聖書の探求(147) 申命記11章16~32節 みことばに従う生活、祝福かのろいの選択

16~25節、みことばに従う生活

16~17節は、堕落と滅亡への警告です。

申 11:16 気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。
11:17 【主】の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、【主】が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。

その入口は、私たちのすぐ身近にあります。それは心が迷うことから始まります。二心になって、神と富との両方を求めてみたり(マタイ6:24)、

マタ 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

この世に関心を示してみたり(創世記34:1)、

創 34:1 レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。

この世と歩調を合わせたり(ローマ12:2)、

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

怠惰になってみたりして、神の道からそれて横道に一寸入り込むことから始まります。

潔められていないと、クリスチャンもこういう傾向を持っています。そのことが、この世を愛し、神に敵対し、偶像礼拝、この世の快楽を好む生活へと堕落していく道です。これに対して、主の怒りが燃え上がり、祝福は止み、滅びてしまうのです。

この警告の後に、モーセは18~21節で、神のみことばを強調しています。

ここには多くの命令形が使われています。

申 11:18 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

(1)、18節、「私のこのことばを心とたましいに刻みつけ」

これは単に記憶すること以上のことです。主のみことばを霊魂の中心に置き、みことばを自分の動機として生きることです。

(2)、「それをしるしとして結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」

イエス様が地上におられた時代の律法学者やパリサイ人は文字どおりに、主のみことばを書いたものを小箱に入れて、手や額に結びつけていました。これは形の上では、みことば通りのことをしていますが、主のご命令が意味していた本質的なことは、何一つ行なわれていませんでした。今日でも、聖書のみことばを覚えたり、みことばの解説や理屈を言うけれども、実際に生活の中でみことばが実行されていないクリスチャンや牧師が多いのではないでしょうか。出来る、出来ないは別として、主のみことばを実際の生活の中で活用し、実行していこうとする積極的な信仰が必要です。

「手に結びつけ」とは、手によって、みことばを行なった行ないを示しており、「記章として額の上に置きなさい。」とは、額はみことばによる思い、思考、判断を意味しています。パウロは「救いのかぶとをかぶり」(エペソ6:17)と言っています。

エペ 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

主は私たちの思い、考え、判断が、みことばによって導かれ、守られることを求めておられるのです。

(3)、19節、「それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」

申 11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

子どもは、主のみことばを教えることによって育てることが命じられています。パウロも、「主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4)と教えています。

エペ 6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

(4)、「あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。」

これは、生活のすべての行動原理を、主のみことばを中心にして行なうべきであることを教えています。

(5)、20節、「これをあなたの家の門柱と門に書き記しなさい。」

主のみことばは、家族全員の規範であり、またあかしすべきものなのです。

21節は、17節と全く逆で、その祝福が約束されています。

申 11:21 それは、【主】があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。

しかしこの祝福は、主のみことばを本当に忠実に守る者が少ないために、あまり多く見られませんでした。主のみことばを忠実に守り行なうなら、主の約束どおり、三〇倍、六〇倍、百倍の実を結ぶはずです(マタイ13:23)。

マタ 13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

22節は、18~19節の条件をさらに、より実際的に勧めています。
なぜなら、主のみことばを聞くだけで、あるいは心で感動したり、思いだけでとどまって、実行に移されない危険があるからです。そこで、すべての命令を忠実に守り行なうなら、主を愛して主のすべての道に歩み、主にすがることが求められています。

申 11:22 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行い、あなたがたの神、【主】を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、

このことは、申命記中、何度も命じられている重要な主のご命令です。しかも、ここでは「主を愛して」と、その動機も付け加えられています。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1:22~25)

23節、これに対する祝福は、敵に対する全面的な勝利と、自分たちよりも大きくて強い国々を占領できることです。

申 11:23 【主】はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。

24節は、その領土の広大さを記しています。

申 11:24 あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。

25節、それだけでなく、全地に霊的影響力を及ぼすことができるようになります。

申 11:25 だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

異教の地での霊的影響力は、主の約束によって、主から与えられるものです。それは私たちが主のみことばを信じて、忠実に行なうことによってのみ、主が与えて下さるのです。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

これらは今日、福音宣教の力、あかしの力として知られていますが、これは、主が父の約束にしたがって、みことばを信じて従う者に与えてくださる聖霊の力です。

26~32節、祝福かのろいの選択

主は、私たちの前に、祝福とのろいを置かれました。それ故、必然的に私たちは、このどちらかを選ばなければならない運命にあります。祝福でもなく、のろいでもないという、その中間を選ぶことはできません。このことは、人は主なる神と無関係に生きることができないことを示しています。

27,28節は、私たちが祝福を選ぶか、のろいを選ぶかの条件を記しています。

申 11:27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従うなら、祝福を、
11:28 もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

その条件は明白です。これは神の義と聖とによって定められたものであり、神と人との個人的特別扱いや、人間的、肉的感情によるものではありません。主はどんなに「主よ、主よ、」と言っていても、主のために働いていた者でも、主のみこころを行なっていないなら、天の御国に入ることができないと言っておられます(マタイ7:21~23)。

マタ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

主は、全く個人感情によらず、主ご自身の義と聖による公正によってさばきを行なわれるのです。この主の基準はいつも変わることがありません。

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)

祝福を受ける条件は、主のすべての命令に聞き従うことです。このことは申命記の中心メッセージであり、聖書全巻の中心メッセージです。行ないのない信仰は死んだものであり(ヤコブ2:26)、祝福を受けることはできません。

ヤコブ 2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

のろいは、主のご命令に聞き従わず、故意に拒もうと、無関心に聞き流していようと、心から積極的にみことばを行なわない者にくだされます。「あなたがたに命じる道から離れ」は、主のみことばの道から離れていくことで、自分の知恵による生活をすること、自分が好む道を選んで歩んでいくことです。それは必ず、この世の偶像(富、地位、権力など」を求める道へと堕落していきます。

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(土師記21:25)

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。‥‥自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3:5,7)

申 11:28 もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

「あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら」(13:2,6,13、28:64)は、ここでは異教の国の偶像を指していますが、これはこの世の友となって生活することであり(ヤコブ4:4)、この世と調子を合わせて生活することです(ローマ12:2)。これらは、のろいを受ける道です。

申 13:2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、

申 13:6 あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、
13:7 地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。

申 13:13 よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、

ヤコブ 4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

カインは主にささげ物をしつつ、のろいを受けました。高慢だったからです。ロトも神の友と呼ばれているアブラハム(ヤコブ2:23、イザヤ41:8、歴代第二20:7)のあとに従いつつ、信仰を明確にせず、この世を愛し、富を求める生活を続けたために、のろいを受けました。

ヤコブ 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

イザ 41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
41:9 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

Ⅱ歴代20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。

エサウも長子の特権を与えられていながら、霊的恵みよりも、一杯のスープを求めるという肉的性質の故に、祝福を失ってしまいました。彼はあとで泣いて、求めましたが、与えられませんでした。クリスチャンの中にも、このように全き献身と全き信仰を持たずに歩み、ついにのろいを受ける者が少なくありません。中途半端な信仰生活は非常に危険です。

29節、主はゲリジム山を、祝福を象徴する山とされ、エバル山をのろいを象徴する山とされました。

申 11:29 あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、【主】があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。

この二つの山は、モーセとイスラエル人が立っていたモアブの平原からは(34:1)、ヨルダン渓谷の向こう側の西の方に、一対の山として見えていました。

申 34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。【主】は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、

この二つの山は、イスラエルの民が祝福か、のろいか、の選択を避けては通れないことをあかしするものとして用いられました。

この二つの山は今日、私たちの主イエス・キリストを示しています。人類はイエス・キリストを避けて通ることができないことを示しています。イエス・キリストを信じて、従って歩んでいって祝福を受けるか、イエス・キリストを拒んで、のろいのさばきを受けるか、のどちらかを選ばなければならないのです。

申 11:30 それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。

「ギルガル」はエリコの近くにもありましたが、ここでは、シェケムの近くのギルガルであったと思われます。

「モレの樫の木(テレビンの木)の付近」

主はモレの野のシェケムで、アブラハムに初めて土地を与える約束をされました(創世記12:6,7)。

創 12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

イスラエルの民は今や、信仰の父アブラハムに約束された地に帰って行こうとしているのです。そこで彼らは、祝福か、のろいか、どちらかを選ばなければならないのです。だれでもが、祝福を選びたいと思うでしょう。しかし祝福を選ぶためには、そう思っているだけではダメです。

32節、「私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」

このことは、ヨルダン川を越えて約束の地に入っていく信仰の行為とは別のことです。
今日の私たちにとっては、イエス・キリストを信じて救われることと、信じた後に、毎日、主のみことばを自分の生活の中で活用して行なっていくこととは別のことなのです。主がここで求めておられるのは、主の救いの後に、みことばを活用することです。クリスチャンの中でも、これを実行している人は、少ないのではないでしょうか。

救いの恵みを受けたまま、そこから先、信仰の更新をせず、日常の生活の中でみことばを実行することもせず、みことばをなおざりにしていないでしょうか。教会の集会に出席するだけの信者にならず、自分の実際生活においても、日々に主のみことばを実行する者とならせていただきましょう。主はその人に、大いなる祝福を与えられるのです。

(まなべあきら 1996.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、現在のナブルス(昔のシェケム)をはさんで立つゲリジム山(左)とエバル山(右)(Wikimedia Commonsよりהר עיבל והר גריזים .jpg)


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