聖書の探求(254) ルツ記(序) 位置づけ、年代と記者、目的、主要人物、分解 

ドイツの画家 Gebhard Fugel (1863–1939)による「Weizenernte mit Ährenleserin Ruth(落穂拾いをするルツと小麦の収穫)」(Wikimedia Commonsより)

ルツ記

本書の題名は、本書の中心人物であるルツ(Ruth)の名前をとっています。ギリシャ語の七十人訳聖書も、同じ題名になっています。

(正典における位置)

1、ルツ記の年代が古いことは、本書が最初は独立した聖文学のグループの中に置かれておらず、士師記の後に置かれていた事実によって支持されています。七十人訳聖書も、ラテン語のヴルガ―タ訳聖書(ローマ教会が使っていた聖書)も、ルツ記を士師記の後に置いています。

2、ヨセフスは、Contra Apionem 1,8で、明らかにルツ記を士師記と一緒にし、哀歌をエレミヤ書と一緒に数えています。彼は聖書を二十二巻と言っています。

3、ヒエロニムスは、ユダヤ人はルツ記と士師記とを一つにしているとの意味合いのことを言っています。
また、ある所では、ルツ記と哀歌を聖文学の中に入れてあるとも言っています。ルツ記がどうして最後には聖文学の中に入れられたのかは分かりません。おそらく、ユダヤ人のシナゴグ(会堂)での使用のために、聖文学のグループの中に入れられたのだろうと思われます。しかしこれは単なる推測に過ぎません。

しかしルツ記の存在は、重要な意味を持っています。
イスラエルの歴史上、ヨシュアとサムエルとの間の長い期間(約三五〇~四〇〇年間)に、ただ士師記の記録だけしかなかったなら、イスラエルの全地に不法と腐敗の重罪だけがおおっていたような印象を与えたでしょう。しかしルツ記の存在は、イスラエル人の隠されていた家庭生活を取り上げ、戦争と闘争の中でも、また偶像礼拝と冒涜行為の中でも、なお神を畏れた敬虔な人がいたこと、公義と自己犠牲的なことをしていた人がいたこと、献身的な愛と温和な生活が成長しつつあった世相を見せてくれます。士師記のような乱世の時代にあっても、なお麗しい信仰生活が営まれており、輝かしい信仰者の模範が存在していたのです。サタンが神の民を腐敗させることに必死であれば、神はそれ以上に熱心に、多くの従順な人の心に愛の勝利を確立するように働いておられたのです。

(本書の歴史性)

1、ファイファは、ルツ記を架空の小説であると信じているようです。

そして次のような説明をしています。まず、登場人物に意味のある名前をつけていること。

マフロン(Mahlon):病気
キルヨン(Chilion):衰弱、悲しみ、刺し通す、消え失せる
オルパ(Orpha):頑固
ナオミ(Naomi):私の快さ、私の喜び、楽しみ、1:19~20
エリメレク(Elimelek):私の神は王
ルツ(Ruth):仲間、友情

これらの意味を持つ名前が付けられているのは、ルツ記が小説である証拠と考えたのです。
このほかに、ルツ、ナオミ、ボアズの気高い性格と行為、そして不愉快のない生活の生き生きとした描写、強い献身的信仰は、あまりにも理想的すぎて、小説である証拠としているようです。

2、しかし、ルツ記が歴史上の事実の記録であることに注意しなければなりません。

①1章1節、「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。」という記事は、単純に歴史的事件を述べる時の用語です。これは歴史上のある時代と、その時代に起きた事件とを示しています。ルツ記には、このような事実を示す単純さと、率直性が多く記されています。
それ故、ルツ記は実際に起きた事実を記録することを目的として記されています。すなわち、戦争、暴虐、偶像礼拝が盛んだった士師記の暗黒時代にも、神を畏れ、神の栄光を現わすために、敬虔で、質素で、素直で従順な、愛に満ちた生活を営んでいた人々が、上流社会にも、下層社会にもいたことを明らかに記録しておくことでした。

②ルツ記が当時の習慣について記している時は、正確であり、事実に忠実に記しています。
昔は、イスラエルとモアブとの間は友好的であったこと(サムエル記第一 22:3~4) この時代には、モアブ人との結婚は禁止されていなかったこと。
このルツ記があることによって、私たちはダビデがサムエル記第一 22章3,4節で、モアブ王の所になぜ避け所を求めたかが分かるのです。

Ⅰサム 22:3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」
22:4 こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。

③もし、このルツ記が架空の小説であるなら、作者は史実としてダビデの先祖の起源を、モアブ人にまでさかのぼることなど、あり得ないことです。もし、作者が小説を書いたのなら、ダビデ王の血統の起源を異教徒のモアブ人の中にではなく、イスラエルの中に見い出すようにするのが自然ではないでしょうか。
それ故、ダビデ王の先祖ルツが、モアブ人であったという事実、それ自体が、ルツ記が歴史上の記録であることの証拠です。

④最も重要な証拠は、マタイの福音書1章5節にあるダビデの系図の中に、ルツの名前が記されていることです。またルカの福音書3章32節の系図においても、ルツ記の記事と一致しています。これは決定的証拠です。
誤りのない神のことばである新約聖書がルツを歴史上の人物として記していること、このことが、ルツ記を単なる架空小説とか、真の歴史でないという可能性を排除してしまうのです。

(著作年代と記者問題)

1、捕囚期より後代の説

この説を唱える古い学者には、キューネン、ヴェルハウゼンがいます。近年の人としては、アイスフェルト、エスタレー、ロビンソンがいます。

彼らの主張は、ルツ記の記者は、士師記を再述している「申命記的」編集版(著作年代をBC550年頃と仮定されています)を知っていたと言っています。

この説の論拠は、非常に薄弱です。

イ、この説を弁護する為に、ルツ記はエズラとネヘミヤの時代の異教の民との雑婚に関する厳しい法令に対する抗議のために書かれたものであると、みなそうとする者がいることです。
しかし、これは、ファイファー、その他の学者によって否定されました。その否定は正しい判定です。

ロ、再び、この説を支持する為に、言語学的資料が持ち出されました。

① 1章13節のlahen(「それだから」と訳されています)。この語は、アラム語型であると考えられています(アラム語は後代に使われた言語なのでルツ記の著作年代を後代のものにしようとする主張です。)。しかし、この語が事実アラム語に使用されている「それだから」という意味をもっているかどうかは、非常に疑問です。lahenは、「それだから(それ故に)」と翻訳される必要がないことに注意しなければなりません。この語型は、「これらの(ものの)ために」ととれるからです。そうであれば、「lahenがアラム語型である」という彼らの主張は消滅してしまいます。
また、1章13節のこの語は、lahem(n→m)(「彼らのために」を意味します)と修正されるべきではないでしょうか。この修正は、主な訳本に採用されています。

② 1章20節のmara(「にがい」)もまた、アラム語であると主張しています。
しかし、lahenとmaraの二つの語だけで、ルツ記を後代の年代のものとする証明には、不充分です。なぜなら、ヘブル語はその初めから、ちょうどウガリ文書にあるように、 アラム語的用法を含んでいたからです。ですから、アラム語型の言語が存在したからと言って、それだけで、その文書の著作年代を後代のものと決定することはできません。古い時代の文書の中にもアラム語的用法が使われているのを見るからです。

2、Baba Bathra 14bは、「サムエルが彼の書と、士師記とルツ記を書いた。」と言っています。

この見解はあり得ることですが、おそらく、そうではないでしょう。なぜなら、ルツ記4章22節の系図は、ルツ記が書かれた当時、すでにダビデの存在が人々によく知られていたことを意味しているようだからです。サムエルの時代にダビデがどれくらい国中の人々に知られる人物になっていたかは不明です。

3、捕囚期より前の時代の説

多くの証拠は、ルツ記の執筆が早い時期、すなわち、捕囚期より前の年代であったことを示しています。

イ、用語と文体は、捕囚期後のものと異なっています。

ロ、ダビデの名前が明記されていることに注意してください。このことは、ルツ記が、ダビデの名声が広くひろがった、ずっと後代に書かれたことを意味しません。もし、ルツ記がダビデの死後、書かれたとするなら、その場合、ソロモンの名前も系図の中に記されていたはずです。
系図の中にソロモンの名前がないことは、ルツ記がダビデ王の生存中に書かれたことを示しています。

ハ、さらに、ルツ記の率直性(疑問を持たれるようなことについて、何の弁解的な説明もしていないこと)は、ルツ記が、厳しい法令に対して抗議する意図で書かれたのでもなく、また信仰を奨励するための架空の物語を記したものでもなく、むしろ、もともと捕囚期の前にあった出来事を記していることを示しています。

たとえば、4章7節に、自分の権利を放棄したり、譲渡する場合、自分のはきものを脱ぐ習慣が記されています。
ルツ 4:7 昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。

ルツ記の執筆者は、わざわざ「これがイスラエルにおける証明の方法であった。」と記しています。執筆者がこのことを書き記したのは、ルツ記が書かれた時代には、もはやこの習慣は行なわれなくなっており、士師記の時代には実行されていたことを示しています。モーセやヨシュアの時代には、士師記の時代とは異なった意味(主に対する全き献身と服従を意味していました)で行なわれていました。

しかし、兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない者に対して、足からくつを脱がせる規定は、すでにモーセの時代に定められていました。
「その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。『兄弟の家を立てない男は、このようにされる。』彼の名は、イスラエルの中で、『くつを脱がされた者の家』と呼ばれる。」(申命記25:9,10)

結論として、ルツ記の書かれた年代をBC何年と、特定することはできませんが、ダビデの治世中のある時期に書かれたことは間違いないようです。

(目的)

一、歴史的意味

ダビデの系図を示し、ダビデの先祖を異邦人のモアブ人ルツにまでさかのぼっています。そしてマタイの福音書1章5節には、イエス・キリストの系図の中にルツが登場し、人としてのイエス・キリストの内に異邦人ルツの血が引き継がれていたのです。このことはイエス・キリストの福音が、ユダヤ人だけでなく、広く全人類のためのものであるという性質を暗示しています。

二、ルツの信仰は、主に対する忠実、純潔、平和、献身的な愛を実際にいかに現わすべきか、その模範を具体的に表わしています。

特に、ルツが、「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1:16~17)と言った言葉は、彼女の真実な、しかも堅い信仰と自己否定の愛を示しています。
それ故、ルツ記は、若いやもめルツがその姑ナオミに対して現わした情熱のあふれる誠実な愛と、あらゆる困難を乗り越え、打ち勝つきよい愛の力を示すために書かれています。

三、真の宗教は、国家を超えたものであり、特定の民族だけに制限されないことを示しています。

このことは先に、キリストの福音が全人類のためのものであると記したことでも明らかです。異邦人(モアブ人)だった女性ルツがダビデの系図(選民イスラエル人)に加えられていることは、神の異邦人へのご計画を示しています。それは主がユダヤ人愛国者ヨナをアッシリヤの首都ニネベに宣教のために派遣したことにも表わされています。
それ故、ルツ記は、国家、民族を超越した普遍的宗教を示しています。

四、結婚の高い理念

ルツ記は、再婚を否定していません。むしろ、4章11~17節は、ルツの再婚を、神聖な、 主に祝福されたものとして取り扱っています。

(型)

あがない人(買い戻す人)ボアズは、キリストの型であり、ルツは救われた異邦人の型です。ルツ記の内容は、異邦人がキリストの救いに招かれていることの預言的型です。モアブ人は律法によっては、神の民から除外されていましたが(申命記23:3)、恵みと信仰によって受け入れられたのです。

申23:3 アモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、【主】の集会に、入ることはできない。

一、ルツ : 罪から救われた異邦人の型

イ、異邦人であって、神から遠ざかっていた者(エペソ2:12~13)

ロ、望みなく、生まれながら神の御怒りを受けるべき者(エペソ2:3,12)

ハ、ボアズとの結婚によって、神の民に受け入れられた者

私たちもキリストと結び合わされることによって、キリストの花嫁となり、神の家族に受け入れられるのです(エペソ2:19、ヨハネの黙示録21:9)。

ニ、ルツには、ボアズよりも近いあがない人がいましたが、彼は自分の利益だけを考える人で、ルツをあがなうことはできませんでした。これは人間的な決心も、努力も、功績も、修行も、人の霊魂を救うことができないことを示しています。あがないは、真のあがない人イエス・キリスト以外には不可能であることを示しています。

二、ボアズ : 贖(あがな)い主イエス・キリストの型

イ、収穫の主(マタイ9:38)

ロ、偉大な力を持つ人(ルツ記2:1、マタイ7:28,29、マタイ9:8)

三、私たちを顧みて、親切に扱ってくださる方(ルツ記2:5~16、マタイ6:25~34)
四、私たちが罪を悔いて、主のみもとに至り、その足もとにひれ伏し、その血潮で赤く染まった愛の衣をもって、私をおおってくださいと、乞い願う時、主は何と速やかに来てくださり、慰めのみことばを語り、あふれる恵みを与えてくださることでしょうか(ルツ記3章、ヨハネ15:9、マタイ26:6~13)。
五、ルツがボアズに贖(あがな)われたことは、罪びとである私たちがイエス・キリストによって贖(あがな)われることを意味しています。

イエス・キリストは、私たちを贖(あがな)って、ご自身と一つにしてくださることによって、わびしさは取り除かれ、私たちは豊かになり、他の人に対して恵みを分かち与える者となります(使徒2:44~47、同4:32~37)。

ボアズ(キリスト)は、ルツ(私たち)を
・ 愛し、
・ めとり、
・ 祝福しました。

ルツ(私たち)の信仰は、
・ 神への決断と服従をし、
・ 勤労を惜しまず、
・ みことばに従って敢行し、
・ 豊かな報いを受けます。

ルツとボアズの出会いは、私とキリストとの出会いです。

①、キリストを知る(2章)
②、キリストのほうから、ご自身を示して近づいてくださる(2章)
③、ルツ(私)からボアズ(キリスト)に近づく(3章)
④、ルツ(私)とボアズ(キリスト)の合一(4章)

(使命)

鍵のことば(あるいは思想)

①、安息(訳語は異なります)1:9、3:1、

ルツ 1:9 あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように【主】がしてくださいますように」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

ルツ 3:1 しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。

②、贖(あがな)い(買い戻し)4:4,6、

ルツ 4:4 私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」

ルツ 4:6 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」

③、信仰 1:16,17、

ルツ 1:16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
1:17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

あがないによる合一の安息

ルツ記の第一の使命は、安息に関することです。

①、エリメレクとナオミは、神の約束の地を去った時に、安息を失ったのです。

②、ナオミは、モアブからベツレヘムに帰っても安息を得られないと真剣に考え、ルツとオルパにも、そのことを巧みにほのめかして、嫁たちをモアブの家に帰るように勧めていますが(1:11~13)、神の道は、人の考えとは異なっているのです。安息は、どんな状態からでも、神の約束に立ち返ることによって得られるのです。

「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは(約束に対する不信仰を)恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル4:1)

③、ルツは、贖(あがな)いによって、また贖(あがな)い人と一つに結ばれることによって安息を得ました。私たちにとっては、ただ神である贖(あがな)い主イエス・キリストと一つになることより他に、この世においても、永遠においても、安息は得られないのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

(ルツ記と士師記の比較)

(ルツ記)       (士師記)
忠実           不忠実
純潔・貞淑        不道徳
一人の女性の信仰の記録  国民的背教の記録
平和な内容        外国との戦争

(主要人物)

1、ルツ

ルツはモアブ人でした。モアブ人は格別にイスラエル人に忌み嫌われていました。エジプト人も、エドム人も、モアブ人ほどには嫌われなかったのです。
イスラエルの律法によれば、エジプト人とエドム人は、イスラエルにあって三代目になると、主の会衆に入ることが許されていました(申命記23:7,8)。しかしモアブ人とアモン人は、十代目の子孫さえ主の集会に加わることが禁じられていました(申命記23:3)。ほとんど永久にイスラエル民族から拒絶されていたのと同然でした。それはモアブとアモンが旧約の歴史の中で主に忌み嫌われる罪を犯していたからです(創世記19:30~38)。

しかし、神のあわれみ深い恩寵と忠実な信仰は、一切の障害を超越させたのです。ルツの信仰は、最も不運と思われる境遇の中で、神の恩寵を受けて、輝かしい勝利を得たのです。

2、ボアズ

ボアズはエリメレクの親族で、地位もあり、資産もある有力な人でした(2:1)。
彼の飾り気のない率直さ、接するすべての人に対して、使用人に対しても、へりくだっていて、礼儀正しいこと、あわれみ深いこと、親切な扱い方、神の律法を重んじていること、特に彼がどんな場合にも、神を第一にし、神を持ち出して判断し、行動したことは、当時の国民の多くが暗黒の人となっていたのと比べると、全く対照的です。

(ルツ記に見るキリストとの結合)

ルツがボアズと結婚したことは、主の教会全体がキリストの花嫁となることの型です。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。……この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:25~27,32)

クリスチャン個人としては、信仰によってキリストと結合(合一)する幸福な体験(キリストの御霊の内住)をすることができることを示しています。
この真理は、枝がぶどうの木に連なっていること(ヨハネの福音書15:1~8)と同じです。

もし、私たちの生涯において、士師記時代のイスラエルのように、自己中心の自分が好む道を選んで行って、失敗した経験があるならば、その失敗から立ち直る唯一の方法は、キリストとの一層親密な結合を求めることです。神は、私たちが失望してしまわないように、士師記の前にヨシュア記を、後にルツ記を置いて、私たちが全能の救い主を信じて、忠実に従うなら、信仰の勝利と信仰の安息に入ることができることを示してくださっているのです。

(ルツ記に見るクリスチャンの生涯)

1、クリスチャンは、毎日、個人的に明確に信仰の選択をしなければなりません。その選択とは、神の御翼の下に逃れて、他のものに信頼してはならないことです。

2、ルツは落穂拾いに精出し、麦を打ち、それを食べ、ナオミにも与えました。このことはクリスチャンにどんな霊的教訓を与えているでしょうか。それは神のみことばを信じ従って、深く味わい、よく学び、みことばで自分の霊魂を養わなければならないことを教えてくれます。

このように自ら養われた霊魂は、他の人々の霊魂をも養うことのできる食物を持っているのです(2:18)。

ルツ 2:18 彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。

「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』
そこで、弟子たちは互いに言った。『だれか食べる物を持って来たのだろうか。』イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」(ヨハネ4:32~34)

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)

3、収穫の働きは、全世界にある神の広い収穫場における霊魂の刈り入れの型です(ヨハネ4:35~38、マタイ20:1~16)。

(テーマ別の分解)

1、ルツを中心とした分解

1章、ルツの信仰の決意(鍵節16節)
1~5節、エリメレクの家族のモアブ移住
6~14節、ナオミの説得
15~18節、ルツの信仰の堅い決意
19~22節、ベツレヘムへ帰還
2章、ルツの奉仕(労働)への摂理(鍵節3節)
1~7節、ルツの落穂拾いと神の摂理
8~16節、ボアズの親切(慰め、賞賛、慈悲)
17~23節、ルツのナオミへの報告
3章、ルツの信仰の安息(鍵節18節)
1~5節、ナオミの助言
6~9節、ルツの実行
10~15節、感動するボアズ
16~18節、ルツの報告とナオミの助言
4章、ルツの信仰の報賞(祝福)(鍵節9,10節)
1~8節、ボアズより近い贖(あがな)い人
9~12節、ボアズによるあがない(買い戻し、ルツをめとる)
13~17節、ルツのオベデ出産(神の祝福と女たちの賛美)
18~22節、ペレツの子孫(ダビデの先祖)の系図

2、ルツとボアズを中心とした分解

1章、ルツ、ベツレヘムに来る(ナオミの悲しき帰還)
2章、ルツ、ボアズに会う(ボアズの畑で落穂を拾うルツ)
3章、ボアズ、ルツに心ひかれる(ボアズとルツの接近)
4章、結婚、誕生、ダビデの系図(報われたルツ)

3、不信仰な社会における信仰を中心とした分解

1章、信仰の選択
(比べてみましょう)
ルツの信仰とエリメレクの行動(不信仰)
ルツの十分な信仰とオルパの部分的信仰
2章、実際生活で活用された信仰
勤勉 : ルツの落穂拾い
神の摂理の導き : ボアズの畑への導き
人の善意ある評価 : ボアズの親切
3章、望みを持って求める信仰
1~5節、ナオミの助言
6~9節、ルツの敬虔な信仰の敢行
10~18節、ボアズの愛
4章、信仰の報酬
信仰は最終的に、物心両面に祝福をもたらします。
1~12節、あがない
13節前半、結婚
13後半~22節、ダビデの先祖となる

4、安息を中心にした分解

1:1~5、安息の放棄(モアブへの移住とその結果)
1:6~22、安息を願う(ユダの地に帰る)
2~3章、安息を求める(ルツとボアズの出会い)
4章、安息の獲得(キリストの先祖となったルツ)

あとがき

今回からルツ記が始まります。まだ本文に入る前の段階ですが、やがてルツの信仰が現代の私たちにまで届く、全人類に与えた影響が明らかになってきます。
時代はヨシュアの死後の主に反逆し、偶像礼拝を繰り返し、主の怒りがイスラエルの民の上に下されていた時代です。その時代の真只中で、イスラエル人ではないモアブ人の一女性ルツが、ひたすら心を尽くして、主に仕え、また亡き夫の母に仕えていく信仰が、ダビデ王国の基礎となり、救い主イエス様のご降誕にまで進んでいくのです。
ルツは飢饉のため神の約束の地を離れて異教の地に来たナオミの信仰の姿を見て、主を信じています。ナオミは信仰の失敗者です。しかし主はそのナオミを用いてルツを救い、偉大なことをされたのです。


先日、ルツのような信仰のあかしをいただきました。この方は、一八年間、ご病気の姑さんのお世話をされた姉妹です。
姑さんはそのひと言で家族がてんてこまいさせられ、ご自分が気に入るまで、何度でもさせられる方で、この姉妹の背中に向かって、嫌な言葉をかける方でしたが、姑さんをご自分の家にひきとられて、お世話をされました。毎日「とても、できません。」と主に叫びながら、朝にはその日一日分の新しい力をいただいて、一八年間お世話を続けられたのです。
ある日、退院されて来た姑さんが、「あんたに祈られながら、あんたの信じている神様のもとにいく夢をみた。」と言われました。これこそ、試練を耐え抜いた人の信仰の報酬です。イエスさまは本当にみわざを行なわれます。

(まなべあきら 2005.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次


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ルツ記をもとに、ルツの信仰と、神様の愛と恵みが詳しく分かり易く書かれた本です。幸せは、偶然になれたり、なれなかったり、するものではありません。ルツは、自ら謹んで主を信じる信仰の道を選び続けました。ルツは、現代人が失っているしあわせのための心の条件をもっていました。本書は、それを具体的に拾い出して解き明かしています。是非、お読みください。

まなべあきら著「愛の絆によって」の紹介ぺージ


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「地の塩港南キリスト教会」

発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
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