聖書の探求(222) 士師記1章1~7節 ヨシュアの死後の戦いの始まりの経緯、アドニ・ベゼク

上の絵は、オランダの版画家 Jan Luyken (1649 – 1712) により1708年に描かれた「Verminking van Adonibezek(アドニベゼクの切断)」(Wikimedia Commonsより)


士師記1章は、ヨシュアの死後のイスラエルとオテニエルの紹介が主なテーマです。

1章の分解

1~7節、ヨシュアの死後の戦いの始まりの経緯
8~36節、各々の子孫の戦い

1~7節、ヨシュアの死後の戦いの始まりの経緯

1節は、否定的学派の批評家たちの攻撃の的となってきました。

士 1:1 さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は【主】に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」

彼らの主張は、ヨシュア記1章1節の初めと同じなので、士師記1章1節から2章5節までは、ヨシュアの死に続くものではなくて、モーセの死後、少なくともヨシュア記の戦いの記事と並行するものであるというものです。それ故、この部分は後の編集者が書き加えたものであると考えているのです。

しかし、この見方は、聖書の記録をそのまま受け入れようとしない、非常に悪質な主観によっており、この主張を支持する客観的証拠は何もありません。

士師記1章1節は、ヨシュア記1章1節と同じように始まったが、それはキッテルが言っているように、モーセの後ではなく、ヨシュアの死後のことなのです。それ故、士師記1章1節から2章5節までは、ヨシュア記の後に続くものであって、ヨシュア記の出来事と同時に行なわれたものではありません。

 (士師記の統一性の証拠)

1章に記されているいくつかの言葉は、士師記の後半の部分にも出てるので、本書の統一性の証拠とすることができます。

1、「彼の手に渡した。」(1:2)(nathan beyadh)は、2:14,23、6:1、7:7、13:1、15:12、18:10、20:28にも出てきます。

士 1:2 すると、【主】は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」

2、「火をつけた」(1:8)(Shillehu vaesh)は、20:48にも、

士 1:8 また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。

3、「剣の刃でこれを打ち破り」(1:8、1:25)(hikkah lephi herev)は20:48にも、

士 1:25 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。

4、「今日まで」(1:21,26)(adh hayyom hazzeh)は、6:24、10:4、15:19、19:30にも、

士 1:21 ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。

5、「住んでいる」(1:21,27,35)(yoel lasheveth)は、17:11にも記されています。

士 1:27 マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。

6、この他にも、1:1~2の行動は、20:18,23,27にも見られ、1:16のケニ人の子孫のことについては4:11にも記されています。

士 1:16 モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。

1節、「ヨシュアの死後」、モーセの死がイスラエルにとって大きかったように、ヨシュアの死も、イスラエルには大きかったのです。

士1:1 さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は【主】に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」

ヨシュアは軍事的才能を神から与えられた天才でした。その実質は、先のカナン攻略の戦いで、内外ともに知れ渡っていました。ですから、イスラエルが土地を分配してもらって各々定住してからも、周囲の異教の国々からの攻撃は全くなかったのです。

しかしヨシュアが死ぬと、たちまち、いくつかのイスラエルの部族は周囲から攻撃を受けて、危険な状態になっていました。

国でも、教会でも、会社でも、どのような集団でも、先導するリーダーが変わったり、いなくなったりすると、すぐれた軍隊が、愚かな烏合の衆に変わってしまったり、逆に愚かな群衆が、突如、神の軍隊に変わったりするのです。それ故、指導者がどのような人物であるかは、その集団の勝敗を決定すると言ってもいいでしょう。ところが、ヨシュアは自分がすぐれた指導者であっても、彼は、彼の後を引き継ぐ、すぐれた指導者を残さなかったのです。それがこの結果を招いたのです。

ヨシュアの問題点は、民に神のみことばを教えなかったことと、後継の指導者を育てなかったことの二点にあります。戦いの最中は出来なかったとしても、土地分割後、民が定住して平和に暮らしている間に、彼の残された生涯を、この二つのために使っていたら、イスラエルは賢明な神の民として繁栄し続けたでしょう。

ヨシュアが死ぬと、周囲の国々は、待ち構えていたように動き始めたのです。それを、感じとったイスラエル人は、主に祈り求めたのです。彼らは、相手から攻撃を受ける前に、先手を取り、その動きを押しつぶして、災禍を止めるほうが良いと考えたのです。問題は、だれがその先鋒となるかです。それで、おそらく民は、当時、祭司であり、ただ一人指導者と思われるピネハス(出エジプト記6:25、民数記25:7~13、ヨシュア記22:13、24:33、士師記20:28)を通して、主のご指導を求めたのでしょう。こうして、事を行なつてからではなく、事が起きてからではなく、その前に、具体的に主に祈り求めることは非常に大切なことです。

2節、主のお答えは、二つでした。

士 1:2 すると、【主】は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」

一つは、ユダ(族)が上って行くべきこと、もう一つは、主がカナン人の地をユダの手に渡されるという確かな約束です。

3節、ユダの人々は、主のご命令をそのまま真直ぐ受け止めませんでした。

士 1:3 そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。

なぜなら、ユダはヤコブの四番目の子どもであり(創世記29:32~35)、ルベンが長子の権利を失い、レビの子孫は神に仕えているにしても、シメオンがいるではないか、そのシメオンを差し置いて、自分たちが先頭に立って戦いに行くのは適当でないと考えたのです、そこで、この話をシメオン族の所に持って行って、シメオンと一緒に行くことになったのです。

私たちの生活の中でも、これと同じことをしていないでしょうか。主のご命令を素直にそのまま受け取って従わないで、自分の知恵をあれこれと混入して従っていないでしょうか。

こういう所に、神のみことばの指導を受けていないことと、強力な指導者のいない点が、表われてきています。

ここで、「主」と訳されている語について説明しておきましょう。

「主」と訳されている語のへブル語は「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」です。その読み方は大変難しく、本当の読み方はよく分かっていません。しかしこの語は、神の神聖を最も強調した語です。この語は旧約聖書中、6855回出てきます。この語を旧約聖書のギリシャ語訳の七十人訳聖書では、すべて「JHWH」と子音だけで綴られており、古代の写本をつくったユダヤ人の筆写者は、この「JHWH」を書き写す度に、身体を洗い、清い衣服に着替えたと言われています。それほどにこの語を書く度に、神の神聖さを覚えたのです。その敬虔の思いは、残念ながら、今日、全く失われてしまっています。

「JHWH」は、「ある」という、二つの違った形の複合語で、その意味は「ある」ということには違いないのですが、その正確な意味を知ろうとして多くの学者が苦心してきました。しかし、おそらくその本当の意味は、出エジプト記3章14節の「『わたしはある。』という者である。」の中に見い出されると思います。ここでは「ある」が二度使われていることにも注目したいものです。

この神のお名前は、神が永遠に独立して存在されるお方であることを示していると思われます。すなわち、神は永遠で、唯一で、絶対的に不変で、だれに頼ることも、助けられることもなく、生きて働いておられる霊のお方です。それ故、人の言葉でお名前をつけることができず、また説明することもできないお方です。「JHWH」はそのことを表わしていると思われます。

旧約時代のユダヤ人は、この「JHWH」を、どう発音するか、人間の言葉として発音するには、あまりにも神聖すぎると思って、この語を発音することを、ためらっていました。それで彼らは旧約聖書の中の「JHWH」という箇所に来る度に、彼らはそれを「アドナイ(私の主)」と発音していたのです。後に、このアドナイをマソレ写本の中で「JHWH」と書き写されたのです。こうして、「JHWH」の正確な発音は歴史的に失われてしまっているのです。AD1520年になつて、ガラチヌスが、それは「エホバ」と発音するのではないかと言い出し、英語訳では「Jehovah」を書くようになり、日本語の文語訳でも「エホバ」を採用していますが、最近では、「ヤーウエ」あるいは「ヤハウェ」が用いられています。しかし本当の発音の仕方は分からないままなのです。

4~7節 アドニ・ベゼク

士 1:4 ユダが上って行ったとき、【主】はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。

1、主がカナン人(中央パレスチナの土着民)とペリジ人(「質朴な者」あるいは「田舎者」という意味。ペリジ人は、カナン人より前からパレスチナに住み着いていた土着民)の1万人をユダ族とシメオン族に渡されたので、彼らはベゼクで打った。

士 1:5 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。

2、ベゼクはカナン人の村で、おそらくゲゼルの近くであると思われます。ここでユダとシメオンは、この地方の王アドニ・ベゼクとその連合軍を打ち破りました。主は彼らの戦いに勝利を与え、他の部族を励ますために光栄を授けられました。「アドニ・ベゼク」とは「ベゼクの領主」という意味の称号です。おそらく彼はこの村の小王的支配者だったのでしょう。ヨシュア記10章1節の「アドニ・ツェテク」はエルサレムの王で別人です。

アドニ・ベゼクは、一時逃げましたが、ユダとシメオンは追って捕え、彼の手足の親指を切り取っています。

士 1:6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕らえ、その手足の親指を切り取った。

これは古代の戦争においては、武器を握ることができなくなるので、全く無能にすることを意味していたのです。これは捕虜に対して過酷であると思われますが、アドニ・ベゼク自身が告白しているように、彼自身、七十人の捕虜にした王たちの手足の親指を切り取り、彼らは食卓の下で犬のようにパンくずを集めて食べて生きていたのです。

士 1:7 すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。

ですから、彼自身、同じ刑罰の扱いをされることは当然であると認めていたのです。彼は、これを、「神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」と言っています。彼は、「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」(申命記19:21)の神の戒めを知っていたのです。アドニ・ベゼクは、神の戒めを知りつつ、その罪を重ねていたのです。

これは今日のクリスチャンへの大きな警告ではないでしょうか。多く神のみことばを聞きつつ、また知りつつ、それに従った生活をしないで、自分の知恵に頼り、自己中心になり、高慢になっていないでしょうか。アドニ・ベゼクは悪人には違いありませんが、あなたは彼だけを悪人にして責めることができるでしょうか。神の警告を心に聞きつつ、それを無視して、自分の考えや欲を押し通していないでしょうか。十分に気をつけたいものです。

アドニ・ベゼクは、パウロが記した、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)の真理も知っていたのです。これまで、忠告や警告を振り切って、自己主張を押し通して行った人が何人もいますが、その後、その人がどんなに努力しても、がんばっても、弁解しても、もはや回復しないのです。自分中心の知恵と欲と情を押し通すことが、どんなに恐ろしいかを知らなければなりません。怒りや憎しみや残忍性の種を蒔けば、必ず、その人自身がその刈り取りをすることになるのです。神の報いという法則は、避けられないのです。この点で、アドニ・ベゼクは、神の戒めを知りつつ、それを犯していたのですから、最も愚かな人物です。

アドニ・ベゼクは、エルサレムまで連れて行かれて、そこで死んでいます。

(まなべあきら 2002.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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