音声:信仰の列伝(12) アブラハムの信仰(2)「出発の信仰(2)」
ハンガリーの画家 József Molnár (1821 – 1899) による「Abraham’s Journey from Ur to Canaan(ウルからカナンへのアブラハムの旅)」(Hungarian National Gallery蔵、Wikimedia Commonsより)
2016年10月16日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章8節
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
<インフォメーション>
しばしば私の先行きは、不確かに見え、暗やみの中に入って行くような感じがします。しかし私を導いて下さる神は、私にとって最善のことしかなさらないお方です。そのことを信じて、進みましょう。
アブラハムはカルデヤのウルから、一歩一歩従って歩むことによって、信仰と希望と愛が成熟して来たのです。 主は、ペテロが水の中に沈みかけた時も、引き上げて下さり、三回主を「知らない」と言って否定した時も、主はペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」と尋ねで下さり、取税人ザアカイをお救い下さり、迫害者サウロもお救い下さり、主のしもべとしてお用い下さいました。
主は、主を信じて従う、弱い者、助けなき者を助けて下さいます。主に従う機会は、躊躇し、熟慮している内に、失われていきます。
信仰の歩みには、いつでも先がはっきり見えない面があります。しかし、神と共に歩むことによって、勝利の確信を持つように求められています。
ところが私は、神と共に歩む確信よりも、先の結果を見て、安心しようとしがちです。これは信仰の態度ではありません。見えるところによって、歩もうとしています。
主はトマスに、「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。
アブラハムは、ただ、自分と共に歩んで下さるお方に従っているだけで満足でした。このことは、すべての人に必要です。
私は、主と共に一歩一歩歩むことで満足せず、出来るだけ先の方までのことを知りたいと詮索したり、推測します。そして、それに従って、歩もうとするのです。
信仰者にとっては、主と共に一歩一歩歩むことが、最も重要な訓練です。
これが出来ることが、成長した信仰者の状態です。エノクもノアも、これが出来る状態になっていたのです。
私の信仰の失敗の原因は、主の導きの先回りして、次の曲がり角の先は、どうなっているかを、見たいということから起きているのです。
主が私に与えて下さった、「足のともしび、道の光」は、一歩先を照らすだけで、遠くを照らしません。信仰の歩みには、それが一番適切だからです。その光で、遠くを照らそうとすると、何も見えなくなってしまいます。
<今週の活用聖句>
コリント人への手紙第二、4章18節
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
地の塩港南キリスト教会
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