聖書の探求(298) サムエル記第一 20章 感動的な友としてのダビデとヨナタンの契約、三本の矢の約束
アメリカのJosephine Pollard(1834-1892)により、1899年に出版された「Bible stories for children(子どものための聖書物語)」の挿絵(The Library of Congress蔵、 Wikimedia Commonsより)
この章は、最も愛と忠誠に満ちた、感動的な友としての、ダビデとヨナタンの契約を記しています。この二人の関係は主イエス様と潔められたクリスチャンの関係を示しています。
ダビデは、マリヤの夫ヨセフの家系につながっており、主イエス様を予表しており、ヨナタンはダビデの友人として、主が「友」と呼ばれた弟子、潔められたクリスチャンを予表しています。
詩篇は、サムエル記を背景にした詩が多くあります。それらを紹介しますと、詩篇18、34、52(サムエル記第一22:9)、54、56、57、59、63篇
20章の分解
1~23節、ダビデとヨナタン(その一)
.1~16節、ダビデとヨナタンの契約
.17~23節、三本の矢の約束
24~34節、ヨナタンとサウル(父サウルに対するヨナタンの激しい怒り)
35~42節、ダビデとヨナタン(その二)三本の矢
1~23節、ダビデとヨナタン(その一)
1~16節、ダビデとヨナタンの契約
1~2節、サウルがラマのナヨテまで、しかもサムエルの所まで追跡して来たことで、ダビデはますます危険を感じて、再びヨナタンに会おうと思ったのです。そしてダビデは自分の潔白を訴え、サウルの行動が不当であることをヨナタンに訴えています。
Ⅰサム 20:1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」
20:2 ヨナタンは彼に言った。「絶対にそんなことはありません。あなたが殺されるはずはありません。そうです。私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょう。そんなことはありません。」
ヨナタンはダビデの言葉を受け入れ、ダビデが殺されることは絶対にないと保証しています。父サウルはヨナタンに話さないでは、何もしないから、必ずヨナタンはサウルの心の内をダビデに知らせることを暗示しています。
3節、しかしダビデは、ヨナタンとダビデが厚い友情で結ばれているのをサウルが知っているので、ダビデ殺害の計画をヨナタンには知らせないでおこうと思っていると言っています。
Ⅰサム 20:3 ダビデはなおも誓って言った。「あなたの父上は、私があなたのご好意を得ていることを、よくご存じです。それで、ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう、と思っておられるのです。けれども、【主】とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」
そして、ダビデは「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」と言って、非常に危険な状態にあることを訴えています。この時のダビデの心境は本当に深刻だったことを表わしています。ダビデには、人としてはサムエルか、ヨナタンにしか訴えていく所がなかったのです。しかし結局、サムエルもヨナタンも、サタンに支配されてしまったサウルを止めることはできず、ダビデは主に訴えて守られるようになるのです。サムエルもヨナタンも、非常にすぐれた人で、ダビデを愛する人たちでしたが、ダビデを守り切ることができなかったのです。ただ主ご自身だけがダビデを完全に守られたのです。
人の心の変化は、神を心にしっかり持たなければ、はなはだ不確かで、危険なものです。自分の思い込みや、他人の言葉によって、全く反対方向に曲げられてしまうものです。ダビデはサウルの心の変化を測りかねていたのです。
4~8節、ダビデはサウルの気持ちを確かめる最後の試みをしようと考えていたのです。
Ⅰサム 20:4 するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」
20:5 ダビデはヨナタンに言った。「あすはちょうど新月祭で、私は王といっしょに食事の席に着かなければなりません。私を行かせて、あさっての夕方まで、野に隠れさせてください。
20:6 もし、父上が私のことをとがめられたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえをささげることになっているからです』と。
20:7 もし、父上が『よし』とおっしゃれば、このしもべは安全です。もし、激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。
20:8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは【主】に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。」
「新月祭」新月は月々の祭りの日であり、全焼のいけにえと和解のいけにえがささげられ、ラッパが吹き鳴らされていました(民数記10:10、28:11~15)。その日は喜びの日でもあり、通常は、食事の席が設けられ、ダビデも王と一緒に食事の席に着くことが求められていました。その時ダビデにとって命を狙われる最も危険な時となるのです。その日が二、三日後に近づいていたのです。
新月祭の食事は何日か続いたようですが、ダビデは「三日目の夕方まで野に隠れさせてください。」と頼んでいます。その間に、サウルがダビデの欠席に気づいた時、怒るかどうか、その反応をヨナタンが見て判断し、ダビデに知らせるという計画を提案しました。
サウルがダビデの欠席をとがめた時、ヨナタンにその理由を言ってもらうのです。ダビデは、彼の家族のために年ごとのいけにえをささげるために彼の町ベツレヘムに行きたいと、しきりに頼んで行ったのですと。もし、その時サウルがその理由を聞いて、「よし」と承諾するなら、ダビデを殺害する意志がないと判断します。しかし激しく怒るなら、ダビデ殺害を決心していると判断するという計画です。このようにして、つかみどころのないサウルの心中の本当の姿を測ったのです。
ダビデは実際、ベツレヘムに行こうと考えたことは十分あり得ることです。しかしこういう事情だったので、ダビデはベツレヘムに行かなかったようです。
ダビデは、もし自分にサウルに対する反逆心が少しでもあるのなら、サウルの所に連れて行くまでもなく、ヨナタンの手で殺されることを願っています。8節の「契約」は、18章3節の契約のことです。
9節、ヨナタンはダビデに真実を尽くして知らせることを誓っていますが、なおも、彼は父サウルが本当にダビデを殺害する考えでいることが信じ難かったのです。
Ⅰサム 20:9 ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」
10節、「きびしい返事をなさったら」のヘブル語の意味は「残酷に、荒々しく」です。
Ⅰサム 20:10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。」
その時、だれがダビデに知らせてくれるのかと、具体的に尋ねています。追いつめられて不安になっているダビデの気持ちが表わされています。
11~13節、ヨナタンはイスラエルの神、主に誓って、ダビデに真実を知らせると答えています。
Ⅰサム 20:11 ヨナタンはダビデに言った。「さあ、野原に出ましょう。」こうしてふたりは野原に出た。
20:12 ヨナタンはイスラエルの神、【主】に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。
20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、【主】がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。【主】が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。
13節の言葉は、ヨナタンの言葉が、主に対するものであることを示しています。これはヨナタンの信仰が好い加減な、自分勝手なものではなく、祝福も刑罰も与えられる生ける神に対するものであることを表わしています。ヨナタンはこの厳粛な誓いを、他人に知られることのないために野原の人目につかない所に行って、主の臨在のもとで話しています。
12節の「探ってみます。」は直訳では「洞察する、試みる、見い出す、探究する」という意味です。彼は時間もはっきりと「あすかあさってかの今ごろ」サウルの気持ちを探ると答えています。そしてサウルの本当の気持ちをつかんだら、「必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。」と約束しています。
14,15節、ヨナタンはダビデがサウルの後に王として権力の座に着くことを確信していました。
Ⅰサム 20:14 もし、私が生きながらえておれば、【主】の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、
20:15 あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。【主】がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」
その時、ダビデに自分と自分の家族に主の恵みを施してくださいと、頼んでいます。悲しいことだけれど、ヨナタンはダビデを殺そうとしているサウルの息子であったので、血筋のうえではダビデの敵の側にある者と計算されるからです。またヨナタンはサウルのこの騒ぎの結果、自分が死ぬこともあることを考えていました。それ故、自分が死んだ後の家族のことをダビデに頼んだのです。ダビデが王位に就いた時、ダビデは敵対したサウルの家を滅ぼすことはあり得るからです。その時でも、ヨナタンの子孫を断たないでくださいと頼んだのです。
ヨナタン自身は、ダビデが王位に就く前に死んでしまったので、ダビデがヨナタンに主の恵みをもって報いることができませんでしたが、ヨナタンの子孫に対して、ダビデはヨナタンとの約束を決して忘れなかったのです(サムエル記第二9章)。
16節、こうしてヨナタンはダビデの家と堅い真実な友情で結ばれた契約を更新しました。
Ⅰサム 20:16 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「【主】がダビデの敵に血の責めを問われるように。」
「ダビデの家と」とあるのは、ヨナタンとダビデの個人的な契約ではなく、その子孫にまで及ぶ契約だったことを示しています。その契約の主な内容は、「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」です。これは「主がダビデの敵に復讐されますように。」ということです。
17~23節、三本の矢の約束
17節、ヨナタンは再度、念を押すようにダビデに誓っています。それはヨナタンが「自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」と言っています。この二人には聖霊によって神の愛が心に注がれていたのです(ローマ5:5)。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)
二人の愛は互いの立場や利害関係によって揺り動かされるようなものではありません。人から出た愛なら、年月の経過とともに消え失せてしまったり、立場や利害関係がからんでくると、争いや非難、攻撃に変わってしまうものです。しかしヨナタンは次の王位がダビデに移っても、全く変わらない愛を持っていたのです。このようにヨナタンの愛は、試みにも勝った真の神の愛を持っていたのです。
「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」(コリント第一 3:12~13)
18節、「あすは新月祭です。」時が目前に迫っていたのです。サウルは祭りの食卓の席に気づいて、その反応を示す時が近づいていたのです。
Ⅰサム 20:18 ヨナタンはダビデに言った。「あすは新月祭です。あなたの席があくので、あなたのいないのが気づかれるでしょう。
19節、「あさってになれば、きびしく問いただすでしょう。」一日目は、気づいても何も言わないかも知れません。
Ⅰサム 20:19 あさってになれば、きびしく問いただすでしょうから、あなたは、あの事件の日に隠れたあの場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。
しかし二日続くと、きっとサウルは激しい怒りを表わすだろうと、ヨナタンは思ったのです。先にヨナタンは、サウルが本当にダビデを殺そうとしているのか半信半疑だったのですが、ダビデの証言を聞いて、段々と、サウルの本心を悟るようになっています。人の話は片方だけを聞いて判断すると、大変な間違いを犯してしまいます。それでは両方から聞けば安全か、と言うと、そうではありません。人は自分にとって有利になるように過剰に表現したり、しばしば偽りを織り込んで話をしますから、真実を見抜くことは困難です。
特に、争いの話の中には必ず、偽りや過剰表現が入っています。ですから、私たちは人の話によって判断せず、ヨナタンのように火の試みに耐えた神の愛をもって判断することが大切なのです。
「あの事件の日に隠れたあの場所」とは、19章2節の場所のことです。そこは人々によく知られていたエゼルの石があったのです。「エゼルの石」はヘブル語では、「エベン・エゼル」です。サムエルがミツパとシェンの間に一つの石を置いて、それに「エベン・エゼル」という名をつけています(サムエル記第一 7:12)。この場所が同一の場所なのか、別の場所なのかは定かではありません。サムエルの石の場合は、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」という感謝の意味でこの記念の塚が築かれていますが、ダビデとヨナタンの場合は、別れを記念する石となってしまったのです。
20~23節、ヨナタンが告げる合図は、たといサウルの偵察員が隠れていたとしても気づかれない方法で行なわれることになっています。それが三本の矢の合図です。
Ⅰサム 20:20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。
20:21 いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。【主】は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。
20:22 しかし、私が少年に、『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、あなたは行きなさい。【主】があなたを去らせるのです。
20:23 私とあなたが交わしたことばについては、【主】が私とあなたとの間の永遠の証人です。」
ヨナタンが矢を射て、子どもに矢を取りに行かせ、「矢はおまえのこちらにある」と言えば、ダビデは安全であるしるしとなり、「矢はおまえの向こう側だ」と言えば、サウルはダビデ殺害を計画していることが明らかで、ダビデは逃亡生活に入ることになるのです。
23節の「主が私とあなたとの間の永遠の証人です。」は、ヨナタンが結んだ契約は主を証人とした厳粛な契約であり、必ず真実に果たすことを約束したものです。
24~34節、ヨナタンとサウル(父サウルに対するヨナタンの激しい怒り)
24~26節、いよいよ新月祭が始まり、王は食事の席に着き、ヨナタンはサウルに向かい合って座り、アブネルはサウルの横にいました。
(歴史家ヨセフスは、この席の位置を、ヨナタンがサウルの右側にアブネルが反対側に座ったことを意味している、と言っています。)
Ⅰサム 20:24 こうしてダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。
20:25 王は、いつものように壁寄りの席の自分の席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所はあいていた。
20:26 その日、サウルは何も言わなかった。「あれに思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからである。
ダビデの席はあいていたのです。サウルはそのことに気づきましたが、何も言いませんでした。ダビデに突然のことが起きて、いけにえの肉を食べることができない、儀式的な汚れを負っているのだろうと思ったからです。人は勝手にこのような推測をするものです。サウルがダビデを執拗に殺そうとしていたのも、彼の推測によるものでしたが、サウルは主から離れてしまっていたために、主の御霊を受けることができず、肉の思いに支配されてしまったのです。肉の思いは死です(ローマ8:6)。彼の心は、ダビデの強さと民の評判によって、ねたみと、ダビデが王座を奪うのではないかという不安と恐怖心に支配されてしまって、狂気の如くなってしまったのです。
27~29節、二日目になって、サウルはヨナタンにダビデが来ていない理由を尋ねています。
Ⅰサム 20:27 しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。「どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。」
20:28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。
20:29 『どうか、私を行かせてください。私たちの氏族はあの町で、いけにえをささげるのですが、私の兄弟が私に来るように命じています。今、お願いします。どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それでダビデは王の食卓に連ならないのです。」
ヨナタンはダビデと打ち合わせていた通りの返事をしました。ダビデの兄がベツレヘムで家族のためにいけにえをささげるので行かせてくださいと頼んだので、王の食卓に連なっていないのです、と答えました。
30節、サウルは激しく怒りを現わしました。
Ⅰサム 20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。
サウルは、ダビデが反乱を準備するために家族のもとに行ったものと思ったのでしょう。サウルの本心は明らかになりました。
それにしても、ヨナタンをののしるサウルの言葉はひどすぎると思われます。
「ばいたの息子」は、「反逆の邪悪な息子」あるいは、「邪悪で手に負えない性質の男」という意味です。自分の王位が奪われることを恐れていたサウルには、自分のすぐれた息子ヨナタンが、そのようにしか思えなかったのです。人の表面的な、また勝手な評価をそのまま受け入れることはできません。自分中心な人ほど、すぐれた人を最悪の人のように呼ぶのです。
「この私が知らないとでも思っているのか。」は、サウルがヨナタンとダビデの友情を知っていたことを示しています。その友情がヨナタンの王位継承をできなくしていると、サウルは思い込んでいたのです。主から離れてしまうと、自分が主から油注がれて王に選ばれたことの厳粛な召命をも失ってしまっていたのです。
「自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしている」は、今の親もよく使う意味の言葉です。すなわち「おまえを、そんなふうにするために産んだ覚えはない。」とか、です。「おまえを産んだことを恥と思っている。」という意味です。
31節、ここでサウルがダビデを殺そうとしている目的がはっきりしてきました。
Ⅰサム 20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」
それはダビデがヨナタンの王位継承を邪魔すると考えていたからです。サウルのダビデ殺害の決意が固いことが明らかになりました。
32節、ヨナタンはダビデを弁護して、サウルに反対しました。
Ⅰサム 20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」
33節、サウルはヨナタンに向かっても、槍を投げつけて打ち殺そうとしています。
Ⅰサム 20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。
こうなると、サウルはもはや手のつけられない狂乱状態に陥っています。ねたみ、不安、恐れから生じる怒りや憎しみは、本人の人格を破壊してしまったのです。ヨナタンは決定的なサウルの殺意を知ったのです。
34節、さすがのヨナタンも、「怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目の食事をと」りませんでした。
Ⅰサム 20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからである。
それはサウルが自分の命を狙ったからではなく、「父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからです。」ダビデを侮辱することは、サウルの家にとっても、イスラエルの国民にとっても、わざわいの原因となっていくのです。主に油注がれた人を侮辱することは、主を侮辱することであり、主に反逆することですから、必ず主の刑罰が下ることになります。主を愛し、主に油注がれたダビデを愛していたヨナタンにとって、それは耐え難いことだったのです。
35~42節、ダビデとヨナタン(その二)三本の矢
ヨナタンは翌朝、ダビデに危急を知らせるために小さい子どもを連れて、約束の野原に出て行きました。そして隠れているダビデに聞こえるように、「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。早く。急げ。止まってはいけない。」と、その緊急性を告げています。このことは、だれにも気づかれないように行なわれています。
Ⅰサム 20:35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野原に出て行った。
20:36 そして子どもに言った。「私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。
20:37 子どもがヨナタンの放った矢の所まで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んで言った。「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。」
20:38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。
20:39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味がわかっていた。
20:40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。
41節、「ダビデは南側のほうから出て来て、」七十人訳聖書では「積み重なった石の横から」と訳しています。
Ⅰサム 20:41 子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。
ダビデは隠れていた所から出て来たのです。
「地にひれ伏し、三度礼をした。」ダビデは個人的な挨拶をする前に、王の息子であり、世襲的に見れば、当然の王位継承者であるヨナタンに最大の敬意を表わしています。ダビデは、「自分は神から油注がれているから、次の王は自分なんだ。」という高慢な思いを持って、非礼を行なうようなことをしなかったのです。
「愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、」(コリント第一 13:4,5)
その後、「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」
愛の交わりをしたのです。大抵の人が親しくなるに従って、ただ馴れ馴れしくなるばかりで、敬意を失ってしまいます。言いたい放題のことを言うようになり、態度も粗雑になってしまいます。これは信仰がくずれてしまって、ただの人情になってしまっているからです。ダビデとヨナタンの間は、そのようにくずれることはなかったのです。
42節、「では、安心して行きなさい。」これはヨナタンの祈り心を表わしています。
Ⅰサム 20:42 ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。
「主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。」 このような危機の時にも、ヨナタンは自分たちの間の契約を思い起こさせ、ダビデの心に確信させています。危機の時こそ、あわてた自分の思いで行動せず、しっかりと契約に立つことが、私たちを安全に守り、堅実に立たせてくれるのです。困難な時ほど、混乱している自分の考えに頼らず、主のみことばを信じて、安心していることが大切です。
こうして二人は各々、自分の進む道に歩み出したのです。ダビデは逃亡生活へと向かい、ヨナタンは、自分の父サウルによって起こされつつある危機の中で、自分のなすべき任務を果たすために町に帰って行ったのです。
あとがき
先日の日曜日の夕方、私たちが配布したトラクトを持って、若いお母さんが来られました。生まれた六ヶ月の赤ちゃんの脳の半分に障害があるので祈って下さいと言われました。彼女は脳に障害のある赤ちゃんが生まれたことで、泣き続けていたと言われました。しかしこれは健康な身体を持っている人の方から見た感覚でしかありません。確かに障害があることは不自由で短命であることも多いでしょう。しかし、障害のある人の心にイエス様が宿るなら、弱い人を思いやる、より深い愛を現わされるようになり、神の栄光を現わすようになります。嘆き悲しんでおらず、主の栄光が現わされるように祈ってほしいものです。「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)
(まなべあきら 2009.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)