聖書の探求(299) サムエル記第一 21章 ダビデの逃亡の始まり、祭司アヒメレク、ペリシテ人の王アキシュ

19世紀に描かれた「David feigning madness before Achish(アキシュの前で狂気を装っているダビデ)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)


この章は、ダビデの逃亡の始まりを記しています。彼の逃亡の記録は27章まで続きます。地域的には、一時、ペリシテ人の地にも行っていますが、大部分はイスラエルの領土内でした。

《ダビデが訓練時代に学んだこと》

1、神に従えば、苦難の時にも必要が満たされること。勿論、自分のなすべきことは、最善を尽くすこと。

2、神の前に真直ぐに歩むべきこと。サウルのように自分の知恵に頼ったことをしないこと。

3、神に従えば、神の知恵と助けが与えられること。
・ 神のみことばを心に蓄えること。
・ 聖霊に心を明け渡し、親しく交わり、聖霊によって歩む献身の生活をすること。

4、失敗を恐れず、信仰の確信を持って行なうこと。成功しても失敗しても、高慢にならず、自己卑下せず、いつも心砕かれて、へりくだっていること。そうすれば、神は必ず恵みを与えてくださること。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57:15)

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一 5:5,6)

21章の分解

1~9節、ダビデ、祭司アヒメレクにパンと剣を求む(ノブ)
10~15節、ダビデ、アキシュの所で狂人の真似をする(ガテ)

1~9節、ダビデ、祭司アヒメレクにパンと剣を求む(ノブ)

ダビデはヨナタンと別れると、まず祭司の町ノブ(22:19)に逃げています。

Ⅰサム 21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

ノブの位置は正確には分かりませんが、次の二つの聖句から、ノブの町はアナトテ(エルサレムから北東7kmくらい)とエルサレムの間にあったと思われます。

「彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。」(イザヤ書10:28~32)

「アナトテ、ノブ、アナネヤ、」(ネヘミヤ記11:32)

ノブの祭司アヒメレクは、22章9節を見ると「アヒトブの子」です。更に14章3節を見ると「シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤ」とあります。それ故、アヒメレクはエリのひ孫に当ります。この頃はすでに祭司は力を失っておりましたが、エリの子孫がなおも祭司の務めを果たしていたのです。

アヒメレクは大活躍していたダビデが従者を伴わずに一人で現われたことに、災難が起きるのではないかと恐れたのです。何か、ただごとでないことが、国に起きようとしているのではないかと恐れたのです。

2節、ダビデは、王から内密の命令を受けて、その任務の途中であり、若者たちとは、ある町で落ち合うことにしていると、うそを言って、アヒメレクを安心させたのです。

Ⅰサム 21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

記者は、このうそについて何も評価せず、事実だけを記しています。ダビデはこうする以外にアヒメレクの助けを得られないと考えたのでしょう。しかし後に、このダビデのうそが、アヒメレクたちに大きなわざわいを招くことになったのです(22章)。

3節、この時、ダビデは非常に空腹だったのです。それで「今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」と求めています。

Ⅰサム 21:3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」

これは明らかに食べ物を求めています。彼は何も食べ物を持っていなかったのです。逃亡者にとって、食べ物を手に入れることは、最も難しいことの一つなのです。

4~6節、祭司のもとには、普通の食用のパンはなく、主にささげるために聖別された儀式用のパンだけしかありませんでした(出エジプト記25:30、同35:13)。

Ⅰサム 21:4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」
21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」
21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、【主】の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

この聖別された供えのパンは、祭司たちだけが食べることができるものでした(レビ記24:5~9)。それをダビデに与えたのです。

アヒメレクは、「もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」と言っています。これはイスラエル人の儀式上の潔めのことを言ったのです。

「男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。」(レビ記15:18)

アヒメレクは、この問題がなければ、例外として緊急の必要のために、聖別されたパンを与えてもよいと言ったのです。

この時、ダビデは自分も若い者も、普通の旅でも女と交わっていないし、特に王から特命を受けている今日は、確かに汚れていませんと、アヒメレクを安心させています。

それを聞いた祭司はダビデに、その日ささげたばかりの、あたたかいパンを与えたのです。ダビデはそのあたたかいパンを食べて、どんなに力づけられたことでしょう。

5節の「普通の旅」は、「世俗的な任務」のことです。ダビデの言わんとしているところは、祭司たちしか食べることのできない聖別されたパンに対して、ダビデたちの任務が世俗的な世事であっても、その聖なるパンを食べても、そのパンは誤用されたり、汚れたりはしないと言ったのです。ですから、安心して、与えてくださいと頼んだのです。こうして祭司は安心してパンを与えたのです。

イエス様は、マタイの福音書12章1~8節で、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことを見つけたパリサイ人たちが、弟子たちを非難して、「安息日にしてはならないことをしています。」と言ったことに対して、このダビデがひもじかった時に祭司だけが食べてもよい供えのパンを食べたことを例にとって、あわれみの行ないの大切さを教えられたのです。

パリサイ人たちは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト記20:8~10)の十戒の戒めを形式的に取り上げて守っても、それによって他の大事な律法の精神(ここでは「あわれみ」)を犯す場合には、律法の大事な精神を優先させて選び取るように教えたのです。

何であっても、他人を非難し、陥れるために聖書の字句を使うことは、聖書を与えられた主のみこころに反していますから、主からお叱りを受けることになります。

その後で、主は「人の子は安息日の主です。」(8節)と言われました。安息日だから、イエス様も安息日の戒めに従わなければならないのではなくて、安息日はイエス様のために使われるものなのです。ですから、イエス様が「安息日にも、あわれみの行ないをしなさい。」と言われたなら、それは律法の字句を形式的に守るより、ずっと権威ある大切なことなのです。あわれみの行ないをして、誰かに非難されることがあったとしても、決して神から罪に定められることはありません。

7節は挿入的な文ですが、ちょうどその時、この出来事を見ていた者がいたのです。

Ⅰサム 21:7 ──その日、そこにはサウルのしもべのひとりが【主】の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった──

その人はサウルのしもべの一人で、サウルの羊飼いの頭であったエドム人のドエグです。彼がこのことをサウルに告げたのです(22:9,10)。こうして、アヒメレクにわざわいが及ぶことになるのです。

ドエグが「主の前に引き止められていた。」というのは、何らかの儀式上の潔めの儀式を受けるためか、エドム人の宗教からイスラエルの宗教に改宗するためか、何らかの悪い行為のために罰を受けるために、引き止められていたものと思われます。

8節、ダビデは自分の剣も武器も持っていなかったので、祭司の手もとに「槍か、剣はありませんか。」と尋ねています。

Ⅰサム 21:8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」

祭司に武器を求めるのも変ですし、「王の命令があまり急だった」とは言え、勇士が何の武器も持たずに、旅をすることは異常としか考えられませんから、アヒメレクは、このダビデの状況にもっと疑念を抱いてもよかったのでしょうが、ダビデのこれまでの国中の良い評価の故に、少しの疑いも抱かなくなってしまっています。

9節、むしろ彼は、ダビデが少年の頃、エラの谷でペリシテ人ゴリヤテを倒した時の、ゴリヤテの剣をエポデのうしろに布に包んで保管していたのです。おそらくイスラエルの戦勝の記念の品として奉納されていたのでしょう。

Ⅰサム 21:9 祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」

祭司は「それしかありません。」と言いつつ出して来たのです。「エポデのうしろ」とは、「祭壇の前の聖所」という意味です。

ダビデはもう一度、かつての大勝利を経験した時の剣を手にしたのです。この時、ダビデの心は再び主に強く信頼する心を熱く燃やしたでしょう。ダビデが再び手にしたゴリヤテの剣は、彼の生涯で初めてペリシテ人と戦って、信仰の大勝利を経験した記念のものであり、また間接的にではありますが、その大勝利の結果、彼に名声をもたらし、サウルのねたみと怒りをかい、命の危険をもたらし、逃亡生活を余儀なくしたものです。しかしダビデは思いがけずも、ゴリヤテの剣を手にして、神の摂理の良い兆しを見たのです。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、あなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

10~15節、ダビデ、アキシュの所で狂人の真似をする(ガテ)

10節、ダビデは祭司からゴリヤテの剣を受け取ると、すぐにサウルの手の届かない所、ペリシテ人の町ガテの王アキシュの所に逃げて行っています。

Ⅰサム 21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

ダビデは先にペリシテ人の戦士ゴリヤテを倒していたのに、ペリシテの町ガテの王アキシュのもとに逃げたのは、理解できないし、危険であったと思われます。しかしダビデは、もはやイスラエルの領土の中では安全な逃れ場がないと考えたのです。そしてサウルの手の届かない所と言えば、ペリシテのガテのアキシュの所しかないと考えたのです。彼は非常に危険な行動をとったのです。

11節、ペリシテにおけるダビデの評価を記しています。

Ⅰサム 21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

アキシュの家来たちはダビデを見ると、「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。」とアキシュに言っています。ペリシテ人たちはすでに、ダビデをイスラエルの王と認めていたのです。それは、ペリシテ人の代表戦士ゴリヤテの挑戦を受けた者がイスラエルの支配者になると考えたからです。ゴリヤテとの戦いは、その国の王が行なうようなものだったのです。敵はすでに、だれが本当の王なのかを見抜いていたのです。

またイスラエル人のダビデに対する評価もよく知っていました。イスラエルの女たちの勝利の歌「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」は、一般のペリシテ人の間にまで知れ渡っていたのです。

12節、ダビデはこのアキシュの家来たちの言葉を聞いて、ここでも自分の身の危険を感じたのです。アキシュが自分を捕えて殺すかも知れないと感じたからです。

Ⅰサム 21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

ダビデは、「ガテの王アキシュを非常に恐れた。」と記しています。どんなに信仰に満ちた勇士であっても、「非常に恐れる」ことがあります。

13節、ダビデは捕えられていますが、彼は自分の命を救うために、ペリシテ人たちの前で突然、気違いのふりをして、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したりしています。

Ⅰサム 21:13 それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

七十人訳には「戸をドンドンたたいた」と訳しています。ダビデはペリシテ人が特別に、狂気を恐れていることを知っていたので、とっさに狂気を装ったのです。

14,15節、アキシュはダビデの気違いの装いを本物と思って、狂人を嫌い、家来たちがわざとアキシュの前に発狂した者を連れて来たことを叱ったのです。

Ⅰサム 21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。
21:15 私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

もし、アキシュがダビデの装いを見破っていたら、ダビデはこの時、確かに殺されていたでしょう。この時も、目に見えない主が、ダビデの命を救われたのです。使命が与えられている人は、神は見捨てることがありません。しかし敵のアキシュの所に逃げて行ったことは、最大の危険なことだったのです。

クリスチャンが逃げる所がないと言っても、この世に逃げ込んだり、敵の所に逃げて行くなら、もっと危険な状態に陥ることになります。主の御手の中に逃げ込むことが大事なのです。ダビデはこの大失敗を経験して、人の所に逃げて行くことをしなくなり、逃亡は続くのですが、ただ主にのみ逃げ込むことを身につけていくことになります。こうして、ダビデは主にのみ信頼することの訓練を受けていったのです。

あとがき

私たちは、イエス様に喜ばれる生活をしようと思って、言動に気をつけようとしていませんか。これが実は、くせものです。大抵、気をつけても失敗してしまい、出来なかった自分を責めてしまいます。
大事なことは言動に気をつけることではなく、イエス様の御霊を内に宿していることです。
どんなに丁寧な言葉を使い、親切な行ないをしても、理解されなかったり、誤解されたり、怒りをかったりすることがあります。こういう時、自分で気をつけている人は、失望したり、自分を責めたり、相手を怒ったりしてしまうでしょう。
しかし御霊を心に宿している人は、自らへりくだることが出来たり、言い争わずにイエス様の愛を持って平安に過ごすことができます。これこそ、内なる新しい人なのです。

(まなべあきら 2009.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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