聖書の探求(303) サムエル記第一 25章 サムエルの死、マオンの野でのダビデとアビガイルの出来事

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Abigail Kneels Before David(ダビデの前でひざまづくアビガイル)」(New YorkのJewish Museum蔵))

この章は1節に、サムエルの死という重大事件を記録し、その後はマオンの野でのダビデとアビガイルの出来事を記しています。

25章の分解

1節、サムエルの死
2~8節、ダビデ、ナバルに使いを送る
9~13節、ナバルの拒否とダビデの報復の決意
14~17節、少年がアビガイルに進言する
18~22節、アビガイルとダビデの報復隊の接近
23~31節、アビガイルの謝罪の言葉
32~35節、ダビデ、アビガイルの言葉を受け入れる
36~38節、ナバルの死
39~42節、アビガイル、ダビデの妻となる
43~44節、ダビデ、アヒノアムをめとる(ダビデの妻ミカルはサウルによってパルティの妻とされる)

1節、サムエルの死

Ⅰサム 25:1 サムエルが死んだとき、イスラエル人はみな集まって、彼のためにいたみ悲しみ、ラマにある彼の屋敷に葬った。ダビデはそこを立ってパランの荒野に下って行った。

「サムエルは、年老いたとき、」(8:1)
「この私は年をとり、髪も白くなり、」(12:2)
すでに、サムエルが年老いていたことを記していました。

サムエルは自分の息子たちをさばきつかさにしていましたが、彼らは堕落した者となり、サムエルの後継者となることができませんでした(8:1~5)。

サムエルはダビデとサウルの争いが決着する前に、はっきりとダビデが王位に着く前に、天に帰ってしまいました。しかし、主は生きておられて、サウルはさばきを受け、ダビデは祝福を受け、王国の再建を成功させたのです。

神に用いられた人の晩年と死の記事を見ると、モーセの死も、エリヤの火の車に乗って天に帰る最後も、エリシャの死の時も、非常に意味深いものを感じさせます。

サムエルに対するイスラエルの民の尊敬心は、民がサムエルの葬儀のために集まり、いたみ悲しんだことによって表わされています。サムエルの誠実さと敬虔さはイスラエルの民の悲しみの中に反映されています。サムエルはラマの家に埋葬されました。

2~8節、ダビデ、ナバルに使いを送る

この章の2節以後は、ダビデの逃亡生活の中での普段の働きの一面を詳しく記しています。普段、ダビデの一隊は、イスラエルの民のために、近隣の国から侵入して来る略奪を防ぐ警察自衛隊の役割をしていたようです。

Ⅰサム 25:2 マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。

ダビデはサムエルの死後、エン・ゲディとハキラから死海の南端の西側に広がっているパランの荒野に移動しています。このパランの荒野の北端にマオンがありました。そのマオンのカルメル(これは北にあるエリヤがバアルの預言者と戦ったカルメル山とは全く別の場所です。)で遊牧している非常に裕福なナバルという人がいました。ダビデはナバルの家畜をも外敵から保護していたものと思われます。

3節、このナバルは、カレブの部族の人で、非常に裕福な牧畜をしている事業家で、聡明で美人の妻がいましたが、彼の心は頑迷で行状の悪い人でした。

Ⅰサム 25:3 この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

ナバルは恵まれた環境の中にいましたが、心が愚かで悪く、最後まで心が頑迷で、悔い改めることをしなかったのです。

4節、ナバルは羊の毛を刈るためにカルメルに来ていたのです。

Ⅰサム 25:4 ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。

5節、ダビデは逃亡生活の中で、経済的に乏しくなっていたのでしょう。それで、日頃の警備の働きをしていたので、寄付を求めるために十人の若い部下を遣わしています。

Ⅰサム 25:5 それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、

6~8節、ダビデは若者たちに礼儀正しい態度で、寄付の要請をさせています。

Ⅰサム 25:6 わが同胞に、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。
25:7 私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。
25:8 あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

ダビデの部下たちが、無防備なナバルの羊飼いや牧童たちを、砂漠の略奪隊の襲撃から守ったことを説明して、寄付を要請しています。

8節の「祝いの日に来たのですから。」は、イスラエルでは祭りの日に物を分け合う習慣が確立していましたから、ダビデの寄付の要請は単なる物乞いではなく、合理的なものであり、ナバルは非常に裕福であり、日頃の恩に報いる良い機会であったのです。

9~13節、ナバルの拒否とダビデの報復の決意

10節、ナバルの答えは、冷淡とさげすみでした。

Ⅰサム 25:9 ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。
25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。

「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。」彼はダビデを「脱走した奴隷」だと言って、軽蔑し、

11節、寄付どころか、「羊の毛の刈り取りの祝い」の肉も分かち与えることを拒否したのです。

Ⅰサム 25:11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

12~13節、この報告を聞いたダビデは、武装するように命じています。

Ⅰサム 25:12 それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。
25:13 ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

ダビデの六百人の部下のうち、武装した四百人を引き連れ、二百人を荷物を守るために残しています。「荷物」とは、軍需品や食料や生活物資などのことです。彼らは逃亡中なので、すべての荷物を持ち運んでいたのです。

14~17節、少年がアビガイルに進言する

14節、カルメルにいた若者のひとりが、聡明なナバルの妻アビガイルに、ナバルの愚かな返事を報告しています。

Ⅰサム 25:14 そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。

もし、この報告がなかったら、ナバル一家は全滅していたでしょう。

15~16節、この若者は、ダビデの使いの礼儀正しい挨拶と、主人ナバルがののしったことを告げ、ダビデの保護によって、外敵の略奪から守られたことを話しています。

愚かで貪欲なナバルには分からなくても、ナバルのしもべたちにはダビデの一隊の働きの価値が分かっていたのです。

Ⅰサム 25:15 あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。
25:16 私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。
25:17 今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」

17節、「ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」

他のしもべたちは分かっていても、ナバルを恐れて何も言えなかったのでしょう。そこで妻であるアビガイルが良い処置をしないと、一家は滅んでしまうことが、はっきりしていると、若者は言っています。この若者の判断は正しかったのです。

愚かな人と賢い人については、マタイ7章24~27節で、砂の上に家を建てた人と岩の上に家を建てた人にたとえられています。

マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

これは結局、イエス・キリストに対して取る態度によって決まってくるのです。これは絶えず継続していかなければなりません。

18~22節、アビガイルとダビデの報復隊の接近

アビガイルはすぐに若者の訴えを理解しました。放っておけば、ダビデは攻めて来るでしょう。アビガイルは自分たちが被害を受けることを恐れたのではなく、将来、王となるべきダビデに汚点となるようなことをさせてはならないと考えたのです。

「主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことがあなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。」(30~31節)

ですから、彼女はダビデが到着する前に、急いで贈り物を用意してダビデに会いに出かけたのです。その贈り物はダビデの部下たちの緊急の食事とするものでした。

19節、若者たちを先に進ませ、自分もその後に続いています。

Ⅰサム 25:18 そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、
25:19 自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。

若者の使いだけの挨拶にせず、自ら挨拶して、その心をダビデに伝えたかったのです。しかし愚かで、心頑なな夫ナバルには何も告げていません。告げれば反対して行かせないことは分かっていたからです。私たちは話す相手や相談する相手を、よくよく心して選ばないと、却って話したことによって、わざわいを招くことがあります。

20節、アビガイルとダビデは山の小道で出会っています。行き違いにならなかったのです。

Ⅰサム 25:20 彼女がろばに乗って山陰を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。

21~22節は、ダビデの決意を語っています。

Ⅰサム 25:21 ダビデは、こう言ったばかりであった。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。
25:22 もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

ナバルの繁栄はダビデたちが近隣の略奪団から守っていたからであることは明らかでした。ナバルはそれに対して、感謝の贈り物をもって答えなかったのです。

口だけで「感謝します。」と言って、実際に感謝のささげ物や贈り物をしたくない人がいます。「これまでのことは恵みとしてもらっておくけど」と言って、平気で反抗する人がいます。主がこのような人に恵みを与えられることはありません。心を頑なにする人は、必ずナバルのようになります。

「それは全くむだだった。」愛の奉仕に対して愛を持って答えなければ、わざわいになります。

「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(ヘブル6:5~6)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)

この二つの聖句は、イエス様を信じた後に罪を犯したら、もう二度と救いの恵みが受けられないと言っているのではありません。みことばと聖霊を故意に、心頑なにして拒み続けているなら、イエス様の十字架の救いが受けられなくなることを警告しているのです。

「…もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それはイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

ダビデは、一挙にナバルの家族を小さい子どもまで一人も残さず滅ぼしてしまう決意でいました。これは神の愛(イエス様の十字架の愛)を冷淡に拒む者の上に下される神の怒りがいかに大きいものであるかを思い知らされる言葉です。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:3~6)

23~31節、アビガイルの謝罪の言葉

23節、アビガイルはダビデに会うと、すぐに言葉ではなくて、態度と行動で彼女の思いを表わし、伝えています。

Ⅰサム 25:23 アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。

彼女は、ダビデを見るやいなや、急いでろばから降りて、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏しています。この態度を見ただけで、ダビデは彼女を受け入れたでしょう。

24節、アビガイルはダビデに礼を尽くして挨拶し、謝罪の言葉を述べています。

Ⅰサム 25:24 彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。

「あの罪は私にあるのです。」 彼女は25節で、「このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。」と説明していますが、そういう言い訳がましい説明を最初にしませんでした。大抵の人が、言い訳の説明から話し始めますので、受け入れてもらえないのです。ダビデを怒らせてしまった原因は、アビガイル自身の配慮が足りなかったからだと自ら言ったのです。ダビデが贈り物を要求する前に、アビガイルがそのことに気づいて、若者に届けさせていれば、こういうことは起きなかったでしょう、ということをアビガイルは言っているのです。

25節、

Ⅰサム 25:25 ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。

「どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。」 自分の夫をこのように言っていいのかと言う人もいるかも知れませんが、アビガイルが言ったのは、ダビデがわざわざ怒りを表わし、手をかけて殺すほどの価値ある人間でないことを言ったのです。確かに、人の霊魂は全世界よりも尊いのですが(マタイ16:26)、神を拒み続け、心の頑なな貪欲な人は「滅びうせる獣に等しい。」(詩篇49:12)のです。

ヘブル語のナバルは、「愚かな者、くだらない者、よこしまな者」という意味です。彼はその名の示すとおりの性質の人間でした。それにしても、なぜ親はこのような名をつけたのか。そして、聡明なアビガイルが、このように愚かなナバルの妻となっていたのか。聖書はその当りのことを何も記していませんが、これは悲劇です。しかしこの世には、ナバルのような人もいれば、悲劇的な夫婦もいるのです。

26節、もしダビデが愚か者のナバルに手を下していたら、それはダビデの汚点として残ったことでしょう。

Ⅰサム 25:26 今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

生きておられる主が自分を遣わして間に合わせてくださって、ダビデがナバルの血を流さずにすんだのだと告白しています。アビガイルの聡明さは、非常にすぐれています。
「どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。」この言葉は、アビガイルがナバルの運命を知っていたことを暗示しています。また彼女はダビデがサウルから命を狙われて逃亡中であったことを知っていたと思われますから、サウルの運命に対する預言でもあります。神に油注がれた人に敵対する者はみな、ナバルのようになるのです。

28~29節、アビガイルは再び自分のそむきの罪の赦しを求めた後、ダビデが王として位に着くことを確言しています。

Ⅰサム 25:28 どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。【主】は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは【主】の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。
25:29 たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、【主】によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。

主によって、ダビデの王家が長く続くこと、ダビデは主の戦いを戦っているのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。
確かにダビデが主に従っている間はわざわいは起こりませんでした。彼が主に背いた時にわざわいは起きたのです。

人(サウル)がダビデを追って、命を狙っても(確かに今は冷淡な敵に追われているけれども)、ダビデの命は神のいのちの皮袋に入れて守られています。これはダビデの命が神の安全な保護のもとにあることを言ったのです。しかし敵のいのちは、ダビデがゴリヤテを倒した時に使った石投げのくぼみに入れられて投げつけられると言っています。これは神の怒りによるさばきを受けて、滅びることの表現です。

30,31節、アビガイルはダビデが王位に着くことを確信していました。

Ⅰサム 25:30 【主】が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、
25:31 むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。【主】がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」

その時、愚か者に自分の手を下さず、自分に対して悪を行なった者に対して自分で復讐せず、神の御手に委ねて勝利を得たことは、きっとダビデの誉れとなり、満足となるでしょう。「あんな愚かなナバルに手を下すのではなかった。」と後悔しなくてすむのです。アビガイルはここまで配慮して行動していたのです。

そして最後に、「主がご主人さまをしあわせにされたなら(すなわち、王位に着いたなら)、このはしためを思い出してください。」と言っています。愛と信仰の働きは、必ず報いられるのです。

この言葉はイエス様とともに十字架にかかった犯罪人の一人の言葉を思い出させてくれます。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

32~35節、ダビデ、アビガイルの言葉を受け入れる

32節、ダビデは、主がアビガイルを自分と会わせるために送ってくださった、と言って主をほめたたえ、感謝をささげています。

Ⅰサム 25:32 ダビデはアビガイルに言った。「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、【主】がほめたたえられますように。

真実な信仰のある者同志は、心の深みまで通じ合えるものです。

33節、更にダビデは、アビガイルの主を畏れた賢い判断がほめたたえられるようにと言っています。

Ⅰサム 25:33 あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。

この判断も主から与えられたものです。

「見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」(列王記第一 3:12)

すべて主から与えられた知恵による判断は、罪を犯し、自分の手で復讐することを止めさせるように働くのです。どんな判断でも、他人を批判し、さばき、争いを起こさせ、信仰を分裂させるように働くものは、主から出たものではありません。

「復讐と報いとは、わたしのもの。」(申命記32:35)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12:19)

34節、生きておられる神は、アビガイルを遣わし、ダビデに会わせてくださって、愚かなことをさせないように止めてくださったのです。

Ⅰサム 25:34 私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、【主】は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」

もしアビガイルが少しでも遅れていたら、アビガイルにも害が及び、ナバルに属する者はひとりも生き残っていなかっただろうと、ダビデは言っています。

35節、ダビデはアビガイルの贈り物を受け入れ、彼女の申し出を受け入れ、安心して家に帰しています。

Ⅰサム 25:35 ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

信仰によって働くと、多くの人々を救うことができることをアビガイルは私たちに教えてくれています。主は私たちにも主を畏れて判断し、信仰の働きをする恵みを与えてくださいますから、それに従わせていただきたいものです。

36~38節、ナバルの死

36,37節、アビガイルの賢さは、ダビデの件を夫に告げる時を選んでいることにも表わされています。

Ⅰサム 25:36 アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは自分の家で、王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上きげんで、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。
25:37 朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。

家に帰ると、ナバルは王の宴会のような宴会を開いて、上きげんでひどく酔っていました。ダビデに感謝の贈り物をすることを惜しんでも、自分の楽しみのためには王の宴会のような宴会を開いていたのです。これこそ自分中心の実例です。

「アブラハムはこう言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』」(ルカ16:25)

「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』」(ルカ12:20,21)

彼女は夫が酔っている間は、何一つ話さず、翌朝になって、ナバルの酔いが覚めて、正気になった時、ダビデの件を話したのです。

「天の下では、何事でも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」(伝道者の書3:1~8)

アビガイルから話を聞くと、ナバルは気を失って石のようになったのです。

38節、その状態は十日間続きました。

Ⅰサム 25:38 十日ほどたって、【主】がナバルを打たれたので、彼は死んだ。

これはダビデの怒りの恐ろしさに気を失ったのか、それともアビガイルが贈り物をしたことに対して激しく怒ったために気を失ったのか、どちらかでしょう。とにかく激しい感情のために心臓発作を起こしたものと思われます。

ナバルは主の審判の御手によって打たれて死んでいます。こうして主はダビデを無益な血を流すことから守られたのです。やがてサウルもダビデの手によらず、神はペリシテ人の手を用いて打たれたのです。復讐は神がなさることなのです。

聖書中、主が打たれた例は、

エジプトのパロとその軍隊(出エジプト記14:27)

ナバル(サムエル記第一 25:38)

ウザ(サムエル記第二 6:6~8)

アナニヤとサッピラ(使徒5:1~10)

迫害者サウロ(使徒9:3~7)

ヘロデ(使徒12:23)

39~42節、アビガイル、ダビデの妻となる

39,40節、ナバルの死がダビデに伝えられると、ダビデは再び、自分が手を下すことを止められた主に感謝しています。そして、ミカルを失っていたダビデは、主を畏れた敬虔で賢い未亡人のアビガイルに自分の妻になってくれるように申し入れています。

Ⅰサム 25:39 ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった【主】が、ほめたたえられますように。【主】はナバルの悪を、その頭上に返された。」その後、ダビデは人をやって、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。
25:40 ダビデのしもべたちがカルメルのアビガイルのところに行ったとき、次のように話した。「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました。」

41節、

Ⅰサム 25:41 彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「まあ。このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」

アビガイルは「地にひれ伏して礼をし、」「このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」と言って、彼女の敬虔さと謙遜さを表わしています。彼女は信仰によって積極的に受け入れました。

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように。』」(ルカ1:38)

42節、アビガイルは即刻、五人の侍女を連れて、ダビデの所に行って、妻となっています。

Ⅰサム 25:42 アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女をあとに従え、ダビデの使いたちのあとに従って行った。こうして彼女はダビデの妻となった。

43,44節、ダビデ、アヒノアムをめとる

サムエル記の記者は、ダビデとアビガイルとの結婚を機にダビデの他の結婚を示す記事を簡単に挿入しています。

Ⅰサム 25:43 ダビデはイズレエルの出のアヒノアムをめとっていたので、ふたりともダビデの妻となった。
25:44 サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。

「イズレエル出のアヒノアム」とも結婚しています。イズレエルはダビデの隠れ場からそれほど離れていないユダの町でした。

ダビデの最初の妻となり、サウルの娘であったミカルはダビデがサウル王の宮廷から逃げ出した後、サウルがミカルをガリムの出のライシュの子パルティエルに与えていました。ダビデはユダの王となった時、ミカルを取り戻しています。王の妻であった者が他人に取られていることは、ダビデ王が敗北者であることを表わすことになるからです(サムエル記第二 3:15)。勝利者の王は、敗北者の王の妻を自分の妻にすることによって、敗北者の王に最大の侮辱を与えることが当時の慣習だったのです。ですから、ダビデはミカルをパルティエルに与えたままにしておくことができなかったのでしょう。

旧約聖書には一人の男性が複数の妻を持つ重婚の記録がありますが、エルカナとハンナとペニンナの時のように、重婚が行なわれたところではいつもわざわいが生じていることを記しています。
アブラハムとサラとハガルの場合も、ヤコブとレアとラケルの場合もです。ダビデの場合も、息子たちの王位を狙う争いに現われています。

「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合。」(申命記21:15)

結婚は、互いに愛しているというだけでなく、お互いの信仰を確かめ合い、長い結婚生活には、多くの困難や思いがけない試練や病気になることもあるのですから、互いに要求するだけでなく、相手を思いやったり、互いに忍び合い、赦し合い、助け合うことが必要になります。これができないと、結婚生活は続けられなくなります。

あとがき

「イエス様をあかししよう。」「福音を伝えよう。」と思うと「何かを話さなければならない。」「何かを教えなければならない。」と思っていませんか。
「渇いていない馬に水を飲ませることはできない。」という諺があります。イエス様を伝えることは、話すことからではなく、聞くことが90%以上です。相手の心が空になるまで、軽くなるまで何か月でも、何年でも聞き続けることです。
人は自分の話を真剣に聞いてくれる人を信頼し、心を開いてくれます。相手の方から「教えてください。」と言い始めるまで、聞き続けます。自分の話を、愚痴でも、何でも心が空になるまで真剣に聞いてくれる人がいるなら、必ず、ウツ状態から開放され、イエス様の救いを求めるようになります。

(まなべあきら 2009.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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