聖書の探求(185) ヨシュア記3章1~5節 紅海とヨルダン川、ヨルダン川渡過の準備開始

上の写真は、ヨルダン王国側から見た現在のヨルダン川です。対岸はイスラエル領。2016年の2月末に、「ヨルダンの向こう岸のベタニヤ」とされるところを訪問しました。この時は、水の量も少なく、幅5mほどの小さな流れでしたが、雨季には濁流になって水かさが増し、氾濫することもあるそうです。ヨシュアが率いるイスラエルの民が渡った場所は、この少し上流になります。


3章に入ると、いよいよヨルダン川を渡る準備が始まります。そしてこのヨルダン川を渡る記事は5章1節で完了します。

「信仰によって渡る」と言えば、紅海とヨルダン川です。この二つのことについて書いておきましょう。

【紅海とヨルダン川】

1.信仰の章と言われているヘブル人への手紙11章には、イスラエル人が紅海を渡ったことと、エリコの城を攻略したこととを記しています(ヘブル11:29,30)。

ヘブル11:29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 11:30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

しかしこの二つの出来事の間には、四十年間の隔りがあります(出エジプト記14章とヨシュア記3章)。この四十年間は、不信仰と不従順の連続でした。ヘブル人への手紙11章は信仰の章ですから、イスラエル人が信仰によってヨルダン川を渡って神の約束の地に入って行ったことが記されていません。なぜなら、もし彼らが不信仰になってさまようことをしなかったら、カデシュから真直ぐに約束の地に入ることができたはずだからです。

2.詩篇114篇5節には、紅海とヨルダン川の渡過を並記して、「海よ、おまえはどうして逃げるのか、ヨルダンよ、おまえはどうしてうしろに退くのか」とあります。

紅海の底を渡ることも、ヨルダン川の底を渡ることも、どちらも死を表わし、両方とも 私たちがキリストの死を必要としていることを示しています。

クリスチャンは新生して後、しばしば自分の不忠実の故に、何年も、何十年も荒野の放浪の生活をしています。しかし主が与えようとしておられるのは、神の平安と勝利の生活です。そこに入るには、ヨルダン川を渡ることが象徴している自己中心の自我に死ぬ信仰の明確な経験が必要です。イエス・キリストが私の罪のために十字架につけられたのを信じて、自分の救いの基礎を受けましたが、さらに、自分中心の自我がキリストとともに十字架につけられる経験をする必要があります。

イスラエル人がヨルダン川を渡ったのは、この真理を明らかに示すためです。

3.ヨルダン川は季節によって、水量や勢いが変化し、堤防の内側は階段のようにえぐり取られています。

イスラエル人が渡った時には、ヘルモン山やレバノン山脈の雪解けの頃で、水かさが堤防の上にまであふれていて、イスラエルの大群衆(約二百万人)、その中には女性や子ども、老人もおり、その上、多くの家畜の群れがこの状態のヨルダン川を渡るのは、不可能なことでした。

ところが、契約の箱をかついでいる祭司たちの足が水面に浸るや否や、ヨルダン川の水は直ちに分かれて川底が現われ、祭司たちは川底の乾いた地に立ち、その間に大群衆が渡ったのです(3:15~17)。

3:15箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、―― 3:16上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。 3:17すべてのイスラエルが、かわいた地を渡って行く間、主の契約の箱をかく祭司たちは、ヨルダンの中のかわいた地に立っていた。そしてついに民はみなヨルダンを渡り終った。(注:箱をかく→箱をかつぐこと)

それからヨシュアは、ヨルダン川の祭司たちが立っていた所に十二箇の石を立て、また 十二部族の代表者十二名にヨルダン川の川底の石を取って来させて、ヨルダン川の西側のギルガルに記念の石塚を立てさせています(4:9,20)。

4:9ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。

4:20そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、

「それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(4:24)

契約の箱はキリストの型であり(3:11、ヨハネ10:4)、キリストは私たちに代わって死の中に下られました。

 ヨシュア3:11ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。 

ヨハネ10:4自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私 たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

ヨルダン川の川底に埋められた十二の石は、キリストとともに十字架につけられた自己中心の自我を示し、ヨルダン川の岸に立てられた十二の石はキリストとともによみがえらせられた私たちを示しています。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

パウロはこの真理を、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)と言いました。私たちは、神がみことばの約束の通りにみわざを成し遂げてくださると信じて、自己中心の自我はキリストとともに死んだと計算する時、神は私たちの内に、このみわざを体験として実現してくださり、その上、私たちがキリストにある復活の生涯を送れるようにしてくださるのです。これは勝利ある生涯の始まりであって、パウロがガラテヤ2章20節で語ったのも、この体験を指していたのです。

4.次にイスラエルの子孫がしなければならなかったことは、ギルガルで神と新しい契約を結ぶことでした(5:2~5,9)。
5:2その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。 5:3そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。 5:4ヨシュアが人々に割礼を行った理由はこうである。エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだが、 5:5その出てきた民は皆、割礼を受けた者であった。しかし、エジプトを出た後に、途中、荒野で生まれた民は、みな割礼を受けていなかった。 5:6イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。 5:7ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。
5:8すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。 5:9その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。

 

新に割礼を行なうことによって、民は聖別されて、いよいよ神の選民であることがはっきりしてきました。それまで怠っていた過越の祭りを行ないました(5:10)。

5:10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。

イスラエル人が過越のいけにえをささげ、その地の産物を食べた時、その翌日より、マナの降ることは止んだのです(5:12)。

 5:11そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、 5:12その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。

この過越でほふられた小羊とパンは、もちろんキリストの型です。

このヨルダン川を横断して渡る出来事は昔のことですが、霊的意味においては、今日の私たちも経験すべき重要なことです。

5.ヨルダン川渡過の意味

①イスラエル民族としての放浪、遊牧の生活から脱して、神の約束された地において安定した居住と農耕の生活に移る過渡期であることを意味しています。

②ヘブル民族の国民としての生活の発達、神についての知識と真理を養うこと、授けられつつあった神の啓示を保存し、後の子孫に継承していくことを意味しています。

神はパレスチナという小さい一地帯に、全世界のどこにも知らせていなかったご自身を現わされ、時が満ちて、神の御子イエス・キリストをお遣わしになられました。実際、このカナンの地の征服は、世界の歴史の一大紀元となったのです。

3章の分解

1節、準備的移動
2~13節、ヨルダン渡過の準備
14~17節、ヨルダン渡過の決行

ヨルダン川渡過の準備開始

1節、シティムから出発

3:1ヨシュアは朝早く起き、イスラエルの人々すべてとともにシッテムを出立して、ヨルダンに行き、それを渡らずに、そこに宿った。

「朝早く起き」一日の始まりの時間を何に用いるかは、私たちの関心がどこにあるかを示しています。

創世記22章3節「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」という命令に対して、翌朝早く、即刻に服従しています。

創世記28章16~22節、ヤコブは 「朝はやく起きて」誓願を立てています。

マナを集めることも早朝の仕事でした(出エジプト記16:13,21)。

出エジプト16:13夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。

出エジプト16:21彼らは、おのおのその食べるところに従って、朝ごとにそれを集めたが、日が熱くなるとそれは溶けた。

ヨシュアたちも朝早く行動しています(ヨシュア記6:12,15、7:16)。

6:12翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかき、

6:15七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。

7:16こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、

イエス様の朝の用いられ方(マルコ1:35)- 祈りによって、御父と お交わりなさっておられました。

1:35朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 

この移動は、モーセの死後、イスラエルの民が宿営の場所を移動した最初の出来事でした。そしてこれは満水のヨルダン川を渡って、カナンの地に入って行くことを目指した移動です。これは、もはや目的のない放浪ではありません。

さらに、ヨシュアのこの指令に対して、イスラエルの民がどのように応答するかによって、先行き民がヨシュアの指導に従う意志があるのかどうかをもテストされると言えましょう。

これはさらに、彼らの信仰を見て、主がヨルダン川を渡るのを助けてくださるか、ひいては、イスラエルがどのような将来を築いていくかを決定することにもなってくる、重大な第一歩となる移動だったのです。私たちの今日の小さく見える信仰の選択が、実は小さいことではなく、大きなことにつながっていることを知らなければなりません。

この移動は、イスラエルの民にとって訓練的意味もありました。彼らはこれまで群衆的存在で、あまり秩序や規律のある生活をしてきませんでした。しかしこれからはカナンでの戦いも始まります。それには短い通知ですぐに動くことができる機敏性と秩序ある行動力が必要でした。ヨシュアはこの日の移動を通して、民の中にその自覚が出来ているのを感じとったでしょう。民はもはや放浪している群衆ではなくて、主の約束を信じて、主の約束を彼らの生涯のうちに実現させるために代価を払って戦おうとしている決心した人々であること、そしてヨシュアの指導に対して、喜んで従う備えのある人々であることが分かりました。パウロは若いテモテに、「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(テモテ第二 1:8)と言っています。こういう人々が主の御手の中に握られる時、主の福音のみわざは勝利に向かって進んでいくのです。

2節、「三日たってから」

3:2三日の後、つかさたちは宿営の中を行き巡り、 

主の大いなるみわざが行なわれる前に、しばらくの間、静かに備える時間が必要です。使徒の働き1章では、十日間祈ってから五旬節の日に聖霊の満たしを受けています。これは期間の長短の問題ではなくて、一人一人の霊魂の状態が主のみわざを受けるのにふさわしく整えられていることが大事なのです。

しかし三日たって、つかさたちがイスラエルの全員に短時間で命令を伝達出来たことは、イスラエルの中にすでにすぐれた統一組織と一致系統が出来ていたことを示しています。何もこれは命令の指示系統だけでなく、目的と霊的一致がなければ出来ないことです。

私たちクリスチャンの間でも、キリストの体としての霊的一致がある時にだけ、キリストの福音の働きは前進していくのです。

組織だけを合併して一つにしても、神学をすり合わせて一つにしようとしても、霊的実質の一致がないと、所詮、イスラエルの中に混じっていたエジプト人と同じように、そこから不信仰の呟きが生じ、それが民全体に浸透して破滅へとつながっていくのです。

4節、「そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない」

二千キュビトは、約九百メートルくらい。
「この道」とは、実際に民が歩く道とともに主が採られる新しい導き方を指していると思われます。

ヨシュアの指導のもとにあって、イスラエルの民は主に導かれようとしていました。しかしその方法はモーセの時とは全く異なっていました。モーセの時には雲の柱と火の柱が先導しましたが(民数記9:15~23、10:33,34、出エジプト記13:21)、ヨシュアの時代になると、十戒を記した二枚の石の板を納めた契約の箱(申命記10:1~5)が、主の臨在のしるしとされています。

主の導きは、神のみことばが人の心の板に書き記されることによって完成するのですが、イスラエルにとっては、なお、目に見えるしるしが必要だったのです。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。- 主の御告げ。- わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)

「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(Ⅱコリント3:3)

これは聖書のことばを覚えていることでも、知的理解をしていることでもありません。神のみことばを信じて、生活の中で活用し、自分の人格の中に受け入れていくことを意味しています。

5節、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」

主のみわざがなされるためには、民がきよめられている必要がありました。きよめの信仰を毎日更新して生活しているなら、必ず主のみわざがなされるのを経験することができます。このことを経験している人は多いでしょう。主のみわざを経験したいと思う人がいるなら、きよめの信仰をぜひ更新してください。主はきよめられた人のために、しばしばみわざを行なってくださるのです。

旧約聖書で「きよめる」という言葉が使われている時、新約聖書が示している全く霊的な意味で用いることはあまりありません。ほとんどが祭儀的なきよめですが、ここには永遠の神の原理が示されています。それは、きよめられた者だけが神の約束の国に入ることができるということです。

主は、心と生涯を全く主にささげることを拒む人々には、はとんど何のみわざもなさることができないのです。ただ、私たちが主にすべてを明け渡して、信じて従う用意ができた時にだけ、聖霊が満ちてくださるのです。
主がなさった不思議なみわざについては、詩篇136篇に記されています。

あとがき

成功と失敗と、どちらから多く学ぶことができますか。成功は人を高慢にし、失敗は謙遜か、失望のどちらかです。
失敗からは奥義を学ぶことができます。失敗は成功以上の成功をするための学費です。失敗から深く学んで、これを活用しなければなりません。失敗を活用しない者は、本物の愚か者になってしまいます。
失敗から学んで活用することによって、私たちは熟練した者、成熟した者になっていくことができます。これ以外に、私たちが成熟する道はないのです。
これまで積み上げて来た失敗の中に、実は宝が隠されているのです。これを見つけて、活用してください。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)

(まなべあきら 1999.8.1)

(聖句引用は口語訳聖書から)

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