聖書の探求(243,244) 士師記13章 イスラエルの背信、ナジル人の誕生予告、サムソンの誕生
オランダの画家 Rembrandt (1606–1669)の弟子により描かれた「Manoah’s sacrifice(マノアのささげ物)」(ドイツのアルテ・マイスター絵画館蔵、Wikimedia Commonsより)
13章から16章までは、サムソンの生涯を記しています。その特徴を分解で表わしてみますと、
13章、サムソンの誕生
① 1節、イスラエルの背教
② 2~23節、主の使いと両親
③ 24~25節、サムソンの誕生と最初の感動
14章、サムソンの結婚と隠語
① 1~4節、サムソン、ペリシテの女を娶る
② 5~9節、サムソン、獅子を殺す
③ 10~18節、サムソンの婚宴と隠語
④ 19~20節、サムソン、30人のペリシテ人を殺す
15章、サムソンの勝利
① 1~5節、ペリシテの畑に放火する(山犬300匹)
② 6~8節、妻とその父のために報復する
③ 9~20節、ろばのあご骨で千人を殺す(エン・ハコレ)
16章、サムソンの敗北と死
① 1~3節、ガザにおけるサムソン
② 4~14節、サムソンのデリラに対する愛と三度の欺き
③ 15~22節、サムソン、秘密を明かし、ペリシテに捕えられる
④ 23~31節、サムソンの復讐、死、埋葬
〈サムソンについて〉
サムソンはギデオンと正反対です。サムソンの身体は強健でしたが、彼の精神は、ことのほか薄弱で、自分の欲や感情を制する力がなかったのです。
サムソンがもし、健全な信仰に育ち、進んで行っていたら、彼は立派に成功することができたでしょうに。しかし、彼はこの世の楽しみに溺れて、自分のナジル人の誓いを破って、神の賜物とチャンスとを浪費してしまったのです。
クリスチャンも同様であって、神の御国とこの世の両方をともに利用しようという動機を持ちながら、片方で良い証しを立てようとしても、力のない、むなしいものになってしまうのです。
サムソンの勝利と成功の秘訣は、
「主の霊が激しく彼の上に下り」(15:14)にあり、
敗北の理由は、
罪の故に、「彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(16:20)です。
13章
サムソンの記事は士師記の中で最も長く、また士師として、士師記の中での最後の人物として描かれています。歴史的にはサムエルを最後の士師、そして最初の預言者と考えるのが適切と思われますが。
またサムソンは、いくつかの点で理解するのに困難が伴う人物です。
しばしば、サムソンの記事は、ペリシテ人と一人の男サムソンとの反目の出来事として語られますが、これらの記事はそれ以上のことを意味しています。
これらの各章は、何度も主に対して背信に走るイスラエルの民に対する主の忍耐強いあわれみを語っており、それはまた、イスラエルとペリシテとの間の戦いに入る前の、ペリシテの圧迫状態を描いています。
13章の分解
1節、イスラエルの背信
2~7節、主の使い、マノアの妻に顕現(神のナジル人の誕生告知)
8~14節、マノアとマノアの妻に再顕現(養育法の再述)
15~20節、マノアのささげ物
21~25節、サムソンの誕生
1節、イスラエルの背信
士 13:1 イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行ったので、【主】は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。
1節は、士師記で繰り返して使われている、イスラエルの背信の記述です。その背信のため、イスラエルは四十年の長きにわたって、ペリシテ人に苦しめられていました。
ペリシテ人はカフトル(アモス書9:7、カフトルは、おそらくクレテを意味すると思われます)から移住して、パレスチナの沿岸の平原に定住しました。彼らは少なくとも、アブラハムの時代(創世記20~22章)には、カナンに住んでいました。しかし彼らが住んでいたクレテ島から南に大移動したのは、出エジプトの時代でした。
彼らは好戦的な民で、ヨシュアの時代には五人の「王」(この語は、専制君主を意味していた)によって治められていた五つの主要な都市、ガザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロン、ガテを築いていました。
士師の時代の初期に、彼らはシャムガルによって撃退されたことがありましたが(3:31)、その後、イスラエルが彼らの偶像礼拝を受け入れてしまっていたのです(10:6,7)。
ペリシテ人の四十年間の圧迫は、少なくともサムエルによる勝利の時のエベン・エゼル(サムエル記第一 7:12)まで続いていたと思われます。
Ⅰサム 7:11 イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。7:12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。
13章から16章までのサムソンの記事の中には、彼の誕生から死に至るまでの七つのエピソードが記されています。
2~7節、主の使い、マノアの妻に顕現(神のナジル人としてのサムソン誕生の告知)
士 13:2 さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。
13:3 【主】の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。
3節、サムソンの誕生は、主の使いがその誕生を前もって告知されることによって始まります。
これは、イサクの誕生の場合(創世記一 8:9~14)、バプテスマのヨハネの誕生の場合(ルカ1:13~20)、主イエス様の場合(ルカ1:28~37)と同じです。
主の使いは、ダンの氏族のマノア(その意味は、「休息」とか、「静寂」です)の妻に現われました。
マノアはツォルア出身でしたが、ツォルアは今のサラで、エルサレムの西24kmの所にあるユダの低地でした。
マノアの妻の名前は一度も記されていません。彼女は「不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。」とあります。これはバプテスマのヨハネの母、エリサベツに似ています(ルカ1:7)。そのほか、アブラハムの妻サラや、ハンナにも似ています。これらの不妊の母から産まれた人は、イサクも、サムエルも、サムソンも、バプテスマのヨハネも、主に大いに用いられた人ばかりです。
これらを考え合わせると、主はご自分の働きをさせるために、人を誕生させておられることが分かります。ですから、私たちもこれを弁(わきま)えて、自分の人生を信仰によって、主に用いられるように歩んで行きたいものです。
しかしもし、主のためでなく、自分のためにだけ生きるようになると、その人は主のご用をすることができなくなり、主の栄光も現わさなくなり、自己中心の生涯を終えてしまいます。
4,5節、主の使いは、マノアの妻に、産まれてくる男の子は、その誕生の時からナジル人であると告げました。
士 13:4 今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
13:5 見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」
「その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。」
「ナジル人」とは、「神聖にされた人」とか、「主のために献身している人」という意味で、ある時は、特定のある期間であったり、あるいは、一生の間、自分を神のために聖別することを誓った人のことです。
ナジル人は男性でも、女性でもなることができたし、隠遁者ではなく、特別のもの以外においては禁欲主義者でもありませんでした。
ただ、ナジル人は四つのことだけ禁止されていました。
一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではいけなかった。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)
次は、「汚れた物をいっさい食べてはならない。」
これは衛生的というより、宗教的意味によっています(レビ記11:1~23、41~47、申命記14:3~20)。
「しかしペテロは言った。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』すると、再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』」(使徒10:14,15)
旧約時代には、ひづめが分かれ、反芻する動物を食べることが許されていました。これは、主のみこころを行なうことと、主のみことばのご命令をしっかり心に留めて守り行なう生活をすることを教えているように思われます。
主イエス様は、ご自身を「天から下って来た生けるパン」(ヨハネ6:51)と呼ばれ、ご自身の肉を食べ、ご自身の血を飲む者は永遠のいのちを持っていますと、約束されました(ヨハネ6:54)。当時のユダヤ人はこの言葉を、イエス様の肉体の肉と血を食べたり、飲んだりすることだと誤解して、つまずいたのです。しかしこれは霊的、信仰的意味で言われています。すなわち、キリストの内住経験をすることであり、聖霊によってみことばが内に働く生活をすることです。食べたものは、生きていくエネルギーにならなければならないのです。
第三は、「その子の頭にかみそりを当ててはならない。」
パウロは「救いのかぶと」をかぶるように勧めています(エペソ6:17)。この世の教え、思想、哲学、興味、関心によって、救いの恵みを失ってしまわないためです。救いの経験をしたならば、健全な知識によって、その恵みを守り、成長させ、堅固な確信へと導かなければなりません。
第四は、死体に触れることによって、儀式的に汚れたものにならないことです(レビ記11:24~40、民数記6:1~21)。
私たちは朽ちるものを脱いで、朽ちないものを着る者とされているのです。
主イエスは、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:27)と言われました。
それ故、私たちは、この世の平安、この世の楽しみ、肉の欲を満足させることなどに、心を向けて、この世と調子を合わせてはいけないのです。これをすると、霊魂は汚れたものとなってしまうのです。
ナジル人には、大切な主からの使命が与えられています。サムソンには、「イスラエルをペリシテ人の手から救い始める」使命が与えられていました。「救い始める」と言われたのは、サムソンの働きで完了しないで、その働きはサムエル、サウル王に引き継がれ、ダビデ王によって成し遂げられることを暗示しています(サムエル記第一 7:1~13)。
6節、マノアの妻は、主の使いの顕現を受けて、非常に恐れ、興奮して夫に知らせています。
士 13:6 その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いの姿のようで、とても恐ろしゅうございました。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。
彼女は、主の使いを、「神の人」と言っており、「その姿は神の使いの姿のようで」と言っていますから、人のかたちをとって現われておられたことが分かります。
また「神の使いの姿のようで」とは、普通の人間のようではなく、イエス様が変貌山で輝かれたように(マタイ 17:2、マルコ9:2,3、ルカ9:29)、姿が輝いておられたことを示していると思われます。
彼女が、「とても恐ろしかった」と言っているヘブル語には、「恐怖に満ちた」とか、「驚異的だった」とか、「不思議だった」とか、いう多様な意味が含まれています。
彼女はその恐ろしさと、驚きの故に、自分からそのお方がどこから来られたかを問うこともせず、その方も名前を告げられなかったと、言っています。つまり、その特殊なお方がだれだか、明確には分からないということです。
7節、しかし、そのお方が告げられたメッセージだけは、正確に伝えています。
士 13:7 けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。今、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神へのナジル人であるからだ。』」
8~14節、マノアとマノアの妻に再顕現
(養育法の再述)
8節、マノアは妻の話を聞くと、すぐに主に祈っています。
士 13:8 そこで、マノアは【主】に願って言った。「ああ、主よ。どうぞ、あなたが遣わされたあの神の人をまた、私たちのところに来させてください。私たちが、生まれて来る子に、何をすればよいか、教えてください。」
マノアは非常に大事な役割を仰せつかったことを知り、もう一度、再顕現をして下さって、「生まれて来る子に、何をすればよいか、教えてください。」と願っています。もし、すべての両親がマノアのように、生まれて来る子どもをどう育てればいいのか、主に教えてもらう心を持っていたら、世界はどんなに変わったことでしょう。
よく、クリスチャンの親が、「それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(コリント第一 3:7)を引用するのを聞きますが、大抵の場合、育てて下さるのは神様なのだから、自分はどうすればいいのか、主から教えていただきたい、という意味ではなく、育てて下さるのは神様なのだから、自分は不十分でも大丈夫だという意味で使っていることが多いように思います。これは無責任です。種を蒔くことも、苗を植えることも水を注ぐことも好い加減にしていいと言っているのではありません。自分のなすべきことの最善を尽くすように、教えを乞い、学び、訓練を受け、そして主の愛によって育てる時、育てて下さるのが神であることが分かるのです。子どもがどのような人格的性質を持つ親によって育てられるかは、世界を変えるほど重要なことです。
9節、マノアの願いは主のみこころにかない、主はマノアの声を聞き入れられました。
士 13:9 神は、マノアの声を聞き入れられたので、神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は、畑にすわっており、夫マノアは彼女といっしょにいなかった。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(ヨハネ第一 5:14)
神の使いは畑にすわっていたマノアの妻に再び現われて下さいました。その時、夫マノアは一緒にいなかったので、彼女は急いで夫の所に走って行って、知らせました。
士 13:10 それで、この女は急いで走って行き、夫に告げて言った。「早く。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現れました。」
13:11 マノアは立ち上がって妻のあとについて行き、その方のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その方は言った。「わたしだ。」
13:12 マノアは言った。「今、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めとならわしはどのようにすべきでしょうか。」
マノアはすぐに主の所に行って、12節、「今、あなたのおことばは実現するでしょう。」と、信仰の告白をしています。そして「その子のための定めとならわしはどのようにすべきでしょうか。」と尋ねています。マノアが考えていたものは、今の人が考えている子育て法ではなく、もっと宗教的な規定です。
士 13:13 すると、【主】の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったことすべてに気をつけなければならない。
13:14 ぶどうの木からできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命令したことはみな、守らなければならない。」
主の使いのお答えは、すでにマノアの妻に言ってあることを繰り返し、それをすべて守るように命じました。その内容はすでに解説してあります。現代の子育て法は、知能や身体的な面に向けられていて、霊的、信仰的人格の成長に目が向けられていません。
15~20節、マノアのささげ物
16節を見ると、「マノアはその方が主の使いであることを知らなかった」と言われています。マノアは主に祈りつつ、その相手がだれだか知らなかったのです。
士 13:15 マノアは【主】の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできますでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」
13:16 すると、【主】の使いはマノアに言った。「たとい、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のいけにえをささげたいなら、それは【主】にささげなさい。」マノアはその方が【主】の使いであることを知らなかったのである。
15節でマノアは、「もし少しの時でも、おとどまりいただけますなら、あなたのために子やぎを料理して食事を差し上げたいのですが」と言っています。主の使いが人の姿をとっておられたので、マノアは旅人をもてなすような気持ちで、そう言ったのでしょう。
アブラハムも、同じようなことをしています。彼が、マムレの樫の木のそばの天幕の入り口で、日の暑い頃、すわって休んでいた時、三人の人がアブラハムの前に現われました。その時、アブラハムはその三人の旅人を引き留めて、小牛の料理と小麦粉のパン菓子と、チーズと牛乳を差し上げて食べてもらっています。このうちの二人は主の使いであり、最後のお一人は受肉前のイエス様が現われて下さっていたのです。
アブラハムの時は食事を食べられたのに、マノアの時は「たとい、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。」と言われてしまいました。なぜ、マノアの食事は食べてもらえなかったのか、聖書は記していませんが、もしかすればマノアはアブラハムほど、主に忠実な生活をしていなかったのか、主に喜んでいただける者でなかったからなのかも知れません。
よく、「私もイエス様を愛しています。」「私もイエス様に全力を尽くして従っています。」と、反論されたり、反発されたりすることがあります。しかし、へりくだってみれば、主を愛し、主に愛される深さにおいては様々な程度があります。主はアブラハムにはご自身のみこころを話さずにはいられませんでしたが、義人と呼ばれているロト(ペテロ第二 2:7~8)には、主のみこころを知らされませんでした。
他人の話を聞く時、「それくらい自分も知っている。」「それくらい自分もやっている。」「それくらい自分も主を愛してる。」と思わないほうがいいし、また言わないほうがいいのです。確かに、知っているでしょう。精一杯、全力で愛しているでしょう。しかし、もっと深い、もっと親しい主との交わり、もっと深い経験が隠されているかも知れないのです。それをあなたに教えようとしているのかも知れません。それをもし、「私はもう知っている。やっている。」と言って、はねのけてしまえば、霊の深きことが、それ以上は入って来なくなるのです。もう、それ以上は教えられなくなってしまうのです。それより先の霊の導きを失ってしまうのです。本当の謙遜とは、このあたりにあります。どこまでも、どこまでも主との交わりを深め、主に喜んでいただける人になりたいと、心渇いて、どんな教えにも、心を低くして、真理の光を見い出そうとする人こそ、謙遜の人なのです。
この点で、マノアに対して、主の使いは霊的に距離をおいておられます。
子やぎを全焼のいけにえにすることはありませんでしたから、マノアがこの時、子やぎを料理すると言ったのは、全焼のいけにえにするつもりはなかったと思われますが、主の使いは、「もし全焼のいけにえをささげたいなら、それは主にささげなさい。」と言っています。それはマノアの将来の行動を言っているのかも知れませんが、マノアは相手のお方がだれなのか、まだ十分悟っていないことを暗示しています。
私たちが信仰を保ち、主を礼拝し、主と親しく交わるためには、健全な知識が必要です。健全な知識がないと、礼拝しているお方が、だれであるのか、どんなご性質のお方であるか、どんなみこころをお持ちのお方であるか、よく分からないまま、あてずっぽうの礼拝をしてしまうのです。大方の人は、こういう礼拝をしているのではないでしょうか。初信者の頃は仕方がないにしても、少し時が経って来たなら、それにふさわしく、礼拝の対象となる主をよく知るように努めたいものです。「よく知らなくても、イエス様を礼拝しているのだから、いいではないか。」と言われる人もいますが、そういう態度は、主に対して大変失礼です。
主は弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:15)と質問されています。このご質問に対して、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えると、主は、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われて、大変お喜びなさっている姿が見受けられます。
更に、信仰が不明確だった金持ちの青年が、主のもとに来て、「先生(主を宗教の教師としてしか認めていません。)。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか。」と尋ねた時、主はこの質問にはご不満を示して、「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と答えられ、その後、モーセの十戒の後半の部分(人に対する部分)だけを取り上げておられます。それはこの青年が神をよく知らなかったので、神に対する戒めを語られなかったのです。それは彼にとって致命的でした。かれは神の愛(アガペー)を心に持つことよりも、多くの財産の方を選んだのです。
ヨハネの福音書21章で、主がペテロに、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と尋ねられた時、ペテロが三回ともフィレオ(人情的情愛)で答えたことにご満足なさらなかったのです。
ですから、私たちは霊的経験において主を知ることとともに、健全な知識においても、主を正しく知る必要があります。それには聖書神学をじっくり学んでいただきたいと思います。特に日本のクリスチャンは自由に学ぶことができるのに、聖書神学を知らなさ過ぎます。ですから、不必要に悩んだり、迷ったり、異端に走ったり、主に喜ばれない礼拝や交わりをしてしまいやすいのです。
17節、マノアは主の使いに、「お名前は何とおっしゃるのですか。」と、尋ねています。彼は相当、勇気を出して尋ねたものと思います。
士 13:17 そこで、マノアは【主】の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」
18節、主の使いは彼に、「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」と答えておられます。
士 13:18 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」
おそらく、マノアはそのお名前を聞いても、主を知る助けにはならなかったのです。ですから、「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。」と言われたのです。その名を自分の記憶にとどめておくためか。彼の好奇心からだったのか。しかし、主は名乗ってくださいました。「わたしの名は不思議という。」この名はマノアには皮肉めいて聞こえたかも知れません。なぜなら、その意味は、「理解できない」とか、「驚くべき」だからです。マノアはその名を聞いても、主の本質について何も理解できないことを言われたと思ったかも知れないからです。
主の御名は主のご性質を表わしていますが、それは言葉として聞いても理解できません。主のご性質は人の知恵をはるかに越えているからです。ただ、信仰によって従順に、忠実に従うことによってのみ、主の愛を知ることができるのです。
このお名前は、詩篇139篇6節に「あまりにも不思議」として、またイザヤ書9章6節に、「その名は不思議な助言者」(新改訳聖書では不思議と助言者を結びつけて訳していますが、これは、「その名は不思議また助言者」と別々に訳すべきでしょう。)として表わされています。そしてこの箇所はイエス様のご降誕の預言がされているところですので、この「不思議」という名は、イエス様のお名前の一つです。その真の意味は、「人の考えを超えた方」という意味です。それ故、マノアの前に現われた主の使いは、受肉前の主イエス様だったことが分かります。
19節、マノアは用意した子やぎを料理したものと小麦粉で作ったパンとを祭壇として間に合わせに作ったと思われる岩の上に置いて、ささげました。
すると主はその名の如く、マノアとその妻が見ている前で、不思議なことをされたのです。
士 13:19 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で【主】にささげた。主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。
20節、炎が祭壇から天に向かって上ったのです(天から祭壇に火が降ったのではありません。)。
士 13:20 炎が祭壇から天に向かって上ったとき、マノアとその妻の見ているところで、【主】の使いは祭壇の炎の中を上って行った。彼らは地にひれ伏した。
エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと戦った時には、主の火が降って来て、すべてを焼き尽くしています。その時は、エリヤの祈りに主が天から答えられたことを示す必要があったからです。マノアたちの前では、主の使いが神性を持つお方であることを示すために、炎が天に向かって上り、主の使いはその祭壇の炎の中を上って行ったのです。
創世記28章12節で、ヤコブが見た夢の中では、一つのはしごが天から地に向けて立てられています。これは主イエスのご降臨と、その後の主と人との交わりを予表しています。
この出来事はマノアとその妻に、主に対する悟りを与えています。彼らは地にひれ伏し、「マノアは、この方が主の使いであったのを知った。」(21節)とあります。
21~25節、サムソンの誕生
21節、主の使いは目的を果たすと、二度とマノアとその妻の前には現われませんでした。
士 13:21 ──【主】の使いは再びマノアとその妻に現れなかった──そのとき、マノアは、この方が【主】の使いであったのを知った。
旧約における主の顕現は個人的に直接、現われてくださっている面がありますが、それはいつも一時的です。しかもそれは特定の使命や目的を果たさせるためです。
しかし、新約における主の顕現は個人的な内住経験としてで、それは一時的でなく、恒久的であり、特定の働きをさせる時だけでなく、普段の交わりのため、また私たちを天の御国にふさわしい性質の持ち主に変えていくためです。
22節、マノアは、この主の使いの顕現に触れて、誤った考えと恐怖に陥っています。
士 13:22 それで、マノアは妻に言った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」
「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」
彼は罪を自覚したのでしょう。
イザヤも主の栄光を見たとき、同じ思いになっています。
「ああ。私は、もうだめだ(ああ、私にわざわいが来る。「私は滅びる」という意味です。)。
私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ書6:5)
イザヤはこの直後に、罪がきよめられる経験をしています。イザヤは潔められる前に、主の栄光によって、自分が滅びる者であるという罪の自覚をしたのです。
安易な罪の自覚は、安易な潔めにしか到達しません。
23節、しかしマノアの妻は健全な信仰の判断をしています。
士 13:23 妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、【主】は私たちの手から、全焼のいけにえと穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、いましがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったでしょう。」
まず、主はご自分が滅ぼそうとしている者から全焼のいけにえと穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。これは大事なことです。父なる神が主イエス様の十字架を受け入れて下さっているのですから、キリストの贖いを全面的に信じる者を滅ぼすことはあり得ないのです。
第二に、主は、ご自分が滅ぼす者に新しい使命を授けたりするでしょうか。この不妊の妻とその夫にサムソンの誕生とイスラエルの救出の約束をされたのに、その夫婦を滅ぼすことがあるでしょうか。
それ故、マノアの妻の判断は、夫よりも正しかったのです。
24節、その後、主の使いの告知のとおり、不妊の女だったマノアの妻は男の子を産みました。
士 13:24 その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、【主】は彼を祝福された。
その名をサムソン(「太陽のような」という意味です。)と呼びました。しかし、この「サムソン」という語の語源は、カルデヤ語の子音の文字では、「仕える」という語の子音に似ていると、アダム・クラークは言っていますが、マノアとその妻がどちらの意味でサムソンと名づけたかは分かりません。
「その子は大きくなり、主は彼を祝福された。」
これと似た言葉がサムエルにも、言われています。
「少年サムエルは、主のみもとで成長した。」(サムエル記第一 2:21)
「一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(同2:26)
「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」(サムエル記第一 3:19)
バプテスマのヨハネについては、
「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、・・・」(ルカ1:80)
主イエスについては、
「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカ2:40)
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)
これらの聖句の中で、サムソンの記述については、身体が大きくなったことだけが強調されているように、霊的成長に心配が残ります。神の人はその成長において、神の恵みが注がれないと育たないのです。
25節、「主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」
マハネ・ダンは、18章12節では、ユダのキルヤテ・エアリムの宿営地であったと記されています。そこは「ダンの宿営」でもありました。
ここで「揺り動かす」と訳されている語は、「かり立てる」とか、「押し出す」とか、「促す」とかいう意味を持っています。主の霊がサムソンの内なる心を、主の働きをするために押し出し始めたのです。しかしこれは、感情や体力的意味が強くて、霊的、信仰的動機や神の愛をあまり感じさせません。ここが、サムソンの最大の不足点であり、それが彼の致命傷となったのです。
サムソンへの主の霊の感動については、士師記14:6,19、15:14、があります。
オテニエルに対しては、士師記3:10、
クロス王に対しては、歴代誌第二 36:22、エズラ記1:1、があります。
旧約時代には、
限定された人(すべての神の民にではなく、特定の職務につく人々)に聖霊が臨まれました。
限定された時(常住的ではなく、職務に必要な時)に聖霊が臨まれました。
間歇的(かんけつてき:一時的に、それ故その人の性質が潔められるところまでは届いていません。)に聖霊が臨まれました。
パウロは、
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(コリント第二 5:14)と言っています。
本当に主のご用をする人は、どんな小さいことをしていても、キリストの愛に押し出されて、喜んで、積極的に、献身的にさせていただいている経験を持っています。
そこには高慢はなく、主に仕えるしもべの姿が見られます。その人には安心してキリストの真理(福音)の働きを任せることができるのです。
パウロは、
「私には務めがゆだねられているのです。」(コリント第一 9:17)
「私はその福音をゆだねられたのです。」(テモテ第一 1:11)
「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。」(テモテ第二 1:11)
と言っています。
パウロは主からの信任を自覚していたのです。このような人は、神に用いられる人となります。
あとがき
聖書のことばを心の感動で語る人や、自分の知恵で解釈して説教する人がいますが、これでは、いくら熱心であっても、神のみことばを宣べ伝えたことにはなりません。自分のことを話したにすぎません。こうして多くの異端が生まれ、多くの人々が迷わされてきたのです。この聖書の探求は、牧師や伝道者だけでなく、クリスチャンにも聖書の基本的知識を身につけていただくために書いています。ですから、霊解書ではなく、歴史上の出来事や地理なども記しています。また聖書は聖書によって解釈することを基本にしています。この聖書の探求が少しでも、皆様の福音のあかしにお役に立てれば感謝です。
「主の民がみな、預言者となればよいのに。」(民数記11:29)
(まなべあきら 2004.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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