聖書の探求(200) ヨシュア記11章16~23節 パレスチナの占領地の総括


上の地図は、ヨシュアの時代のイスラエル地図(「バイブルガイドー目で見て分かる聖書」マイク・バーモント著、いのちのことば社より)


16~23節、パレスチナの占領地の総括

16,17節、ヨシュアたちが占領した地域は、エジプトヘの入口の地、ゴシェンの全土という、はるか南方の地、そして、シナイ半島とミデアンを分けるアラバの渓谷(これも南方地域)から、北はヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでに及んでいます。これはパレスチナ全土より、はるかに広い地域に及んでいます。

ヨシ 11:16 こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、11:17 セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕らえて、彼らを打って、殺した。

これらの地域の支配者は、ことごとく捕えられて、殺されてしまっています。これを人間的に、この世の視点から見るなら、「ずい分、ひどいことを」と思う人も出て来るでしょう。しかし、私たちは何事も、信仰によって、神の視点から見る必要があります。

神によって創造された被造物(人間)が、神に逆らった場合、すべて滅ぼされています。それは、たとえ、神の選民イスラエルの場合であっても、同じでした。

私たちは、健全な信仰経験(明確な回心経験と、聖潔の経験)と、みことばと信仰を毎日の実際生活の中で活用することと、健全な知識を蓄えていくことの、三つのバランスを保っていないと、サタンの惑わしと、自分の知恵による考えと判断によって、聖書の真理とは全く違った道に迷い込んでしまうことになります。教会の歴史を見ると、これによって、悲しむべき神学論争を繰り返して来ているのです。人の知恵には、サタンもこの世の知恵も、肉の欲も侵入しやすいのです。

18節は、ヨシュアたちのカナンの地での戦いが、長期間続いたことを示しています。

ヨシ 11:18 ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。

これは、その戦いに長期間の堅忍不抜の忍耐と勇気が必要だったことを意味しています。霊的戦いは、忍耐が切れて、投げ出したら、負けです。主に仕えて生きている人は、長期間の苦闘なしに、敵を降伏させ、勝利を得ることはできないことを、覚える必要があります。

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

私たちの信仰の戦いも、生涯続くでしょう。それを途中で、諦めてはなりません。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:13)

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしは、あなたにいのちの冠を与えよう。」(ヨハネの黙示録2:10)

最後の勝利は、確かに約束されているのですから。

19節、この破滅から免れたのは、ギブオンの住民のヒビ人だけでした。

ヨシ 11:19 ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。

ギブオンの住民のとった手段は、ヨシュアたちを欺く、ずる賢いものでしたが、それでも彼らは必死の願いをもって、神の民と講和を結ぶことを求めたために、あわれみを受けて、破滅を免れたのです。ヤコブは父親のイサクを欺いて、長子が受ける祝福の祈りを受けたのも、これと似て、その方法は、ずる賢く、兄エサウの怒りと反感をかうものでしたが、たとい、その方法、手段は間違っていたとしても、主を必死に、切実に求めたことによって、主のあわれみを受けたのです。

「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったい誰なのか。」(エレミヤ書30:21)

勿論、ヤコブや、ギブオンの住民のようではなく、正しい方法と手段によって、主を求めることは大事なことですが、もう一方、方法や手段が正しくても、ヤコブやギブオンの住民ほどの切なる求めがないなら、主はあわれんでくださらないでしょう。間違いや失敗をおかさないようにしようとするあまりに、主に対する切なる思いを失ってしまっていないでしょうか。

「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:44)

主もまた、切なる祈りをささげてくださったのです。

そして、主は次のように教えてくださったのです。

「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまでも頼み続けるなら、(文語訳「求の切なるにより」、詳訳聖書「あつかましいほどのしつこさ(強要)のために」)そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:8,9)

これは、どの程度の求めのことを言っておられるのでしょうか。これは、祈りの声の大きさとか、激しさとかではありません。これは、エリコのラハブや、モアブのルツたちが持っていた、主に対する魂の渇きから生まれる切なる求めなのです。

ギブオンのヒビ人以外のカナン人は、イスラエルとの講和を求めず、大抵が連合軍を組織して、対決を挑んだ結果、破滅してしまったのです。万軍の主が共に戦っておられる者たちと戦って、勝てたことは、一度もないのです。イスラエルが敗北した時は、彼ら自身の内に罪があって、主が共に戦われなかった時だけです。ですから、イスラエルがアイのような小さい町で敗れたのだから、大軍の連合軍を組織して戦えば勝てると考えるのは、高慢としか言いようがありません。

ギブオンのヒビ人のように、自らを明け渡した民は、救われ、自分たちの勢力を守ろうとして戦った民は、滅んだのです。

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:25)

20節は、この戦いが、主の戦いであったことを示しています。

ヨシ 11:20 彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、【主】から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、【主】がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。

ここでも、エジプトのパロが心を頑なにして、あくまでも主に逆らったように(出エジプト記9:12)、カナンの人々も心を頑なにしたことが記されています。

主に対して、心を頑なにする性質を持っている人は、心が砕かれずに、頑なな態度を取る度に、反抗や攻撃を加える度に、ますます、頑なになり、それは神によって聖絶されるところまで続くのです。

主が、「彼らの心をかたくなにし」たように書かれてありますが、主は彼らから、神の御霊とあわれみを取り去られただけです。そのように空家になった魂には、だれが侵入するでしょうか。イスカリオテのユダの心にサタンが入ったようになるのです。そうすると、主が「友よ。何のために来たのですか。」(マタイ26:50)と御声をかけられても、ユダの心は砕かれもせず、とかされもしなかったのです。もはや、彼には主の愛は通じない状態になっていたのです。このようになってしまう人が、今も少なくないのです。

心を閉ざし、頑なにしていることは、非常に危険です。冷淡で、反発心を抱いていることは、滅びに至るまで、頑なになってしまう危険があるのです。

その点、ダビデは、罪を犯した時でも、ここに陥りませんでした。彼は、自分の罪が示されると、すぐに魂が砕かれたのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

異教の民の中からでも、神の民の中に受け入れられた者もおり、救い主イエス様の先祖となった、エリコのラハブや、モアブのルツもいます。ですから、異教の民だから滅ぼされたのではありません。

しかし、主は心を頑なにする者に対しては、異教の人だけでなく、イスラエルの民であっても、同様に、容赦なく聖絶されたのです。これは、神のみこころに反して行動し続けている者たちに対する神の審判と見られます。良心に対する神の語りかけと、聖霊の光を拒み続けるなら、神は、本人の空しい自信と高慢な誇りと、頑固な悪意や敵意を抱くままに渡されてしまうのです。その結果として、彼らは自らの上に、破滅を招くのです(申命記2:30、サムエル記第一 2:25、列王記第一 12:15、歴代誌第二 25:16,20)。

「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。」(箴言29:1)

21~22節は、特に、アナク人の聖絶について記しています。

ヨシ 11:21 そのとき、ヨシュアは行って、アナク人を、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断ち、彼らをその町々とともに聖絶した。11:22 それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。

アナク人は巨人で、イスラエルの偵察隊がカデシュ・バルネアからカナンを偵察した時、カレブとヨシュア以外の偵察員を恐れさせ、不信仰に陥れ、不服従にさせ、神に背かせて、四十年の荒野の放浪の旅と、不信仰になった民全体が滅んでしまった原因となった種族でした。(民数記13:32~14:2、申命記9:1~2)。

申 9:1 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。 9:2 その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」

ヨシュアは、そのアナク人を自分の目で見て知っていたし、彼らを恐れたことによって、イスラエルの民が、悲惨な運命をたどることになったことも経験していたので、このアナク人が全滅して、いなくなってしまったことは、ヨシュアにとって夢のような出来事であったに違いありません。彼は主に、いかばかりの感謝をささげたことでしょうか。アナク人に対する勝利は、カデシュの不信仰から、四十年以上も経ってのことだったのです。しかし、ヨシュアの信仰は、この四十年間、変わっていなかったのです。

「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)

この信仰の言葉を、ヨシュアは四十年間、イスラエルの民に言い続けて来たのです。

彼は、アナク人の強さ、その守りの堅さを知らなかったのではありません。しかし、神の力を信じていたのです。そして、その信仰は四十年後に、豊かに報いられたのです。

「たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(サムエル第一 14:6)

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」(歴代誌第二 20:15)

私たちは、主が自分とともにいてくださることを確信するまでは、周囲の勢力や敵対してくる力に対して恐れてしまうのです。旧約、新約を問わず、すべての信仰者が勝利を勝ち取った時は、いつも、主が自分とともにいてくださることを確信している時です。たとい、見える所は、自分一人でも、主がともにいてくださるなら、私たちは、最強の大軍に勝る大軍を持っていることになるのです。「万軍の主」とは、そのようなお方を意味しています。あなたの霊の目には、肉眼では見えない神の軍隊が見えているでしょうか。

「すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(列王記第二、6:16,17)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(コリント第二5:7)

あなたの信仰は、周囲の状況によって左右される信仰でしょうか。ヨシュアの如く四〇年も、五〇年も、生涯、変わらない信仰を持って、ついに大勝利を得る信仰を持っていただきたいものです。私たちの主は、「すでに世に勝ってくださっているイエス様なのですから。(ヨハネ16:33)

23節、こうして、長い戦いの末、「その地に戦争はやんだ。」

ヨシ 11:23 こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて【主】がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。

これは、一時の平穏な時が来たことを意味しているだけです。イスラエルは、エジプトを脱出してから、やっと放浪の生活が終わり、定住の生活が始まったのです。イスラエル人は、各々、部族ごとに相続地が分け与えられて、放牧民から、農耕民としての生活が始まりました。このことは放牧民としての不安定な生活から、比較的安定した収穫を得ることができる生活へと移ったことを意味しています。

しかし、その安定した平穏な生活は、そう長く続かなかったのです。それは、士師記を見れば分かります。これは恒久的な戦争のない生活を意味していなかったのです。

巨人のアナク人はいなくなったものの、22節に、残っていたガザ、ガテ、アシュドデのペリシテ人は勢力を盛り返し、また、南方のアラビヤからやって来るミデヤン人、その他に残っていた小部族の王たちは、たえず、イスラエルを狙っていたのです。

ヨシュアによる勝利は、恒久的勝利を意味していなかったのです。彼の果たした役割は、非常に大きかったのですが、それはイスラエルの各部族が安定した生活を始めるには十分な勝利でしたが、イスラエル人ひとり一人が、主に忠実に従って生活するという信仰の戦いは、なお残っていたのです。そして、彼らがカナンでの安定した生活に慣れて、不信仰になり、偶像礼拝に傾くようになった時、必ず、再び、敵はイスラエルを襲撃したのです。

それ故、私たちも、自分の内に、主に敵対するものを一つも残さないように潔められる必要があります。

「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから 自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント第二7:1)

この聖句は、「自分で一所懸命、努力して自分をきよめなさい。」と言っているのではありません。自分の力で自分をきよめることは不可能です。ここでは、聖潔の信仰を毎日、更新して、聖潔を日毎に全うしていくことを勧めているのです。

もう一つ、私たちが注意すべきことは、私たちが、この地上の生活を送っている間は、サタンとの戦い、この世の力との戦いは、なくならないということです。それ故、心に平安をいただいていても、油断をしてはいけません。サタンはあなたの魂を、吠えたける獅子の如く狙っているからです。

様々な苦難を用いて、あなたの心に失望、落胆の思いを吹き込もうとしたり、様々な教師や人の声を通して、あなたを悩ませようと、たくらんでいるからです。これに打ち勝ち続けるためには、みことばと聖霊に依り頼んで生活するしかないのです。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

あとがき

今回、聖書の探求、二百号をお届けできることを、主に感謝致します。私も、毎回、真剣に書き続けてきました。きっと、読まれる方も真剣に読んで下さっていると思います。ただ、願いますことは、信仰の心を持って、恵みとなり、魂の益となるように、お読みいただきたいと思います。それ以外の目的も意図も持って書いているのではありませんので。どんな話も、文章も、歪んだ心で聞き、また読めば、害になるだけです。私の話や文章はどの一つも、単なる非難や攻撃のために書いていません。ぜひ、あなたの魂に恵みとなり、益となるように、お読み下さい。それが、私が書いている唯一の目的ですから。
今月も、悲しい出来事に続けて出会いましたが、悲しみを分ち合う時、幸せを感じます。

(まなべあきら 2000.11.1)


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