音声と文書:ヨハネの黙示録(06) エペソにある教会へ 2:1~7
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PDF文書:ヨハネの黙示録(6)
ヨハネの黙示録 2:1~7
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』【新改訳改訂第3版】
ヨハネの黙示録(6) エペソにある教会へ 2章1節~7節
はじめに
いよいよ今日から2章ですね。
この2章に入ります前にですね、2章と3章は七つの教会について書いてありますので、全体について少しお話したいと思います。
1.地図を見て、この七つの教会がどんなところにあるかというと 、
ローマからアジアに向かって幹線道路があったわけですが、エペソを出発点にして、そこから北上するとスミルナ、テアテラ、ペルガモに至り、今度はペルガモから南東に向かっていくとサルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤに至り、そしてエペソに戻ると、完全な円形ではありませんが、輪を描くように道順がなっていることが分かります。
一番上の写真は、トルコの西岸、エペソにある聖ヨハネ教会の遺跡。これは、6世紀頃のビザンチン時代に建てられたもので、アルテミス神殿を見下ろす丘にあり、教会の奥に4本の柱で囲まれた”ヨハネの墓”もある。下の地図は、パトモス島とエペソをはじめとする7つの教会の位置を示す。(どちらも「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。
ここで、なぜエペソが出発点に選ばれたのか。
いくつかの理由があると思いますね。聖書に書いていませんけれども、まず第一にエペソの街っていうのはですね、ローマのアジア州の中で大きな街であったということですね。
もう一つは、ヨハネがエペソの教会の監督であった事がいえると思います。はっきりしたことではありませんが、おそらくヨハネはエペソの教会を中心にして、七つの教会以外にも他の教会を指導していたと思われます。ですから、地理的な理由もありますが、多くの教会を代表してこの七つの教会が選ばれているのではないだろうかと、こういうふうに思います。
2.この七つの教会はそれぞれの状態を示しているわけですが、
各々の教会に責任感を呼び起こし、成長を促す、ということを神様、イエス様は期待しておられるのがこの手紙である。
3.また、この七つの手紙には共通した関係が見られるんですね。
①、どの手紙にもはじめに「~にある教会の御使いに書き送れ」という言葉で始まっている。受信人がはっきりしているということですね。
②、そしてその次には必ず、キリストの姿が現れているということですね。
その姿が、実は教会によって異なっているんですね。その異なり方は、その教会の持っている状態にかかわっている。これはとても大事なことなんです。
③、すべての教会に共通していることは、その教会を褒めているところがある、ということです。褒めている点は全部の教会にある。
④、非難している点もありますが、全部の教会が非難されている、とは限らないんですね。非難されない教会もあるんです。
⑤、それから、矯正を求められている厳しい命令もあります。
⑥、よく出てくる言葉には「耳ある者は、、、、聞きなさい」という招きがあるんです。
⑦、最後には、約束とも挑戦ともとれる言葉、「勝利を得る者には、、、、、こういうものをあげましょう。」が付け加えられている。
この手紙に共通しているのはこういうものである。
ですから、指摘された特定の誘惑とか、危険に負けないで勝つ者には、報賞が与えられるんですね。必ずご褒美付きである。
子供たちにもご褒美がありますが、神様からもご褒美がある。
人間てこういうものだなあと、思います。
この報賞をみますとね、終末におけるこの世の終わりにおける報賞を指している、ということが分かります。
4.もう一つの問題点は何かといいますと、
この七つの教会が意味しているのは一体何なのか、ということです。
①、一つの考え方は、実際に小アジア、今のトルコ半島にあったところの七つの教会だけを意味しているのか。
そうじゃない、ということは、この書物がですね、明らかに黙示録であるという点で違うだろうと言えるでしょう。七つの教会だけのことであったら、何も黙示録に示す必要がないわけですからね。黙示というのは、後々のことまで記すわけですから、小アジアにある七つの教会に限られたことではない、ということが分かると思います。
②、もう一つの七つの教会の考え方。
ヨハネが黙示録を書いた紀元96年頃はですね、一世紀の終わりからこの世の終わりまでの、教会の霊的歴史、教会の内容の七つの局面を述べているんじゃないかと、こう言った人があるわけですね。これを言い出した人はですね、聖書学者のスコフィールドという人なんですが、この人は非常に優れた人で、またこの人の研究は特徴があるんです。聖書を配時的に、時間を配時していく聖書研究の仕方をしている。スコフィールドは教会時代を七つに区切っているわけなんです。
一つ一つの教会を、その時代に当てはめて考えているんですね。
ちょっとご紹介しますと、
エペソの教会は使徒時代の教会、初代の教会、
スミルナの教会はローマの迫害時代の教会、
ペルガモの教会は世俗的な教会、コンスタンチヌスはローマの市民はみんなクリスチャンにならなければだめだと命令を出したわけなんですね。キリスト教を国家宗教にしてしまったんですね。そうすると信じる者も信じない者も教会員になってしまう。迫害はやみましたけれども、教会は世俗化していったわけですね。これがペルガモの教会じゃないか。
四番目に出てくるテアテラの教会は、これはカトリック教会の時代の教会ではないかと、こういうふうに言われているわけです。
五番目のサルデスの教会は、宗教改革の前期、ウェスレーの時代の前後ですから18世紀の終わりごろまで、
六番目に出てくるフィラデルフィアの教会は19世紀から20世紀の初頭までの教会を指しているんじゃないか、
そしてラオデキヤの教会は、現代の生ぬるい教会を指しているんではないかと、
こういわれているわけです。
スコフィールドは七つの教会をこういうふうに区分しているわけです。
エペソの教会を見ますとね、愛から離れたといわれているんです。
スミルナの教会は、非難はないわけですが、外部からの迫害を受けている。迫害の問題を扱っている。ローマの時代の迫害ではないかといわれている。
ペルガモは真理の問題を追及されている。
テアテラの教会は純潔、聖いということを求められている。
サルデスの教会は命を回復するということ。
フィラデルフィアの教会は、非難はされていないのですが、盛んに宣教していった様子が書かれている。19世紀から20世紀は非常に激しく世界宣教がおこなわれ、特にイギリス、アメリカを中心にして行われた時代。
そしてラオデキヤの教会は熱心さを求められている。
③、このスコフィールドの考え方は正しいのか。
これに反対する人もあるんですね。
なぜ反対するかというと、各々そういう特徴はありましたけれどもね、振り返ってみますとね、七つの教会に見られるような退廃的な要素というのは、この2000年間に多少はどの時代にもあった、ということなんです。
ですから、必ずしも七つに区切って考える必要はないのではないだろうかというわけです。例えば、エペソの教会にある問題は今日にでもあるではないか。あるいはペルガモとか、テアテラの教会に出されている警告だって、今日に当てはまるではないか。
つまり2000年間いつの時代にも見られたんだ。
ですから、七つの教会はすべての時代を意味している。この手紙はすべての教会の勧告である、というわけで、私もこの考え方が正しいような感じがするわけなんです。
また、この七つの手紙は旧約聖書のエゼキエル書によく似ているんです。ですから、預言ですから、すべての教会に当てはまる警告である、ということができるんじゃないかなあと思うわけです。
Ⅰ.ここまで大まかに七つの教会と特徴を考えてみたわけですが、もっと細かに 学んでもいいのですが、時間が許されませんから、進みたいと思いますが、今日はエペソの教会に入っていきたいと思います。
A.エペソの町というのはどういう町であったかというと、エーゲ海に面していてですね、カイステル川という大きな川の河口にありまして、港町なんです。
横浜みたいなものですね。昔ですからね、護岸工事なんてしませんからね、大きな川から流れてくる土砂とかで、砂州が、川の入り口の部分が土砂で埋まってしまうわけなんですね。最初は岸辺にあった町なんですが、だんだん港から離れてくる。
ヨハネが黙示録を書いた一世紀の終わりごろにはですね、ずいぶん遠ざかったようですが、それでもエペソはローマの大きな植民地でありました。ローマ帝国は大きな道路を作った国なんですが、それは軍事力にも使われました。特に軍事的目的が大きかった。それからもう一つは交易、商業が大きな目的でありました。
エペソはアジアへの主要道路でもあり、商業地でもあったわけです。
この町が非常に栄えたということは考えられますね。
これは地理的、商業的な面ですが、宗教的な面ではどうだったかというと、
ギリシャの神アルテミスの神殿があった、と言われているんですね。エペソの街の対岸はすぐにギリシャですから、ギリシャの女神アルテミスの神殿があったと言われているんですね。
使徒の19章35節を見ますと、エペソの市民ていうのはね、自分はアルテミスの女神と天から下ったご神体を守る守護者である、ということを考えていました。
ちょっと使徒の19章35節を見てみましょうかね。このあたり、熱っぽく語られているんですね。
使 19:35 町の書記役は、群衆を押し静めてこう言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。
ですから、エペソの市民はアルテミス女神の熱狂的信仰を持っていたと、いえると思うんです。アルテミスというのはギリシャ語なんですが、ローマ人はこれをダイアナと呼んでいたんですね。あるいはディアナですね。
どこかの国でもダイアナさんていう方がいらっしゃるようですが、実はこれはギリシャのアルテミスの女神にその語源が発しているようですね。
ですから偶像の名前を付けているんだなあ。
あのね、ダイアナというのはそういう意味があるんだそうですね。イギリスの方ですか。王妃になった方でダイアナさんていうんだそうですがね。あれ、語源がアルテミスだなんていうと怒られるかもしれませんがね、ご本人は案外知らない場合が多いわけですね。立派な名前だと思っておられるかもわかりませんが、ま、これはそういうことですね。
エペソの町っていうのはですね、偶像に熱心だったとこう考えてもいいわけです。なかなか大変なわけですね。
B.どのようにして、エペソの町に教会ができるようになったのか。
パウロはこのエペソの町に2回訪れているんです。
第二次伝道旅行の終わりに短期間立ち寄っただけなんですが、そのあとでは第三次伝道旅行の終わりの時に三年間滞在している。
このパウロが行く前にアポロという人がエペソで聖書を教えていたようですが、パウロがエペソについたときは、使徒の働きの19章7節にありますが、わずか12人の人が信仰を持っているに過ぎなかった。
しかもこの12人の人は信仰があやふやで、聖霊なんて聞いたこともない、聖霊という方がいらっしゃるということも聞いたことがない、というんですね。
アポロさんはいい加減な事を話していたのかなあ。
そこにパウロがやって来ましてね、彼らのためにお祈りして、そして聖書を教えたわけですね。
そうすると、そこからこの町に大リバイバルが起きて、エペソの教会がスタートしたわけです。
ヨハネの時代になると、エペソは小アジアの中心の大きな教会に育ったわけですが、その始まりはですね、なんと聖霊も聞いた事がないという、満足な信者は一人もいないという状況であったわけです。
ですからこの教会のスタートはどこにあるかというと、使徒の働きの19章にある。
しかしその後ですね、19章23節当たりに大きな騒動が起きているんですね。
パウロが伝道してね、この偶像をみんな捨てなさい、って言ったらね、
銀で作ったアルテミスの神殿を作っていた人たちがね、デメテリオって人がいてね、この神殿が売れなくなってしまったので、同業者を集めて、大反対が起こったわけです。これが町中に広がっていった。
で、この後パウロたちはエペソの町を出なければならなくなった。
しかしこの反対をものともせずに、エペソの町は火を噴くような勢いで、ここからアジア全域にキリストの福音が広がっていった。エペソの教会は伝道の根拠地になった。
使徒の19章20節にそのことがかいてあります。
使 19:20 こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。
Ⅱ. さて「ヨハネの黙示録」に戻りますが、ヨハネがこの幻を見たころはエペソはどんなふうであったか。
その頃は一世代が終わっていたわけです。使徒の19章で見たはじめの12人の信仰の人達とか、熱烈にキリストを愛した人達も、やがて幾世代かの人が過ぎていき、最初の回心者たちが世を去り、2代目のクリスチャンたちが起こされて、その人たちが教会の中心になってくる。
そういう時代を迎えていた。そうすると最初の信仰の火が消えかかってきた。
最初の開拓者たちの苦労と忍耐とによって得られた勝利に、あぐらをかくようになっていったわけです。みんな贅沢な暮らしをするようになっていった。
ウェスレーの働きの場合をみましてもそう事がいえるんですね。
非常な迫害の最中戦って、素晴らしい働きをして、英国は変わっていったわけなんですが、50年たって2代目3代目になりますと、その上にあぐらをかくんです。みんな贅沢になっていったんですね。使用人をいっぱい使って、使用人が暖炉から煙をもくもく出しているとね、こういうような私は十字架を背負わなければならない、とかいいだしたんですね。そうしたら、伝道者の人が、それは十字架じゃないんだ、君に愛がなくなったんだと、教えているところがあるんですけどね。あぐらをかくようになって来た。
そういうように、だんだんと以前にあった愛が覚めてきた。
1世紀の終わり頃だった。
こういう状態のエペソの教会にイエス様は手紙をお書きなさった。
そういう背景が分かりますと、エペソの教会に言われている意味がわかってくると思います。
A. で、ここでイエス様はどういう姿で現れているかというと、1節の中ほどに「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」と書かれています。
これは教会の保護者であり、見張り人であり、警告者であるキリストが強調されていますね。そういう姿でイエス様はエペソの教会に臨んだ、ということですね。
なぜこのように臨まれたかというと、イエス様はある程度腐敗してきたエペソの教会を踏みつぶしてしまうためではなく、もう一度回復するために、守りの御手を伸ベられている、ということです。
イエス様は教会が荒れ放題のままにしておくことができないお方なんです。
大分荒れてきましたのでね、もう一度回復するためにここに現れているんですね。
B.ですからね、2節以降に、エペソの教会に対して非難や、警告から話を始めていないことからも分かりますが、最初にエペソの教会に、労苦や忍耐をほめてねぎらっているんです。
これ、イエス様のやり方でね、手紙に共通していることは、ダメなところから言わないんです。
私達は人に警告したり、忠告したりするときにね、ダメなところから言って、あとからいいところを言うから、ダメになっちまうんですが、イエス様は最初にいいところを言ったわけです。
黙2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。」
ここでは「知っている」という言葉が2回出てきますよ。
私達もこういう方法を心掛けたいなあと思いますね。いつでもこの方法をとると、成功率が高いわけです。
まず、認めて、相手の良い点を褒める。言いたいことはそのあとで、言うわけです。これを反対にすると、エペソの教会の人もカチンときたりがっかりしたりします。
初めに認めたり褒めるとね、あとの忠告が受け入れやすくなる。そうでしょ。
だから、イエス様っていうお方は、人間の心理というか、人の心の状態っていうのをよく分かっているなあと思いますね。イヤな事は後回しにしてね、先に褒めるべきところ、認められるべきところは十分に褒めているわけですね。
1.2節には「知っている」ということが2回書いてあるんですが、
まず、「行い」と、「労苦と忍耐」を「知っている」と。
「行い」は活動を意味していますが、「労苦と忍耐」はその「行い」の中身のことですね。
エペソのクリスチャンは、初めの愛からは離れてしまいましたけれどもね、教会が死ぬほどになっていたというわけではないんです。相変わらず、熱心に働いていたんですね。
キリストのために、3節では、「わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」と書いてありますから、悪しきものとの闘いにおいて弱音を吐いたことがない、っていうんです。非常に力強いと言えば力強い。キリストのために忠実に働き、困難に耐えて、敗北に見えるような事でも、勝利に変えてしまうぐらいの働きをしていたわけです。
だから、何処が悪いんだろうか、本人たちはよく気づいていないわけですよ。
ですから、5節以降で「よく思いだしなさい」って言われているのは、そういう点ですね。
2. 2節で「使徒と自称している」とありますが、
この使徒はペテロやヨハネのような「使徒」とは違うわけですよ。ここで言われている「使徒」は12使徒のことではないということです。
12使徒たちはもう世を去っているわけですからね。
当時は、この「使徒」というのは神様の言葉を権威をもって守る事ができる、そういう霊的な資質のある人、そういう知識を持っている人達を、「使徒」という称号を与えていたわけです。
ですからそういう人達が教会の中心になって働いていた。
ところが、自分も使徒になりたいという人がだんだんと現れてきたようですね。つまり教会の名誉とか権力とか富を求めてですね、使徒職に就く人がいたわけです。で、エペソのクリスチャン達は、にせ使徒を吟味して彼らを追い出したんです。ということが実はここに書かれているわけなんです。
3. それから、イエス様はエペソの教会のクリスチャンについて知って居られることがあります。
6節にあなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
ということが書かれています。この事も知っていたわけです。ですから知っている事が3つあったわけですね。
神田にニコライ堂っていうのがありますが、あのニコライとは関係がないようですが、このニコライ派というのがどういう分派であるかは、はっきりしていないわけですが、おそらくこれはグノーシスの一派であると言われているんですね。
グノーシスというのはヨハネの時代にすでに存在していた異端者の一つの派であります。彼らは二元論というのを主張しているんですね。
二元論というのは何かと言いますと、霊だけが善である、肉は、身体は悪である、こういう考えを持っている。
人間が体を持っている間は絶対に悪から離れられない。だからキリストは肉体を救わないと。
だからクリスチャンが肉体にある間は、道徳律を守る必要がないんだと。
人間はその内側だけ、霊はキリストによって清くせられるけれども、キリストは肉は救わないと。不品行を重ねても構わないと。
こういうことを主張したのはこのグノーシス主義者だった。
だからおそらく、この6節を見ますと「ニコライ派の人々の行いを憎んでいる」と言っているんですね。ですから学問的には優れた事を言っていても、その行いは非常に悪かった。
これは現代でも、これに似たようなことをする人もある。これは気を付けなければいけない。こういうような異端の人達を、エペソの人達ははっきりと憎んでいたということです。
3節をみますと、こういう戦いにおいて良く忍耐している。
これは大変な事なんですね。エペソの教会の人は、にせ教師やこういうニコライ派の人達の侵入によってですね、特に回心間もない人、まだ信仰がしっかり固まっていないような人達が迷わされたり、引き抜かれたりしていたわけですね。
ですから、昔も今も変わらないわけで、エホバの証人の人はクリスチャンになった人を狙ったりですね、こうなりやすいわけですね。
エペソの教会ではそういう長い戦いを続けていたわけです。イエス様の名のために耐え忍び疲れたことがないと、書いてあるわけです。
Ⅲ.ところがイエス様は、教会が異端を締め出しただけで自分たちが正しい信仰を守っているだけでは満足されなかった、ということですね。
4節に、一生懸命に褒められた後でもう一つ足りないことがあると。
4節になってやっと、「しかし、あなたには非難することがある。それは何かというと、あなたは初めの愛から離れてしまった。」
気を付けていただきたい事は、エペソのクリスチャンが信仰を失った、と言っていないということです。
初めの愛を失った、と言われている、ということですね。
信仰がなくなったといって非難されているんじゃないんですね。
エペソのクリスチャンは非常に勤勉に忠実にキリストのために働いたんです。熱心に戦った。
ところが、最初の彼らの活動の動機であった神の愛を失っていると、警告されたわけです。
ここでいう「初めの愛」の「初め」という言葉は「根本的な」という意味ですね。「もっとも重要な」という意味ですね。
エペソのクリスチャンは、キリストの愛を、他のずっと劣った異端との闘い、自分たちの信仰を守るということにすり替えてしまったんです。
自分たちの信仰を守ろうと必死になって戦っているうちに、キリストを愛するという重要な動機を忘れてしまったわけです。
これは非常に陥りやすいんです。
熱心に活動することと、神の愛に満たされていることは必ずしも同じじゃないということですね。確かに神の愛に満たされていれば主のために熱心に働きます。
逆は必ず真ならず、という言葉がありますように。熱心に主のために働いていてもずっと劣った動機で働いていることはありうるということですね。
4節で「離れてしまった」というのはね、「手放してしまった」ということなんです。
教会の組織としての働きは円滑に働いていたわけです。
各々の霊的な命が、内的な源、源泉が干上がってしまったようですね。
働きはちゃんと動いているわけですけれども。
教会の正統な教義や、礼典や活動を守る事は大切なことですけれども、ただ機械が動くようにただ動いている、熱心に動きつづけている。動くことが中心目的になる。
それを守る事が熱心になって、クリスチャンの心にある神の愛が枯れていってしまう。
これは大切な事で、クリスチャンにとっては、内側が満たされていくことと、外側が働く、この両面を失わないようにしなければいけませんね。
一生懸命に外側ばっかり働いていますとね、内側がカラになっていることに気づかないわけです。
ここでは、自己犠牲的なアガペを失ったら、愛のないクリスチャンになってしまう、ということですね。
相変わらずエペソのクリスチャンは、熱心だったんです。けれども内的な神の愛を失いつつあった。
キリストはこの点を鋭く指摘したわけですね。これはさすがにイエス様だということが分かります。ですから心は熱く神の愛に満たされていなくてはならない。
パウロはクリスチャンにですね、愛を失ったらどうなるか、ということを語っているんですね。第一コリント13章の初めに出てくるでしょう。ちょっと見てみましょうか。これは熱心なクリスチャンに向かって言っているんですね。
Ⅰコリ 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
と書いてありますね。
ここでは優れた信仰の働きをしているんです。
でも愛がなかったら、うるさいシンバル。あるいは預言の賜物をもっていて、知識や奥義に通じていても、山を動かす信仰があっても愛がなければ値打ちがない、って言っているんです。持ち物をぜんぶ施しても愛がなければ何の役にも立たない、って言っているんです。
つまり、こういう働きは、愛がなくてもできるということですね。別の動機でもできるということです。イエス様が仰っていることはそういうことです。
正しい教義を守るため、教会の組織の運営のために骨身を削っても、愛失くしてもやり得る。これらはみんな愛がなければ死んだものであると、値打ちもなく、何の役にも立たないと、こういわれたんです。
これは現代の教会にも大きな警告だと思うんですね。
教会の営みを何とかするために一生懸命になっていますけれども、愛がなければ何もならない。教会を大きくするために一生懸命になるのは悪くはないんです。
でも、愛が欠けていってしまったら、何にもならない。
張り子の虎に新聞紙を貼って大きくしても、中身が全然ない。
こういうような事をパウロは話してくれたんですね。
Ⅳ. そして5節で勧告がなされています。
A.それがなんであるかというと、愛が第一であって、最初の恵みの経験に戻りなさいということですね。
1.5節の終わりの方を見ますと、もし戻らなかったらどうなるか。
「わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
燭台というのは照らすものですよね。その燭台をなくしてしまったら、照らす光をなくしちゃうわけですね。
これを行うところの権威はキリストが持っておられる。
2.ここでは、キリストが教会から離れていくって、言っているわけじゃないんです。
イエス様が教会を見捨てるって言っているのではないですよ。その逆です。
キリストから、教会が取り除かれるって言っているんです。
イエス様の働きは続くわけですね。
けれども愛を失った教会は、キリストの名前を語っていても、あるいは教会組織の働きの運営をしていても、教会としての命を失うということですね。
この世に対して、世界の光としての役割を失ってしまうってことです。
イエス様もね、塩の話で、塩が塩けを失ったら何になるか、って言っていますね。
踏まれてしまうって、仰いましたね。
どんな大きな活動をしていても、どんな大きな働きをしていても、愛を失ったら教会としての命を失うし、光を失うし、影響力を失うっていうんですね。
現代の教会がこれを聞くと、ほんとに驚かなくてはいけないと思いますね。
愛を失いつつある教会は多いと思うんです。多くの活動がなされていても、愛を失っている。これは教会の抜け殻なんですね。セミの抜け殻と同じです。
B. イエス様はこういう教会のクリスチャンに3つの事を命じられたんです。
1. 第一はね、5節で「どこから落ちたのか思い出せ」って書いてありますね。
最初に持っていた愛を思い出しなさい、何を失ったか思い出しなさい、とね。
エペソのクリスチャンはね、自分たちが失ったということに気づいていないんです。あんまり一生懸命になってね、異端がどうだとか、ニコライ派がまた来たとかね、にせ教師が来たとかね、毎日毎日そんなことばっかりやっている。
それやっている間にですね、関心が徐々に徐々に他のものに向けられていって、大事なものが失なわれているっていうことに気づかないでいるんです。
私達も気を付けたいですね。本当にクリスチャンになれば、非常に大事なものが失れて行くと、これじゃいけないんだと、深い反省の心をもつわけなんです。
あまりの熱心さのゆえにね、実は自分たちの心が違った方向へ向いていっているということに気づいていなかったわけです。
もう一度思い起こしなさい。内的な愛よりも外的な働きを重要視すると、愛を失い始めるということです。
しかも一世代が終わるころ、40年か50年後には、実はこういうふうになっていた。
私達もこりゃあ気をつけなきゃいけません。いつも最初に帰るということです。
私達も初代の使徒の働きを読んでですね、初代の教会の人達の愛がどうだったか、これに照らされながら、現在の信仰生活、あるいは信仰の状態を反省していく必要がある、ということですね。
常に根本的な愛に立ち返ってみるってことが大事だということです。
2. 第二番目は「悔い改めなさい」ということですね。
これは既にお話している通り、心と生活の方向転換であるということです。その生き方を、今までの生き方を止めて、神の御心に立ち返る事であると。
もし、本当にエペソの教会が愛に満ちていれば、偽の人が出てきてもそれを排除することは簡単だと思いますね。ニコライ派の人が出てきても、それは簡単である。
もう一度立ち返りなさい。
3. 第三番目ではですね、「初めの行いをしなさい」ということですね。
初めの行いというのは、外側のことを言っているんじゃなくて、質的な行いの内容のことですね。エペソのクリスチャンは変わらず活動的でしたがね、キリストの熱い愛を感じさせていなかったわけですね。
この3つ、どこから落ちたか思い出させることと、悔い改めることと、初めの行いをすること、これが解決の鍵でした。クリスチャンは愛による交わりの喜び、かつてどういう交わりをしていたのか、どういう喜びを持っていたのか、どういう熱い愛を持っていたのかを思い出すことを、イエス様は掻き立てようとしておられるということですね。
Ⅴ. 最後にイエス様はクリスチャンたちに挑戦を与えている。
A.7節ですね。「耳ある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
① ここに「諸教会」と書いてありますから、エペソの教会だけではなくて、あらゆる教会が含まれている。今日の私達の教会にも言われている挑戦だということもお分かりいただけると思います。
② ここで「耳ある者は聞きなさい」という言い方がありますね。
これは福音書の中でイエス様が何度も言われているんですね。思い出すかわかりませんがね。ちょっと開いてみましょうかね。
たとえば
マタ 11:15 耳のある者は聞きなさい。
これ何度もいわれているんです。
あるいは、
マタ 13:9 耳のある者は聞きなさい。
実はイエス様が口癖のように言われている言葉だということがわかります。
これは種まきの話をした時に言われましたね。
それから13節から23節、これは何度も「聞く」とい言葉が出てきますね。
マタ 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
13節では「聞いてはいるが聞かず」、14節では「あなたがたは確かに聞きはするが決して悟らない」、15節では「その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしに癒されることのないためである」、16節では、これは聞いている人ですね、17節では「聞きたいと願ったのに聞けなかった」というように、イエス様は「聞きなさい、聞きなさい、耳ある者は聞きなさい」と何度も仰った言葉ですね。
そして最後にね、13章43節を見ますとね、
マタ 13:43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
なんでこんなことをいわれているかというとね、耳があっても聞かない者がいるっていう警告ですね。イエス様の時代にもそうであったわけですから。
キリストのみ言葉を理解して悟り、信じて受け入れる人は、これに応答して従うように勧められている。これが勝利の秘訣ですね。
クリスチャンは二つの内どちらかを選び取る事になる。信じるってことは、どちらかを選び取る、ってことをいっているわけです。
すなわち、キリストから教会が取り除かれてしまうか、教会がキリストの命と光を失ってしまうか、それとも回復して、勝利があたえられるか。
信仰というのは、いつでも神の側を選び取ることである。
日本人が「信仰の自由」を言う時、「信じても、信じなくてもいい自由」だと思っていますね。
「信仰の自由」といった時にね、信じなくてもいい自由、ってことじゃないですよ。「信じてもいい自由」なんです。聖書が言っているのは「信じる自由」ですよ。「信じなくていい自由」なんて聖書は記していないわけなんです。
ね、私達は選び取ることが大事ですね。
B.最後に、勝利には二つの事が約束されていますね。
1. 一つは「わたしは神のパラダイスにある」と書いてあります。
神のパラダイスの回復です。
創世記の2章8~9節を見ますと、人間の最初の住居であったエデンの園、理想的な住まいがあります。が、アダムとエバの不従順、罪によってこのパラダイスから追放されたわけです。
それがもう一度ここで回復される神のパラダイスがある。
このパラダイスは創世記にあるパラダイスよりずっと優れたものである、ということがお分かりいただけると思います。
ここに,神のパラダイスの回復が一つですね。
2. それから「いのちの木の実を食べさせます」と書いてあります。
「いのちの木」というのは、永遠の生命力と成長を意味しています。
アダムとエバは罪を犯したときに、「いのちの木」に近づくことを禁じられているわけですね。なぜ禁じられたかといいますとね、人は罪と弱さを持ったままで永遠的な存在になってはいけない、ということなんです。これはお分かりだと思います。人間がね、罪と弱さを持ったままでは、決して幸福ではないわけですよね。でしょ。ですから、神はいのちの木の実を食べさせなくしてしまったんですね。
そしてイエス様は、キリストの命を持つ者を、死と復活によって全く新しものに再創造する。新しく創り直して、キリストの再臨の時に、この素晴らしい神のパラダイスにもう一度入れてくださる。いにちの木も与える。
ですからヨハネの黙示録の終わりの方を見ますと、いのちの木の実が出てくるんですね。22章の2節
黙22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
と書いてあります。
永遠に神と交わる最高の喜びと幸福の生活に到達できる、ということが、このいのちの木の実の意味するところですね。
ですからここでいう勝利者とは、
エペソの教会の人たちが言う勝利者は何かというと、異端とにせ教師と戦った勝利なんですね。
ところが、ここでイエス様が与える勝利というのは、異端とにせ教師と戦った勝利ではなくて、自分自身の霊に対する勝利、永遠の命に係わる勝利である、ということですね。
エペソのクリスチャンは非常に熱心ではありましたが、得ようとしているものが違っていたということですね。
目標点、ゴールするところが違っていたということですね。
彼らは必死になって異端者と戦うことが自分達の役目であり、それが勝利の目的であると思っていた。
ところがイエス様の側は違っていた。
神のパラダイスにある「いのちの木の実」、永遠の命に係わる勝利である。
これが得られなかったら、異端者をやっつけても意味がないでしょ。何にもならない。
ですからクリスチャンは、いつでも初めの愛に立ち返らなければならない、とイエス様は教えてくださった。私達にとっても大事なことだと思いますね。
私達もこの地上の生涯、いろんなものと戦わなくてはなりません。
でもどうか間違わないで戴きたい。活動に力を入れることは間違いではないんですよ。活動に力を入れることは大事ですよ。
でも根本的に神の愛から離れてはならない。
心がどちらに向いているか、ってことですね。
私達はしばしば外側的な活動に心を奪われてしまって、内側の心が枯渇しやすい。
イエス様はエペソの教会の人にこのことを教えておられる。
願わくは、私達は内側が溢れる、それが外側に表れてくる、行いとして現れてくるように、させて頂きたいですね。
〔お祈り〕
「それであなたはどこから落ちたかを思い出せ。悔い改めて初めの行いをしなさい。
勝利を得る者には、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
恵みの深い天の父なる神さま、エペソの教会の人は知らない間に、知らず知らずに、問題の目的から離れて、心の中は渇いているにもかかわらず、そのことにも気づかないで、一生懸命になっていました。確かにその一生懸命さ、忍耐強さは、主が認められるほど熱心でありました。しかし心の中に根本的な神の愛を失いつつあったことを指摘されました。どうか私達もこの地上にあり、さまざまな事をしているうちに、心がこの大事な点からずれやすいことを教えてくださり、感謝いたします。
イエス様、どうかもう一度、新しいあなたの初めの愛に戻る事ができますように、あなたのいのちの木の実を頂く勝利に到達させてください。心からお願いをいたします。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によって祈ります。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
まなべ あきら