音声と文書:ヨハネの黙示録(05) キリストの幻 1:12~20

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PDF文書(印刷用):ヨハネの黙示録(05)

ヨハネの黙示録(5) キリストの幻 1章12節~20節

黙 1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

「ヨハネの黙示録」は、その象徴的な「幻」で満ちているわけですね。象徴的幻ですからね、ま、要するに、「絵」で描かれているわけですね。屏風にずーっと絵が描いてあるのと、同じようなものなんです。言葉、文章で書いてはありますが、それは「絵」なんです。
ヨハネは言葉をもって書きましたが、ヨハネが見たのは、「絵」なんです。
象徴的な幻で書かれたメッセージは、強烈でありました。強烈でありますけれども、それが何を意味しているか、ですね。
これを私たちが知るためには、ある程度学ぶ必要があるわけです。
「ヨハネの黙黙示録」はこの幻がなんであるかを知らせるよりも、幻を通して、主を畏れるようになる、これが一番の目的であったわけです。
今日は、いよいよ私たちはキリストの幻に入っていくわけですけれども、ここで、イエス様が教会の真ん中に立っておられるのを、注目したいんです。

13節を見ますと、「人の子のような方が見えた」と書いてありますでしょ。
つまり、キリストは教会とは無関係にはご自分を現わさない、ってことなんです。今の時代にあって、イエス様は教会と無関係には現わさない、ということを意味しているんです。

Ⅰ.12節、13節から入っていきたいと思いますが、

A.ヨハネは、自分に語り掛けられた人を見ようとして、「振り向いた」、と言っていますね。

するとそこに「7つの金の燭台」がみえた。それらの燭台の真ん中に、「人の子のような方」が見えたんですね。燭台がなんであるかは、あとでまた詳しくお話しますが、一言でいえば、燭台は教会を表している。20節の終わりにこのことが記されている。「七つの燭台は七つの教会である。」

1.ですから今日、牧師も信徒も教会も、キリストのものであることを忘れてはいけない。
何を意味しているかというと、
牧師はキリストのご計画に従って、教会の働きを進めていく責任があるわけです。安易に自分の好きなように、神の道を外れて私物化してはいけない。神様がその中心に立っていなければいけない。
また現在、自分はクリスチャンだといいながら、教会を離れている人が大勢いらっしゃいますね。残念なんですが、いろいろな理由があるとしても、これは決して主が望んでおられる状態ではない、ということですね。
主は教会の真ん中に立っておられる。
ですから、牧師も信徒も教会から離れることを、安易に考えてはいけない。
教会とは無関係にはご自分を現わさない、ということなんです。

2章、3章になると7つの教会がでてきますが、その時またお話しますが、どちらも教会がキリストのものであることを忘れてしまいますとね、イエス様がいない教会ができてしまいます。ですから、私たちは、教会はキリストのものであることを、忘れてはいけない。
これが分かると、教会でどんな説教がなされるべきか、教会でどんな交わりがなされるべきか、教会でどんな活動ができるか、自ずと決まってくるわけです。

2.ところで、なぜキリストは、教会の真ん中に立っておられるのでしょうか。
これは、あんまり安心できないからですね。
安心していたら、ま、任せておいてもいいかもしれない。
この2000年間、イエス様が願っているような、理想的な状態ではなかったわけなんです。だからイエス様はいつも教会の真ん中に立っている必要があるわけです。

① 2章以降に見られる、例えば、エペソの教会を見ますと、「はじめの愛を離れてしまった」ことが言われている。イエス様は検閲官として、歩いておられる。
2章の1節では、「7つの金の燭台の中を歩く方が言われた」と、言っている。

② 8節ではスミルナの教会が出てきますが、ここでは酷い迫害があった。そこで死んで生き返られた方、つまり、死を滅ぼされて甦(よみがえ)られた主として励ましを与えるために、主が現れているわけです。

③ 次にペルガモの教会がでてくるわけですけれども、ここでは、「鋭い両刃の剣」が出てまいります。
教会によって問題が違っているので、イエス様の現れ方も違ってくる、ということがお分かり頂けると思うんですね。
で、このペルガモの教会というのは、どういう教会だったかというと、どうも、信仰の節操が緩んでしまっていたようですね。それで、鋭いもろ刃の剣を持って現れている。警告を発しておられる。

これは、すべての時代の教会に対して、ある時は励ましを、ある時は警告を発しておられる。
ですから、イエス様が教会の真ん中に立っておられるというのは、意味がある。
ただ、突っ立っているんじゃない。

3.キリストは、彼の地上生涯に記録された福音書の中では、身体的な特徴が何も記されていないんです。
つまり、鼻がどうだったかとか、髪の毛がどうだったか、背丈はどうだったかとかですね。ところがですね、ヨハネの黙示録になりますと、ちょっと違った意味ですが、口から剣が出ていたとか、目が燃える炎のようであったとか、身体的な事が、特異な表現で書いてある。
これは、キリストの特異な人格性を表しているんですね。
この通りに描いたらですね、口から剣が出ていて、なんて、怪物みたいになってしまう。
ヨハネはこの幻を、直接見たわけですけれども、「王の王」として、特異な人格性を表している。
これによって、今日の教会とクリスチャンに大きな衝撃を与えようとしておられる、ということが分かります。

この特異なキリストの御姿が、ちょっとだけ福音書で顔を覗かせたことがある。

マタ 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

マル 9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

というように、「ヨハネの黙示録」での、イエス様がちょっとだけお顔をのぞかせている。
これらの福音書の出来事は、実は「栄化」された、天の御国でのキリストの姿を表しているわけです。

ですからね、「ヨハネの黙示録」の1章18節に戻りますが、
「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」
と、実はこのことは福音書の出来事を暗示している。
イエス様がかつて地上で生きている時も、天の御国にいる御姿をちょっとだけ見せている。
また、「死んだが、見よ、いつまでも生きている」と、言われていますね。
栄化された天の御国のキリストの姿であった。
福音書の時代にはちょっとだけ、顔を覗かせたんですけれども、「ヨハネの黙示録」ではもっとはっきりとそのことを正面に出している。
私たちが信じているキリスト、より頼んでいるキリストというお方は、栄光を受けられた全能のキリストである。
ですから、1章18節の終わりでは、「死とハデスとのかぎを持っている。」と、こういうふうにイエス様は仰ったんですね。

死と、死の後の鍵はキリストにある。

ですから、死をキリストにたのんでいるならば、「死」というものの全ての鍵は、イエス様がお持ちである、マスターキーを持っている。だから、私たちは、「死」を恐れることはもはやない、ということです。

キリストが死んだということは事実ですね。
けれども、「見よ、いつまでも生きている」と書かれているとおり、この地上でイエス様のおいでが遅ければ、私たちも「死ぬ」ってことはありうるけれども、いつまでも主とともに生きつづけることができる、

なぜか?

キリストが「死とハデスとの鍵をもっている」からです。

ですから、今でも、キリストは教会の真ん中に立っているんです。いつも私たちはこのことを、はっきりと認めている、という必要があると思いますね。ただ教会にきていて学ぶだけじゃなくて、それ以上のことが意味されている。

キリストが教会の真ん中にいない教会というのは、もはや使命を失っている。教会は建ってはいるけど、いったいいくつの教会がキリストが真ん中に立っている教会か、なんて言われて、ではキリストがいない教会は消しましょう、といわれたら、一体いくつの教会が残るか?

教会と無関係には、キリストはご自分を現わさない、ということなんですね。

Ⅱ.次に、教会の真ん中にたっておられるキリストは、どんなお方か、

ということが、幻の中でいくつも出てきているんですね。そのことを少し考えてみたい。

A. 13節の終わりに、「人の子のような方が見えた」、とありますね。

ずうっと前にね、私がこのことが分かった時に、イエス様って方の「意味」が分かったんです。意味っていうとおかしいですけれどもね、イエス様は、神さまなんです。そんなことは誰でもわかるんです。信じればね。しかしね、イエス様がね、一度「人の子」となられた限り、ずうっとね、「人の子」であり続ける、ということなんです。イエス様がね、人としてお生まれになった、以前とその後、特に十字架に架かられた以前と以後では全然違うというか、キリストはバックしないんです。
そのことが分かった時に、天の御国にあっても、まだ人の子ような形をとっている、こんなことは、私たちは普通あまり考えないんです。でもキリストにとっては重要な事だったんです。天に帰れば、元のキリストに返ると、天から下る前のキリストに返ると、普通はそう思うんです。ところがそうじゃないんですね。

「人の子のようにみえた」、と書いてある。
この事がわかったときにはね、イエス様はね、変質したわけではないんですが、私たちとの新しい関係はね、永遠にね、なくならないということなんですね。これが、私はある時分かったんですね。目がさめて、キリストというお方を、信じなおしたわけなんです。

さて、このことは、ダニエルが数百年前に預言しているんですね。

ダニ 7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 

これを見ますと、ダニエルは幻の中に「人の子のような方」を見ているんですね。おそらくヨハネはこの幻を見た時に、ダニエルの預言を思い出したに違いないんです。で、この表現をしたものと思われます。
しかし、ダニエルが見た幻と、ヨハネが見た幻とは、少し意味あいが異なると思われます。
それは何かというと、ダニエルの場合は、イエス様はまだ人の子になっていなかったのですが、ヨハネの場合は、既に人の子になって、33年の生涯を経て、十字架に架かり、復活してくださったイエス様を、見たんです。

このことは一体何を意味しているか。

イエス様は人として来てくださった後は、永遠に人の子の立場を取りつづける、ということですね。イエス様は三位一体の神であるばかりではなく、永遠に私たちの罪を取り除く、救い主なんです。イエス様は、永遠に潔め主であり、救い主であり、教会の主であり続けるんです。人の子をやめたんじゃないんです。ありがたいと思いますね。

イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を見せた時、手に穴が開いていたわけですね。
トマスにね、「穴のなかに指を入れてごらんなさい」って言ってますね。痛みはなかったんですが、もはや元のキリストではない。私たちと深い関係がある。キリストは永遠に私たちの主である。地上に来られる前は、私たちの主ではなかった。神ではあられましたけどね。私たちの救い主ではなかった。

ですからね、ここに私たちはキリストの花嫁になる所以があります。イエス様は、もう私たちと無関係ではありえないということなんです。「人の子」っていうのはですね、ですから、素晴らしいと思いますね。
私はこのことが分かりましてからね、イエス様はずっと身近に感じられるようになりました。「神」っていうだけではね、ずいぶん遠いお方のように思える。イエス様は私たちの救い主であり、主であり、友であり、一番上の兄でもあるわけです。「神のようなお方」ではなくて、「人の子のようなお方」が見えたと言っていますね。 キリストと私たちの関係は切っても切れない関係になった。

B. 次に14節に飛びまして「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、」とありますね。

この「白さ」というのは、いろんな事を意味していますね。
年齢、神様の清い栄光の輝き、優れた知恵、高貴、尊さ、を表していると思うのですが、
年齢の事を言えば、コロサイ1章17節をみますと、イエス様のお年は一体いくつぐらいであるか、白さは年齢だといいますけどね、
コロ1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

キリストは永遠の存在者だということですね。
普通、紀元2000年といいますから、2000年前のクリスマスの日からイエス様はおられるお方のような気がしてしまいますが、そうじゃないんですね。万物よりも先に存在する。キリストの「永遠性」を示している。イエス様の髪の毛が白いということはキリストの永遠性を表す、ということが分かります。

その白さは、「羊毛のようである」、「雪のように白い」、と書いてありますね。
羊毛の白さと、雪の白さと、どう違うのか。
雪は光に当たるとキラキラ光る。
ここに違いがあります。ここでわざわざ雪の白さが加えられているのは、「輝き」のことを言っているんですね。これは聖なるキリストの輝きなんです。そしてその「輝き」によってすべての者の、汚れと醜さを照らし出す。雪の上を泥靴で歩くと、その汚れが際立つでしょ。
この白さが頭にあるという事は、これはイエス様の優れた英知を表しますね。知恵の深さを表している。これが「白さ」の意味合いです。

次に、「目は燃える炎のようである」と書いてありますね。
目が炎の様であるというのは、恐ろしいほどの潔さを表しているのですが、目は見通すということでもありますね。教会の真ん中にいて見ているわけです。教会を見通す目。鋭い目で見通される。
また神の義を表す。この義によって裁きが行われていく。
イエス様は気分で左右されるようなお方ではありませんから、「この目」で見られた教会とクリスチャンは、罪を悔い改めざるを得なくなる、と言ってよろしい。

ペテロがイエス様の「目」で悔い改めているところがあります。

ルカ22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

ここにイエス様が、ペテロを見られた「目」がありますね。この「目」は、ペテロが悔い改めざるを得ない「目」であった。
ペテロは、大声を出して泣いた、と書いてあるんですね。
このキリストの燃えるような「目」というのは、悔い改めざるを得ない「目」である。
「目」はその人の人格の全てを表すといってよろしいと思います。素晴らしい目ですね。
私たちもそういう目を持ちたいと思いますね。「見るだけ」で事がすむ。

聖書にね、「目を留めてさとす」というのがあるんですが、目でちょっと見るだけで、子供がピッと動く。子供は口で言ってもなかなか動かないんですね。

イエスさまの「目」はそういう「悔い改めを促す目」である。

15節にある「足」
「足」はどんな足であるかというと、踏みつけるところの足なんです。
あるときは勝利を表し、ある時は軽蔑を表します。

勝利を表す「足」
詩 91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

ここは、征服する者の勝利、あるいは服従させられた者に対する勝利を預言していますね。
獅子とかコブラとか、若獅子とか蛇とかありますが、これは征服者の勝利を言っている、

軽蔑を表す「足」
マタ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

これは「塩」の話ですが、「踏みつけられる」ことが書いてある。
価値のない、見捨てられたものが踏みつけられている。軽蔑が表されているんですね。

「炉で精錬されて光り輝くしんちゅう」ですが、真鍮(しんちゅう)っていうのは青銅のことです。銅っていうのはすぐに輝きを失うんです。
ギリシャ語の言語をみますと、「光り輝く真鍮」っていうのは「レバノンの青銅」とも訳すことができるんです。これが「炉」で精錬されると、普通以上に輝きを放つものだ、ということですね。裁くための「足」として、教会の間を廻るキリストの歩みを表しているわけです。

15節を見ますと、
「その声は大水の音のようであった。」とありますね。
これは何を意味しているか。
大きな声、というだけでなく、例えば大きな滝がありますね。滔々とですね、大音響をたてて流れる大瀑布、そういうところに行きますと、どんなに大きな声で話しても、耳元で話さなければ、よく聞こえないんです。大瀑布の下では話し声や騒音がかき消されてしまう。けれども、キリストの御声、というのは、この世の騒々しい音よりもなお強いという意味です。

次に「顔」ですが、「顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とあります。
変貌の山でも輝く顔とありましたね。栄光を受けたイエス様の御顔です。あまりにも輝いているので、人の目では直視できないということですね。私たちは肉眼で太陽を見ることができませんね。
子供のころ、日食がありますと、すりガラスとかで見たことがありますが、直視することができない。
イエス様が裁きの時に来られる時は、容赦なく反抗する者を退けてしまいますから、ここでは、イエス様に顔を向けて反抗できるものは一人もいない、ということを表します。

13節に戻りますが、「足までたれた衣を着て」とあります。

普通は、長い衣、足元まで垂れる衣というのは高い地位についている者が着るわけです。
普通のしもべは、短くて、まくり上げているようなものを着て、仕事をするわけです。ですから、足まで垂れている衣というのは、キリストの権能、権威を表しているわけです。キリストは、権能と権威をもって教会に来られるということです。教会の中にある様々な争いとか、問題とかを解決させる。そしてイエス様の教会に仕える権威を与える。

もう一つ思い出させるのは、長い衣というのはアロンの祭司職です。
祭司は長い衣を着ていますね。
ですから、足まで垂れる長い衣というのは、礼拝することの重要性を思い起こさせますね。
祭司を思い起こさせます。この衣は、キリストの教会は、礼拝することが大事だ、ということを教えていますね。

13節中ほどに、「胸に金の帯を締めた」とあります。

金が象徴的に使われる時には、神の権威、永遠の王の権威を表しています。
すなわち、「金の帯」は、イエス・キリストの永遠の王の権威を表し、先の祭司性と合わせて、キリストが、祭司・王の特異な権威をお持ちであることを示しています。

16節にかえりますが、口はいったいどうであったか。
「口からは鋭い両刃の剣が出ており」とあります。ヘブル書でも「両刃の剣」について言われています。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

「両刃の剣」というのは何か。
それはキリストの「ことば」は、2つの方向に働くということです。
一つは、「祝福するために」切り裂く。つまり癒すために痛みをあたえる、回復させるために、切り裂く。
もう一つは、刑罰に働く、裁きがある事を宣告する。
というように、両面に働くんですね。

イエス様がどういうお方であるかというのは、幻を通してキリストの特異な人格性がここに示されていることがお分かりいただけると思います。

Ⅲ. ヨハネ黙示録を学んでいますと、度々「7つ」のものがでてくるんですね。

ここでも「7つの金の燭台」「7つの星」が出てまいります。

A.「7つの燭台」は20節でも出てまいりますが、これは7つの教会を表します。

イエス様はその教会の間を歩まれたわけです。
なぜ教会が「燭台」と言われるのか。
燭台というのはご存知のように、ランプですね。
教会が燭台だというのは、教会はどんなに努力しても自ら光る事ができないということです。燭台は、ろうそくにしろ何にしろ、その光源を持っていてはじめて光る事ができる。光の源であるイエス様がおられなければ、「世の光」にはなりえないということです。教会は、キリストの輝きを掲げるだけなんです。

月は光を出していないんです。太陽の光を反射しているんです。教会もそうです。教会はキリストの光を放つ、ということです。教会はしばしばキリストを離れて、かってな活動をして、自分の光を照らしだそうとします。これはキリストに反するものです。「燭台」と言われているのは、そういうことです。キリストの教会は、暗黒の世界で光とならなければならない。そのためには、キリストが教会の中心にいらっしゃらなければならない。

ここで「7つの燭台」と表現されているのは興味深いことです。なぜかというと、
旧約聖書では、幕屋の聖所には7つの枝を持つ燭台が1つだけおかれていたんですね。それは、イスラエルの国が神の真理を証することを表していたわけです。ですが、「ヨハネの黙示録」では燭台が7つあって、各々別々に置かれていました。ということは、これは一つ一つの教会をあらわす、ということですね。教会の本質というのは同じですが、各々の教会には独自のメッセージが与えられている。

「燭台」が教会にたとえられているのは、意味深いなあと、思います。

キリストの光を照らすとともに、幕屋、聖所ですね、そこにあった燭台が、イスラエル国家から教会に移った、という歴史的真理の移譲といいますか、旧約から新約に変わったなあという意味合いを、預言の転換がみられます。

B.次に20節にある、「7つの星」について考えてみましょう。

この星は「教会の御使いたち」であると書いてありますね。
この「御使いたち」というのが、なかなかややこしいんですね。ギリシャ語でいうと、ANGELOSですけれども、これは、普通は超自然的な存在としての御使いを表すんですが、時にはただの使いを表すこともあるんです。
ここでは、前後の文脈からすると、「教会の御使い」と書いてあるので、各教会の責任者、指導者、あるいは神に奉仕するすべてのクリスチャンたち、を意味するものと思われます。
これは天の御使いたちではなさそうですね。神のメッセージを託されている者たちのことを言う。しかも彼らは「神の右の手」に保たれている。「右」というのは神の権威を表していますね。
ここでは、教会の奉仕者たちは神の支配のもとにある、ってことです。

そして、彼らにどんな危機が及んでもイエス様は教会を守られて見放さない、ってことを表している。この事は2000年の教会の歴史が証明していますね。
あらゆる迫害にあっても、教会は消滅しなかった。私たちは、できれば、教会がどんな迫害にあったか、そのためにキリストが教会を保護されてきた、現実性を知る必要があると思います。

イエス様は教会の間を歩かれて、厳密に検閲なされていったわけですが、それはなぜかというと、教会を保護するためである、教会が腐敗しきってしまわないように、回復し、拡大する必要があったわけです。このように強力な愛と保護に満ちた神様の御業があってこそ教会が保たれていくわけです。そのあとで、世界は最後の審判の日を迎えるわけです。

なぜ教会がキリストによって保護されているか。

Ⅰペテ 4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

教会から裁きが始まるわけです。
ですから裁きが始まる前に、イエス様は教会をきよめ、確実にご自分のものにしておかないと、裁きを始めることができないわけなんです。ですからキリストは厳しい警告をもって教会に臨まれるんですね。それは教会の欠点を暴露し、刑罰を加えて滅ぼすためではなくて、むしろ教会の徳をたてて、聖めて、ご自分の教会にして、そのあとで、裁きを行うためなんです。

Ⅳ. 最後に、この幻を見たヨハネの反応について考えてみましょう。

1.黙示録1章17節を見ますと、

黙 1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

ヨハネはこの方のすばらしさに完全に気を失ってしまった。
ヨハネという人は、ご存知と思いますが、かつて、最後の晩餐の時にはですね、イエス様の御胸に寄り添って食事をした人なんです。ところが、ここではイエス様のお姿に圧倒されてしまっているんですね。

なぜか。

それは、イエス様のお姿が全く異なっていたこともありますが、想像していた以上に「栄光のキリスト」、御座につかれたキリストの素晴らしさというか、畏ろしさというか、ですから、私たちもキリストの元に行けば、必ず倒れてしまう。
今、現実にはイエス様は私たちに、こういう御姿を見せませんから、イエス様を侮る人もいます。天の御国を、程度の低いものと考えている人もあるかもしれない。これほどの愚かさ以上の愚かさはない。天の御国を知らないと、そういうふうになってしまう。
ヨハネはイエス様をよく知っていたんです。でも、主の幻を見た時、彼は気を失ったと書いてある。

特に今日のクリスチャンは、主の奉仕につく者は、気を失うほどのキリストの尊厳に触れる必要があると思います。神学校で学んで、知識的に知っているだけでは、高ぶるんです。イエス様の威厳に触れて、その畏敬の念に打たれて、おののくようでなければ、主の御用はできない。

イザヤも主の幻に触れましたね。そして「ああ、私はだめだ、滅びてしまう」と叫んだ。
エレミヤもそうです。神さまに叫んでいます。「ああ主よ、ご覧の通り、私はまだ若くて、どう言っていいかわかりません」
ペテロだってそうですよ。「私のような者から離れてください。私は罪深い者です」と叫んでいる。

ですからこういう叫び心が出てくるまで、主の働きにつくと危険なわけですね。高ぶるようになってしまう。

2.ヨハネが、こういうように畏れおののいた時に、イエス様はヨハネに手を置いてこういわれたと、書いてありますね。

黙 1:17 しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

というふうに、イエス様はおっしゃった。本当の意味において、彼は力強い励ましを頂いた。
19節を見ますと、

黙 1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

「見たこと」というのは過去形です。
1章12節から17節までキリストの幻がありましたね。
「今あること」というのは現在ですね。2章から3章の教会の姿を表しています。
「この後に起こる事」というのは未来ですね、4章1節の終わりを見てみますと、
「ここに上れ」と言っていますね。

黙4:1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

「この後に起こる事」、というのは未来のことですが、4章から22章でこれから起きる幻を示す、と仰っていますから、そのことを書き記しなさい、と。
19節は、黙示録が展開していく大きな鍵になっている。
この幻を見て、ヨハネの奉仕は、ずっと変わっていったんですね。

私たちは「ヨハネの黙示録」を通して何を学ぼうとしているのか、何を得ようとしているのか。それは、ヨハネが見た幻の詳しい解説ではなくて、ヨハネがイエス様の幻を見た時、その御前でひれ伏したように、私たちも畏れおののいて、主に仕える者になる、ということではないかなあ、と思うんです。

知識的に知るだけでは、高ぶる者になるんです。
ヨハネは主の尊厳に触れて、決して高ぶるものにならなかった。私たちも主をおそれ、おののく者として主に仕える者になる事を「ヨハネの黙示録」を通して学びたいと思います。
これが最大の目的であると言って、よろしいのではないかと思います。

2章から教会の姿を学ぼうとしていますが、まずは、イエス様の御前にひれ伏したいと思うことであります。

〔お祈り〕

「私はこの方を見た時、畏れおののいて死者のようになった。」

恵み深い天の神様、イエス様の幻は特異なものであります。
主は王座に座されて、教会の中心に立たれ、さまざまな警告を与え、裁きの前にあなたは教会をきよめ、もう一度徳を立てる。しっかりとご自分のものにして、のち、この裁きを行おうとしています。
どうか私たちの教会も、いつもイエス様がおられる教会となる事ができる様に、どうぞ、助けてください。また世界に多くの教会がありますが、願わくはキリストが中心に立って、灯台のごとく「キリストの光を輝かし続ける教会」でありますように、主のおいでの備えをすることができるように、どうぞ顧みを与えてください。
この時を感謝して、尊いイエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
まなべ あきら

上の絵は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「The Vision of the Seven Candlesticks(七つの燭台の幻)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。 Wikimedia commons より)