音声と文書:ヨハネの黙示録(08) ペルガモにある教会へ 2:12~17

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PDF文書:ヨハネの黙示録(8)

ヨハネの黙示録 2:12~17
2:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
2:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』【新改訳改訂第3版】

上の写真は、トルコの北西部にある古代ペルガモ遺跡にある大きな野外劇場。BC3世紀に造られ、その後、大改築され、約10000人の席があった。場所は、下の地図を参照。(「聖書の世界 使徒行伝編」ミルトス刊より)。

ヨハネの黙示録(8) ペルガモにある教会へ 2章12節~17節

はじめに

今日は、このペルガモの教会に与えた、キリストの手紙を読んだわけです。ペルガモというのは、スミルナよりもさらに北、真北といってもよろしいんです。エペソから約90キロから96キロいったところにあります。約100キロというとかなり北ですよね。東京から行ったら、どのあたりになるんですかね。大きな岩の、丘の上に、ペルガモの町があります。ですからペルガモは、美しい見晴らしの良い、高いところにあります。

ペルガモは古い町ですけれども、紀元前133年にローマの植民地になっているわけですね。その前は、歴史によると独立王国であったようですね。ペルガモはその中心地であった。ペルガモは何で有名かと言いますと、エペソとかスミルナというのは商業都市でありましたがね、ペルガモは商業都市ではないんですけれども、ローマの植民地になりました時にね、ローマ帝国の行政官の駐在地になったわけです。それで非常に有名になったわけです。
日本でも首都は東京ですけれども、例えば厚木とかね、厚木というのは何で有名ですか。
駐留軍がいたり、マッカーサーが厚木に来たりとかね、そういうので有名になったわけです。
ペルガモはローマ政府の行政官がそこに駐留していた。それで有名になった。

Ⅰ.13節に「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」と言ってますが、

「サタンの王座」というのは、そこにサタンが住んでいたというわけではなくて、こういう言い方をしているのは、二つの事が考えられる。

A.

1.一つはペルガモは、アジアではローマ皇帝の礼拝の中心地であったわけです。
ですからペルガモは、行政的、政治的な中心地であるとともに、宗教的な意味でも大きな支配力、権威があったわけです。ペルガモは、紀元前29年、皇帝アウグストス、これはイエス様が地上においでなさった時に皇帝であった、あのアウグストスですね、アウグストスの栄誉を称えるところの神殿を建てているんですね。ですから宗教的にもずいぶん権威を持っていたんですね。で、このアジア半島、特にこのトルコ半島を支配していた。そういう意味で「サタンの王座」と言われているのではないかと、言うわけです。

2.もう一つは、ペルガモには独特の偶像があったわけです。
とぐろを巻いた蛇を象徴している。アスレピアスとか、アスクレピオスの言葉の偶像が、そこにあったようですね。しかも、アスクレピオス礼拝は、アジアの中心地であったと、こういうようなことであります。ペルガモの貨幣にもですね、蛇の象徴がついているわけですね。御存知のように、蛇というのは、創世記3章を見ますと、サタンとして扱われているわけです。ですから、「サタンの王座」の中心地であった。

東洋ではですね、蛇を拝む、という習慣が結構多いんです。日本にも白山神社っていうのがあって、蛇を祭っているんです。昔の人の話ではですね、蛇の抜け殻を財布に入れておくと、お金が増えるとか、増えないとかいうのがあるらしいですね。これも一種の蛇を礼拝する、っていうのもおかしいですけれどもね。何か気持ち悪いですけれども、東洋には蛇を礼拝する、拝むっていうのはかなりある。

しかしここでは、イエス様は、「サタンの王座がある」と、どちらの事をいわれたのかは分かりませんが、あるいは、両方を指していわれたのかは分かりませんが、これらの事が礼拝の中心地として栄えていた。

B.イエス様は、こういう状況にあるペルガモのクリスチャンに対して、「わたしはあなたの住んでいるところを知っている。」と言われたわけですね。

つまりそれは、どういうことを意味しているか。

1.彼らが住んでいる町で、クリスチャンが信仰を守る、ということが、どういうことを意味しているか、イエス様は「知っている」よ、と言われたわけですね。これは、あたかも戦争中に、日本政府が神社は宗教じゃない、っていってね、韓国や中国のクリスチャンたちに、神社参拝を強制したとかね、それが今でもずっと尾を引いてですね、問題になっているわけですね。こういうことを見るとですね、歴史は繰り返しているなあと思うんです。

ペルガモのクリスチャンも、そうなんでしょうね。ローマ皇帝の神殿に連れていかれては、拝め、って言われてね、あるいはアスレピアスの神殿に連れていかれては、偶像を拝むように強制された。そういう中で、彼らが信仰を守る、日々信仰を守るのは、いかに困難なことであったか。ですから、「わたしはあなたの住んでいるところを知っている」というのは、そういう意味があると思います。決して、ペルガモの信仰者は、呑気に信仰生活を送っていたようではないわけです。よく耐えてその信仰を守った。

2. ですから、「 わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」と、言われたのはその意味があるんですね。ペルガモのクリスチャンは、ローマの名前でもなく、皇帝の名前でもなく、偶像の名前でもなくて、キリストの名を堅く守っていた、ということですね。彼らの信仰が、いかに堅実なものであるか、忍耐深いものであるかということを、示していますね。彼らは、キリストに堅い信頼を置くことによって、あらゆる迫害、あらゆる試練を支えられてきたわけです。ですからね、ここには「わたしの名を堅く保つ」と書いてありますがね、キリストの名の力を、彼らは経験していたんです。

聖書の中には、「キリストのみ名に力がある」と書いてあるところがいくつかあるんですが、少し聖書を開いてみたいと思います。

「名前」は何をあらわすのか。

ヨハ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ここは、すでに暗唱されておられる方もいらっしゃると思いますが、「名」が出てきますね。口語訳聖書を見ますと、「神の子どもとされる力」と書かれていますね。

使4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
これは、世界で一つ、救いを与えられるお名前である、ということですね。

ピリ 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
こういうお名前に、ペルガモのクリスチャンたちは、ひたすら堅く信頼を寄せていた。
このことによって、彼らは強められたわけです。

イエス様の名っていうのはね、か細いものではない。「キリストの名」は、権威に満たされ、力に満たされたものであり、それに深く信頼を寄せた者は、力を賜るところのお名前である、ということですね。「わたしの名を堅く保つ」者として、彼らは、キリストのものになっていったわけですね。

「キリストの名」は、キリストのご性質を表します。名前っていうのは、性質を表しますね。聖書の中では名前を変えられている人がありますね。アブラムはアブラハム、サライはサラ、シモンはペテロというふうに名前を変えられています。こういうふうに、名前を変えられているというのは、その人の内側の性質を変えられるということですね。

私達はどういう「名前」にすがっているか、これは大事なことですね。サタンも、この世のいかなる勢力も、最終的にはキリストに勝つことができない。この「名前」にすがっていれば絶たれることはない。問題は、私達がこの「キリストの名」を堅く保って、この世で戦い抜くことができるかどうか、というところに課題があるということですね。このペルガモのクリスチャンのように、「キリストの名」に信頼を置くことができるだろうか。ペルガモのクリスチャンのような信仰の忍耐と堅実さは、すごいものであった。

3.その実例が次の言葉で証明されている。
「わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」
こういわれているんです。ここにアンテパスという人が出ていますが、この人はここにしか出てこないんです。エペソの監督がヨハネ、スミルナの監督がポリカルポス、そしてペルガモの監督はアンテパスであったようです。ですから、ローマの迫害が激化して激しくなってきたときに、ペルガモのクリスチャンへの警告として、ペルガモの監督のアンテパスを殺害すれば、キリスト教を抹殺できるのではないか、と考えたようですね。初代教会でもそうです。ヤコブを捕らえて殺して、ペテロを捕らえて殺せば安心ではないかと、中心人物を捕らえればいいのではないかと、ま、みんなそういうふうに考えるようです。結局はそうならなかったようですね。

ここをみますと、キリストは、アンテパスを「わたしの忠実な証人」と呼んでいますね。
「証人」というのは、ギリシャ語でマルトースという言葉を使っているんですが、ここから英語のマーターという言葉が生まれて、マーターというのは殉教者という意味なんですね。
ですから「証人」と「殉教者」とは、同じ意味なんです。「証人」というのは、あるときは生きており、ある時は殺されるんですね。どちらにしても真実の証人です。証人というのは、それは結果ですけれども、本質的には自分の命をもってキリストを証する人のことなんです。

今日では、証人というのは、ただ口の言葉でキリストを証するようですが、もともとは、キリストのために自分の全存在を捧げた生き方をする人、これを証人といったわけですね。だから、生きているか殺されるか。ある人は、生きているでしょうが、ある人は、殺されていることがあるでしょう。それは結果に過ぎない。アンテパスは真の証人であり、殉教者であった。サタンの勢力や、キリストに反抗するこの世の勢力は、キリストの証人を殺せば、キリスト教信仰をこの世から抹殺できると、この2000年間ずっと考えてきているわけです。日本の国家もかつてはそうですよ。教会の牧師と役員みんなを捕らえれば、教会はなくなるだろう、と考えたわけです。これが40数年前に行われたわけです。

殺された証人というのは無数にあるんです。けれどもキリスト教は消滅しなかった。不思議なものですね。アンテパスを捕えれば、ペルガモの教会はつぶれるだろう、と考えたんですね。ところがアンテパスが殺されてから、彼らの信仰は強くなっていったんですね。これがね、このキリスト教の不思議なところです。一見理解できない。

この世の計算ではね、損したらやめるだろうというんですが、損をすればするほど広がっていったのがキリスト教。多くの殉教者が出れば出るほど、さらに多くの忠実な証人が生まれていったんですね。現在、クリスチャンが多くいる国ではですね、かつて多くの殉教者を出さなかった、というのは少ないわけです。

日本では、長崎のほうで、ずいぶん亡くなった方がいるようです。カトリックの方ですがね。それでも日本では、殉教者は微々たるものです。だから、日本のクリスチャンが増えない理由は、やはり殉教者が少ないのではないか。
随分前ですけれども、友達と歩いていて、「なんで日本は、クリスチャンが少ないのか知ってるか」と聞かれて、「そうだねえ、伝道が足りないのかねえ」と言ったら、「殉教者が少なすぎるんだよ。死んでいるものが少ないんだよ」と言われてね、あたかもおまえも死ね、ってな言い方でね、こう言われた。「そうだね、殉教者が少なすぎる。なるほどねえ。」と、思ったことがある。この人はね、日本の歴史を勉強している人でね、よく知っているわけですね。殉教者が増えれば信仰者も増えると、言ったんですね。
残念なことにですねえ、明治のころの文学者たちはですね、キリスト教に触れたんですけれども、教養的な触れ方だったんです。島崎藤村にしても志賀直哉にしても、教養的だったんですね。戦後は打算的なクリスチャンが増えてきたんですね。ですからね、キリストの証人が少なかった。

私達の教会は、ペルガモほどの政府の圧力とか、偶像教徒の迫害もあるわけではありません。けれども、一方ですね、社会一般に流れている拭いきれない慣習、思想、考え方、生活習慣とか、そういう摩擦があるわけですね。これを乗り越えていかなきゃならないんです。
クリスチャンは、激しい迫害があると、信仰に焼きが入るんです、鋼のようにね。
ところが緩んできますとね、一般の生活の中でのものの考え方、価値観、慣習に巻き込まれてしまうんですね。それでだんだん牙が研磨されて、丸くされて、ころころ転がされてしまう。ですから、厳しい迫害はないんですけれども、逆に生ぬるいっていう中にいれられる迫害もあると思うんですよね。

子供のころにね、柳川鍋っていうのがあって、ドジョウを煮るんですがね。それをやらされたことがあった。あまり好きじゃないですよ。私のおふくろがね、ドジョウが入った鍋に豆腐を一丁いれるんですよ。私はね、ぐらぐら煮立っている鍋にドジョウを入れて、あっという間に殺る方がいいんじゃないか、と思うんですよね。けれどもそうすると、ドジョウが熱い熱いといって、飛び跳ねるからダメだっていうんですよ。最初は、冷たい水を中にいれておけ、そして豆腐を入れて、下からゆっくり煮る、っていうんですよ。時々、蓋を開けて覗くと、ドジョウがなまぬるいと喜んで泳いでいるわけですよ。最後に蓋を開けると、みんな豆腐に頭を突っ込んでひっくり返っているんですね。ちょうどね、クリスチャンはね、お豆腐に頭突っ込んでひっくり返りそうな感じで、なまぬるくて喜んで泳いでいるんじゃないかなあと思うんですよ。
激しい迫害が政府からあるとか、いろんなところから迫害があるとかすると、頑として信仰に立つことがあるかもしれない。なまぬるく来られるとね、うっかりすると、信仰がぐらぐらしてくるんじゃないかと思いますね。

2章10節に「死にいたるまで忠実でありなさい」とありますが、アンテパスはそういう証人であったわけですね。ペルガモの教会は、アンテパスという指導者を失ってしまったわけです。けれどもその信仰を捨てなかったんですね。「わたしに対する信仰を捨てなかった。」
ここに、忠実な証人が与える影響力、大きさというものを感じます。

私達の社会でも、忠実な証人の足跡を残すことは、非常に大事な事ですね。
どうも、日本の偉大な人と言われているクリスチャンの伝記を読んでみますと、もう一歩煮え切らないところがあるんですね。言葉は悪いですけれども、新渡米稲造さんなんかも有名な方なんですけれども、どうも一歩はっきりしないところがあるんですね。いざとなると、あっちこっち歩き回っている感じがしますよ。お寺に行ってみたり、神社に行ってみたり、最後にまた教会に行ってみたり、なにか学問的に入った人をみると、どうかなって気がします。イエス様のお弟子さんたちは、無学なただの人でしたからね。単純に信じていくというのは、いかに重要な事だろうかなあと思うんですね。
ま、新渡戸稲造さんなんて名前をあげて、あとでお叱りを受けるかもしれません。子孫の方がいらしたら、えらい目に合うかもしれません。うちの爺さんの悪口言った、だなんて言われたら困りますけれどもね。しかしどうもね、伝記なんか読んでみますとね、はっきりしている人と、そうでない人が見えてくるんですね。

日本人ていうのは、どうも弱さを一つ持っているような気がするんです。私たちの国は、今は信仰の自由の時代ですが、あまり自由であるのも困ると思うんですね。自由な時代というのは、普通な事ではないと思いますよ。私達は生まれた時から信仰の自由がありましたが、どうかなあ、と思うんですね。
世界を見ますとね、キリストの2000年を見ますと、自由の時代っていうのはごく僅かしかないんです。あとは全部、迫害の時代なんですね。世界でも信仰に自由なところっていうのは、ごくわずかしかないんです。例えば中国なんか、信仰の自由がないんです。二十歳になる前の子供の宗教を変えさせると捕らえられるんです。こういうような国はたくさんあるんです。表面は自由そうに見えても、中身は全然違う。
ですから私達のこういう信仰の自由な時代は、特別な時代である、ということを心に留めておかないといけない。やがて私達の国でも自由でなくなる時があるかもしれない。

Ⅱ. さて、キリストはこのような優れた教会に対して、14節を見ますと、
「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」

1.私はここを見ますとね、イエス様ってお方はね、深い配慮をしておられるなあと感じるんです。「少しばかり」と言っているでしょう。これは失望させないように、イエス様は気を使っているんです。イエス様の叱り方って上手だと思いませんか。頭からガーンと言うよりね、「少しばかり」とやんわりとね、柳川式だと思いませんか。少しばかりならいいけれども、後の方をみるとえらいことが起こっているんですけどね。

15節を見ますと「あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」と言っています。
エペソにもニコライ派の問題が出てきましたね。2章6節にですね。ペルガモの教会では、いろいろなニコライ派があったようですが、14節をみますと、バラムの教えの事が書いてあるんですね。
「あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」
民数記22章~25章で、バラムとバラクの事件が書いてあるんですが、キリストはそのことを言っているんですね。今日は全部読む時間がありませんので、かいつまんでお話しますと、
モーセが、イスラエル人とカナンに向かって、神の約束の地に向かって、旅を続けていた時のことですね。ほとんど旅が終わるころ、あともう少しという所で、モアブという平野にやってきた。その時、モアブの王様であったバラクという人は、これまでイスラエルが戦って勝ち抜いて来た出来事を、恐れたわけです。そして、ベオルの子のバラムという占い師に、もしイスラエルを呪ってくれたらば、金銀を上げよう、と持ち掛けたんです。しかし、バラムは神さまの御心を知っていたわけですから、とんでもない、神の民を呪うなんて、と思いましたが、けれども、バラムは金銀財宝を欲しくなくはなかったんですね。はっきり言えば欲しかったわけでしょう。
この話はずいぶん面白いんですが、ロバが出てきたり、いろんなことがあるんですが、今日はお話する時間がありませんが。ついに神さまはね、行きたければ行ってこい、と言ったんですね。バラムは大喜びで行って、「イスラエルを祝福することしか言いません」と言ってですね、言葉のうえでは祝福する、だったんですが、まだ続きはあるんですが。

ところで、バラムがバラクと関係することによって、実は、モアブの人達とイスラエルの人達の間に、不品行が行われるようになり、偶像がはいってきたわけです。モアブの偶像はケモスっていうんですがね。あんまりいい感じではないんですけれども、これが入ってきた。そしてついにこのバラムは殺されているんですがね。イスラエルに非常に恐ろしい罪が蔓延していったわけです。ですからその時の事をここでは引用されているんですね。

それと同じような事が、ニコライ派の人達との間で行われている。バラムとバラクの事件というのは、徐々に徐々に浸透していったわけです。そして彼らの中では、なかなか気づかなかった。問題が非常に大きくなってから、彼らは裁きを神から受けているわけですね。ニコライ派の人もこれと同じようなことをしている。つまり、ペルガモの教会員の中で、隠れたところで偶像礼拝者と妥協していたり、彼らの肉を貪り食っていたり、不品行を行っていた者があった。彼らは一面では敬虔を装いながら、他方では神に背を向けていたんですね。

エペソの教会にもニコライ派の人がいたわけですが、エペソのほうでは2章6節で「それを憎んでいた」んですね。エペソのクリスチャンは、ニコライ派の人達がいる事をちゃんと知っていたわけです。それを見つけ出して暴露したわけです。それを取り除こうとしたんです。ところがペルガモのクリスチャンたちは、そのことに気づいていなかったわけです。教会の中で毒麦がはびこる事に、彼らは無感覚であったんですね。

2.ニコライ派というのは、使徒6章5節に、アンテオケの会衆にニコラオという人が出てくるんですが。
使6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
ニコラオは、ペンテコステの初代教会の執事の一人ですけれどもね、この人が創設したと、イレナエウスは言っているわけですね。ニコラオが創設した時に、すでに異端的であったかはわからないんですけれども、その後、継承していく人達が、信仰を正しく継承しなかったということは事実であると思われます。イレナエウスによると、ニコライ派の人達は、勝手気ままな放縦な生活をしていたと、また、聖書にないような突飛な教理をいくつか説いていたといわれていますね。おそらくそれはグノーシス的なもの、つまり二元論的で、肉体は悪で霊だけが神の聖い恵みを受けられる、というようなものではなかったかな、と思いますが。

しかし、このあたりをみましても、一世紀を過ぎようとしている教会、50年、60年の信仰の過程を経てきて、まさに信仰の継承問題、受け継いでいくところの問題が見えるような気がするわけです。キリスト教の中に、人間の考え、思想、異教などが混ざりこんでくるときに、だんだんと変質してしまうのが見られるわけです。
現代にも同じようなことがずうっと生き続いているのは、キリスト教の中に、他の考え、他の思想、他の生き方が混ざっているからなんですね。ある方は、日本のキリスト教を、「日本教キリスト教」なんていう人があるくらいですからね。はたしてそういっていいものかどうかわかりませんがね、ニコライ派の教えをみますとね、一世紀くらいたつと、信仰を継承していく問題がいろいろと生じてくる、ということですね。

B. 16節でこういう問題に対して、キリストは、「だから、悔い改めなさい。」といったわけです。

ここでは、「悔い改めなさい」という命令だけが出されているんですね。
ニコライ派の人達に対して、追い出しなさいとか、解散させなさい、とかいう命令がなかったわけです。おそらくこのニコライ派の影響は、エペソのほうから入ってきたんじゃないかと思われるんですね。根拠はあまりないんですけれどもね。どうも、エペソのほうがこのニコライ派が表面化していたようですので、南から北に北上してきたんじゃないか。ですからペルガモの方は、まだ気づかない程で、深くは信じていなかったようで、それで、悔い改めを求められたのではないか、と思われます。

イエス様はここで、ペルガモのクリスチャンの二つのグループに悔い改めを求めています。

一つは、真実なクリスチャンに悔い改めを求めているんですね。
それはなぜかというと、注意深くニコライ派の人に気づいて、それを見抜けなかったことですね。ここに一つ悔い改めを求めておられるようですね。教会はやはり毒麦に気を付けなくてはいけない。まして異端なんかそうですね。教会に来て、教会に来ている人を追いかけていって、それで捕らえようとする。教会は、できるだけそういう人が入ってこないように気を付けなくてはいけないですね。大変なことなんですけどね。

もう一つは、ニコライ派の影響を受けた者には、正しい真理に立ち返るように求めているわけですね。ニコライ派の人もかつては正しい真理を知っていたわけですので、彼らが異端と妥協することによって、真理の道からそれていってしまった。だからもう一度、真理の道に帰るようにいう悔い改めを、イエス様は求めておられるわけです。

C.  しかし、もし悔い改めないなら、「わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」と言われます。

これは罪に対する真理の戦いである、と言ってもよろしいかと思います。勝利は常に真理の側にある。

パウロが第二コリントでこう言っていますね。とても大事な言葉を言いました。
Ⅱコリ13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。

真理に逆らっては、私達は力がない。真理のためならば、私達は力がある。これは罪と真理の戦いである。この世の中は、真理に対しては勝てない。とことん勝てない、ということを気づいていないということです。
教会が真理にしっかりと根付いているならば、あらゆる障害があっても敗北しないということです。クリスチャンはこのことをよく知らないといけないと思いますね。キリストが戦われる、ということです。

ここに「わたしの口の剣をもって彼らと戦おう」と書いてありますね。
「口の剣」については1章16節で、「口からは鋭い両刃の剣が出ており」と学びましたね。2章16節では、「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」と。

鋭い剣を持つ方がここにおられる。ヨハネの黙示録では、もう一回「口から出てくる鋭い剣」が出てきますね。これは後からまた学びますが、裁きの事が書いてあるんですね。
黙19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
キリストは、口から剣を出しているわけです。この口の剣とは何か、といえば、神によって示された真理のみ言葉ですね。神の義を直接あらわした言葉です。人間は、キリストの言葉が両刃の剣より鋭いということに、気づいていないんですね。キリストの言葉は、勝利者には恵みとして働く、命として働く。しかし、神に逆らう者にとっては、裁きとなって働くことを知らないですね。わきまえていないんです。
キリストのみ言葉は、最終的には全ての人にとって不可抗的な、避けることのできない裁きとなって訪れるわけですね。

ヨハ12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
ここを見ると、裁くものは、キリストの言葉だと言っていますね。人間には、不可抗的な、もう避けることができない、逃れることができない裁きが訪れるということですね。
ですから私達はもっともっとですね、神のみ言葉を知り、それを畏れ、信頼し、従っていくということが、いかに重要かということですね。キリストは、みことばをもって戦う、と仰いましたね。これが永遠の滅亡を現わすことですね。ですから少なくとも、神の言葉は、私達が考えている以上に重要だということを、心に覚えなければならないと思うんです。

Ⅲ.さて最後に、ペルガモの教会には、勝利を得る者に二つのものを与えようと、約束されています。

A.一つは「隠れたマナ」

マナというのは、皆さんご存じかと思いますが、これは出エジプト記で、神さまが、約束の地をめざして旅をしているイスラエルの人々に与えられた食べ物ですね。そこからとられた言葉ですけれども。またこのマナというのは、契約の箱にも納められているんですね。

ですからこれは、
①神様の養い、
②神様の支え、
③いのちのパンであるキリストご自身、
であるということですね。

ニコライ派の人々は、先ほどお話しましたが、偶像の神に捧げたものをむさぼり食べていたわけですね。ところがクリスチャンに与えられるものは、霊的な糧である、隠れたマナ。
つまりこのことは、イエス様は、真のクリスチャンにはすべての必要が満たされる、ということを約束されたんですね。パウロはこういっていますよ。
ピリ4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
これが「隠れたマナ」

B.もう一つ与えられますよ。17節の終わりに「また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」とありますね。

1.この「白い石」というのは何かというと、
これはクリスチャンの忍耐と純潔を表している。あるいは聖められたクリスチャンの品性を表している、と言っていいでしょう。
ペテロは、第一ペテロ2章4、5節で「生ける石」について書いています。
4節の方では、「生ける石」とはイエス様ご自身で、5節ではイエス様を信じる信仰のことを表している。聖書の中には何度か「石」というのが出てくる。
ペルガモのクリスチャンは、信仰を堅く保つことでこの「石」を与えられる資格があったわけですけれども、しかしここでは「白い石」と書いてあるわけです。
ですから、なお、ペルガモのクリスチャンは聖められる必要があったわけです。イエス様から聖められた品性を頂くということです。

2、その石には「新しい名」が書いてある。
この名は、私達の名前ではなくてキリストの名前のことです。この名前は「受ける者のほかはだれも知らない」と書いてあるでしょう。
つまりこれは、体験して受ける者以外は、実際は理解できない名、キリストの名の尊さのことです。信じて体験する者だけが分かるキリストの御名のことですね。名前は、その方の性質や能力や権威を現わす、というわけですね。ですから、キリストのご性質や力というものは、キリストによって聖められたクリスチャンの品性の中に、現れてくるものだということですね。
これが「白い石」「新しい名前が書かれた白い石」の意味合いですね。で、その名は永遠に刻まれるわけです。

ですから私たちはこの世の富や名声を求めるんじゃなくて、神様から受けるところの「隠れたマナ」と、キリストのご性質とキリストの力を、この身に帯びるような聖められたクリスチャンにさせて頂きたい。
ペルガモのクリスチャンには、イエス様はそういうことをお求めになられているんですね。私達の信仰にもこの恵みを頂きたいと、切に思うわけです。

〔お祈り〕

『勝利を得る者に「隠れたマナ」を与える。また、「彼に白い石」を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。』
恵みの深い天の父なる神さま、ペルガモのクリスチャンは、大いなる迫害と困難の中にあり、堅くキリストの御名によりすがり、その信仰を捨てることがなかった。
しかし教会の中には、不純なものが入り込む傾向がありました。それを見逃した時にイエス様はこのことを警告され、そしていつでも聖い教会が建設されていく必要を教えてくださいました。心から感謝いたします。
私達もこのアンテパスのような忠実な証人となり、隠れたマナ、新しい名が刻まれた白き石、私達に聖められた品性を与えられて、キリストを輝かすところのものとしての生涯を、辿らせてくださいますように、心からお願いをいたします。
イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明