週報No.2096 涙の預言エレミヤ書(9) 「主を捨てる罪」 2:9~19

2017年10月8日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(9) 「主を捨てる罪」 2:9~19

エレミヤ書2章9~19節

2:9 そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。──【主】の御告げ──また、あなたがたの子孫と争う。
2:10 キティムの島々に渡ってよく見よ。ケダルに人を遣わして調べてみよ。このようなことがあったかどうか、よく見よ。
2:11 かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。
2:12 天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。──【主】の御告げ──
2:13 わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。
2:14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。
2:15 若獅子は、これに向かってほえたけり、叫び声をあげて、その地を荒れ果てさせ、その町々は焼かれて住む者もいなくなる。
2:16 ノフとタフパヌヘスの子らも、あなたの頭の頂をそり上げる。
2:17 あなたの神、【主】が、あなたを道に進ませたとき、あなたは主を捨てたので、このことがあなたに起こるのではないか。
2:18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか。
2:19 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、【主】を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。──万軍の神、主の御告げ──
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>

エレミヤは、主がご自分の民に挑戦されていることを、訴えています。

主は、生ける真の神を知っているご自分の民が、神ではないものを神の座に取り替えたことなど、あっていいものかと、挑戦しておられるのです。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一、1:9)

「キティム(地中海のキプロス島の南東岸にあるキティオンという町に由来していると言われています)の島々」は、西の果てを意味し、「ケダル(パレスチナからメソポタミヤまで広がるシリヤ、アラビヤ砂漠の遊牧民の住む地域)」は、西のキティムに対して、東の対極にあることを意味しています。

それ故、10節は、次のような意味になります。「西の果てから、東の果てまで、調べて見よ。かつて、神でないものに取り替えた国民があっただろうか。決してない。しかし真の神を知っているイスラエル人が、神の栄光をむなしいものに取り替えてしまった。」

「天よ。」(12節)天は神の被造物のうち、最も不動に近いものとして、神の訴えの証人として引き出されています。天にさえ、このような神の民の背信を驚き恐れるように、訴えています。

そのイスラエルの罪は何だったのか。

「湧き水の泉であるわたしを捨てて」(13節)永遠のいのちの水の源である主を捨てたことです。

「多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」この言葉は、隠喩的に語られていますが、その意味は異教のカナン人の多産の農業の真似をして多くの水ためを掘ったとは、バアルとアシェラの偶像が、人間の多産、家畜の多産、農業の多産をもたらすと言われて、それに従い、主を礼拝していたイスラエル人が、バアルとアシェラの偶像礼拝を行なうようになってしまったことです。

パレスチナは通常、雨が少なく、泉も少なく、水ためを掘る必要があったのです。この隠喩は、水ためを掘ったことが問題なのではなく、雨水をためることも出来ない偶像を礼拝するようになったことを、訴えているのです。

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(ヨハネ4:13~14)

2章2節にあった最初の愛を失っていくことほど、神を悲しませるものはありません。愛がなくなると、心の目から輝きがなくなります。足のともし火、道の光を失います。暗きうちを歩み、狭いいのちの道を失います。

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネ8:12)

生活にもリズムがなくなります。心にキリストの平安を失います。

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

これらのエレミヤのことばは、神の愛を捨てた民を見つめる、神の痛みをいくらかでも、知らせてくれるでしょう。

迷子の羊を探し出す羊飼いの心を知らせてくれます。

放蕩息子の帰りを待つ父の気持ちを、知らせてくれます。

神の民が偶像の木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私の神」と言うのを、神が聞かれる時、どんなお気持ちになられるでしょうか。

主は黙って、見ていられるでしょうか。黙って聞いておられるでしょうか。

主は、どんなに嘆かれたことでしょうか。

その主の心を持って、預言しているのが、エレミヤです。

<今週の活用聖句>

ヨハネの福音書4章13~14節

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲も者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」

<集会案内>

◇10月11日(水)聖別会 午前10時半
聖潔の諸要素(87)
「聖潔と人間的要素(3)弱点」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421