週報No.2092 涙の預言エレミヤ書(5) 「召し出されたエレミヤ」 1:1~6
2017年9月10日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明 牧師
涙の預言エレミヤ書(5) 「召し出されたエレミヤ」 1:1~6
エレミヤ書1章1~6節
1:1 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
1:2 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに【主】のことばがあった。
1:3 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。
1:4 次のような【主】のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
【新改訳改訂第3版】
<礼拝メッセージの要点>
エレミヤの召命は、神の強い主導権に基づいています。
主はご自分のメッセージを、主に背いている民に伝えるために、若い土の器を選ばれたのです。エリヤのような迫力のある人ではなく、イザヤのような宮廷で働いていた、雄弁な人でもなく、祭司の中でも、田舎のアナトテ村の目立たない家系の人を選ばれました。
自分の弱さ、力のなさ、経験不足を認めて、臆病になり、しり込みしている若者のエレミヤを、腐敗しきった、堕落した、ユダの民と、国々の中に遣わして、主の審判を語らせたのです。
主はエレミヤに、幻や夢や恍惚状態によって啓示されたのではなく、直接、みことばで語られています。
「主のことばが私にあった。」のへブル語は「ワイ ヒ」で、「主のみことばがエレミヤに臨み続けたこと」を意味しています。これは、一回だけでなく、継続的にみことばが与えられ続けたことを意味しています。
主の召命は、四重のことばで表わされています。
1、「わたしは・‥あなたを知り」、これは主がエレミヤを選ばれたこと。
2、「あなたを胎内に形造る」は、神の創造による召命です。
3、生まれる前から、母の胎内にいる時から、「聖別し」主の預言者に選ばれていました。
4、「国々への預言者に定めていた。」神はご自分が選ばれたご計画のために、神の器を備えられています。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)
ですから、私に与えられた使命を果たしていく途中で、緊急事態や難問に出会っても、必ず主が助けて下さり、主が与えて下さった賜物で、実際に使ってみて、役に立たなかったというものはありません。
私たちが今日、救われ、主の証し人として召されているのは、私たちの信仰によっているのですが、もう一方でエレミヤと同じように、その苦難に耐えられ、乗り越えられるように、私たちの意識が目覚める前に、深い神の導きと配慮があったことは、確かです。
私たちのたましいが創造される時、その性質に神の御手が加えられていたのです。それが信仰によって花開くのです。
その事を悟れば、私も畏れかしこんで、主のみことばを聞くようになるでしょう。
<今週の活用聖句>
エペソ人への手紙2章10節
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
<集会案内>
◇9月13日(水)聖別会 午前10時半
聖潔の諸要素(83)
「弱さと個性の改善」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421