聖書の探求(241) 士師記11章34~40節 エフタの娘の悲しみ
フランスの画家 Gustave Doré (1832–1883) により描かれた「Jephthah’s Daughter Comes to Meet Her Father(エフタの娘が父に会いに出て来る)」(Doré’s English Bible、Wikimedia Commonsより)
34~40節、エフタの娘の悲しみ
34節、エフタが勝利の喜びをもって自分の家に帰って来た時、彼の愛しているひとり娘がタンバリンを鳴らして、踊りながら父を迎えに出て来たのです。
士 11:34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
エフタの勝利の喜びは、たちまち悲惨に変わりました。それは娘に責任はなく、エフタの愚かな誓願によったのです。
この娘は、エフタにとって、たったひとりの子どもで、まだ男を知らない処女で、ほんの子どもにすぎなかったのです。彼女の純真な、父を愛し、父の勝利を喜ぶ姿が輝いていればいるほど、エフタの心を打ちのめしてしまったのです。
35節、エフタはイスラエル人が深い悲しみを表わす時の伝統的な仕草で、自分の着物を引き裂いて、彼の嘆きを娘に告白しています。
士 11:35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は【主】に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
ここに賢い娘と愚かな父の姿が描かれています。信仰はただ熱心であればいいのではなく、健全でなければなりません。健全性を欠いた信仰は熱狂です。エフタは熱狂に近かったのです。
かれは自分の苦しみを娘に告白した後、「私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」と言っています。これはエフタが誓願についての規定を知っていたから、こう言ったのだと思われます。
「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(民数記30:2)
しかしもし、エフタが、主はケモシュのように人間のいけにえを決して求められるお方ではないことを知っていれば、この規定があったにせよ、自分の愚かさを主に告白し、自分のなすべきことを主に尋ねるべきでした。まさか、自分の娘が最初に出てくるということを想定せずに、この誓願をしてしまった愚かさを主に告白し、主のご指示を待つべきでした。しかし彼は、旧約だから仕方がなかったにしても、この規定を律法的にとらえて、二つ目の愚かさを行なってしまっています。
自分の愚かさや間違いに気づいたなら、さらに自分の知恵で判断して行動せず、主のみこころの指示を尋ねることが必要です。
36節、娘は、父の心中を察して、全く服従し、父が主に誓ったことを果たすようにと勧めています。
士 11:36 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは【主】に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。【主】があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」
彼女は自分個人のことよりも、主が父を用いて、敵のアモン人に復讐されたその勝利が台無しにならないために、自らをささげて全く服従したのです。彼女の信仰がどこまで深かったか分かりませんが、主の栄光のみわざに傷がつかないために、自分の身をささげている自己犠牲の献身の姿には美しいものがあります。また彼女は本当に父親思いの娘であったと思われます。
37節、彼女は二か月の間の猶予をもらって、山々をさまよい歩き、自分が処女であることを友人たちと泣き悲しみたいと言っています。
士 11:37 そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
「山々をさまよい歩き」は、友人を訪ねて行き、山々の上で友人たちと一緒に彼女が処女であることを泣き悲しんでいます。彼女には愛する人がいたのかも知れません。また、ひとり娘ですから、エフタの家系に子孫が残せないことを悲しんだのかも知れません。
イギリスの画家 Walter Duncan (1848–1932) により描かれた「Jeptha’s Daughter(エフタの娘)」(Wigan Arts and Heritage Service、ArtUKより)
39節、「二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。」
士 11:39 二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。・・・・・
エフタは「誓った誓願どおりに彼女に行なった。」とありますが、エフタは自分の娘に何を行なったのか。このことは大きな議論の的になっています。
ある人々は、エフタの誓願の言葉どおり、娘を全焼のいけにえにしたのだと主張しています。この人たちは、この言葉を感傷的になって解釈を曲げてはならないと言っています。なぜなら、エフタは半分カナン人的異教の性質を持っている人だから、人間のいけにえを強く禁じている聖書の基準に届いていなくても、仕方がなく、彼は自分の娘を人間のいけにえとしてささげたのだと主張しています。
しかし事実はどうだったのか、今となってはだれも知ることができません。聖書は、「エフタは娘を全焼のいけにえにした。」と言わないで、「誓った誓願どおりに彼女に行なった。」とだけ記しているのです。
聖書がわざわざ、はっきりと「全焼のいけにえにした」という表現を避けていることは、そうでなかった可能性を含ませていることも事実です。
さらに、アブラハムがイサクをモリヤの山で全焼のいけにえにしようとした時(この時は、主のご命令によって全焼のいけにえにしようとしたのですが)、直前になって主はそれを止められ、身代わりのいけにえを与えられ、イサクは復活の命が与えられる予表とされたのです(ヘブル11:19)。
ヘブル 11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
もし主が、人を殺すことを厳しく禁じ、まして異教の偶像に人間のいけにえをささげることを厳しく禁じておられる神ならば、万一、エフタが自分の娘を実際に全焼のいけにえにしようとしても、アブラハムの時と同じように禁じられるでしょう。エフタが半分カナン人だから、やってしまっているに違いないと思うのは、神を冒涜することにならないでしょうか。エフタは主の霊によってアモン人との戦いに勝利を与えられ、そして純真で、従順で、主の栄光のみわざのために自己犠牲の献身を表わしている娘を、主は見殺しになさるでしょうか。旧約時代であったとしても、父の愚かな誓願のために、従順な娘が宗教的なことのためと言っても殺されることを主が放置されるでしょうか。
聖書が「父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。」と表現しているのは、次のように解釈することが最も、その意味を表わしていると思います。父エフタは自分の愚かさを悟り、悔い改めたのでしょう。そして主の導きを得て、娘の身代わりの小羊を(ちょうどイサクの身代わりにいけにえの小羊が与えられてささげたように)、全焼のいけにえにしたのだと思われます。この解釈を受け入れると、聖書の言い方はピッタリと無理なく当てはまるのです。
そして、その後に、「彼女はついに男を知らなかった。」という言葉の意味も生きてきます。もし、娘自身が全焼のいけにえにされて、ここで殺されていたのなら、「彼女はついに男を知らなかった。」という言葉の意味はほとんどその価値を失います。死んだ人について、このような言葉を書く必要はないからです。おそらく、エフタの娘は生涯、主に身をささげて、独身の生涯を送ったのでしょう。それにしても、この娘の従順さは見上げたものです。しかしまた二か月間、友だちと一緒に泣き悲しむところは、普通の感情豊かな娘であったと思われます。ごろつき集団のリーダーをしていた父のもとで、このような娘が育っていたことも奇跡です。また一緒に泣き悲しんでくれる友だちがいたことも、悲劇の中に慰めを見い出します。
「泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)
40節、このことがあってから、イスラエルの娘たちは毎年、年に四日間、エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなっています。
士 11:39,40 ・・・ こうしてイスラエルでは、毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。
おそらく、これはギルアデ地方の娘の友人たちがそうしていたことから始まったのでしょう。しかしこの習慣についての記録はほかに記されていませんので、ギルアデ地方だけに、しばらく続いていたものと思われますが、長くは続かなかったようです。
(エフタより学ぶべきこと)
エフタは、ギデオン、バラク、サムソンとともに、新約聖書の中の記念碑であるヘブル人への手紙11章に、その名が記録されています。彼の軽率さ、その放浪の生涯にも関わらず、御霊は旧約聖書の信仰の巨人の中に彼の名前を列記しておられます。
エフタは彼の誓願に従って、娘を実際に人身御供のように神にささげたのだという見解を強固に支持する者もいます。しかしやや不明瞭ではありますが、よりエフタに同情的に解釈できる根拠が、聖書の叙述の中にあります。エフタの娘は主に生涯をささげて独身の生涯を送ったことのほうが、エフタがヘブル人への手紙11章で聖徒の列伝に加えられていることと、彼女が処女であることを泣き悲しんだことの記録と調和します。
しかし、どちらにしても、エフタのような予想もつかない、自分で責任の取れない誓願をすることは、すべて危険であり、罪悪です。
また、神に誓願を立てて、奉献を約束して、これによって神の助けを得ようとする取引的誓願は愚かであり、罪悪的であり、軽率です。
神はエフタがこのような誓願をするように霊感を与えたのでもなく、また神はエフタのこの誓願に従ってイスラエルに勝利を与えられたのでもありません。主は、人が主にささげるものによって誘惑されるお方ではありません。私たちは主を喜ばせる礼拝の様式を悪用すれば、悲惨な結果を招くのです。犯罪行為に陥るような早計の誓約や誓願は、敢えて守るよりも、破棄すべきです。このような契約は、全くしないことが最善です。
エフタが、娘を全焼のいけにえにするというエフタの誓願には、エフタの異教的背景に基づくものがあると思われます。
ミカ6:6~8
「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。
全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって、御前に進み行くべきだろうか。
主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。
私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。
私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」
サムエル記第一 15:22
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
エレミヤ書7:21~23
「あなたがたの全焼のいけにえに、ほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。
わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。
ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』」
詩篇50:7~15
「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。
わたしは神、あなたの神である。
いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。
森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。」
人間の身体を傷つけたり、殺したり、あるいは快楽に支配されたりして混乱させ、堕落させること(不健全な禁欲主義や放縦主義、快楽主義)は、異端のグノーシス主義によって極端に現わされています。
断食や、恩寵の手段を守ることや、礼拝式、献児式など、十分にその意味を理解して行なわなければなりません。
あとがき
私たちの群れに、中学三年生の担任教師をしている兄弟がいます。この一年間も、難渋苦汁を呑まされました。
ある男子生徒はこの担任教師を殴ったこともありました。今年三月、高校受験の前になって、入試で行なわれる面接の模擬面接を中学校で行なった時、その殴った生徒も参加しました。面接官役の先生が彼に、「あなたの尊敬する人はだれですか。」と質問した時、彼は真面目な顔をして「中学の担任の先生です。」と答えました。
この話を聞いた時、私は「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二 12:9)を覚えました。
優れて、強くて、立派なのがもてはやされているこの世の中で、弱さの中で輝く主の栄光を現わさせていただきましょう。
(まなべあきら 2004.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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