背景を無視して、勝手に解釈してはいけません。特に、キリストの十字架の救いの真理のような根本的真理以外の人の生活に適用される面は、どういう事情背景があって書かれているかを知った上で理解されなければなりません。そうでないと、主が意図していないことを他人に押し付けたり、また自分に適用して、苦しむことになってしまいます。例えば、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:39)は、クリスチャンは無抵抗で泣き寝入りしなければならないことを主が勧めたのではありません。当時のローマ政府の権力に反抗していく時、非常に弱かった当時のユダヤのクリスチャンたちは、さらに厳しい迫害を受けて絶滅させられてしまう危険があったからです。クリスチャンは「試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈るように、教えられていますし、主は不必要な迫害は避けておられるし、祭司長、律法学者、パリサイ人たちに対して、痛烈な叱責もしておられます。私たちはキリストの愛と信仰を持って、この世の悪と不信仰に対して積極的に対応して行かなければなりません。不作為であっていいわけがありません。それは責任逃れでしかありません。
イスラエルを征服した敵たちは、いつも勝利に対して、このような誤った解釈をしていました。その内容については、28~35節に詳しく記されています。もし彼らに知恵があり、神の究極的な裁きを悟る洞察力を持っていたなら、彼らは自分の終わりのことを考えて、慎み深く行動したことでしょう。しかし彼らは思慮の欠けた国民であり、主を畏れる知恵のない者であり、自己中心の欲と自らの権力を誇る高慢によって動く国民でした。
申 32:28 まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。
32:29 もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。
30節の「岩」は人間が依り頼む神を指しています。
申 32:30 彼らの岩が、彼らを売らず、【主】が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。
30節はイスラエル人について言われており、31~35節はイスラエルの敵について言われています。
申 32:31 まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。
それ故、30節の岩は主であり、31節の岩はイスラエルの敵である異教徒たちの頼っている偶像の神々のことです。
イスラエルが敗北したのは、敵の力によってではなく、彼らの岩である主が、彼らの罪の故に彼らを敵の手に売られ、渡されたからです。イスラエルが敗北したのは、アッシリヤやバビロンの大軍の来襲の時だけでなく、アイの小さな軍隊に対しても敗れました。ですから、敵は誤解して自ら力で勝ったのだと、高慢になって自慢してはならないのです。それは主を怒らせます。
知恵ある者は、このことを悟るべきです。どんなに力ある者でも、人間の力で、一人が千人を追い、二人が一万人を敗北させることができるでしょうか。「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗北させる。」という言い方は、わずかの者、弱い者でも、主の力を受けることによって、大軍を退けることができることを言ったものです。イスラエル自身、主の力を受けて、勝利を経験し、この秘訣を知っていましたが、逆に、披らは自らの罪の故に、敵が主の力を受けて攻めて来て、大敗北をしてしまったこともあるのです。
私たちは、主がいるから安心というだけでなくて、自分が主の側に立ち、主を味方とし、主と共にいることを確認して、毎日の生活をする必要があります。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」(詩篇118:6~9)
イスラエルの敵が勝利を得たのは、彼らの頼みとしている彼らの神々がイスラエルの頼みとしている主より強かったり、正しかったからではない。このような誤解をしてはならない。もし、このような高慢な誤解をするなら、主は彼らの神々に挑戦されます。主がエジプトで次々と、十の災禍を行なわれたのも、エジプト人が頼みとしていたエジプトの偶像への挑戦だったのです。アッシリヤ、バビロン、ペルシャが滅んでいったのも、ギリシャ、ローマが滅んでいったのも、主が彼らの神々に挑戦された結果です。日本が先の戦争で大敗北したのも同じです。もしだれでも、自分が頼みとしている神々が主よりも、正しくて、強いと言うなら、主の挑戦を受けることになるでしょう。そして、彼らの信じている神々が主には及ばないことを認めさせられることになるのです。
また、イスラエルが敗北したのは、イスラエルの敵の道徳性が、イスラエルよりも卓越していたからというのではありません。「悪者がなぜ、成功するのか。なぜ勝つのか。」私たちには納得のいかないことかも知れません。しかしこのことは、世によくあることです。主は正しい者を懲らしめたり、正しく導くために悪者をも用いて、懲らしめられることがあるのです。これを疑問視したり、不可解に思ったりしてはなりません。
32、33節「ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。」は、敵は何か道徳性があるとすれば、それはイスラエルよりも、はるかに悪いものです。
申 32:32 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。
32:33 そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。
それ故、主の究極的な裁きは避けられません。
34節、その致命的な刈り入れは、主の穀物倉に貯えられ、閉じ込められている、と言われています。
申 32:34 「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。
つまり、主が彼らの悪のすべてをご存知であり、それに対する主の刑罰が下されるために、彼らの悪は貯えられ、閉じ込められていると言っておられるのです。
35節、そして、主の民を過激に攻撃し、敗北させたことに対する、主の復讐(雪辱)を扱い、彼らにとっては、わざわいの日が今、まさに来ようとしている。
申 32:35 復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」
その時、主の民を踏み荒らしていた彼らの足は、よろめくようになるのです。
(まなべあきら 1998.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカの聖書学者 Charles Foster Kent (1867 – 1925)により1897年に出版された「Bible Pictures and What They Teach US」に掲載された「Offering to Molech(モレクへのいけにえ)」(Wikimedia Commonsより)
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