キリスト教の中心
「教会では、どんなことを教えているのだろうか?」と、思ったことはありませんか?
あなたは、教会の塔の上にある十字架を、ごらんになったことがありますか?
その十字架はシンボルで、教会では、木や金属で作った十字架を、拝んでいるのではありません。
しかし十字架は重大なことを示しています。
十字架が死刑を意味することは、あなたもご存知でしょう。
これは人間が考え出した最も残酷な死刑の方法です。
今から二千年前、ローマ帝国はこの恐ろしい十字架刑を採用していました。
しかしそれは、あまりにも残虐だったので、ローマ市民には適用せず、奴隷や外国人の重罪犯人にだけ使われました。
この恐ろしい、のろわれるべき十字架に、人となられた神イエス・キリストはおかかりになったのです。
なぜ、でしょうか?
キリストはどんな罪を犯していたのでしょうか?
聖書は、こう言っています。
『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。』(ペテロの手紙第一2:22)
『私たちの大祭司(キリスト)は、・・・罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(へブル人への手紙4:15)
ローマ総督でキリストを裁判したピラトも、
『私は、あの人(キリスト)には罪を認めません。』(ヨハネの福音書18:38、19:6)
と言いました。
また、キリストご自身も、次のように言われています。
『あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。』(ヨハネの福音書8:46)
それでは、なぜ?
何のために?
イエス・キリストは十字架にかかったのでしょうか?
聖書を読むと、それは、当時のユダヤの指導者である祭司長や律法学者たちのネタミによって、仕組まれたことが分かります。
それでもキリストは逃げることができたはずです。
ご自分の弟子のイスカリオテのユダが、裏切ることも知っていました。
ご自分が祭司長たちのネタミによって、十字架にかけられることも、ご自分で預言しておられます。
すべてを知っていて、なぜ逃げなかったのでしょうか?
なぜ、何の抵抗もせず、捕まってしまったのでしょうか?
真夜中に行われた不法な裁判の時にも、なぜ、黙っておられたのでしょうか?
どうして、ご自分の無実を主張なさらなかったのでしょうか?
聖書は、キリストは自らすすんで十字架に向かわれたと言っています。
それは一体何のためだったのでしょうか?
ここに、十字架の奥義があります。
十字架は刑罰の死です。
しかし、キリストには全く罪がありませんので、この死には、無限の価値があります。
キリストは、ご自分の罪のために死んだのではなく、私やあなたの罪を背負って死なれたのです。
このことを聖書は、
『しかし私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ人への手紙5:8)
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。』(ペテロの手紙第一2:24)
と言っています。
聖書は、「キリストは私たちの罪のために、十字架にかかってくださった。」と言っています。
それでは、私たちはどんな罪を犯したのでしょうか?
聖書が言う「罪」は、泥棒とか、殺人とか、警察のやっかいになることだけを言っているのではありません。
普通の人々の心の中にも、嫉妬、怒り、憎しみ、愚痴、悪い習慣、どん欲、自分中心、ひがみ、偏見、偽りなど、たくさん罪があります。
私たちの心の中の思い、口から出た言葉、行為には、きよい神から離れている罪があります。
聖書は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず』(ローマ人への手紙 3:23)にいると言っています。
イエス・キリストが十字架にかかられたのは、私たちのこれらのすべての罪を背負ってくださったからなのです。
ですから、だれでもイエス・キリストを信じて今までの罪を離れるなら、その人はすべての罪がゆるされ、新しい永遠の命を受けることができるのです。
イエス・キリストはこう言われました。
『わたしは門です。
だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。
また安らかに出入りし、牧草を見つけます。・・・
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』(ヨハネの福音書10:9~11)
あなたもぜひ、キリストにある素晴らしい人生を求めてみませんか。