音声:信仰の列伝(47) 「勇者も愚か者になる」(サムエル記第二、11:26~12:14と24章)へブル人への手紙11章32~34節

2017年7月9日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

へブル人への手紙11章32~34節

11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
【新改訳改訂第3版】

<インフォメーション>

 時々、会衆の前や牧師に告白して、罪の告白をしたと思っている人がいますが、牧師や会衆の人間に告白しても、物笑いか、噂話か、非難の材料にされるだけで、神に対する罪の告白になっていませんから、救いが成立しません。罪の告白は必ず、神に対してなされなければなりません。

 先ず、罪の自覚は、聖霊によらなければなりません。
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:8~9)

 ダビデの罪の自覚は、
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎(とが)ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:4~5)

 ダビデは明らかに、神に対する罪を意識しています。この世的な、相対的な、道徳的な罪意識に止まっていません。

 また、犯した罪の行為に留まらず、親から受け継いでいる遺伝的罪の性質を自覚して、神に告白しています。しかし、ダビデは最初から素直に、主に告白したのではありません。彼は神に黙っていました。隠そうとしていたのです。その時の彼のたましいの苦しみを次のように告白しています。

「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3~4)

 黙っていた時、ダビデにこの苦しみがあったことは、聖霊が罪を悟らせて、告白に導いていたことが分かります。

 ダビデが心を開いて、罪を隠すのを止めて、主に申し上げようと決心した時、主の赦しは、速やかで、明確でした。

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎(とが)を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:5)

 ダビデがどんな言葉で告白したか、書いていません。おそらく、51篇の内容からすると、ダビデの口から告白のことばが出て来る前に、主はダビデの心の中身を読み取られて、3~4節の罪の責めを取り去られたのです。

 もし、私の心が主に開かれており、キリストの平安があり、みことばを信じているなら、心配する必要はありません。

 主は、あなたの心を全部知って下さって、赦し、きよめて下さっています。

<今週の活用聖句>

ヨハネの手紙第一、1章7節
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

上の写真は、イングランドの画家 William Hole(1846–1917)による「The Sorrow-of-King-David(悲嘆にうめくダビデ王)」

地の塩港南キリスト教会
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