聖書の探求(184) ヨシュア記2章8~24節 敵側のラハブの発言、二人の斥候の鋭い信仰の洞察力

8~21節、信仰の確信に至る証拠

上の木版画は、ドイツのJulius Schnorr von Carolsfeld (1794–1872)により描かれた「Escape from Rahab’s House(ラハブの家からの逃亡)」(1860年に出版された”Die Bibel in Bildern(絵解き聖書)”の挿絵、Wikimedia Commonsより)

この部分には、敵の側にいたラハブの発言と、二人の斥候の鋭い信仰の洞察力が見られます。

2:8ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。 2:9そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。 2:10あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。 2:11わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。 

ラハブの話は、推測によってではなく、歴史的な事実(出来事)に基づいていること、そして彼女がイスラエルに好意的になって、甘い判断やお世辞的な話をしているのではないこと、むしろ、敵の側にいる者が冷静な目で見て、判断していること、そして彼女とその家族が神の民の中に受け入れられることを切望していること、これらを総合して考えると、神がエリコを、否、エリコだけでなく、カナンの地全部をイスラエルに与えられることの証拠として確信することができるでしょう。

これと似たようなことが、ギデオンの時にもありました。イスラエル人が主の目の前に悪を行なった時、主はイスラエル人をミデヤン人の手に渡されました。そしてイスラエルは非常に弱くなり、主に叫び求めたのです。それで、主はヨアシェの子ギデオンを召して、イスラエルをミデヤン人の手から救い出すように命じられました。主はギデオンといっしょにいてくださると約束して下さいましたが、ギデオンは「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(士師記6:15)と言って、非常に恐れました。

士師記6:15ギデオンは主に言った、「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです」。

主は人が誇らないために、最も弱い者を用いられます。そしてご自身の臨在のご同行を約束してくださるのですが、大抵の場合、主に召された者は恐れおののいて、尻込みしてしまいます。それでギデオンは彼に話しておられるお方が全能の主ご自身であることのしるしを求めました。

私たちも主のみことばを信じようとする時、それが自分の主観だけによるものではないのか、あるいは、ただのむなしい慰めや励ましだけに終わるものではないのか、それとも、本当に主のお約束なのか、不安になることがないでしょうか。そのために確信となるしるしが欲しくならないでしょうか。

ギデオンも同じでした。ギデオンはしつこく確信となるしるしを求めました。その最後となるものが、敵の陣地の中で聞いた夢の解き明かしの話しでした(士師記7:9~15)。

士師記7:9その夜、主はギデオンに言われた、「立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。 7:10もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、 7:11彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう」。ギデオンがしもべプラと共に下って、敵陣にある兵隊たちの前哨地点に行ってみると、 7:12ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった。 7:13ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、「わたしは夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」。 7:14仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。
7:15ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。

 

私たちにおいても、このことは大切です。教会の中で元気なだけでなく、未信者のいる家庭や職場や学校、近所の人々の間にあって、あかしが立っていることです。そして未信者の人々の中から、主の勝利を感じとって、救いに導かれる人が起こされて来る時、間違いなく、主がともに戦ってくださり、勝利を与えてくださると確信することができるのです。教会の人々が寄り集まって、元気になっているだけでは、勝利のしるしにならないことがあります。しかし未信者の家族や友人の中から救いに導かれる人が起こされて来ることは、確かなしるしです。そのためには忍耐深いあかしの生活が必要です。毎日、小さい勝利を積み重ねていくことによって、未信者の人々の霊の目は開かれて来るのです。未信者の人々のほうが小さい勝利をよく見ているものです。むしろ、教会の中にいる人々は、小さい勝利に慣れてしまっていて、気にもとめず、感謝もせず、見落としてしまっていることが多いのです。

ラハブの報告によると、頑丈な城壁に囲まれていたエリコの人々が、イスラエルのエジプト脱出の時からの出来事を全部、聞き知っていたと言っています。

ヨシュア記2:8ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。 2:9そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。 2:10あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。 

主が葦の海の水をからして渡らされたこと、エモリ人の二人の王シホンとオグを殺されたことなど、一部始終を非常なる関心をもって注目していたことを報告しています。さらに、その結果として、最も強く、最も安全な城壁の中にいると思われるエリコの住民はみな、主がカナンの地をイスラエルに与えられることを知って、恐怖に襲われ、震えおののいていると、エリコの住民の真理状態までも報告しでいます。

ヨシュアから見ると、エリコの城壁は難攻不落の障害物に見えたでしょうが、エリコの人々にとっては、追いつめられ、逃げ場を失って閉じこもっていたに過ぎないのです。見方を誤ると、全く反対の判断をしてしまうのです。ラハブの結論は、「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるから」勝利は必ずイスラエルに与えられるということです。このことをイスラエルの仲間が言ったのなら、単なる希望的観測だったかも知れません。しかしこのことをエリコの人ラハブが言ったことによって、二人の斥候も、ヨシュアも、主が勝利を与えてくださる確信を持つことができたのです。

私たちは単なる勇気づけやがんばりでは福音の勝利を得ることはできません。勝利の手応えを未信者の人々の反応の中に見つけ出さなければなりません。これには私たちの側の鋭い霊的洞察力も必要です。ボンヤリ城壁(目の前の障害となる困難)をながめているのでは、何も見えてきません。未信者の家族や友人たちが何気なく話していることや行なっていることを、鋭い霊的洞察力をもって見ていると、人々の心の中がどうなっているのかが見えてきます。それに対して私たちが何をすればいいのか。ただ、城壁の前にたたずんで考え込んでいればいいのか。私たちは確信となるしるしを見つけることをしないために、消極的で無為なる態度を取り続けているのではないでしょうか。

なぜ、イスラエル人は、城壁の周りを黙って回るだけという、愚かに見えることをしたのでしょうか。それは主のご命令であったからですが、それとともに、彼らが勝利の確信のしるしを握っていたからです。

近年、「トラクトを配っても効果がないから」と言って、トラク卜伝道をしない教会が増えていますが、世界中のトラクトから救いに導かれた人に手を挙げてもらってごらんなさい。きっと確信を持ってトラク卜伝道を始めるようになるでしょう。問題は、確信となるしるしを持たずにやるから、失望と落胆を繰り返し、止めてしまい、実りが得られないのです。

後になって、ヨシュアは主がみわざをなさる理由を、「それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(4:24)と語っています。ラハブの告白も、その一つだったということができるでしょう。

 ヨシュア記4:24このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。

神を恐れない人々が、神の民を通してなされる神のみわざを見聞きするとき、いつも同じことが起きるのです。それ故、神の民はいつも主とともに歩み、主がみわざを行なってくださる信仰を持って歩んでいる責任があります。異教の人々が主を恐れなくなるのは、神の民が主とともに歩んでいないことにも原因があるのです。これは私たちが大いに悔い改めなければならない点ではないでしょうか。

ラハブが告白したことは、単なる出来事の報告でもないし、イスラエルの神について知っていること、聞いていることを話したのでもありません。彼女は心の中で長年、確信し続けて来たことを告白したのです。彼女は主に対する信仰も持っていました。

ヨシュア記2:11わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。

さらに、彼女は二人の斥候と取り決める契約のことも、十分なほど考えて備えていました。

ヨシュア記2:12それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。 

彼女はこのような形で二人の斥候が彼女の所に来ることは予想出来なかったとしても、やがてイスラエルがエリコを攻めて来ることは間違いないと考えて、イスラエルと契約を結ぶ備えをしていたことは十分考えられることです。この心の備えがありましたから、ラハブはすぐに躊躇せず、確信を持って、二人の斥候をかくまい、助けたのです。

さらにすばらしいことは、ラハブは異邦人のエリコの人であったにもかかわらず、主に対する信仰と真実さを示すことによって、自分の家族にも、主の救いが与えられると信じていたことです。

彼女は、神をイスラエル人だけの神とは考えずに、天地において唯一の主なる神だと信じていたことです。しかも遊女とその家族も、お救いくださる神であると信じたラハブの信仰は、驚くほど新約の香りがしているではありませんか。

13節、ラハブの望みは、自分の救いだけでなく、自分の父、母、兄弟、姉妹、またその家族に属するすべての者が救われることです。

 ヨシュア記2:13そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。

これはまた、私たちの願いではないでしょうか。これが実現するためには、これを願っているラハブ自身が勇気と決断を持って信仰の行動をし、あかしをすべきでした。この時、ラハブの言葉に従って、ラハブの家族全員がラハブの家に集まったことは、エリコの住民がイスラエルを恐れていたことが事実であったことと、ラハブの話を家族全員が信じたことを示しています。

私たちの信仰が口先だけのものにならず、まわりの身近な人たちから信頼されるものでなければなりません。

ラハブは自分の信仰の願いを求めただけでなく、斥候のいのちを救うことによって、自分の信仰をあかししました。

このことは私たちにとっても、大切ではないでしょうか。ただ自分の願いを祈り求めているだけでなく、自分のなすべきことを誠実に果たして、自分の信仰が真実なものであることをあかしすべきです。その信仰は、ラハブと同じように報いられるでしょう。ラハブは自分と自分の家族の救いの保証を得たのです。

主が神の民イスラエルの人々の中に見たいと思われていた信仰を、異邦人のエリコの人ラハブが実際にそれを働かせて見せたのです。

ラハブは、二人の斥候をかくまったという信仰の行ないだけでは、十分ではありませんでした。その信仰の真実さは、信仰の行ないを継続することによって表わされなければなりませんでした。
それは三つありました。
一つは、イスラエルの斥候が来た目的をしゃべらないこと。

ヨシュア記2:14ふたりの人は彼女に言った、「もしあなたがたが、われわれのこのことを他に漏らさないならば、われわれは命にかけて、あなたがたを救います。また主がわれわれにこの地を賜わる時、あなたがたを親切に扱い、真実をつくしましょう」。2:15そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。 

二つ目は、家族の者を自分の家に連れて来て、外に出ないようにしておくこと。

 2:18 ・・・ またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。 2:19ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。 

そして三つ目は、斥候たちを降ろした窓に赤いひもを結びつけておくことです。

 2:18われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、・・・・

これらの三つの行ないがあれば、ラハブの信仰が、なおも真実であることをあかししています。もしラハブがイスラエルの斥候と約束した後に、この三つのことを実行していなければ、イスラエルはラハブが裏切ったものと思って、ラハブの家も攻撃の対象としていたことでしょう。「だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」(20節)

 2:20またあなたが、われわれのこのことを他に漏らすならば、あなたがわれわれに誓わせた誓いについては、われわれに罪はありません」。

クリスチャンの中には、救われた時の最初の信仰だけで、その後の生活において、信仰の更新継続をしていない人がいます。それでいて、「私はクリスチャンです。」と言っても、それは通用しません。神との契約は、私たちの信仰の条件が果たされている間のみ、有効なのです。その証拠に、毎日、信仰の更新をしていないと、私たちの霊魂の状態は段々と悪くなり、それは救われる前よりも、もっと悪い状態にまでなってしまう危険があります。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」(ペテロ第二2:20)
これは救われた後、信仰の更新をせず、再び古い人の生活に戻って行ってしまう人のことです。

主は私たちに、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)と言われています。私たちの信仰が真実で、本物であるということは、その信仰が毎日更新され、毎日の生活の中で活用されていることによって証明されるのです。その信仰を主は喜ばれ、祝し、報いてくださるのです。

ラハブが窓に結びつけた赤いひもは、確かな契約のしるしです。

赤は目立つ色で、周囲のエリコの人々にもよく見えたことでしょう。私たちも信仰の旗色を鮮明にすべきではないでしょうか。

赤は旧約では小羊の血、新約ではイエス・キリストの血を予表していると言っていいでしょう。イエス様の血は、私たちの救いの契約の最も確かな保証です。

「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」(出エジプト記12:13)

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)

21節、ラハブは言葉だけでなく、敏速に行動しています。

 2:21ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。

ラハブはイスラエル人がやって来るのは三、四日先だと言って、赤いひもを結ぶのを先に延ばさず、斥候を送り出すと、すぐに窓に赤いひもを結んでいます。このラハブの慎重かつ敏速で油断のない信仰の行動を私たちも習うべきではないでしょうか。おそらく彼女は毎日、赤いひもがはずれていないか、確かめたに違いありません。

22節、追っ手はヨルダン川の道を渡し場の方へ向かったので(7節)、斥候たちは山地の方へ行き、追っ手が諦めて引き返して来るのを三日間待ってから、ヨシュアの所に報告に帰っています。

2:7そこでその人々は彼らのあとを追ってヨルダンの道を進み、渡し場へ向かった。あとを追う者が出て行くとすぐ門は閉ざされた。

 2:16ラハブは彼らに言った、「追手に会わないように、あなたがたは山へ行って、三日の間そこに身を隠し、追手の帰って行くのを待って、それから去って行きなさい」。

2:22彼らは立ち去って山にはいり、追手が帰るのを待って、三日の間そこにとどまった。追手は彼らをあまねく道に捜したが、ついに見つけることができなかった。 2:23こうしてふたりの人はまた山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとにきて、その身に起ったことをつぶさに述べた。 2:24そしてヨシュアに言った、「ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています」。

斥候はエリコの城壁がどんなに大きいか、少しも報告していません。そういうことには関心がなかったのでしょう。私たちなら、一番気にする課題なのですが。

さらに、用心深い王がいて、追っ手を出したことも、報告していません。

23節の「その身に起こったこと」とは、ラハブとの出会いとその出来事のことだと思われます。

彼らの報告は、「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」(24節)に言い尽くされています。これは、すでに主が約束されたことを実証する報告でした。

斥候たちは、これらの約束のことばが実現し始めているのを見た時、主のご計画が実行されつつあることをはっきりと確信したのです。ヨシュアはこの報告を聞いて、ますます心を強くし、勝利を確信したものと思われます。主は保証の上に、さらに保証を加えてくださったのです。あとは、目の前にある、雪解け水で川幅一杯に増水しているヨルダン川を渡ってカナンの地に入って行くことだけでした。

それにしても、この斥候の報告は、同地を見てきた民数記13章の十人の偵察員の不信仰な報告とは対照的です。私たちの生涯には、多くの困難が待ち受けているでしょう。それを信仰によって受け止めるか、不信仰によって受け止めるかで、生涯は全く反対のものとなってしまうのです。勝利にもなれば、悲惨な敗北にもなってしまうのです。

私たちはこの章で、卑しい罪深い職業の異教徒ラハブの信仰を見てきました。彼女は神の民のあかしを聞いて、王の権力を恐れず、一人で真実な信仰を実際に現わし、自分だけでなく、家族を救いに導き、ついには神の民の中に受け入れられ、救い主の系図に加えられるに至ったのです。私たちもまた、罪深い異教徒でしたが、神の家族の中に受け入れられ、主とともに王とされる特権に与かっているのです。

これに比べて、不信仰なロトは信仰の父アブラハムとともに毎日生活していながら、家族を破滅に追いやってしまったのです。私たちは教会に行きつつ、こういうことのないようにしたいものです。


上の写真は、古代エリコがあったと言われる遺跡「テル・アッスルターン」(2013年訪問)。後方の石垣(擁壁)の上に城壁が建っていたとのことです。恐らく、城壁の中に部屋が作られているケースメイト式の城壁で、そのうちの一つの部屋にラハブが住んでいたものと思われます。

参照「たけさんのイスラエル紀行 Jericho(エリコ)」

あとがき

暑い夏が来ました。私もヨシュアを導かれた主に励まされて全力を尽くしています。

この日本に主の福音を浸透させることは、渡るのが不可能なヨルダン川のように、崩すのが不可能なエリコの城壁のように見えています。

しかし、現在のクリスチャンが真剣にみことばに取り組み始めたら、それはもはや不可能なことではなくなります。クリスチャンがただ集会に出席しているだけではなく、みことばの信仰を活用することによって、日常生活で勝利を経験することが必要です。そのためにこの「聖書の探求」、CS教案誌、「みことばの黙想 創世記、出エジプト記1~20章」をお用いいただきたいと思います。

(まなべあきら 1999.7.1)

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