地震を乗り越える
震度9の東北関東大震災です。
つい先日、ニュージーランドや中国でも大地震があり、さらに、中東、エジプト、リビヤでは、ほとんど戦争状態になっています。
ある人は家族に「もう世の終わりだ。」と言ったそうです。
今回の大地震は千葉県沖まで500kmに及ぶプレートが動いたのだそうです。
被災地では、70cmの地盤沈下が起きているとのことです。
寺田寅彦は「天災は忘れたころに来る。」と言いましたが、最近は忘れるヒマもなく、毎日起きています。
今日、私が住んでいるこの町に大地震が起きても不思議ではないくらいです。
東海地震は「来る、来る。」と言われて、来ていないので、私たちの心には
「もしかしたら、来ないのではないか。」という思いがあるのではないでしょうか。
大正12年9月1日の関東大震災は、震源地が相模湾でしたが、アレからもうずいぶん時間が経っており、東海地震はいつ起きてもおかしくないのだそうです。
イエス・キリストは、世の終わりが来る前に、
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイの福音書24:7)
と言われています。
私たちは、地震のために飲料、水、乾電池などを備えるだけで、心の蓄えをしなくてもいいでしょうか。
大地震は家を襲うだけでなく、命をも奪い、心も打ちひしがれてしまいます。
今回の地震で、私の知人も避難していることがわかりました。
九死に一生を得た、おばあちゃんとお孫さんのニュースに感動しました。
しかし、一家全員、津波にさらわれた方々も大勢います。
その上、原子力発電所の事故で、引っ越さなければならない人、
放射能汚染で野菜も、米も、水も、牛乳も、魚も、肉も食べられなくなると、
もう、その地域に住めなくなってしまいます。
停電で企業の生産が止まれば、国力が衰えていきます。
「しかし、その危機は、自分の所には来ていない。」と、たかをくくっているのは、危険ではないでしょうか。
その危機が明日、私の上に起きても、不思議ではないことを、多くの学者が警告しているのですから。
私たちは危機がいつ来てもいいように、心を備える必要がないでしょうか。
私たちは、どこから自分の心を支える強い力を得たらいいのでしょうか。
どこから互いに励まし合い、愛し合い、助け合って生きる愛を得たらいいのでしょうか。
イエス・キリストは、
「どうしても必要なものは、ただ一つだけです。」(ルカの福音書10:42)
と言いました。
パウロは、
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリント第一13:13)
と言いました。
災害は、毎回、一生かけて築いて来た財産を、一瞬の内に奪っていくのを見てきました。
私たちは、どんな災害も決して奪うことのできない財産を築くべきではないでしょうか。
互いに赦し合い、愛し合い、助け合う愛さえあれば、私たちはどんな悲しみも、苦しみも乗り越えることができます。
この愛を与えるために、イエス・キリストは私たちの罪を負ってくださり、私の代わりに十字架にかかってくださったのです。
このイエス・キリストを心に迎え入れる時、私の心に神の愛が注がれます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイの福音書11:28)