聖書の探求(302) サムエル記第一 24章 サウルの上着のすそを切る、ダビデの自己弁明、サウルの後悔
フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David and Saul in the Cave(洞穴でのダビデとサウル)」(New YorkのJewish Museum蔵)
この章は、神の油注がれた者に対するダビデの心の態度を記しています。このことはダビデが主から恵みを受け続けた重要なことです。これに対して、サウルは主が油注がれたダビデに刃を向け、命を取ろうと追跡したのです。また福音書に記されている大祭司、律法学者、パリサイ人たちは、キリスト(ギリシャ語で「油注がれた者」の意味)に敵対した故に、滅んだのです。今日、クリスチャンであっても、自己主張をして、止めない人が沢山います。これが恵みを得られない最大の原因です。人はみな弱点も、欠点も沢山あります。ですから主は、
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14,15)と言われました。またパウロも、
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)と言っています。
他人を批判せず、さばかず、主に任せることが、恵みを受けるためには、ぜひ必要なのです。他人を批判して主の恵みに満たされた人は、一人もいません。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1~5)
ダビデがサウルに刃を向けなかったことは、ダビデに二心がないこと、自分中心の欲がないことをサウルに示し、弁明しているのです。私たちが他人をさばかないことは、主イエス様に対して、私たちの内に二心がなく、自分中心の思いがないことをあかししているのです。
ダビデは二回、二心がないことをサウルに証明、弁明しています。
第一回、24章、ほら穴の中での出来事による弁明、
第二回、26章、夜中のサウルの陣営の中での出来事による弁明(ダビデとアビシャイによって、サウルの槍と水差しを取ったこと)
ダビデは部下たちにも、神が油注がれた人物に対して、刃向かうことを決して許しませんでした。
「彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(24:6)
「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」(26:11)
「ダビデは言った。『主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。』ダビデは若者のひとりを呼んで言った。『近寄って、これを打て。』そこで彼を打ち殺した。そのとき、ダビデは彼に言った。『おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した。』と言って証言したからである。』」(サムエル記第二 1:14~16)
ダビデは、他人をさばくことを主に任せ続けたのです。これがダビデが主に用いられ続けた理由です。
「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」(24:12)
「どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」(24:15)
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。…… だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:14,17~21)
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)
ダビデは、サウルの攻撃に応酬せず、神のさばきの時が来るのを待っていたのです。神の時を待つことが、彼の戦いだったのです。
24章の分解
1~7節、サウルの上着のすそを切る
8~15節、ダビデの自己弁明
16~22節、サウルの後悔
1~7節、サウルの上着のすそを切る
1~2節、サウルはペリシテ人の討伐から帰って来た時、ダビデがエン・ゲディの荒野にいることを聞きました。
Ⅰサム 24:1 サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。
24:2 そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。
彼はすぐにダビデ一人を捕えるために三千人の精鋭を率いて、エエリムの岩(やぎの岩、という意味)の東のエン・ゲディにダビデの一隊を捜しに急行しています。
3節、その場所は「羊の群れの囲い場」として当時の人たちには、よく知られていた所でした。
Ⅰサム 24:3 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。
サウルは用をたすために家来たちから離れて、そこにあったほら穴に入って行ったのです。そのほら穴の奥のほうにダビデと部下たちが坐っていたのです。
「用をたす」は、直訳では「足をおおう」です。しかし知らないということは、大変な危険を犯すことになります。信仰においては経験が重要です。しかし健全な信仰の知識、教理の知識がないと、大変な危険を犯すことになります。勿論、信仰経験を持たずに、知識を重視すると、わざわいになります。信仰には霊的経験と実際生活における実行、そして健全な知識が必要です。しかしこの三つの順序も大切です。順序を間違えると、神秘主義や律法主義や形式主義に陥ってしまいます。サウルの無知の故に、自分の命を落す危険に近づいていたのです。
4節、「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」
Ⅰサム 24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
ダビデの部下たちには、サウルが一人で無防備にほら穴に入って来た時、主がその敵を引き渡して下さった摂理の時に思えたのです。そのように思っても不思議ではありません。ダビデの部下たちはサウルの故に、何度も命の危険にさらされて来ていたのですから。
「今こそ、主があなたに、……言われた、その時です。」は、主がダビデのために将来備えられているご計画を暗示する言葉です。
ダビデは、部下の言葉に従ってサウルを殺す意志は全くありませんでしたが、「サウルの上着のすそ」を、気づかれないように、こっそり切り取っています。当時の王の上着のすそは長く大きかったので気づかれなかったのです。
「すそ」は、ヘブル語で「カナフ」で、衣服そのものではなく、縁や先端を意味します。
5節、しかしダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて、心を痛めています。
Ⅰサム 24:5 こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。
「心を痛めた」は、「彼の良心が彼を悩ませた」という意味です。
6節を見ると、衣のすそを切ることすら、主の油注がれた方に対してしたことに心を痛めたのです。
Ⅰサム 24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だから。」
これはダビデの信仰が、真実な本物であったことと、ダビデがどんなに主を愛し、主を畏れていたかを表わしています。言葉でいくら信仰に熱心であっても、こういうところに本当の信仰の敬虔深さが試めされるのです。「たかが衣のすそを切ったくらいで、悩むことはない。」と言い訳をしてしまうのです。これは心の中で、主をないがしろにしてしまっているのです。
6,7節を見ると、ダビデの部下たちは、この時とばかり、今にもサウルに飛びかかろうとしていたのです。
Ⅰサム 24:7 ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。
「ダビデはこう言って説き伏せ」たとありますから、ダビデが止めなかったら、部下たちはサウルを殺していたでしょう。もしそうしていたら、ダビデたちは、王に対する反乱者となってしまっていたでしょう。そして主から絶大な信任と恵みを受けることができず、ダビデ王国も大きく傾いて行ったでしょう。神の国を獲得するのに、他人と争ってはいけません。
8~15節、ダビデの自己弁明
8節、サウルが去って行くと、ダビデはほら穴から出て、サウルのうしろから「王よ。」と呼びかけ、地にひれ伏して、礼をしています。
Ⅰサム 24:8 その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。
彼は自分の命を狙う者に尊敬を表わしたのです。彼は決して、怒りや憎しみや争いの心で対応しなかったのです。
9節、ダビデはサウルに「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』という人のうわさを信じられるのですか。」と言っています。
Ⅰサム 24:9 そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさを信じられるのですか。
人の言葉やうわさをそのまま信じて、争いや敵意を抱く人は愚かです。そのうわさを信じ続けて、敵対し続けることは、更に愚かです。必ず自分にわざわいをもたらします。
10~12節、そのうわさが偽りであり、サウルが誤解してしまっていることは、ダビデが、サウルを殺す機会があったのに殺さなかったことで証明されていると、弁明したのです。
Ⅰサム 24:10 実はきょう、いましがた、【主】があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は【主】に油そそがれた方だから』と申しました。
24:11 わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。
24:12 どうか、【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。
ですから、さばきを主にお任せしたのだと言っています。
Ⅰサム 24:13 昔のことわざに、『悪は悪者から出る』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。
「昔のことわざ」とは、次のことを言っています。
人は危機においても、争わず、害を与えず、愛を与えているなら、それはその人の本性をそのまま表わしている行動です。ダビデがサウルの命を取らず、助けたことは、彼の高貴な心と強い自制心の表われであり、彼の本性が悪ではなく、善であり、主を愛し畏れていることを明確に表わしています。
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ7:16~18)
14節、「イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。」ダビデは、サウル王の高貴な職分と、その王がしている愚かで不適切な行動とを巧みに対比して、サウル王に自分のしていることの間違いを悟ってもらおうとしています。
Ⅰサム 24:14 イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。
犬は、やっかい物という意味で使われています。「死んだ犬」は、やっかいな、役に立たないものというより、もっと悪いものと考えられていました。「蚤」は逃げ足が早くて、捕えるのが困難です。そんなものを捕えても、何の価値もない者を、高貴な王が追いかけているのは、愚かで間違った行為であることを悟ってもらおうとしています。「死んだ犬」や「一匹の蚤」がサウルの王位を奪うことをするはずがないではありませんか。ダビデはここで、自分をそのような弱い、貧しい存在であることと、王に対して敵意も、欲心もないことを明らかにしたのです。
15節、再び、ダビデは主が自分の訴えを取り上げ、弁護してくださり、正しいさばきをしてくださるように、「あなたの手から私を救ってくださいますように。」と訴え、祈っています。
Ⅰサム 24:15 どうか【主】が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」
あくまでも、ダビデ自身が手を下さず、主の御手に委ねたのです。
16~22節、サウルの後悔
16節、サウルは、突然のダビデの出現と、自分に対する愛の行動と、偽りがあるとは思えないダビデの弁明に、心から感動しました。
Ⅰサム 24:16 ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。
サウルはダビデを「わが子ダビデよ。」と呼び、声をあげて泣いています。このサウルの姿を偽りの演技と考える必要はありません。
17節、サウルは自分の悪行に対して、ダビデが慈愛と善の行ないをもって返したことのために、彼はダビデの善意を認めたのです。
Ⅰサム 24:17 そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。
そのサウルの気持ちは長続きしませんでしたが。主から離れてねたみや憎しみを抱いた人は、一時、その暗闇の中から解放されても、心の中に主が満ちていないと、すぐに再び、暗闇の中に引き込まれてしまうのです。
「正しい」はヘブル語の「ツァディク」で、「真っ直ぐ」という語から派生しており、「義」とか「公正」という意味で使われています。
18~21節、ダビデのこの、サウルに対するあわれみ深い行為と、彼の忠誠を誓った弁明は、サウルの心に届きました。
Ⅰサム 24:18 あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。【主】が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。
24:19 人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、【主】があなたに幸いを与えられるように。
24:20 あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。
24:21 さあ、【主】にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」
サウルは自分がダビデに悪い仕打ちをしていたことを悟りました。
主がサウルの命をダビデの手に渡していたことも知り、それでもダビデがサウルを殺さなかったことで、ダビデの忠誠は動かないものとして明白になったのです。
更にサウルは、「あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」と言っています。主がダビデを王に選んでおられることを認めたのです。
王朝が変わり、政権が交代する時、新王朝の権力が旧王朝の子孫を抹殺してしまうことは通常に行なわれていました。それはその後の、北のイスラエルの王朝でも繰り返し行なわれてきたことです。ですから、サウルはそれを恐れて、ダビデが王権の座に着いた時、サウルの家族を滅ぼさないようにと誓約を求めたのです。
22節、ダビデは喜んでこのことをサウルに誓っています。
Ⅰサム 24:22 ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。
しかしサウルの家はダビデの手によってではなく、ダビデの権力が強くなる前に、ペリシテ人の手によって壊滅状態になって行ったのです。主に不忠実、不服従になった人は、主に立ち帰らなければ、主の御手によって滅んで行くことになるのです。
ダビデとその部下たちは、「要害へ上って行った。」すなわち、ジフの近くのハキラに戻って行ったということでしょう。そこから25章1節の「パランの荒野」には容易に移動することができます。
ダビデはここで、サウルが回心してくれたかに見えましたが、決して安全になったとは考えませんでした。彼は逃亡生活を続けたのです。
あとがき
「イエス様をあかししよう。」「福音を伝えよう。」と思うと「何かを話さなければならない。」「何かを教えなければならない。」と思っていませんか。
「渇いていない馬に水を飲ませることはできない。」という諺があります。イエス様を伝えることは、話すことからではなく、聞くことが90%以上です。相手の心が空になるまで、軽くなるまで何か月でも、何年でも聞き続けることです。
人は自分の話を真剣に聞いてくれる人を信頼し、心を開いてくれます。相手の方から「教えてください。」と言い始めるまで、聞き続けます。自分の話を、愚痴でも、何でも心が空になるまで真剣に聞いてくれる人がいるなら、必ず、ウツ状態から開放され、イエス様の救いを求めるようになります。
(まなべあきら 2009.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)